「ヒエルダ」

 

 
街の名は“ヒエルダ”。
広大な砂漠の中にある、比較的大きなオアシスの都である。
都の奥には壮麗な城がそびえ、活気あるバザールが街を賑わし、大きな商隊が門の出入りを繰り返す。
オアシスの水は涸れることなく人々を潤し、何千年もの歴史を紡いだ。
 
 
だが、この都は地図にはない。
 
……時は絶え間なく流れているのである。
 
 
*  *  *
 
 
 
「その花はいくら?」
 
少年は、バザールの隅っこで花かごを広げている老婆に尋ねた。彼女は花を売ろうという意志もあまり
なさそうで、そのみてくれも裏路地のインチキ占い師のようである。しかし広げてある花々はどれもこんな
砂漠では珍しいものばかり。そこらへんの庶民が簡単に手にできる額ではない。
それをすべてわきまえた上で少年が指差したのは、小さな黄色い花だった。
 
「それは王の花だから高いぞぇ?」
 
うさんくさそうに老婆が顔をあげる。
 
「かまわないよ」
 
彼は小さく肩をすくめ、足首まである砂漠衣装の中から財布を出して見せた。
それをじゃらじゃらと振り、
 
「隊商に混ぜてもらってここまで来たんだ。僕はこれでも情報屋なんだよ」
 
年の頃は12、3。柔らかな茶色の髪の、人なつっこい目をした少年。
 
アロッサ=イスパンディーロ。
 
「……坊主、異国の者か?」
 
「うん」
 
答えると、老婆は顔をくしゃくしゃにして、そうかそうかとうなずいた。
さっきの態度とはまるで違う。
「近頃なぜかしら異国の者をめっきり見かけんようになってなぁ。商人は出入りしているようなんじゃが、
誰も彼も見知った顔ばっかりだったんじゃ。そうかそうか、おめぇさんは新しくこのヒエルダに来たのかぇ」
 
彼女はそう言ってひとしきり感慨にふけり、その上頼みもしないのに話を続けてきた。
 
「ヒエルダは、今はこんなにもいい街になったがの、ここまでになるのは楽なことじゃあなかっただ。
ここの王はたいした人だ」
 
だが、アロッサも嫌な顔ひとつせずに老婆の正面に座り込んだ。
まだ幼い、好奇心できらきらした目を彼女に向けながら。
 
「おめぇさんはちっこいが、昔の大戦の話は知っとるかぇ?」
 
「教科書でなら」
 
「そうか、教科書か。そんな昔のことになっちまったんだなぁ」
 
彼女はシワだらけの手をさすり、ぬけるように青い砂漠の空を見上げた。彼女の目には今ではなく、
大戦時の空が映っているはずであった。
 
 
──歴史的には大きな転換。
 
 
しかしその大戦争はごく短期間であっけないものだった。
少なくとも、アロッサはそう習った。
 
「流星のように現われたひとりの軍人皇帝、それがすべての元だったんじゃ……。不死皇帝セレシュ。
あやつは実に戦争に長けた男じゃったよ」
 
皇帝セレシュ。
 
その名前を知らない者などいない。史上最強の軍を持ち、自らそれを率いた鋼鉄の戦士。彼は元々とある
小国の皇子だったというが、帝位に就くや否や他国侵略を始めたのだった。その上どういう運命の力か、
その軍がまた比類なく強すぎた。相手になる国などあるはずもなく、それ故にこの歴史的大侵略──今では
“大戦”と呼ばれているが──は驚くべき短期間ですべてのカタがついたのだ。……死者の数、亡国の数は
計りしれないとしても。
 
不死皇帝セレシュ。彼は史上初めてこの広大なる大陸を、力によってのみ統一成し遂げた男。
偉業と言うか、愚行と言うかは人次第。
だが、誰にもできなかったことを一瞬にしてやってのけたことには違いない。
 
 
「ヒエルダも例外ではないよの。ここは砂漠を制する上で外せない拠点。セレシュが見逃すはずなど
なかったんじゃ……。ヤツはやはりここを滅ぼそうと、大量の軍隊をおくってきた。だが……」
 
「だが?」
 
アロッサは、ふいに口を閉ざした老婆を促した。
 
「それからどうしたの?」
 
「……だがここは今もこうして美しい都のままじゃ。大戦の後は廃墟のように潰されていたこのヒエルダ
も、王や我々の努力によってここまで回復した。すべては王の偉大なるお心、ヒエルダを潤す“世界樹
の泉”、大いなる神のお導きによる奇跡じゃ。ヒエルダは死ななかった。セレシュの手には落ちなかった。
……坊主」
 
「ん?」
 
老婆が涙ぐんだ目をして、ひしっとアロッサの両手を握った。
 
その手はこの灼熱の砂漠にあってひんやりと冷たく、思わずアロッサは彼女の顔を凝視する。血が通って
いないのではないかと心配になるほどの冷たさだった。
花売りという商売上、常人よりはるかに水を使う身なのではあろうが……。
 
「ヒエルダはセレシュに勝ったのじゃよ。こんな都のことなど教科書には載っとらんじゃろうが、王の、
そして敬愛なるシャントルー将軍のお力によってヒエルダはセレシュを追い返したのじゃ」
 
