冷笑主義 聖都編

Ladon(ラードーン)

後編



 やがてフォリアの予言どおり、カリストゥス3世は逝去した。
 そして次代の教皇を選ぶコンクラーヴェが迫った8月の雨の夜。
 ローマ市街の一郭、石造りの大きな屋敷から嵐に紛れて荷が運び出されていた。
 番人である月は雲に隠れ、共犯者である雨は木々を叩き屋根を叩き通りを叩く。地鳴りのような轟音は街を覆い、手押し車の軋みや水を蹴る足音を包み込んだ。

 ミラノとフィレンツェは教皇が死んでも未だ国境封鎖の姿勢を崩さず、──新教皇の出方を見極めるまではというところだろう──ローマは謎の積荷置き去り事件で多少命を長らえたものの、古貴族オルシーニ家の眷属(けんぞく)が暴虐を尽くしていて、荒廃困窮の惨状は相変わらずだった。

 が、彼らが濡れ鼠になりながら運ぶ荷はなかなか大きく重そうで、街の人間に見つかったらどこに隠していたのか詰問されそうだ。
「よし」
 鋭敏な動きで先導者が大きな通りへ駆け出た。
 しきりに辺りをうかがっているが、ただでさえ活気が消えた街、照燈(ファロ)ひとつなく彼の網膜は闇以外を捉えることができない。
 雨は、味方であり、敵だった。
 自らの足音を隠すと同時、潜む賊の足音もかき消していた。
 彼が大きく手を振り合図を送る。
 同時に手押し車は一気に通りを横断しようと加速した。泥混じりの飛沫が地面に散り、水溜りが次々に蹴散らされる。
 だが。
「!?」
 先導者が動きを止め、荷車が急停止した時にはすでに遅かった。
 彼らは幽鬼のように現れた賊にぐるりと囲まれていたのだ。
「何故よりによってこんな悪天候の日に強盗なんか」「もしや情報が漏れていたのか」「ならば裏切り者は誰なのか」──。
 自問は沸騰するが自答する間はなく、声を上げる間もなく、束の間乱れた雨音に誰が気付いただろう。
 もちろん運び屋も素人ではなかったが、相手が悪すぎた。
 ローマに入り込んだ賊は、流れの傭兵の成れの果て。
 血を求めて戦場を渡り歩く傭兵たちは、力の誇示こそが生きる糧なのだ。数え切れない程の人間を斬り殺してきた無法者たちと、ローマの運び屋の差は明らかだった。

Requiem aeternam dona eis,Domine(レクイエム エーテムナム ドーナ エイス ドミネ)(主よ、永遠の休息をかれらに与え)
 通りの奥へ、郊外へ、悪路に流れの軌跡を残し小さな点になってゆく荷車。
 積み重ねられた屍を打つ篠突く雨。
 フォリアはしばらくそれを見下ろし、そして荷台から転がり落ちたらしい黄金の冠を拾い上げた。
 光がなければ輝かない貴石が散りばめられた傲慢の象徴。
et lux perpetua luceat eis.(エト ルークス ペルペトゥア ルーケアト エイ−ス)(絶えざる光で彼らを照らしたまえ)
 黒の枢機卿はそのまま骸の横を通り過ぎ、賊の消えた方へと歩き始めた。
 フードの中の憐憫の双眸は、塗り潰された地平だけを見ている。茫洋と広がる、未来のない行き止まりの地平を。



 ローマの貧民街から少し離れた場所に、今はもう使われていない教会がある。
 修飾が一切ない簡素な造りのそれは、貧民街の中心にもう少し大きな新しいものが建てられたため放棄されたのだが、天井が落ちたり壁が剥がれたりということもないので、時々旅人が夜露をしのぐこともあるようだった。
 そして今は。

