3.陽

……冷笑主義



 ソテール・ヴェルトールの父は早世したのだと、カリスが教えてくれた。
 その人は不幸なことに、ちょうど才の狭間の人だったのだそうだ。
 一代前はデュランダルの長として名高く、一代後──つまりソテールのことだが──は、幼い頃から誰もが息を呑むほどの剣の申し子だった。
 対してその人は、“ヴェルトール”という伝説の中にあってあらゆる点で凡庸で、その優しく穏やかな物腰だけが取り柄と言われ続け、しかしそれさえも時に頼りないと評された。
 命を落としたのも語るに足らない通常任務中のことで、事実、当時生きていたデュランダルの隊員以外は誰もその人の存在など知らないという。
 それでも、その人がソテール・ヴェルトールの父だという事実は確かだ。どれだけ時が流れようと、どれだけ人が交錯しようと、どれだけ思惑が重なろうと、どんな嵐が来ようと、どんな戦火が及ぼうと、それだけは確かだ。



 ソテール・ヴェルトールは領内視察の際によくラテラーノ聖堂に足を運ぶ。
 そこは彼の父のためのレクイエムが歌われた場所であり、自らのデュランダル隊長継承式が行われた場所なのだという。
 そしてもちろん、かのインノケンティウス3世が君臨し、あのシャルロ・ド・ユニヴェールが白い隊服をまとい彼の横に立っていた場所でもある。
 4世紀初頭コンスタンティヌス帝の凱旋を機に建てられ、14世紀後半に教皇庁がヴァチカンに移るまでのおよそ1000年間、光の中心であった古の聖地。


「どれだけ改修されても、この建物はあの日のことを記憶しているでしょう。彼の父を送るミサが行われ、彼の頭上に冠が置かれた長い一日のことを」
 以前、一緒に訪れたカリスがそう言っていた。
 大天蓋(てんがい)の前の長椅子に座ったまま動かないソテールの背にため息をつきながら。


 天高い大聖堂の底辺にずらりと居並ぶ緋色の大集団。
 皆一様に無表情で神の前に個を失い、宙に浮かぶ数多の目はただ、中央を進むひとりの少年へと注がれる。
 聖歌隊の重々しい唱和がクーポラに反響し、司教座には老翁ケレスティヌス3世が、(きた)る若きクルースニクに世界を背負わせるべく腰をうずめていた。
 教皇を目指して進み行く少年の足取りは強く、蒼い眼差しは見透かすように大人たちを()ぜ、一歩ごとに威圧を裂き、歴史に煤けた空気を一掃する。
 陽が昇り霧が晴れてゆくよりも鮮やかに、死が払われ生が引き戻される。
 誰もが目を見張り、息を止め、歴代最強のデュランダル隊を確信した。教会栄華の到来を、剣力と権力による太陽の時代を予感した。
 そして誰もが、今しがた口にした死者のための歌を忘れた。
 緋色の群れを颯爽と割る一条の白。
 彼を除いては。


「そこにいる全員が、ソテールの戴冠を望んでいました。しかしそれは裏を返せば、皆が父上の存在を(うと)んでいたということになります。ソテールの才が(まばゆ)すぎたために」
 カリスの声に感慨の色はなく、ひたすら淡々としていた。
「父上が亡くなったのに、枢機卿たちは祝辞を述べて聖歌隊は讃歌を歌っていたんです。ありえないでしょう?」
 そして唇の表面で笑った。
「でもそれが当たり前の場所なんですよ、ここは」


「…………」
 デュランダル参謀官の柔らかな皮肉を思い出しながら、フリード・テレストルは天を見上げた。
 色褪せところどころ剥げ始めたフラスコ画。金に縁取られた平面的な聖書の偉人たちは真っ直ぐどこかを見下ろしている。
 彼らはその日も見下ろしていたのだろう。
 少年が一歩進むたび、哀悼の歌が沈み厳かな壮行歌が聖堂を満たしてゆく様を。
 彼が人々の生贄として“救世主”として階段を昇りゆく様を。


「──それはお大事に」
 突然師の声が耳に入り、フリードは視線を戻した。
 礼拝に来ていたらしいどこかの老婆がソテール・ヴェルトールの手を取って額に当てている。
 それを見て、商人の奥方らしい若い女性も近寄って来た。
 彼女はややふっくらしている自分のお腹をさすりながら、うつむき加減の笑みを浮かべてソテールに何事か言っている。
 師は彼女のお腹に手を当て笑い返すと、自分の首からロザリオを外しその手に握らせた。
 そして聖印を切る。


「…………」
 しばし険しい顔でそれを睨みつけていたフリードは、弾かれたように師のもとへ走ると
「隊長、帰りましょう」
彼の手首を掴んでぐいっと引っ張った。
「は? 何だ? おい!?」
 目を白黒させているソテールを引きずり聖堂を後にする。
「帰りましょう」
 聖人から、人に戻れる場所へ。



THE END

Back



Copyright(C)2008 Fuji-Kaori all rights reserved.