2.志

……幻獣保護局 雪丸京介



 厚いカーテンで閉ざされた部屋は、ただただ暗かった。
 布と布の隙間からわずかに差し込む光が、もうそのカーテンを開けるべき時間なのだと教えている。しかし、そこには気付いて開けるべき人間の気配さえなかった。
 時計の秒針が進む音が大きく聞こえてくる。
 時折、流し台に水の垂れる音が響く。
「…………」
 彼が見回しながらゆっくりと部屋の中央まで歩いていけば、淀んだ空気が億劫そうに動くのが分かった。
 開きかけの本や破られた書類に埋め尽くされた机、飲み干したままになっているテーブルのカップ、ソファの背に脱ぎ捨てられているコート。羽ペンの横の小さなサボテン。背の低い棚の上に並べられた大小様々色とりどりの花のない花瓶。
 何もかもが埃っぽい。
「雪丸」
 彼は細い眉を寄せながら、部屋の奥の寝台へと声をかけた。
「いつまで不貞腐れてるつもりだ」
 部屋はしんとしたまま、答えは返ってこない。
 しかし彼は、ため息をついて用件だけ伝えて退散するような真似をするつもりはなかった。
 腕組みをし、ただじっと寝台を見据える。
 お前が返事をしなければ帰らない、そう無言で圧力をかける。
「……不貞腐れてるんじゃないさ」
 ややあって、観念したのか薄い毛布の中からくぐもった声が聞こえてきた。
「自宅謹慎だよ」
 端から黒髪がのぞく。
 彼はその物体に向かって一枚の紙を突きつけて見せ、
「新しい辞令が出た。異動だ」
 とりあえずテーブルの上に置く。
「異動? 誰が?」
「お前以外に誰がいる」
 まぁね、と漏らされた苦笑は案外明るく、飄々としたいつもの調子だ。
「サセンだよね、サセン」
「──俺の下にな」
「それは失礼しました」
 全く悪びれず言いながら、部屋の主が寝台から身を起こした。
 頭、顔、喉、腕、箇所を問わず包帯でぐるぐる巻きにされている男。
 ボタンがかけちがっているシャツの襟元からも包帯が見えているところを見ると、もはや全身ミイラ状態なのだろう。
 それでもこちらに向けられている黒の双眸は、活き活きと邪気のない愛嬌をふりまいている。
「外遊部門だったっけ?」
「幻獣保護局」
「可愛いねぇ。霜夜には似合わないけど」
「……悪かったな」
「僕には似合いそうだよね」
「…………」
 この男は、今、生きている方が不思議なのだ。
 “魔導師”だと囁かれている魔導捜査局のクロフォード=レイヤーと本気で刃を交えて、生きている方が。
「ってことはもしかして、僕の上司?」
 ミイラ男の指がこちらに向けられる。
「同期なのに?」
「自分で階段を転げ落ちたんだろうが」
 彼の眼前の魔術師は、新人でありながらただひとり魔導教会の花形である司法部門広域魔導捜査局に配属された期待の星だったはずだ。
 それが、3回目の春を数えないうちにこの有様。
 同僚と派手にぶつかって大問題を起こし窓際部門に左遷されてきた。
 “優等生、人生初の挫折”と見出しがついた噂話は協会内をくまなく泳ぎ回るに違いない。
「無意味に落ちたわけじゃないさ」
 ふいっと、ミイラ男の黒い目が逸らされた。
「あぁ、そうだろう」
 彼なりの理由があり、彼なりの理想があり、彼なりの理論があったのは分かる。
 それをクロフォードから守ろうとしたのか、貫こうとしたのか、それとも押し売ったのか、部外者だった霜夜には分からない。
 しかし聞いてやる必要は感じなかった。言ってみろと促しても、彼は真相の一片すら語らないだろう。彼は、この新しい上司と自分とが同じ夢を見られないことくらい理解しているはずなのだ。
 ふたりで話せば、意見はいつも対立する。
 共有できるものは何ひとつない。
 ……だからこの男が嫌いなのだ。有り余る力を持って自分たちとは全く別の方を見上げているこの男が。
「──ともかく。傷が癒えるまでは大人しくしているんだな」
 瞬間、ミイラ男の眉がつりあがった。
「こんなのすぐ治るさ」
 その勢いに多少驚きつつ、霜夜は冷たく嘆息した。
「俺に迷惑をかけるなと言ってるんだ」
「あぁ、そーゆーこと」
 途端、彼はへらへらした笑いを浮かべ、緊張感なく手をひらひらさせてくる。
「大丈夫、大丈夫」
「その顔で言われて信じる奴がいるか」

 おそらく、この魔術師が己の監視下にある間は大丈夫だろう。
 やらかすある程度のことは、歪曲もできるしもみ消すこともできる。
 だが協会はいつまでもこの男を左遷したままにしておくだろうか。
 魔術師であっても“魔導師”に対抗できるのだと身をもって証明したこの男を。
 あるいは──……。

 帰り際に雪丸を一瞥すると、彼は口を引き結びいつも見せる淡い眼差しで虚空を見つめていた。

 視線の先にあるのは柔らかな平原か、それとも果てしない氷原か。
 どちらにしろ、今この男に必要なのは時間だ。
 頭を冷やす時間、刃を研ぐ時間。
 まだ肉体が生き続け精神が死んでいないのなら、やがて陽は差すだろう。

 霜夜は後ろ手に扉を閉め、コートのポケットから煙草の箱を取り出した。
 一本くわえて火を点ける。
 そしてひとつ大きく紫煙を吐き出すと、静かな靴音を響かせた。
 光の溢れる出口の方へと。



THE END

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