4.聖 ……冷笑主義
「ユニヴェール様、どちらが似合うと思います?」
──どちらでもいい、そう言った時の女という生き物の不機嫌さといったら! かつてその言葉を発して後悔しなかったことはない。
ユニヴェールは真剣に考える視線を送ってから答えた。
「真珠」
「やっぱりそうですわよね、私もそう思っていました」
だったら聞くなと言ってやりたいが、これも経験上喉の奥で飲み込む。
「では今回は真珠をテーマにするとして、お次は──」
彼に無駄な問いを発してきたのは、おっとりとしゃべりながらも目は鋭い、三使徒のひとりフランベルジェだ。
「ドレスを選びましょう。パルティータ、真珠に合う色味にしましょうね。それに、人間にはあつらえられないような生地がいいわ」
「えー……」
着せ替え人形の如く蒼の魔女に店の奥へと引きずられてゆく彼のメイド。
その後を大慌てで付いてゆく若い店員。
上から下まですべてが決まるまで一体何時間かかるのだろうかとユニヴェールが遠い目で見送っていると、
「ユニヴェール卿、華やかでよろしいですね」
店主が紅茶のセットを持ってやってきた。
カウンターの横に設えられたこじんまりとした応接スペース。普段は取引先との打ち合わせや急な商談などに使われているらしいが、今は吸血鬼一匹の貸切状態だ。
「家族サービスだよ、家族サービス。あの蒼い魔女は笑顔で脅迫するのが得意なんだ」
「卿ともあろう方が」
隙間があるのかないのか判別がつかないほど細い目の店主が愛想笑いを浮かべてくる。
話上手を絵に描いた柔和な物腰を白いブラウスと黒いベストに包んだ、ひょろ長い男。かつてはヴェネツィアで商人をしていたというから、相当なやり手ではあったのだろう。
「玄関先の階段をつるっつるに凍らされてみろ。我が家に辿り着く前に頭を打って死ぬぞ」
「どこかへお出かけなんですか? フランベルジェ嬢は、あのお嬢さんの頭の天辺から足のつま先までコーディネートして買い込むおつもりのように見えますよ」
死人同士の会話に、“もう死んでるじゃないですか、アッハッハ”などという無粋なフレーズはいらない。
「マックスがようやく神聖ローマ帝国の皇帝になったようだから冷やかしにでも行くかと言ったら、この有様だ。仕事で付いて行けないフランベルジェの方に気合が入っていてね。パルティータを完璧な淑女に仕立て上げるんだと」
「へぇ」
店主の目がわずかばかり開き、金色が露わになる。
「パルティータ・インフィーネ。あの方がそうなのですか」
どうやら暗黒都市から離れたこの地でも、吸血鬼のもとにいる小間使いの噂は届いているようだ。
「どう思う」
ユニヴェールはあごに手をやり椅子の背に深くもたれる。
「案外、普通の方と」
店の奥であーでもないこーでもないと衣装を積み上げている女たちを見やりながら、店主が肩をすくめた。
「今、このパリにはデッラ・ローヴェレ枢機卿がいらしているんですよ。お連れになっている聖女を見かけましたが、夜に映える白い衣をお召しで、眠る街を見下ろすご尊顔は透き通るようで、なるほど神の御使いとはこういう方かと納得した次第です」
パリの路地裏には、夜だけ営業している店がある。
昼間は、大声で歩き回る物売りや弦を爪弾く放浪詩人、立派な身なりで駆け回る公示人といった面々の騒音を尻目に、ひっそりと扉を閉ざし存在を消す。
夜になると扉上の照燈に灯が入り、吊るされた木の看板にはヴェネツィアの象徴である翼ある獅子が現れ、ひっそりと開店を告げるのだ。
店主を見れば分かるとおり、まっとうな人間が足を踏み入れるべき店ではない。
「──聖なる者は人々の希望だ。いなくてはならない」
間を置いて、ユニヴェールは紅茶のカップを手に取った。
「だがあえて下野する者もいる」
琥珀の液体を喉に流し込むと、
「それは……」
店主が眉を上げ、
「どうです、ユニヴェール様」
さらにそれをメイドの声が遮った。
「?」
ユニヴェールはカップを置き、目を上げる。
言葉を仕舞った店主の横に、ドレスに着られたメイドが突っ立っていた。
「なんだ、結局いつもと変わらない色だな」
「だってパルティータが灰色は外せないって言い張るんですもの」
彼女の背後から、腰に手を当て片頬を膨らませた蒼の魔女が現れる。
「外せませんとも」
背面の黒から正面の白へとゆるやかなグラデーションを描く、雪の夜の色。
薄く浮かび上がるのは薔薇の模様で、白は襟から裾まで続く豪奢なレース。袖口にもたっぷりとレースが使われ、キラキラと幾つもの細かい石が瞬いている。
「素材は?」
ユニヴェールが問うと、店主が珍しく眉を寄せた。
「それが──どうにも判然としない代物でして。我々もこの美しい黒から白への階調に惹かれて仕入れましたが、ハンガリー生まれということしか分からないのです」
「なるほどね」
吸血鬼はしばし考え込み、そして指を立てた。