「うまくいったようで何より。ご苦労様」
 聖像のない祭壇を背に、説教台に寄りかかってフォリアは言った。
 彼の眼下には、金貨、銀貨を始め、まばゆい宝飾品を床いっぱいに広げている傭兵たちの姿があった。燭台の炎の光は、抱えきれない美しい黄金の輝きを舐め、7人の男のたちの顔に落ちる影を歪め、揺らめく。
「それにしても強いな」
 フォリアの素直な感想に、男のひとりが振り返った。
 腕の太さがフォリアのそれの3本分はありそうな、獣じみた風体の男。
「アンタは何で知っていたんだ?」
「ブロンディ卿が財を運び出すことを?」
 それは今ヴァチカンにいるひとりの枢機卿の名だった。
「あぁ」
「そんなことは簡単さ。もうすぐコンクラーヴェがある。候補者の中で最も財力があるのは彼だ。選挙権のある者にばらまかないわけがないだろう。最も金に頼る確率が高くて、使う額も最も多いと思われるのがブロンディ卿なんだから、彼の動向を見張るのは基本だ」
 フォリアは首にかけたサファイアとダイヤが連なる首飾りをいじりながら──そのすべての指にはエメラルドからルビーまで大粒の石を使った指輪がはめられている──空咳をした。
 夏の嵐とはいえ、ずぶ濡れは堪える。
「そうじゃない」
 もうひとりの傭兵が立ち上がった。
 粗雑な動作に湿った空気が乱れ、光のない側廊の闇が蠢く。
「何で、今日、あの時間だと知っていた?」
「もちろん、枢機卿のところに間者を送り込んでいたからだ」
 フォリアは自分の後ろを指した。
「ほら、彼を」
 つられて傭兵たちが全員顔を上げ、その中の幾人かが日に焼けた肌の下にぎょっとした表情を作る。
 無理もない。誰もいなかったはずのそこに白装束の男が、しかも両目を包帯で覆った男が立っていたのでは。
 その男の紹介もせず、王冠を頭に戴いた枢機卿は安穏と講義を続ける。
「候補として有力なのは4人、ピッコローミニ、カランドリニ、デストゥトヴィル、ブロンディ。最も財力があるのがブロンディで、次がデストゥトヴィル。だが、コンクラーヴェに参加する20名あまりの枢機卿の票を操作できるほどの大金を動かせるのはブロンディと踏んだ。ピッコローミニなんか、会う奴会う奴捕まえて懇願しているらしいから。金がないから泣き落とし作戦だってさ」
 ヴァチカンの内情などゴロツキの傭兵に話して聞かせたところで意味はない。だがフォリアは止めなかった。
「前教皇カリストゥスはスペイン出身だったが、ヴァチカンの人間はスペイン人が嫌いだから次代もスペイン人が選ばれるというのは考えにくい。そうなると、スペイン出身の枢機卿は今までの優遇を受けられなくなる」
 雨の音が遠い。
 傭兵たちの抑えた息遣いが近い。
 体温を奪う冷たい雨が遮断された空間は、今度は逆に運びこまれた湿気と体温と本来の気温で不快な熱を持ち始めていた。
「つまり、最も効果的な票集めはスペイン出身の枢機卿に金を積むことだ」
 ファン・デ・トルケマダ、ルイス・ホアン・デル・ミラ、ファン・デ・メラ、ロドリーゴ・ボルジア……スペイン出身の枢機卿は意外にいる。
