冷笑主義 中編

─ ジェノサイド ─

0. 汝の名は、世界の領主




 人は、影の上に立っている。
 お前が光ある場所にいる時はいつでも、お前は自らの影の上に立っている。
 それが見えない時、お前は闇の中にいる。

 先達に、「前を見て歩け」と言われたことはないか?
 後ろを振り返るなと。
 絶望の淵が迫ろうと、必死に前を向け。
 かすかに見える光を追って、足を止めるな。

 そう言われたことはないか?
 それは正しい。

 闇はいつでもそこにあり、振り返ったお前たちを優しく手招く。
 どこまでもついてくる影は何も言わぬままお前たちを誘う。

 だからこそ人はひたすらに己の道を前へと走るのだ。
 光を追い、神を追い、ある者は冷徹な知性を持って、ある者は情熱的な感性を持って、人間を語り世界を語り、生き抜こうとする。

 足元の影を見ないよう、ひたひたとついてくる闇に呑み込まれぬよう。

 人は闇を欺くために人を欺き光を欺く。
 人はその裏切りの罪ゆえに光に救いを求める。


 ──中世暗黒時代。
 それは罪の深さゆえに絢爛な光で世界を彩った、人と闇と光との駆け引き。
 喧騒と祈りに満ちた華麗なる生死の闘い。
 人々は勝つか負けるかにしのぎを削り、深まる闇を必死で追い払おうとする。

 だが、この世に生まれたその時すでにお前たちは世界に負けているのだよ。
 お前たちは奇跡を勝ち取った。だが同時負けている。
 全員が、だ。
 王も教皇も貴族も姫も、農民も商人も芸術家も詭弁屋も。
 生きる定めを背負わされたその時に、誰もが、栄光をその手に握りしめながら世界に負けているのだ。

 問う。
 それなのにお前たちはこの期に及んで、一体何を恐れる?



◆  ◇  ◆



 春が来た。
 そしてメディチの時代が去った。

 ローマ王マクシミリアン一世の婚約者であったアンヌ・ド・ブルターニュを彼から奪ったフランス王シャルル八世は、1491年、彼女と華々しく結婚した。

 その翌年、1492年。

 春雷が鳴り響く中、フィレンツェの後見人であるロレンツォ・ディ・メディチが、若くしてその生涯を閉じた。
 そして同時、闇夜を切り裂いた稲妻が地上へ走り、フィレンツェの華とも称されるサンタ・マリア・デル・フィーオレ大聖堂の尖塔が閃光に叩かれ砕け落ちた。
 激しい雨音を一瞬にしてかき消したその轟音は、街を揺るがし家々の窓をびりびりと震わせた。

 それはまるで時代の終わりを人々に告げるようであり、終わりと共に来たる新たな始まりへの警告のようでもあり、フィレンツェのみならず諸国がその一報に息を呑んだ。

 メディチの隆盛を望む者も、失墜を望む者も、皆言葉を失った。
 ロレンツォという良くも悪くも偉大であった者の後を継ぐべき者がいないことを、誰もが感じていたのだ。もちろんメディチ家の後継ぎはいる。
 だが、時代の後継ぎはいない。

 全てが終わろうとしていた。
 ロレンツォという巨星が落ち、教皇インノケンティウス八世も、ドイツ国王──神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ三世もすぐにその後を追うだろうと思われていた。
 メディチはこれから興亡を問われる、フランス国王シャルル八世はようやく姉の摂政から脱し自ら意志を持ち始めたところだ。そこに新しい教皇が立つ。そして新皇帝が選ばれる。

 全てが終わろうとし、全てが新しく始まろうとしていた。

 時代の手綱を握るのは誰だ──。

 各国の権力者たちは眼の前に広がる混沌におののき、だがそれぞれに確かな野望を持って口元を引き締めた。
 隙を見せてはいけない。階段を落とされるわけにはいかない。剣を取り、目を光らせ、虚偽と真実を駆使して闘わなくてはならない。

