フリーデル

 

──滅びとは終焉ではない。滅びとは、忘却である。

   歴史とは事象ではない。歴史とは、人々の想いである。

──歴史学者 ルイス=イスパンディーロ

 

 

少年はそびえる城壁をじっと見つめた。

時折吹く風にさらわれて、小さく揺れる蔦の葉。

まわりを囲む深き森の碧に染まり、まるで永き眠りの中にいるような静寂をたたえ、彼が探し続けた

都はそこにあった。

 

世界からは忘れ去られた太古よりの樹海。

誰も足を踏み入れることのない古の森。

空は蒼。森は碧。

そして朽ち果てた都。

 

そこは、静寂に満ちていた。

城壁を造る白い石は長き風化で崩れかけ、鮮やかな蔦はいたるところにからみつき、鳥の鳴き声ひとつなく、

もちろん人の姿などない。

 

「やっと見つけた・・・・・・」

馬鹿じゃないのかとあちこちの村で笑われ、嘲られ、それでも少年はこの森へ入った。

“必ずあるさ”

ふわふわした茶色の髪に、一見人なつっこい目。

しかし少年はその顔に子ども離れした虚無の笑みを浮かべ、一片の古びた地図を手に、この森へ入った。

道なき道を、照りつける太陽と瞬く星々頼りに歩き続けた。

 

そして今。

彼はとうとう辿りついたのだ。

とうとう見つけた。

とうとう──出会った。

 

遥かなる歴史の中で、現在への途を断たれた存在。

見る間に過ぎ去ってゆく時間の中でさえ、その終焉の姿のままに眠り続ける存在。

 

忘却の文明都市。

運命に見捨てられた滅びの都。

文字が消えかかった古い歴史書。その片隅に語られていた、幻の都。

 

「これがあの平和都市フリーデル・・・」

少年は城壁を見上げ、石に手を這わせ、小さくつぶやいた。

胸の奥が熱くなり、知らず鼓動が早くなる。

時間はたっぷりあるはずなのに、わけのわからない焦燥感が少年の背中を押してきた。

「三千年の昔に消えた都市・・・・・・」

今自分が触っている場所を、ここの子どもたちも触ったのだろうか。

今自分が立っている場所で、警備兵がてきぱきと動き回っていたのだろうか。

「存在したことしか分からない、滅びた理由も分からない、都・・・・・・」

 

 

少年は城壁を離れ、街の中へと歩を進めた。

白い石畳の道。草が茂ってはいるものの、そこはかつての街のままだった。

どの家も白か薄い茶色の石造り。しかしその外見は実に美しい。無駄がなく、それでいて無骨でない。

ひとつひとつが美術品であるかのようだった。

 

開け放たれたままの窓。

綺麗に整頓されて並んでいる棚の食器。

手をかければ崩れそうなテーブルと、そこかしこに転がっている酒のビン。

なにやら大きな古代文字で書きなぐってある木板の看板。

夜になれば再び火が灯りそうな街灯。

道の真ん中には片っぽだけの小さな靴。

 

・・・・・・何もかもがそのままだった。

手を伸ばせばそこにある。

声をかければ誰かが出てくる。

魔法を解けば再び人々がざわめき出す。

 

「なぜ滅びたんだ・・・・・・」

歴史が終ったその瞬間、この都市は時を刻むことを止めてしまったようだった。

記憶のすべてを守るかのように。

歴史のすべてを留めおくかのように・・・。

 

 

少年が歩む石畳の道は、大きな神殿へと続いていた。

「ここが・・・・・・都の中心だったのか」

彼は神殿を前にして、そう言ったきり口をつぐんだ。

言葉もなくただ呆然と立ち尽くす。

──そうするしかなかったのだ。

彼の知っている言葉の中に、この神殿を表せるものは何ひとつなかった。

“圧倒される”

それが一番近かったかもしれない。

彼は今までにいくつもの地を旅したが、これほどの建築物を見たことがなかった。

現代の持てる技術をかき集めたとしても、これ以上のものは造れまい。

そして未来永劫造れまい。

これほどまでに壮麗で、美しく、かつ──悲しげなものは。

少年は深いため息とともに目を閉じた。

その脳裏にしっかりと焼き付けるかの如く。

「僕は決して忘れない」

 

──忘れない

 

 

 