 彼は説教台の上に置かれていた一枚の金貨を手に取った。
「だが不正はいけない」
 間の抜けた正義に、男たちが下卑た笑い声を上げ、同時にそれぞれの得物を携えて立ち上がった。男たちが手にしているのはほとんどが片刃の大剣だ。肉を断つよりも、骨もまとめて粉砕する「叩き斬る」ための武器。
「…………」
 フォリアは黒の双眸を細めた。
 不穏を割ってひとりが進み出てくると、そいつは大剣をひょいと自分の肩に乗せる。
「それで、コンクラーヴェの番人よ。このお宝の取り分はどうなってたっけな」
「7:3。俺が7で、お前たちが3。正確にはコイツが5で、」
 後ろを指し、
「俺が2で」
 自分を指し、
「お前たちが3」
 殺気立つ集団を指す。
「俺たちはちょっと不満だ」
 禿頭の傭兵は先程のポーズのまま言う。
「…………」
 もともとが法外な輩なのだから、不満なら契約を結ぶより先に言うべきだという議論は不毛だ。
「俺たちはアンタが目にした通りの強さだから、要求を呑んでいただけなかった場合は、アンタがちょっと怪我をすることになるかもしれない」
 自分で自分を強いと真剣な顔で豪語していいのは、パーテルの吸血鬼くらいではあるまいか。上には上がいることを知らない奴がその言葉を使うと、滑稽だ。
「あいにく俺も支払いを抱えている」
 ミラノとフィレンツェへ。
「だからコレだけもらっていってもいいか?」
 フォリアは身に着けている王冠と首飾りと腕輪と指輪を見せた。こんなもの、「1」にも満たない。
「……どうぞ」
 傭兵があごで鷹揚にうなずき、怖い外見を裏切る慇懃な所作で手を広げ、出口を示す。
 フォリアはあからさまな不興を顔に乗せながらも、仕方なく従った。白いクロワも続く。
 じろじろとねめつけられ、ニヤニヤと勝ち誇った嘲笑を向けられるのは腹立たしい。
 だが、我慢我慢。
 半ば突き飛ばされて雨夜に放り出され、彼らの後ろで音を立てて大扉が閉められると、フォリアは肩を落とした。
「まったく、欲深い」
「貴方も」
 クロワに肩を掴まれ揺すられると、黒い布の内側に詰め込まれた金貨が重い音を立てた。
 若者は、厭世(えんせい)の薄笑いを浮かべる。
「とりあえず手元にこれくらいは欲しいからな」
 ヴァチカンへの帰還ため、ぬかるんだ道へ足を踏み出す。
 雨はまだ強い。
 背後で教会が崩れ落ちる音がしたが、街には届いていないだろう。
「掘るのに時間がかかりそうだし」
 彼は肩越しに後ろを確かめて眉を上げた。
 濡れていたおかげで土埃もたたずきれいに瓦礫の墓が出来ている。
「古い建物だったからなぁ。嵐にやられて崩れるのも無理ないか。ヴァチカンが責任を持って片付けるとしよう」
 誰に対しての証明か、フォリア・アラートはわざとらしくワントーン上げて宣言すると、一呼吸置いてぼそぼそと独りごちる。
「民も生かしておけた、コンクラーヴェの不正な金も回収できた、フィレンツェとミラノに支払いもできる、オルシーニが雇っていた賊徒も片付けられた」
 ひと仕事を終えた疲労感をまとい、彼は自らのカゴへ歩みを向けた。
「本当にお前がいると楽でいいよな」

