眠らない街。
煌めくネオンは人々の心を離さない。交わされる杯は誰の心も帰さない。
笑い声、悔しがる声、女の嬌声、男の怒声。金色のコインが宙を舞い、流れ流れた札束がテーブルに積まれる。
ここは夢の生まれる場所。
ここは夢の消える場所。
天国と地獄の分岐点。
ここでトリックは通用しない。ここでイカサマは通用しない。全ては己の力量、精神のみ。
その男は壁際で腰掛けたまま、彼らの輪には加わろうとしていなかった。
地獄の番犬を思い起こさせる男。
黒尽くめのロングコートには何やら紋章が刻まれており、まさに用心棒──あるいは金庫の番人でもあるかのよう。ここのボーイの制服ではないし、第一、長い黒髪の奥から不気味に部屋を見渡しているボーイがいるわけがない。
誰も寄せ付けない雰囲気と、研ぎ澄まされた感覚と。
男は隙なく部屋を見ている。その鋭利な双眸で、ここのどんな小さな隙間までも監視している。長い足を組み、静かに紫煙を煙らせながら。
さっきも、イカサマをやっていた中年の男が彼に部屋の外へと連れて行かれた。
その輩はさんざん喚いていたが、卑屈そうなその目では男を説得することは不可能。
……並べ立てられた言葉も全て言い訳に過ぎない。
彼は他にも色々な人間を部屋の外へと連れてゆく。
大勝して札をばらまいている者。借金地獄へと落ちていく者。何もしないで勝敗を見ている者。無難に勝っていて、引くべきか否か悩んでいる者。負けがこんでいる者に指南している者……。
何が基準なのかは分からない。
しかしその番犬は、冷たい目をしたまま彼らを引きずって行くのだ。
一方……私はどうしたらいいか分からずに立ちすくんでいた。ギャンブルなんて今までやったこともない。無駄な享楽と私は忌み嫌っていたのだから。
けれど何もしなければあの男に部屋の外へと引きずられてゆく運命だろう。部屋の外に何があるかは分からないが、連れて行かれたくないのは当然だった。
──やってみなけりゃどうしようもないってことよね。
言い聞かせて、入る時にもらったコインを握り締める。
──そういえば、私どうしてこんなところに入ったのかしら?
霞みがかかっている記憶。
私は首を傾げながらもルーレットへと歩み、テーブルにコインを積む。
まずは運試し。私は気弱く“赤”に賭けた。倍率は1だから金が増えることはないけれど……調子を見るだけなのだ。痛手は少ない方がいい。もちろん、盛り上がっている客は私のような若い女の参戦には目もくれない。いることにすら気が付かない。誰も自分以外見えていない。
ディーラーが華やかな笑みを振りまきつつ、ルーレットにボールを投げ入れた。
訪れた一瞬の沈黙。
その場に残ったのは、ボールがルーレットを回る音。
客人たちの息を呑む音。
ディーラーの微笑み。
一点に集中する数多の視線。
「No more bet」
ボールの速度が遅くなり、ディーラーの手がテーブルへとかざされて賭けは終わり。
カラコロと小気味よい音の響きだけが客人を覆い……
──…………。
「シングルゼロ」
ディーラーの凛とした声と共に、湧き上る歓声。飛び交う罵声。地団駄を踏む音。鳴り合わされるグラスの音。
馬鹿みたいな盛り上がりの中、再び金が動き、ココに夢が戻った。
皆はもう、次の賭けへと身を乗り出す。
私は……負けた。
シングルゼロはグリーン。“赤”も“黒”も負けなのだ。
──二択の賭けで負けるなんて、相当ツイてないわね
かなりの名を持つ手品師である私は、あの男に見破られず勝つことに自信はあった。
舌打ちしながらルーレットに背を向け、今度は探るようにポーカーの集団へと視線を移す。
高らかな笑みを浮べている女、泣きそうな顔をしている老爺、じっと口を引き結んでいる若者、眉根を寄せている紳士、カードを持つのすら始めてだと言いたげな娘……。テーブルに並ぶ、心とは裏腹の顔。どれが本当でどれが嘘なのか。互いに仮面をつけながら、相手を読もうと必死になっている。
狂乱の会場にあって、そこだけが奇妙な静けさ。
ぴんと張られた一本の糸のような、危うい緊張。
──相手の手札を、相手の心理を、相手の意図を!