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 

「さてと」

彼はひとしきり感動し終え、本来の仕事でもある調査をしようと背負っていた皮袋を降ろす・・・

と、ふいに背後から声がした。

「おや、ここにお客様とは珍しいね。旅でもしておられるのかな?」

世間話でもするかのような、呑気な声が。

「!?」

少年が驚愕に固まっていることにも構わず、

「ここには面白いものなんて何もありゃしないよ。ずっと昔に滅んでしまった都市なんだから」

太陽の光で染めたような長い金髪を風に揺らめかせ、声の主はくすくすと笑い声を上げる。

「早く他の都市へ行かないと困ったことになるよ?なにせここには宿屋さえないんだものなぁ」

ゆったりとした白い衣をその身にまとった、優しい顔立ちの男。

碧色の双眸が穏かに少年を見ている。

「あ・・・あの・・・」

嵐が過ぎた静けさ。

そうとでも言うべき微笑を浮べている男に、少年は思わずしばし見惚れてしまう。

そして──かろうじて声を出した。

「・・・・・・あなたは・・・?」

「おや。礼儀がなってないねぇ。人の名前を聞くときは、まず己が名乗りましょう・・・って教わったでしょう?」

「・・・・・・・・・」

いくら背伸びをしていても、少年は少年。

男の茶化した言葉に思わずむっとして、しぶしぶながら名乗る。

「アロッサ=イスパンディーロ。・・・・・・こう見えても歴史家なんだ」

「歴史家。・・・・・・ははぁ、それでこの都市に。それにしても珍しいね。滅んでから今まで、誰ひとりとして

──歴史家も、探検家でさえも──ここを訪れやしなかったのに」

 

──滅んでから今まで?

 

少年の訝りなど気にも留めず、男が柔らかな碧眼を細くして笑った。

「誰かひとりでもここのことを想ってくれる人がいたとは、嬉しいなぁ。なにせ、ここは私の子どもみたいな

ものだし」

 

彼はとても不思議な人だった。

“生きている”という気配がまったくない。

確かにそこに存在しているのに、蜃気楼のような疑わしさを拭い去れない。

そして彼はふたつの相反する空気を身にまとっていた。

夕凪のような穏かさと、月夜のような逃げ場のない重さと──。

 

「──で、あなたは?」

少年の切り返しに、彼がなにやら“うっ”、とうめいて蒼空をにらんだ。

形のよいアゴに手をやり、柳眉を思いっきり寄せている。

そして彼はそのままの格好でつぶやいてきた。

「・・・・・・名前なんて、とうに忘れてしまったよ」

降参したような口調。しかしそれはむやみに明るい。

「私の名前なんて久しく呼んでもらっていないし、呼んでもらいたくても呼んでくれる者がもうここにはいない」

彼は神殿へと続く階段の一番下に腰掛けて、にっこり微笑んできた。

「君は、セレシュ皇帝って知っているかい?」

「もちろん」

「大陸を初めて統一した、偉大なる皇帝。何千何万という人々を血に染めた、史上類を見ない殺戮者。

不死皇帝・・・そう呼ばれた彼は、もちろんこの都市もその掌中に収めようとしたのさ」

「この都はセレシュ皇帝に滅ぼされた?」

「・・・・・・いいや、違う」

緩慢な動作で首を振り、男は滅びの都市から視線を外す。

そして彼は自らのひざに両肘を置き、額の前で白く長い指を組んだ。

その表情を隠すかのように──

「見てのとおり、ここは『滅ぼされた』わけじゃあない。文字どおり『滅びた』んだ」

「滅びた?」

「・・・・・・ここは平和都市。誰も戦いを望まない。無論、セレシュに軍を向けられたからといって抵抗などしない。

ここの住人たちは血を流さない利巧な方法をよく知っていた。自らの身を守る術をよく知っていたんだよ」

「利巧な、方法・・・・・・」

「そう。誰も傷つかない利巧な方法だ」

男の組んだ手は口元へともっていかれ、再びその双眸が露になった。

ガラスのようなその瞳には取り巻く深い森の碧が映り、彼と少年以外に誰もいない街が映る。

少年は彼のそんな横顔を見つめながら、言った。

「・・・・・・分かったよ。その方法。・・・でも本当に誰も傷つかなかった?」

「・・・・・・・・・」

男は真っ直ぐ前を向いたまま、その表情は変わらない。

相変らずさらさらと金髪が風に揺れ、長い睫毛がゆっくりと瞬きをする。

その沈黙を予想していた少年は、続けて言った。

「ここは・・・・・・、滅びたんだね」

彼がつぶやくように繰り返した。

「そう。──そうやってここは滅びたんだ」

 

 

かのセレシュ皇帝は凶帝と恐れられていた。氷の如く怜悧で、自然の摂理よりも容赦ない。

そんな彼に軍隊を向けられた平和都市の人々は、一番賢い逃れ方をした。剣も、言葉も交えず、欠片の

危険もなく、彼らはセレシュ皇帝から逃れた。

彼らは軍が向けられるや否や、一斉にこの地を離れたのだ。

何もかもそのままで逃げ出したのだ。

そしてこの地を離れ、すでにセレシュの傘下となった都市へと移住した。

この都市にはもとから王も皇帝も元首もいない。

守らなければならない権威など、なかったのだ。

 

