砂漠の水

※短編「雪の上の蒼」、「幻獣保護局 雪丸京介 第17話」を既読をお勧めします。
「005.呪い」と対の掌編です。



不味(まず)い」
 その男は言ってのけた。
 約束もなしにいきなり現れてお客用のソファを陣取り珈琲をねだったにも関わらず、だ。
「…………」
 リィは無視して手元の紙へとペンを走らせる。
「こんなに不味い珈琲はここ数年飲んだことがないね。何でこんなに薄くて苦いんだろうな。レディ・リィ、君は誰のためにもならない論文を書くより、何故ここの珈琲はこんなにも不味いのかについて研究すべきだと思うね」
 銀色の髪以外全身蒼尽くめ、本来こんな場所にいていい人間ではない男がぺらぺらひとりでしゃべり続けている。
「確かにこのベルナール研究所は歴史学では名高い。だが、それで誰がありがたがるというんだ? 所詮、魔導協会が手にした情報の一部を横流ししてもらって成り立つ商売だろう? 協会の研究室に行けば、君らがちまちま(つづ)っているものをはるかに凌ぐ真実がごろごろしているさ。表に出せないだけで」
 魔導協会 司法部門 広域魔導捜査局、クロフォード=レイヤー捜査官。
 それがこの九官鳥の名前だ。
 雨が石畳を打つ中、何を思ったかふらりとやってきた。
「レイヤーさん、アナタ何しに来たんですか? レディ・リィの邪魔をしに来たんならそれ飲んでさっさと帰ってくださいよ」
 耐え切れなくなったか、部屋にいた若い助手が噛み付いた。
 てきぱき世話を焼いてくれるこの青年は、クロフォードと対照的な人あたりのよい顔をしている。
 話しかけやすい、からかいやすい、使いやすい、三拍子そろった好青年。
「アナタと違って忙しいんですからね、彼女は」
「ふーん、そういえば君は忙しそうに見えないな。そんなに言うならヒマそうな君が彼女を手伝ってやればいいじゃないか。どうせまだ資料整理かスケジュール管理、買出しに炊き出しくらいしかやらせてもらえないんだろうが。君と違って私は忙しい。今だって私が消えて捜査局は大騒ぎだろうさ」
 ソファの背に両手をかけ、顔を仰け反らせてクロフォードが笑った。
 その笑みに、青年は憮然と返す。
「だったら帰ればいいでしょう」
「いくら君が非の打ち所の無い文系人間でも、人間働き詰めでは逆に能率が下がると実証されていることは知ってるね? 戦場を離れて珈琲休憩くらいしないと身が持たないのさ」
「うちはカフェではありません」
「そんなことくらい知ってるよ。だがしがない小市民の私にも、どこで珈琲を飲むかを選ぶ権利くらいはある。君がそれを侵害するというのなら、それでもいいけれど」
「…………」
 青年が口を半開きにしてこちらに目を向けてきた。
 リィは力なく首を振る。
 この男に舌戦を挑んではいけないのだ。正しいことも正しくないことも見境無く自分の味方にするのだから。
 青年もそこで意地を張るほど子供ではなかったらしい。
「いいですか、くれぐれもレディ・リィの邪魔をしないでくださいよ」
 そう言い残して扉を大袈裟に閉めて出て行った。
『…………』
 一拍の静けさ。
「……レディ・リィ、君はやけに人気者だな。彼は私が君を訪ねて来たことが凄まじく気に入らないらしい」
 クロフォードが青年の出て行った扉を見つめてつぶやいた。
 絶対に自覚はしていないだろうが、今この周辺で一番子供なのはこの男だ。
「私の論文書きがひと段落しないと自分も帰れないからですよ」
「……ふ〜ん」
 蒼の魔術師はすでに興味をなくしたようで、気のない返事をしてくる。
 そして黙った。
 不味い不味いと言いながらも珈琲は手にしたまま、ソファに深く背を預け、長い脚を組み、テーブルに散らかされている新聞だの雑誌だの論文の切れ端だのをつまんで眺めている。
「…………」
 この男が10秒以上沈黙を守るなど怪奇だが、この静けさは貴重だ。リィ=コールズはその奇跡を凝視していた視線を紙に戻し、金髪をかきあげ続きを書き始めた。