 喪失と混乱と静かな緊張が、音もなく大陸に広がっていった。

 そして瞬く間に全土へ広がったフィレンツェの巨人の死は、もちろんこの男の耳にも入っていた。




「何故私が決して滅びぬか、話したかね?」
「──いえ」
 整えられた銀髪に細面の怜悧な顔、紅の双眸に柔和な口元からのぞく牙。
 祭壇へと祈りを捧げるべき長椅子に、罰当たりにも黒衣の長身を無造作に横たえているその男は、祀られた十字架を冷ややかに見上げる。
「そうか」
 男が今いるその場所はフィレンツェ。
 先日ロレンツォ・ディ・メディチの葬儀が営まれたばかりの、サン・ロレンツォ教会だった。
 白い壮麗なアーチが左右に連なり、だが無駄な装飾は許す限り省かれた、清廉なメディチ家の霊廟。
「あの時貴方は話を逸らしてしまわれた」
「サヴォナローラはどうしている?」
 またも男は話を逸らした。
「相変らずヴァチカンを怒らせるようなことばかり言っています。けれど、彼の言っていることは間違ってはいないと思いますよ」
 男は寝転がった姿勢のまま、やや顔を後ろへ逸らして相手を見やった。
 そこに立っているのは、金髪碧眼の綺麗な顔立ちをした若造。
「あの狂信者をかばうとは、どんな心境の変化だ? ミランドラ伯」
「人間は神にはなれません。けれどそれに近い者にならばなれるのです。しかしそれと同じく人間は獣にもなりうるのです。我々は神によって自由な意志を与えられました。その意志次第で人は良くも悪くもなり、神にも獣にもなるのです。だからこそサヴォナローラの言うように高潔に生きなければならないのですよ。……今の教会は腐っています」
「高潔」
 男は小さく笑った。
「貴方はいつもそうやって鼻で笑いますね、ユニヴェール卿」
 咎めるような口調で言われて、男──シャルロ・ド・ユニヴェールはミランドラから視線を外し、再び祭壇を見上げた。
 六本のロウソクに照らされるはりつけのキリスト像。
「ハインリッヒ(四世)は幼き頃散々諸侯にもて遊ばれ、あげく二人の息子に裏切られた。フリードリッヒ(二世)も息子に裏切られ、そして諸侯にも裏切られた。イングランドはどうだ。私の元に新しいメイドが来た前年、エドワード五世は弟君と共にロンドン塔へ幽閉されたそうだな? 叔父のリチャードによって」
「…………」
「その後の沙汰は何もないが、教えてやろう。彼らはすでに死んでいる」
 ユニヴェールは十字架を見つめたまま続ける。
「カエサルはブルータスとカシウスとに裏切られ、イエスもまたユダに裏切られた」
 燭台の炎が嘲笑うかの如く揺れ、吸血鬼の白皙に落ちた影もあわせて揺れる。
「どれだけ陽光が世界を照らそうとも、どれだけ松明たいまつを並べロウソクに火を灯して夜を遠ざけようとも、人の足下には闇がある。人はそれを見まいと、囚われまいと、ひたすらに前へと走るのだ。時代の濁流に呑まれ闇に落ちまいと背徳を重ね、それゆえ必死に神に祈りゆるしを乞う」
 感慨の欠片も浮かんでいない紅の双眸は、祭壇から離れない。
「それが私の見てきた三百年だ」

 シャルロ・ド・ユニヴェールは、人ではない。
 吸血鬼、しかも陽光を浴びても灰にならず、聖水もサンザシの枝も踏みつけ、ロザリオはへし折り、銀の弾丸は空中でつかみ、銀剣で貫かれてさえ何度でも復活するという、吸血鬼の中の化け物と呼ばれる吸血鬼である。
 そして三百年という長き年月を、時代の影として生きてきた。
 今はパーテルという南フランスの田舎街に屋敷を構え、メイドひとり猫一匹、その他化け物三匹と住んでいる。