 死の天使サマエルを見た者には確実な死が訪れる──。

 フォリアは、己の死がいつどうやって訪れるのか知っている。
 サマエルが彼と契約を結んだ時に予言したからだ。
 彼が奸計をめぐらしどれだけ回避しようとしても、未来はそれゆえの結果ということにしかならない。
 だが彼の死は祝福されるだろう。
 死によって肉体から魂へと進化して、彼は永遠に神に寄り添う者となる。
 神のため教会のため人のため、罪を請け負い穢れた聖人を神は裁くだろうか。否、信じる者、尽くした者を神は決して見捨てない。
 彼は神の愛に満ちた苦しみも哀しみもない国の民となり、大いなる讃歌の溢れる果てしない平穏の地平に立つのだ。


 
I heard a loud voice out of heaven saying, "Behold, God's dwelling is with people, and he will dwell with them, and they will be his people, and God himself will be with them as their God.
 He will wipe away from them every tear from their eyes. Death will be no more; neither will there be mourning, nor crying, nor pain, any more. The first things have passed away."
 ──Apocalypsis Johannis 21-3.4
(そのとき私は、御座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、先のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 ヨハネの黙示録 21-3.4)



◆  ◇  ◆



 1458年8月。
 厳正なるコンクラーヴェによってシエナ司教、エネア・シルヴィオ・ピッコローミニ枢機卿はピウス2世として教皇冠を戴いた。

 不慮の事故で財産を失ったブロンディ卿はさしたる工作もできず、情勢はピッコローミニとデストゥトヴィルの一騎打ちとなり、最終的には若きスペイン人枢機卿ロドリーゴ・ボルジアの票がピウス2世の誕生を決した。

 ──ボルジアを抱き込んでいたら……
 ブロンディ卿のその想いはよほど強かったのだろう。
 彼は、新体制を組む会議で突然に言った。
「ローマの治安回復は何よりも優先する必要があるかと思います。先日など、この私の荷が強盗に遭いました」
 テーブルを囲む枢機卿たちは一般論として受け止めたようで、腕を組みうなずく者が多い。荷を受け取る約束をしていたはずのロドリーゴ・ボルジアも、そんなことは微塵も感じさせず同調している。
 またどうせオルシーニの仕業だろうとラティーノ・オルシーニ枢機卿を一瞥する者もいたが、
「しかも逃げのびた家人が言うには、」
 縦にも横にも大きいイタリア人の枢機卿は言葉を切り、全員の視線を誘導するように教皇の横に座るフォリア・アラートへ目を向けた。
「賊の中に貴方の姿を見たというのです。アラート卿」
 芝居がかった驚嘆の声がちらほら上がる。化けの皮を剥がしてやれという攻撃的な期待と、放った矢は自分たちも巻き込み返ってくるのではないかという臆病な不安が、居心地の悪い警戒感を生む。
 しかし名指しされたフォリア・アラートはあっさり一言だけ。
「そうですか」
「それはお認めになるということですか?」
「まさか」
 ブロンディ卿の追撃に、容疑者となったフォリアは頭をかいて笑う。そして下から見据えた。
「貴方の家人が私の顔を知っていたとは思えませんよ」
 フォリアはほとんどヴァチカンから出ない。衆人に説くこともせず、行動範囲は一般人が入れない教皇庁が主だ。枢機卿たちはともかく、それ以外の人間は彼の顔はおろか名前すら知らないのではないか。
「その銀髪は夜でも目立つようです」
「夜に荷を運んだのですか? なんて危険極まりないことを」
 髪の色だけで犯人に出来るわけがない。
「荷の運搬を任せていた者が何人も殺されています。貴方にとってはただの数字に過ぎないかもしれませんが、ひとりの人間の死の背後には何十という哀しみと怒りがあるのです。我々は権力で護られた犯人の弾劾を諦めてはいけないんですよ」
 正論だが、それを振りかざして何がしたいのか。
「では、貴方は飢え死にしたローマの民に何か救いの手をさしのべましたか?」
「あの荷があれば助けてやれたのですよ……」
 卿は、唇を噛み岩のような大きな拳を震わせた。

 救い難いことに、この円卓に居並ぶ者たちは、どんな状況でさえ己の美談に変え、神に近付く糧とすることができる。
 親族登用主義(ネポティズム)は家族愛、賄賂は神の目指す国を創り上げるための必要経費、女遊びは隣人愛、遊興三昧は経済支援。
 あらゆる自分の行動が、賞賛されるべき何かのためだと真剣に信じている。愚かな羊である民が何を言おうが、選ばれた己の言葉は神の代弁の如く正しいのだ。

