呪い
※短編「雪の上の蒼」、「幻獣保護局 雪丸京介 第17話」を既読をお勧めします。
012.砂漠の水と対の掌編です。
部屋に漂う苦味のある芳香。
白いミルクが渦を巻いている珈琲を前に、彼は手を組み椅子に座っていた。
横目でじっと見据えている先には、鏡がある。
鏡の中からは、彼とそっくりな顔つきをした男がやはりじっとこちらを見据えてくる。
香るコーヒーカップを前にして、一時が過ぎれば意味のなくなる紙束の上に手を乗せて、悪意に満ちた眼差しで、淡白に醒めた顔つきで。
魔導協会 司法部門 広域魔導捜査局。
本部とは少しだけ離れた場所にある建物の、薄暗い執務室。
扉に掲げられた銀のネームプレートに刻まれた主の名は、【クロフォード=レイヤー】。
夕刻深くというのに明かりも灯されず、まだ就業時間中だというのに物音ひとつしていない。
「…………」
彼は──部屋の主は──自ら注文したはずの珈琲には手をつけず、静かに腰を上げ鏡の前に立った。
鏡の中の男が身にまとっていたのは、現場、会議室、法廷、どこにあっても目を引くいつもの蒼い衣装だったが、それも光がなければ意味が無い。部屋の中と同じく、人の精神と同じく、今は褪せゆく夕闇の灰色に沈んでいる。
その変化は世間一般では諦めとみなされるのか潔さとされるのか、しかし彼はどちらも気に入らなかった。
完璧でなく、美しくなく、同情を要求してくるものは、気に入らない。
「魔導師は、世界を捻じ曲げることができる」
彼は、細い指を蒼装束の立て襟にかけた。未だ鏡の中の人間を睨み据えながら。
「魔導師は、世界を壊す術を持っている」
指に少しだけ重みをかければ、喉元が露わになる。
命尽き、この身が土へと還るまで決して消えることのない、黒竜の烙印が刻まれた肌が。
それは、呪われた者の証、神の証──何よりも簡単で明快な、魔導師の証明。
焼こうが削ごうが必ず再び浮き上がってくる、印。
爪でえぐったこともあれば、短刀で裂いたこともある。しかしその全てが失敗に終わった。始めから分かっていたことではあったけれど。
「魔導師は神になり得る。世界を創り、世界を壊す。だから魔導協会は、魔術師は、魔導師を狩る」
声帯を震わせない囁きは小さくかすかで、台詞はそれっきり途絶えた。
だがクロフォードは、喉をさらしたまま鏡の中の男を見つめ続けていた。
何を考えているのか、薄ら笑いを浮かべて印を見せ付けてくる蒼い魔導師。
その表情を見ていると、自分の生き様を高みから見下ろされているようで不快感が沸々と沸いてくる。
こちらは正解の欠片も知らされていないのに、自分はすべて知っているかのような顔をして、まるで──教師だ。
答案をこれみよがしにしながら、テスト用紙を前にした生徒が四苦八苦しているのを眺めて楽しんでいる教師だ。
できることならこの場で絞め殺してやりたい。
しかしどれだけ不快だろうと、目を離すわけにはいかない。
それだけが、この烙印を持て余しているわけではないという主張だった。
“お前が嗤っているほど弱くはない──”
ただひたすら睨み合い、重い沈黙が流れた。
夕刻と呼ばれる時は過ぎてゆき、窓の外にも部屋の中にも夜が満ちる。
灰色は藍色となり、足元も見えない闇となる。
いい加減税金の無駄使いがかさんだ頃、ふいに扉が叩かれた。
「レイヤー捜査官、お邪魔してよろしいですか」
「……どうぞ」
立て襟を正して返事をすれば扉が開き、部下が顔だけ入れてくる。
年上の部下だ。
「レイヤー捜査……」
まず飛び込んできた真っ暗な部屋にめんくらい、反射で明かりを灯したその男。しかしデスク周辺に目的の上司を見つけられず一瞬視線を泳がせ、その姿が鏡の前にあったのには多少驚いたようだった。
しかしそこは役人、すぐに真顔に戻る。意図しているのかいないのか、慇懃さの消えない顔。まぁ、年下に仕えるというのはそういうことかもしれない。
「レイヤー捜査官、耳寄りな話を手に入れました。応援要請はまだ入っていないようですが、えー、カレントという街で捜査局に殺人挑戦を仕掛けている奴がいるそうです。支局に届いた殺人予告が4件、いずれもそのとおり犯行が決行されています」
「4件」
「えぇ。支局では荷が重過ぎるようですね」
「なんたる幼稚な犯罪。くだらない事件」
クロフォードがあからさまなため息をつくと、男は眉をひそめてくる。
「……4人死んでいるんですよ」
「どこかに気骨のある輩はいないものだろうかね。禁忌を犯すに値する奴は。崇高な狂気を持って完全犯罪を成し遂げるような人間は。決して探偵に負けない犯罪者は」