「……そうだったんだ」
 
アロッサは太陽のように微笑んだ。
彼がはじめに買おうとした、あの黄色の花にも負けないほどの明るさで。
 
しかし対照的に老婆の顔は沈んでいる。
 
 
癒されぬ痛み、深い悩み、勝利の華やかさに隠れた憂い。
動く事実、歴史。その流れに翻弄される人々の心。想い。
事象の歴史と人々の歴史。
 
 
「まだあの方が帰らないのじゃよ」
 
夜の底を這うような老婆の声。
アロッサはその視線を追った。
 
彼女の視線の先には、天高く壮麗にそびえるヒエルダ王の居城。ヒエルダの都奥に鎮座するその城は、
世界で最も美しいとさえ称されていた。誰もを荘厳な気持ちにさせる風格を持ち、その曇りない白は
砂塵舞う砂漠にあって“神の奇跡”と歌われる。
 
「あの方……って?」
 
「王の最大のご友人であり理解者である、シャントルー将軍。あの御方はセレシュを討ちに出兵なさって
から、未だご帰還されないのじゃ……」
 
「シャントルー将軍?」
 
「王は何人も殺したくはないとおっしゃりセレシュに投降しようとなさったのじゃが、シャントルー将軍が
それをお止めになってなぁ。“私がセレシュを追い返す。ヒエルダはあなた以外、何者の手にあっては
ならない”と申されて……必ず帰ってくるという約束のもと、王はそれを信じてあの方を出兵おさせになった
のじゃ」
 
老婆は虚空の一点を見つめ、ゆっくりとその目を閉じた。
はっきりとその時を思い出すかのように。
 
「あの日ヒエルダは不思議な雰囲気に包まれておった。まるで死にゆく者たちを送り出すかのようでな。
王は固く口を結んでおられて……。将軍と軍隊の兵士たちだけが凛々しく晴れやかな顔をしていたわ」
 
 
将軍の誇り。
兵士の誇り。
守るものがあることの強さ。
怒涛に押し寄せる、抗えぬ歴史の流れ。
 
 
「じゃが、戦争は終わった。我々の勝利だった。そして都はこんなにも生き返った。それなのに
将軍は未だご帰還なされない!かの方は王の約束を違えたか?……そんなはずはないのじゃ。
あの方に限ってそれはない。皆はずっと待っておるのじゃよ。王も、民である我々も、ずっと
あの方のご帰還を待っておる」
 
「戦争が終わったときからずっと待っているんですか?」
 
アロッサはごく普通に首を傾げた。
 
「そうさな。将軍は必ず帰ってくる。我々はあの方がお帰りになるまでずっと待っておるのさ。なぁに、
もうすぐお帰りになるじゃろうて。王も毎日祝宴の用意をして待っておられる。それほどにヒエルダは
回復したのだわい。シャントルー様が帰られたらさぞかし驚かれようのぉ」
 
老婆の顔がほころんだ。
 
将軍の帰還は今日かもしれない。明日かもしれない。
彼女は将軍の帰還を心より願い、心から楽しみに待っている。
……いや、彼女だけではない。ヒエルダは、将軍の帰りを今か今かと待っている。
その希望、その期待、その想いだけがこのヒエルダを支えている。
 
王も、民も、約束を信じている。
 
 
 
──歴史の歪み
 
 
 
アロッサは立ち上がり、長くて邪魔な服をぱんぱんと払った。
細かい砂塵がちらちらと陽光に反射する。
 
「すいません、お婆さん。僕はもう行かなくてはいけないかも。隊商に置いていかれたら困っちゃうんです」
 
「おや、そうかい。すまなんだなぁ、つまらない話を聞かせてしもうて。ほら、お望みの花をやろう」
 
老婆は手元の黄色い花をひょいっとつまみ、アロッサに手渡してくれた。
 
「あの、おいくらですか?」
 
「金はいらないよ。そりゃ話相手をしてくれた御礼さ」
 
老婆はぱちんと似合わないウインクをし、口の端で笑った。
 
「…………」
 
アロッサはしばし花と老婆を見比べていたが、すぐにニッコリ微笑みを浮かべる。
秘密の共有者のように。
 
「ありがとうございました、お婆さん。それと、将軍が早くお帰りになるといいですね」
 
「あぁ。坊主も旅の途中もし将軍にお会いしたら伝えておいておくれよ。民はいつまでも貴殿のお帰りを
お待ちしていますってね」
 
「はい」
 
アロッサは丁寧にお辞儀をすると、彼女に背を向けバザールの雑踏を歩き始めた。
 
 
 
揺らめく太陽、きらめく砂粒。
ざわめく人声、消えない蜃気楼。
 
 
少年は黄色の花を手に、街を歩く。
アロッサ=イスパンディーロ。
彼は、時の狭間を垣間見る“人の歴史”家。
 
きれいに整備された石畳の道の向こうに、街門が見えてきた。
コチラとアチラを分かつ門。
歴史の邂逅点。
 
彼は立ち止まり、後ろを振り向いた。
 
何事もなく広がるオアシスの街。夢から醒めない街。
永遠なる都。
 
少年は心にあの老婆を見、そして城奥の王を見、固く約束するようにつぶやいた。
 
「必ず伝えます。どこかで将軍にお会いしたら。ヒエルダは待っている、王は待っている。あなたの
帰還を待っている。必ずそう伝えます」
 
 
 
砂漠の都、ヒエルダ。
三千年前の大戦にて、皇帝セレシュに攻め滅ぼされた古の都。
大いなる歴史、人々の世界からは失われた都。
砂漠に埋もれたかつてのオアシス。
 
だが約束は消えない。
時は流れても、人々の想いは消えない。
滅亡という事象の狭間、ヒエルダは未だ生きている。
死の匂い漂う砂漠の中で、消えることなき陽炎のように都は彷徨い続ける。
 
滅びたことなど、彼らは知らない。
 
彼らは待つのだ。
彼らの英雄を、永遠に。
 
 
 
街の名は、ヒエルダ。
この街は地図にはない。
 
 
 
 
THE END
 
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