「ブロンディ卿、理不尽な仕打ちに憤られるお気持ちは分かりますが、それだけでアラート卿を罪人にはできませんよ」
 不毛な議論に水をかけたのはロドリーゴ・ボルジアだった。
 若く張りのある発言に皮肉の色はなかったが、しかしその一見常識的な諫言はすぐに矛先を変え、フォリアに向けられた。
「アラート卿。私からもお尋ねしたいことがあります」
「はい?」
「先日、貧民街の倒壊した教会からかなりの財宝を運び出したそうですね」
「近頃ローマを荒らしていた賊の一団が拠点に使っていたようです」
「その中にブロンディ卿の荷がまざっていた可能性はありませんか?」
「ないと思いますよ。本当に金貨銀貨や宝飾品や美術品だけでしたから。……それともブロンディ卿は通常の荷ではなくそんな高価な荷を運ぼうとなさっていたんですか? わざわざ危険な夜に? どこへ?」
「……いや……」
 大柄な男は前のめりになりながらも言い淀み、そしてその回答権をボルジアが横取りした。
「没収したものを拝見することはできますか?」
 しかも答えではなく更なる問い。
「もちろん」
 この場にあってなお黒の聖騎士衣をまとう枢機卿は、顔にかかる銀髪を払いのけてから軽く承諾した。
「私の財産ではありませんから、事務に申請すればいつでも見られると思います」
 その申請が絶対に受理されないことを知っていながら。



◆  ◇  ◆



 月下にヨタカの声が響く夜、フォリア・アラートは図書館を出て教皇庁へ帰るところだった。
 途中でシスター・ジーナと会ってしまい、延々と説教を聞くハメになる。
「周囲がどれだけ心配するか分からないお歳でもないんですから、あまり危ないことはなさらないでくださいね」
 あの嵐の夜に着ていた外套は泥まみれになっていたので棄てたものの、シスターは目敏(めざと)く見つけていたらしい。嫌味のようにキレイに洗濯されたそれが、両手で持った積本の上に押し付けられる。
「危ない仕事を危なくないように遂行するのも腕のうちですよ」
「仕事で死ぬほど、正義感はないな」
「アラート卿がいなくなると、私は路頭に迷ってしまいます」
「大丈夫、君ならどこでもやっていける」
 これは本音だ。
 しかし彼女はこちらのなぐさめを無視して遠い目をする。
 ヴァチカンを渡る南風にざわめく木々、その闇の奥から一定のリズムを刻んで聞こえて来る鳥の声。昼の禍乱(からん)が洗い流され、辺りには数を増す虫の音と共に緑の匂いが満ちてゆく。
「──時々、ふっと、卿が消えてしまうんじゃないかと思うことがあるんです。誰も貴方のことを覚えていなくて、私だけが探していて」
 おそらく、その日は突然訪れるだろう。
「まるで別のヴァチカンに放り出されたみたいに、私だけがぽっかり大きな穴を抱えていて、誰も知らない貴方を、私は探し続けるんです」
 近くは無いが、遠くもない未来に。



