冷笑主義

─ ジェノサイド ─

11.ジェノサイド

GENOCIDE : the murder of a whole race or group of people



 往々にして、終わりというものはあっけない。
 生まれ創られることと終わり滅びることの重さは大して変わらない──あるいは世界に刻み付けられた記憶の分、終わりの方が重い──にもかかわらず、“終わり”はあまりにも軽く空虚に訪れる。

 “不滅の吸血鬼”と呼ばれたそれが地にひざをついたことも、倒れる吸血鬼の身体を受け止めたメイドの細腕、それを静かに掴んだあの男の白い手が、灰色の骨へと姿を変えたことも。
 そしてその骨までもがぱらぱらと先の方から割れてゆき、黒衣と共に青白い炎に包まれ音をたてて崩れ落ちたことも──それが“生きてきた”時間に比べたら、ちりのような時間の出来事だった。
 ぜる音さえなく火は男を包み、黒い魔物は燃え落ちてゆく。
 墓場に漂う鬼火の如く、炎は優しく誘いながら少しづつさらってゆく。
「…………」
 何を警戒してか、ミトラとカリスが盛る妖炎に己の聖剣を突きつけていた。粗悪な土くれ人形のように割れ崩れた吸血鬼の残骸が、炎の中から再び動き出すとでも思っているのか。
「パルティータ」
 ルナールが珍しく表情を何も浮かべない顔で、メイドを数歩退()がらせた。
「──」
 彼女が何か短く口を動かしたが、ソテールの位置からは聞こえない。
 ルナールは彼女の言葉に何も答えなかった。

 骨の、黒衣の、灰までも焼き尽くしてゆく浄化の火炎。
 その炎はフリードが手にしたユニヴェール銘の聖剣、その剣身にもいつの間にか移り、伝い流れているあの男の残り血までもを呑み込んだ。
 灰の一粒、血の一滴、ダンピールの呪われた聖なる力からは逃れられないということなのだろう。

 吸血鬼のすべてが燃え尽きるまで、そう長い時間はかからなかった。
 青い火はちろちろと次第に勢いを弱めてゆき、最後の黒い塊を包んで一際ひときわ大きく揺らめいたかと思うと、消えた。
「…………」
 あの男は、一言ものこさなかった。
 悔いも哄笑も、何一つ。
「…………」
 メイド──だったパルティータが凝視している先には、焦げ目ひとつない赤い染みひとつない平穏な大地が沈黙を守り通している。


「あの人は何をするつもりでしょう」
 カリスが不快そうに目を険しくした。
「真正面から戦ってあぁなのに、この上まだ何か策を弄するつもりでしょうか」
 彼は黒い森を視界の片隅に置いたまま、鋭く四方を見やる。
「……ユニヴェールは死んだな? だが──」
「滅んだかどうかは分かりません」
 盲目のクルースニクの目となってカリスが応えた。
「でしょう? ソテール」
「……どうだろうな」
 問いをふられて、ソテールは曖昧な笑みを浮かべた。
 何もせず立っていたこの身にすとんと落ちた虚ろな空白が本物なら、あの男は滅びたのだ。
 あの男が本来の意味で死んだ三百年前、ソテールの身体を巡ったのは駆り立てられる激情だった。あんな大罪人の抜け殻をヴァチカンに連れ帰るなんて馬鹿げた真似をしたほどに。
 しかし──今度のは違う。
 あの男の指が朽ちて燃え崩れた時、確かに“終わり”を感じた。そして欠落を感じた。
 世界から、ソテール・ヴェルトールの存在理由ががれ落ちた、気がした。
 シャルロ・ド・ユニヴェールが滅びた世界に、ソテール・ヴェルトールは必要ない。
 それでも。
「あの男のことだから、」
(これも手の内なんだろうさ)
 見上げた空の雲は、あれほど重々しく今にも嵐になりそうだったのが嘘のように、渦を巻きながら徐々に晴れてゆく。雲の切れ間から、光の帯が差す。瓦礫がれきとなった町の半分と、所々崩れて未だ砂煙が上がっている町の奥とが光の中に浮かび上がり、人気ひとけの失せた静寂のそれはさながら“最後の審判”の世界だった。
 訪れた終末で天国と地獄とに人々が裁かれた後には、こんな静かで穏かな世界が遺るのだろう。きっと。
 そしてあの男は、そんな壊れた世界を悠然と見物して回るのだ。
「面倒臭くなったから、クレメンティがあきらめた頃に帰ってくるんじゃないか?」
 言った言葉は確信だったか、願望だったか、分からない。
 しかしそこにフリードの押し殺した声が重ねられた。
「帰ってきません」
 皆の目が彼に向けられる。
「帰ってきません」
 フリードがずるずると崩れていき、剣を抱いて座り込んだ。
「あの人の気配がどこにもない。僕は一度だってあの人の気配を感じなかったことなんかない。あの人が首を取られた時も燃やされた時も、あの大きな気配が消えたことなんてなかった」
 無意識に若者の銀髪が左右に揺れ、自分で言った言葉を拒絶している。
「あの人は、必ず世界のどこかにいたんです。雲に隠れていても太陽があるように。夜空に見えなくても月があるように」
「──それが、いないのですか?」
「いない」
 カリスの問いかけに答える声は、か細く小さかった。
「……父上」
 フリードが、初めてそう呼び剣にすがる。肩を震わせ嗚咽おえつを漏らす彼を、なぐさめることが出来る者はいなかった。
 パルティータは吸血鬼がいた場所を睨み据え、ルナールは眉を寄せた哀しげな顔でフリードを見下ろしたまま、微動だにしない。