彼は、男の道徳論を無視して独り言を続けた。
「そいつは、4人殺して顕示するほどの何かを自分が持っていると本気で思っているのか? 奪った4人の命に値するだけの人間だと信じているのか? そんなわけがないと認めるだけの頭すら持っていないのだと、恥をさらしていることにも気付かない程バカなのか?」
「さぁ……それは分かりませんが」
理解しようとしていないくせに分かりませんと言うのは公正でない。
「犯人は魔導師だろうというのが支局の見方です。だから奴は、“魔術師風情には自分を捕まえられるわけがない”、“殺人を阻止できるわけがない”と自信を持っているのでしょう。自分の優位を確信しないと何も出来ない、優位と知るやそれを見せつけずにはいられない、歪んだ人間の犯行です」
「だがある意味そいつは正しいぞ」
クロフォードは切れ長の目を男に向けた。
「魔術師が魔導師を狩ることは不可能だ。保護局の雪丸京介が魔導師に負けたのは事実だからな。彼が負けるのなら誰も勝てない」
「けれど貴方は今までに何人も殺しています」
“殺している”、そこにアクセントが置かれていた。
男の灰色の機微には気付かないフリをして、返す。
「たまたまだ」
「謙虚ですね。この建物の中で貴方が何て評されているか知っていますか?」
「……魔導依存症」
「魔導絡みの事件には片っ端から足を突っ込みたがる方の発言としては、そんな謙虚、ただの弱気に映りますよ。失望です」
もともと期待もないくせに、よく言う。
「魔術師が魔導師に対抗するために必要なのは力じゃない、頭だ」
「貴方より雪丸京介の方が上だなんて、誰も思ってませんよ」
「彼は保護局で、私は捜査局。人の評価は話題の派手さによっても変わる。君は、他人を正しく評価していると断言できるか? 客観的に、私情を抜きにして、寸分の差異なく平等な条件下で」
「……負けたことがあるんですか」
「魔術師としては、何度も負けてるさ」
「…………」
具体的に訊くべきかそれは昇進に響くか、考えたのだろう。男が押し黙る。
しかしクロフォードにはこれ以上続ける気などなかった。
「局長はいたか?」
「え、あぁ、たぶん本日はまだいらっしゃいます」
「では。皆の期待を裏切らないよう、手柄を横取りしに行くとするか。君は一足先に局長のところへ行ってくれ。レイヤーが来るから部屋から出るなとお伝えして」
「──……了解しました」
結局答えは出なかったらしく、男は素直に退室して行く。
と思ったら、一歩足が止まった。
「そういえば、現場にまたいるそうです、あの女」
あの女、あの女、あの女……。
「あぁ、レディ・リィか?」
「はい」
「ということは魔導遺跡の近くだな?」
「確かそうだったと思います。しかし彼女はいささか──魔導に関わりすぎではないかと」
「とはいっても魔導遺跡の学者なんだから仕方ないだろう。いいよ、放っておけばいい。彼女は何も知らない。知るべきでないことは、何一つ」
「分かりました。貴方がそうおっしゃるなら」
扉が閉められ再び静寂が戻る。
人工的な明かりに照らされて、クロフォードはようやくデスクの上に取り残されていた珈琲の存在に気が付いた。
可哀想に、すっかり冷えて全盛期の面影はない。
それでも彼は手に取り一気に飲み干した。
その横にたたまれていた紙ナプキンで薄い唇を押さえ、
「彼女には理解できない」
ゴミ箱に放り捨てると同時に背を向ける。
「彼にも理解できない」
そして、部屋の明かりを消して扉を開けた。
「なぁ、人のいない原始ほど美しいものはないと思わないか?」
踏み出した先には、さきほどの部下がゴロリと転がっていた。
空虚な夜、人気のない廊下、無機質な明かり、深い青色絨毯の上に死体がひとつ。
芸術としては、完璧だ。
「真の犯罪者は、犯したことすら悟らせないものだよ」
蒼の魔術師は物言わぬ男に一瞥くれて軽く避けると、スタスタと歩き始めた。
「砂山は、誰にも気付かれず崩すべきだ」
魔導協会 司法部門 広域魔導捜査局。
精鋭エリート集団、妬みと嫉みと蹴落としあいが渦巻く万魔殿。
小さくなってゆく魔術師は、思い出したように人差し指を立てた。
「そうそう、言い忘れた。君ね、口の利き方には注意した方がいい」
夜が明けて不躾な太陽が芸術を汚すようになれば、通行の邪魔になった物は誰かが片付けてくれるだろう。
そしてまた新しい一日が始まるのだ。
THE
END
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