「猊下、猊下ならどういうことかご存知でしょう? この到底理解し得ない事柄が、何故まかりとおるのか!」
 教皇居館を訪れたロドリーゴ・ボルジアは、相手が教皇にも関わらず無意識に声を荒げていた。
 対してピウス2世は一段高い場所にゆったりと腰掛け、(なだ)めるような眼差しを下ろす。
「フォリア・アラート卿が没収した財宝を検分させてくれと申請を出したら、そんな記録はないと言われました。そもそもフォリア・アラートなる枢機卿はいないと却下されたんですよ!」
 このロドリーゴが枢機卿でいるのは、カリストゥス3世の甥であるという血統に()るところが大きい。しかし、状況を読む能力に長け陰湿さを嫌い華がある様は、青年がただの数合わせでは終わらない予感を漂わせていた。
「彼は我々の前にいます。今日だって貴方の横にいた。けれど枢機卿の名簿には名前がありません。おかしいじゃありませんか。猊下、彼は一体何者なんですか」
 ロドリーゴの票がコンクラーヴェを決した。
 だからこそ問える。
 ピウス2世は静穏な相好を崩さず、だが声は険しく応えた。
「フォリア・アラートという枢機卿は存在しない。それは確かだ」
「…………」
「フォリアは一体何者か。君のその問いに今、明確に答えることは許されない。だが、カリストゥス3世は“ラードーン”と評していた」
 それは異教の伝説に謳われている竜の名だ。昼と夜の狭間に存在する夕べの国、そこに植えられた黄金の林檎の樹の守護を司る、百の頭を持つ眠らずの竜。
「フォリアは、真の鍵を持ちそれを護る者、金庫番、ヴァチカンの異端にして、存在しない化け物。そしていつからか、翼まで手に入れた」
 ロドリーゴが求めた回答としては、あまりにも詩的だった。
 だがそれ以上憤っても無駄なことは分かりきっている。
 民に明かされぬ政があるように、枢機卿にさえ明かされぬ聖域はある。神の姿が今はまだ我々の目から隠されている事実と同じく、それは高潔な必然なのだ。
「我々はその化け物に利用されているのですか? それとも我々が利用しているのですか?」
 扉の先に飼っているのは畏怖なのか猛獣なのか、俗物的な聞き方しかできなかったが、それは世界にとって重要な意味を持つ。
「…………」
 教皇がまぶたを落として長考した。
 キョッキョッキョッキョ……──心を細波立てる夜の鳥の鳴き声が、開け放たれた窓から灰色の風と共に入り込んでくる。
 鳥が黙するのを待って、教皇が言った。
「分からんね」
 曖昧な、だが一番それらしい答え。
「分からんよ」
 つぶやかれた言葉の波紋が夜気に溶けると、教皇は眉尻を下げて憂い顔を作った。
 頂点に立ち初めて知る事実もある。今まで信じていたことがあっさり覆されることもある。そしてそれに圧倒されることもある。
「ラードーンは英雄ヘラクレスに倒される運命です」
 苦々しく吐き棄てられたロドリーゴのスペイン(なま)りが、謁見の間の空白に刺さった。
 彼の背に広がる夏の夜の闇は淡い。
 先が見通せるようで見通せない、だがそれは希望のある人生のようでもある。闇が深ければ立ち止まるだろう、何もかも(さら)されていれば進む気がしないだろう。
「ならば祈ろうか」
 ヴァチカンに囚われた亡霊が、神の御手から零れぬよう。