 しかし。

 雨の音が少しだけ激しくなり、雨樋(あまどい)から漏れた水滴がクモの巣を浸食し始めた頃、突然男が口を開いた。
「君は──何のために遺跡を掘り起こすんだ? 君らが自慢げに発表する新事実なんて、すべて協会にとっては既知の事実に過ぎないのに」
「……は?」
 唐突な問いに彼女が顔を上げると、クロフォードはいつの間にやら眼鏡をかけて誰かの論文を読んでいる。
「いいから」
「……みんな未来に向かって歩いているんだから、ひとりくらい過去へ向かったって困らないでしょう?」
「答えになってない」
「私が探しているものは、たぶん、貴方が探しているものと同じです」
 言ってやると、柳眉を歪めた冷貌がこちらを向く。
「……心当たりがない」
「嘘吐き」
「…………」
 九官鳥がまた黙った。
 少し待ってもしゃべりださないようなのでこれで終わりかと仕事に戻りかかると、
「魔導は危険だ。近付かない方がいい。って、何度言ったら君は行くのを止めるんだ?」
見計らっていたかのように続けてくる。
 リィは羽ペンを置いた。
「最近は貴方がいる時に行っているから大丈夫です。貴方が自分の担当案件で民間人の死者を出すなんて失態するわけないもの」
「──それでか」
 クロフォードが独りごち、しかしすぐに方向を変えてくる。
「学者ってのは儲かるのか?」
 薄い珈琲、傾いた本棚、曇った硝子に包まれた明かり、染み込んでくる雨の匂い、天下のベルナール歴史研究所のこの有様を見て何故そんな台詞が出てくるのか、天才の構造は分からない。
「儲かってるわけないでしょう? 毎度毎度貴方に賄賂贈るだけで精一杯」
「まぁそれをありがたく受け取るのが役人の仕事だからな」
「どうしてそこで“じゃあ一度くらい私がおごってあげよう”くらい言えないんですか」
「君を餌付けしたって利が無い」
「あ。ほら、クッキー食べます? いつのか分かりませんけど」
「人の話聞けよ」
 彼女が魔術師を無視してクッキーの缶を持ち立ち上がった瞬間、
「──レディ・リィ!」
「げ」
扉が開いて助手が入ってきた。
「何クッキー食べてるんですか。いつが締め切りだか知ってますよね?」
 外より先に建物内で雷が落ちる。
「それくらい知ってるわ、明後日よ。っていうかまだ食べてないからね。食べようとしてただけで」
「どちらにしろ時間を浪費しようとしていたわけですよね?」
「浪費じゃないの。能率的に進めるための休憩よ」
「そういうのは疲労するほど頑張った人間が言う言葉であって──」
「帰る」
 突然、クロフォードが立ち上がった。
 助手が驚いて一歩下がる。
 リィはクッキーの缶を置いた。
「……傘はありますか?」
「いらない。私は濡れないんだ」
「送ります」
「ん?」
「この雨の中あなたみたいに目立つ人を傘も与えず外へ出してみなさい。明日から私は世界一冷たい女としてご近所の白い目にさらされるでしょう」
「ほー」
「レディ・リィ!」
 鋭く咎めてきたのは助手だ。
 だが彼女はにっこり笑って近付いてゆき、
「私の沽券(こけん)に関わるのよ。許してちょうだい」
ずいっと顔を近づけて強引にうなずかせた。



「──ヒマだったんですか?」
 雨に煙る街は、人通りが少ない。
 それが捜査局の方角となれば尚更だ。そんなところに用の無い方が幸せな人生を送れる。
「ヒマじゃないさ。ひとり殺した報告書を書かなくてはいけないんだから」
「そう。それは大変ね」
「……なんで笑う」
「私ばかり締め切りに追われているんじゃ悲しいでしょう? でも他にも追い詰められている人間がいると思うと嬉しくなるから不思議ね」
「……性悪」
「どっちが!」

 薄い黄色の傘が雨を弾く。
 当分やまない雨を。



THE END


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