沈黙の中に渦巻く輪廻の言葉。
だが、私はそんな彼らを見ながら、無意識に薄い笑みを浮べていた。
嘘も真実も、そんなものは私にとって全て無意味なのだ。くだらない探りあいなど、私には関係ない。疲れる心理戦など勝手にやっていればいい。
その気になれば、カード全てをハートのエースにだって変えられる私なのだ。手札をストレート・フラッシュにでもロイヤル・フラッシュにでも操ることは可能である。顔なんか作らなくても、勝ちは私のもの。
相手の顔なんか見なくても、金が積まれるのは私の前。
私はちらりと壁際の番人を見やる。
彼は変わらず煙草をふかしたまま、どことも付かぬ虚空をにらみつけていた。私の方を見ていないようで、見ているようで……。
──……。
私は肩を落として小さく首を振った。
イカサマをして何になる? ここで勝って何がある?
大勝した者もあの男に連れて行かれたではないか。……もちろんどこかのスィートルームかなんかへ招待されたのかもしれないが、私はそこまで楽観できるような性格ではない。ましてやペテンで大勝したとでもバレたらどうなることか。
要するに私は臆病なのだ。
──かと言ってこのままやっていたら絶対一度も勝てないわよねぇ。二択で負けるくらいだもの。
そう思ってからふと気付く。
──どうして私がギャンブルをしなくちゃいけないわけ?
そもそもどうして私はこんなところにいるのだろう? 私にはギャンブルより他にやることがあるのだ。勝つ必要も負ける必要もない。ここを出ればいいのだ。帰ればいいのだ。
そう考えると肩がすっきりした。空いていそうなボーイを探す。
と。
「……こっちに来てもらおうか、お嬢さん」
背後で凍った低い声がした。
背中に走る悪寒。
振り向けば、番犬が決して逃さない目で私を見下ろしている。男の手が、私の肩をがっしりと掴んでいる。
──逃げられない
私は崖から飛び降りるつもりで嘆息した。
「分かったわ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「天国行き」
ギャンブル会場唯一の扉を後ろ手に閉め、男はぼそりとそう言って私の右手にぺたんと朱印を押した。
向こうの歓声は全く聞こえない、静寂に満ちた廊下の中で。
「右の廊下を真っ直ぐ進め」
その廊下は右と左。双方奥へと続いている。どれだけ走り回っても音がしないような、ふんわかした赤絨毯の廊下だ。
「右?」
「そうだ」
黒の男はそれだけ言うと、再び会場へ戻ろうと扉に手をかける。
私は慌てて口を開いた。
「ま、待ってよ! これはどういうことなの? 天国行きって何? 私、帰りたいんだけど」
男がゆっくりと振り返った。
彼の長い黒髪がさらりと揺れ、薄い唇の端がニヤリと上がる。
「ここは天国と地獄の分岐点。ここでは人間の本性が現われる。金と名誉がからめば、大体奴等は自分を着飾ることが出来なくなる。普段は隠している本性が隠せなくなる」
廊下の温度が下がったのは、気のせいではない。
その男の言葉はゆらり揺らめいて虚空に消える。
しかし、私の耳からは離れない。消えない。
「勝つためなら何でもしようとする奴。負けているのに現実を見ようとしない奴。何もしないで誰かの言葉を待っている奴。周囲に当り散らす奴。ディーラーに難癖を付ける奴。お前は……何とかしようとしてあっけなく負けたクチだな。だがお前はここにおぼれる寸前で、自分に気が付いた。そのマジックで勝敗を意のままにできるのに、それをしようとはしなかった」
──全部バレてたのね。
知れずため息をつく私に、男の少しだけ和らいだ声が降る。
「お前はここの魔力に惑わされなかった。そして俺の目に適った。だからお前は天国行きだ」
それは困る。
私は両手を腰にあててうめいた。
「それはどうもありがとう。でも私、天国に行く気はないわ。帰りたいのよ」
「お前はもう帰れない」
男の声はひどくぶっきらぼうで、その視線はいつの間にか私から外されていた。
「はぁ?帰れないってどういうことよ。まさか……誘拐するとか!?」
「誘拐じゃない。自然の摂理だ」
遠くを見る男の瞳からは、何も分からない。彼の言っている意味が分からない。
私は彼の長い髪をがしっと掴み、ぐいっと引っ張る。
「どういうことか分かりやすく説明しなさい」
あくまでも強気に出る私に、しかし彼も底無し沼のように危険な視線を下ろしてきた。
切れ長の目をすっと細め、聞こえるか聞こえないか、ギリギリの声音で告げてくる。
「お前はもう帰れない」
「……だからね」
「言ったろう? ──ココは天国と地獄の分岐点だって」
彼の声がやけに大きく聞こえた。
ゆっくりと顔を上げた私に、彼の闇が重なる。
「…………」
「お前はもう、死んでるんだよ」
The end
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