「──あら」
 シスター・ジーナがふいに足を止めた。
 照燈(ファロ)が消された教皇庁の入り口前に、馬車が横付けされていたのだ。扉に(カラス)の紋章が刻まれた、黒塗りの馬車。
「コルヴィヌス」
 フォリアが低く口にしたそれは、今やハンガリー王家となったフニャディ家の別称だ。紋章が起源だろうか、ラテン語で“烏の人”を意味するらしい。
「え? ……ではあれは……」
 シスター・ジーナがこちらをちらりと見上げ、すぐに馬車へと顔を戻す。
 二人がその場を動かず息を殺して様子を伺っていると、やがて馬車の中から一人の男が出てきた。
 ゆるいウェーブを描く髪を後ろで束ね、青銅色の外套を羽織った細身の男。遠目にも蒼白い顔をしていて、しかし身のこなしは強靭な武人であり、たおやかな貴人だ。
 その男が(うやうや)しくもう一方の扉を開け、中の人物の手を取った。
「魔女です」
 フォリアの耳元で死の天使の声がする。吐息よりも微かなそれはもちろん、身体の前でがっちり両手を握っているシスターには聞こえていない。
「不可侵の聖域に魔女が入り込んだのです」
 引裾が豪奢な灰色の衣装が流れるように地に降りる。細い鼻梁と強い目、美しさ際立つというわけではないが、薄い孤愁を唇に差した異境の顔貌が人目を惹く。少女でもあり女でもあり、ハンガリーにとっての王族であり、ハンガリー王にとっての実の妹であり、ヴァチカンにとっての人質であり、そしてフォリアの妻となる──フニャディ・パレストリーナ。
 ヴァチカンに降り立った彼女は、何事か蒼の男に囁いた。
 兄のような微笑を返すその男の足下には、影が無い。純白の法衣に包まれたクロワの足下に影がないのと同様に。
「お妃様というのはもっと華やかにやって来られるのかと思っていました……」
 シスター・ジーナは影とは必ず存在するものだと思っている。だから彼女には「無い」ことが見えない。いや、大抵の人間が思い込みから逃れることはできない。
 よほど世の中を屈折させて見ていない限り。
「クロワ、あの男は?」
「あれは首を断たれた死人です。吸血鬼ですよ」
 フォリアの気配を()いだ呼びかけに、クロワが冷めた声音で応えてきた。北海の黒々とした寒風にも似た凍れる怒り。
「なるほど」
 隔たった砦の大地から、昏風(こんぷう)は吹き込んだ。
 生ける屍と、それを従える姫として。
 その灰色の女がこちらに気付いた。
 霧立ち込める深い森の湿り気を帯び、天を貫く針葉樹の芯を内包し、ひたと見据えてくる黒い双眸。
 彼女はきっと、自分が利用されていることなど見通しているのだろう。しかしその華奢な内に抱いているのが絶望でも悲哀でも諦めでもないことは、異形の従者が物語っている。

「ようこそ、白き聖都へ」

 とはいえ、彼女の結婚相手は彼ではない。

 彼女を迎えるのは、教皇庁の地下に幽閉されている“翼ある狂気”の本体の方だ。
 狂気の本名は、フォリア・デ・コンティ・ディ・セーニ。
 フォリア・アラートは名のとおりその翼に過ぎず、本体に命ぜられるままカゴの外を羽ばたいている影だ。

「あの女、なんだか簡単に死にそうにないぞ、フォリア」

 ヘラクレスが現れるまで、まだ猶予はある。
 アンタは何をどうするつもりだ。



◆  ◇  ◆


 舞台の上の荒野を、黒いヴェールをつけた数人と共に(ひつぎ)が行く。
 悲劇の青年を悼む荘厳な葬送曲が、徐々に淡く消えてゆく。
 緩やかに、気高く、寂寞を残し、
 ──閉幕(カーテンフォール)



 拍手喝采だった熱気が引かない客席で、役者よりも派手な魔貴族たちが優雅に帰り支度をしている。
 フランベルジェは目が腫れたと騒ぎながら楽屋へ飛んでいき、ルナールはよだれを垂らして爆睡しているシャムシールをおぶっていた。
「辛気臭い劇でしたね」
 外套を取りに行っていたパルティータが、戻るやミもフタもない感想を述べてくる。
 ユニヴェールは紅の目を平らにして苦虫を噛んだ。
「せめて劇場を出てから言いなさい」
「きっとあの後で妹姫はお兄さんを吸血鬼にして復讐するんですよ」
「そんな話聞いたことないぞ。いいじゃないか、この事件が元で次男のマーチャーシュがハンガリー国王になれたんだから。評判のいい王だったな。この間死んだが」
「だってその方が面白いじゃないですか」
「ユニヴェール卿〜。どこかで何か食べていきましょうよ〜。お腹がすきました」
 パルティータとルナールの台詞が被る。
「どいつもこいつも……歴史的情緒が理解できない奴等め」
 吸血鬼が二人を睨みつけるとルナールがのけぞり、しかしパルティータは至って真面目な顔で見返してきた。
「ユニヴェールとソテールのおとぼけ珍道中みたいなやつだったらもっと大衆受けしそうですよね」
「…………」



THE END

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