「パルティータ、ドレスハットは黒にしなさい。烏の羽がついたやつ」
「烏の羽?」
「ハンガリーといえば、正義王マーチャーシュ・コルヴィヌス、コルヴィヌスといえばフニャディ家、フニャディ家といえば、烏の紋章」
「はぁ」
「それから──」
「ユニヴェール様、私が完璧に仕上げるんですから口出ししないでください」
フランベルジェの一言一言重く置いた抗議は、確信犯で1回だけ無視する。
「真珠は取り消しだ。ダイヤにしろ。首も、耳も、すべて。それから手袋はレースの黒!」
「ユニヴェール様、口出し無用です」
蒼い魔女のほんのりした笑顔には、強烈な凄味がある。
「……了解」
吸血鬼は指を立てたまま、戦線離脱した。
「彼女はあえて下野したと?」
2人が目の前から消えると、店主が話を戻してきた。
興味よりも鋭い気配がのぞいていたが気付かないふりをして、吸血鬼は足を組み替える。
「聖なる白、闇の黒、その間にあるものは何だ?」
「白と黒の間は灰──」
「人間だ」
店主の答えを阻み、自分で回答を出す。
「人の業は人にしか負えない、あの娘は灰色を着て声高にそう宣言しているんだよ、白と黒に対してな」
そして付け加える。
「高い椅子から見下ろしているだけでは見えないものも多い」
歴史は、史書に名が刻まれるだろう者だけが動かしているのではない。特別な者だけが世界を背負っているのではない。
例えば、民が皆愛想を尽かし出て行った国の王など、滑稽極まりないではないか。
反対に、ただ白い衣を着ているだけで皆に跪かれ祈られ崇拝されているのも滑稽だ。
皆が手を叩けば英雄、皆が石を投げれば罪人。
それが歴史の一面であることは疑いない。
「彼女はそこまでお考えでしょうか?」
自らの答えを制されて黙っていた店主がわざとらしく首を傾げた。
「…………」
「言い訳に聞こえますがねぇ」
「言い訳?」
「彼女が出て行った時、ご自身を納得させるための言い訳」
パーテルのメイドが再び聖都に戻る時。
おそらくそれはメイド自身の意思以外では実現しないだろうが、あり得ない未来ではない。
「……だとしたら、私も随分可愛らしくなったものだな」
彼女の主がそれを許しさえしたら。
「いいかね」
ユニヴェールは人の悪い笑みをのせて楽しげにしている店主を、斜め下から流し見た。
「私は、惜しいと思えば決して手放さない。相手の言い分など聞かない。しおらしく目元を拭って見送るなんてことはしないんだよ」
「あの方相手にそれが通用しますか? もし彼女が“その言葉”を口にしたら──」
「通用するかしないかは、やってみなければ分からない」
「試すのですか?」
「試しもしないで尻尾を巻けと言うのかね」
店主がひやりと笑顔を消す。
「私の人生は常に命懸けなのだよ」
ユニヴェールは言って、唇の両端を吊り上げた。
──数時間後。
「ユニヴェール様、こんなんできました」
パルティータに呼ばれてそちらを見れば、
「……どうしてドレスの色が変わってるんだ?」
群青に碧が入り込んだ袖のない衣装に身を包んだメイドがいた。
「やはり一番美しい色は青だと思いますの」
まるで教鞭を取っている時のようにゆっくりと歩きながら彼女の後ろを横切ったのは、フランベルジェ。
「しかもこれはアドリア海を切り取った紺碧です。素材が充分美しいのに装飾をするなんて野暮でしょ? 髪留めに真珠をあしらうだけで絵になります。ヴェネツィアはアドリア海の真珠と呼ばれることもあると言いますし」
誰にも口を挟ませず説明を終えると、彼女がふいに歩を止めた。ローズクォーツの唇に彼女の白い指先が当てられる。
「……私も同じドレスを作ろうかしら。姉妹みたいよねぇ?」
そして誰の返事も必要とせずさっさと回れ右をして雑多な品々の中へ紛れて行く。
「……嫌なものは嫌と言った方がいいぞ」
ユニヴェールが横目で言うと、
「いえ」
メイドは案外はっきりと首を振ってきた。
「両方欲しいのか?」
訊けば満面の笑みが返ってくる。
その珍しい風景に一瞬平静を失ったのだろう、
「お好きなものをお好きなだけ」
思わず口を滑らせていた。
我に返ってお詫びと訂正をする前にメイドは、「お言葉に甘えて」といつにない俊敏さで魔女のもとへ風と共に走り去る。
「……この店の品を全部欲しいとか言い出したらどうするべきか」
「うちは別に構いませんよ」
こちらは真面目に心配しているのに、飄々とした態で何十杯目かの紅茶のおかわりを尋ねてくる悪徳商人。
軽く笑い飛ばしながら、そんなんだから吸血鬼なんぞになるんだと胸中で毒付いてやった。
白を崇拝する者。白をまとう者。
黒に陶酔する者。黒に堕ちる者。
そして灰色の道を進む者。
折れぬ鋼は人の色。錆び付いた時が、世界を更地に戻す時。
THE END
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