誰もいない都市にセレシュ皇帝が興味を示すはずもなく・・・。

一度移住してしまった者たちが戻ることもなく・・・。

そうして平和都市はゆっくりと滅びていった。

時を巡り、季節を巡り、ここは滅びていった。

歴史から消えていった。

記憶から消えていった。

 

「どうして誰も戻ってこなかったんだろう」

少年が小さく漏らした問いに、男は空を仰いで苦笑した。

「戻ってこられるわけがなかったんだよ。・・・君はセレシュ皇帝を知らない。だからそんな疑問が出るんだね」

「?」

「あの人の情報力は並みじゃない。どんな秘密だって必ずばれてしまう。・・・だからもしこの街に住人が

戻ってきたなら、そのことはすぐ彼に知れてしまう。住人がいかに賢く皇帝を欺き、流血を逃れたのかも──」

「・・・・・・“欺き”、ね」

 

──それを皇帝は決して許さない。・・・そういうことか。

 

「何かが存在すれば、必ず滅びというものも存在するもんだ。始まりがあって終わりがある。・・・・・・ここは

終わりを迎えても、また新たな歴史を刻んでゆく都市がある。ここを離れた者たちも、新しい場所で新しい

記憶を築いていったんだろうね」

男はそう締めくくると、大きくひとつ伸びをした。

その時薄く開かれた碧の瞳は、一体どこを見ていたのか。

少年は神殿を見上げながら彼に聞く。

「あなたはどうしてここにいるの?」

「──どうして、だって?」

おかしなことを聞く子だね、そう言って彼は口の端を上げてきた。

 

「言っただろう?ここは私にとって子どもみたいなものだって。私がここを離れてしまったら、ここの存在は世界

から永遠に失われてしまう。ここの存在を覚えている者がいなくなってしまう。・・・・・・だろう?私はここを

ずっと守っていかなくてはいけないのさ。永遠に、世界そのものが滅びるまで、ね」

 

 

 

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 

 

“どんなに笑われても、頑張るんだよ”

男はにこやかに手を振りながら、朽ち果てた街の中へと消えていった。

鮮やかな金色の髪を楽しそうになびかせ、足音も聞こえぬほどの軽やかな足取りで。

風の如く、霧の如く、消え去った。

 

 

そして少年は今、神殿の最奥にいる。

大きく気高い歴史の遺影。

その一番奥には、白く凛とした神像が祀られた祭壇が設けられていた。

彼の小さな指は、神像の足元に掲げられた石版の文字を追っている。

ひたすら黙したまま追い続け──彼はふと目の前の秀麗な神像を見上げた。

そして声に出して古代の文字を読んでゆく。

 

 

『我らが都市が永遠であるように

 我らが都市が平和であるように

 この都市の名は、我らが愛し尊する守り神の御名を冠することとする

 神はこの地を、我らを、永遠に守ってくださるであろう

 我らが神、フリーデルに祝杯を

 我らが都市、フリーデルに永遠を』

 

 

忘れ去られてゆく過去。

止められぬ時間。

消えてしまったいつかの想い。

消えずに続く呪縛の使命。

 

「あなたの名前、──思い出せました?」

少年は神像に向かい、あらんかぎりの悲しさと優しさをこめた微笑みを浮べる。

どんな時でも決して表情を崩すことのなかった少年。

いつだってシビアに世界を見つめていた少年。

その頬を一筋の涙が伝った。

天窓の陽光を受けて輝く神像。

 

長き髪をそよがし、穏かな双眸で遠くを見つめ、長き衣をひるがえす守護神、フリーデル。

 

忘却の都。永遠の守護神、フリーデル。

 

 

 

THE END

BACK    HOME

 

 

どこかで聞いたことのある人がちらほらいますね(笑)

ちなみにフリーデルの由来は、ドイツ語の<Frieden=平和>です。

お話のコンセプトは「時よ止まれ、お前は美しい」。遺跡を見るといつでも不二はそう思います。

歴史の勉強も、制度やら事柄よりも人物そのものに興味を持つタイプでした(笑)

下記はこの話の元ネタになった詩でございます。

不二

 

<忘却の都>

君は誰を呼ぶ? 君は誰を探す?

過ぎ去りし日々は 時に埋もれ

ざわめきは高き空へ にぎわいは深き森へ

朽ち果てた君は今、何を想う?

固く閉ざされた城門 からみし蔦は 消えない昨日を守る

木々を揺らした一陣の風

聞こえた街の喧騒は

夢か 幻か

 

Copyright(C)2002 Fuji-Kaori all rights reserved.