「高潔でいられる者などいない、と?」
「そんなことは言わんよ。好きにやるがいい」
 投げやりな言い方だった。
「貴方は──!」
「ミランドラ伯!」
 ミランドラが柳眉を跳ね上げ何か言いかけたそれを遮って、教会の入り口で若者の声がした。
「ジョヴァンニ様(ロレンツォの息子)がお呼びですよ」
「……すぐ行く」
「すぐですよ! お時間があまりないそうですからね!」
「…………」
 ユニヴェールはゆっくりと身を起こし、若者が小走りに消えていった方を見やる。
「今のは?」
 訊くと、
「アカデミーで彫刻をやっているミケランジェロ・ヴォナローティです。色々な知識を吸収したがる若者で、私の話もよく聞いてくれます。将来有望ですよ」
 先ほどの激昂とはうって変わって、柔らかい笑顔でそう言われる。
 ユニヴェールはミランドラを見つめ、彼と同じような、だがわずか背後に含んだ微笑を浮かべた。
「あぁ、アレはきっと良い芸術家になるだろうさ。レオナルドと全く対照のな」
 そして彼は祭壇に向き直り、言う。
「ロレンツォを亡くしたのは惜しかったな。あの男は芸術に明るかった」
「……はい。ですが人の命が尽きるのは仕方のないことです。それに、やがて教皇もお亡くなりになりますよ。サヴォナローラがそう予言しましたから」
 ミランドラの言葉に、ユニヴェールはしばし黙してからつぶやいた。
「……人間は自らの意志で自らを作るのではなかったか」
「そうですが」
「ならば何故予言などができる? 神の啓示がくだる? 人は自らの意志で自らを作りながら、それでもやはり箱庭の中ということだな?」
「神は我々を超越したところに存在しているのです。生と死は神の領分なのですよ」
「…………」
 聞いて、吸血鬼は立ち上がった。
 そしてくるりと身をひるがえし、美しい異端の人文主義者ヒューマニストを見据える。
「生と死は神の領分。なるほどね。だが私が決して滅びぬわけは──」
 彼は言いながら歩を進め、ミランドラとすれ違う。
 ゆったりと流れる動作の全ては、彼がフランス貴族の出身ゆえのこと。
 強大な力の荒さもなければ剣士めいた威圧もなく、だが過ぎた空気は冷たい光の刃の如く、炎が這うような悪寒は教会の温度を零下に下げる。
 靴音が止まった。
 その静寂をテノールが埋める。
「理由はただひとつ。私が神を殺したからだ」
「──は!?」
 予想だにしなかった言葉に、ミランドラは叫んで振り返る。
「…………」
 だがそこにはもう、誰もいなかった。
 入り口へ向けて歩んでいたはずの男の姿は跡形もなく、そこに誰かがいたという熱さえ残っていない。
 シャルロ・ド・ユニヴェールは吸血鬼。
 それは生きる屍。悠久の死人。
「貴方は……」
 始めからこの聖なる場所には、ミランドラ以外、生は存在していない。



◆  ◇  ◆



「黒騎士のベリオールが明日パーテルの屋敷を訪問したいってさ」
 アスカロンはヤル気なく座ったまま、主を見上げた。
「ほう」
 大聖堂の上に腰を落ち着け、月を背負いながらフィレンツェの街を見下ろす主、シャルロ・ド・ユニヴェール。
 ナントカと煙は高いところに昇りたがるとはよく言ったものだ。
「とうとう動き出すか」
 ユニヴェールは黒衣から一通の手紙を取り出し、意味深げに薄笑って眺める。
 どこかの令嬢からの恋文かと見間違うほど上品なそれは、あのネジが外れた若吸血鬼、ロートシルト伯爵からのものだ。
 内容はただ一言。

「Attention.」

 ──気をつけろ。

 色気も味気もない。
 それでも不滅の吸血鬼はニヤリと笑うと、白い手袋の指で自らのあごをつまんだ。
「あまり大人しくしてるとそろそろボケるかもしれんな。そんなことになってあのメイドに馬鹿にされるなら死んだ方がマシだ」
 そして彼はサラリと世界に告げる。
「ひとつ、時代の息の根を止めるとするか」




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