 ユニヴェール家は長きに渡り血を血であがない、最高の戦鬼であるシャルロ・ド・ユニヴェールを創り出した。そして家は彼に滅ぼされた。もはや“ユニヴェール”の中にはこの男を凌ぐ者が現れるはずなどなかった。
 だがその一方で、“ユニヴェール”の血は子に父を殺させる。それが元々一族が抱えていた狂気の連鎖なのか、力を求めるあまりの背徳から抜け出せなくなっただけなのかは、定かでない。
 しかしつまり。
 最強の血は、ユニヴェールにフリードを殺させる。
 廻り廻る血は、フリードにユニヴェールを殺させる。
 それが“ユニヴェール”だった。
「父上、父上……」
 遺骸すら、灰すら残らないのは、罪科つみとがの重さ故か。あの男が“ユニヴェール”を背負った時から、この終わりは決められていたのか。“ユニヴェール”であったがために。
 ソテールが自失寸前で思っていると、
「ソテール」
 突然、フリードに呼ばれた。
「何だ」
「僕がクルースニクになると決めたのは、皆の言う“大事なものは失ってから気が付く”というやつを試したかったからです」
 弟子がこちらを見ずにぽつりと言う。
「……ユニヴェールを滅ぼして、父親を失ってみて、自分が何を感じるか試してみたかったのか?」
「失ってみれば、あの人が僕にとって何なのか、分かると思ったんです」
「分かったか?」
「分かりました」
「……そうか」
 人ならば、いびつな闇がないわけがない。
 さといこの子どもが隠した闇を、誰かが見つけなければいけなかった。しかし神に仕える者たちはおろかソテール・ヴェルトールも、見つけることができなかった。利害を相手にし過ぎて、魔物を相手にし過ぎて、人を忘れていた。
「“失った時にはもう遅い”──それも本当だと分かりました」
 乾いた砂の上にぽつぽつと増えてゆく、こぼれた涙の跡。
「本当にもう遅い。……けれど、これは僕が決めたことなんです」
 剣を抱いていた片方の手が地に降ろされ、ぎゅっと砂を握り締める。カランと剣が倒れた。
「父は僕を息子だと言ってくれて、クルースニクだとも認めてくれました。だから僕は、……だから僕は──」
 フリードが声を詰まらせた。彼はしばし置いて再び言い直そうと口を開く。
「だから、だから──」
「もういい、フリード」
 母親から譲り受けた温和な性格が、罪悪感となって彼にし掛かっているのだ。懸命に自分を弁護しなければ、自分でいられないほどに。
「分かっているから、何も言わなくていい」
 ソテールの右目から涙が一筋伝う。

 誰かが、神を証明しなければならなかった。誰かが、ユニヴェールを滅ぼさなければならなかった。誰かが人々の支えである神を護らなければならなかった。世界を夢見続けさせなければならなかった。
 それが永遠なるクルースニクの道を選んだ者の使命であり、デュランダルを縛る鎖。
 それが美しく緩慢に酔った世界の──神秘をぎ取られた姿なのだ。
 虚ろな努力と癒えない痛みで満ちている。
(…………)
 祈る気さえ、しなかった。

「そうか、ようやく滅んだか。さすがはダンピール」
 風に吹かれながら、ミトラが淡白につぶやく。
「ソテールも我々も、三百年どうにもできなかったものを」
 その声音には、幾分の感慨も含まれていなかった。それどころかまるで改めて気を入れ直したような鋭ささえあって──、突然クルースニクの長は指笛を吹いた。
 カリスが聖剣を低く握り直す。乱れた金髪の下、凍えた視線は膝をついているフリードの足元あたりで静止。
(……?)
 ソテールがふたりの動きを怪訝に思った時、その向こうでルナールが黒い森に目をやるのが見えた。眉をひそめてソテールも同じ方を見やる。
(…………)
 小さな地鳴りが聞こえた。暗黒都市へと通じているとされる黒い森の奥から、それはだんだんこちらへと近付いて来る。
 ソテールも言う事を聞かない身体にムチ打って、剣を構えた。
(……何が来る)
 カリスの目は一瞬たりとも動かない。
 ルナールがパルティータの腕をひっぱりながら、じわじわと後退りしている。
(何が来る)
 闇に閉ざされた森の中で、何かがキラリと光った。銀色の光。
(──甲冑!)
 ソテールが胸中で叫んだ瞬間地響きを轟かせて森から現れたのは、美しい白馬を疾駆させ、白銀の甲冑で陽光を反射するパーテルの聖騎士団だった。
 近郊の者もいるのだろう、総勢数百名という、白の大軍勢。
「パルティータ!」
 ルナールが怒鳴って灰色女の手を引いた。
 主が消えた場所を睨み続けていた女は、ミトラとカリスを一瞥いちべつすると身をひるがえす。
 聖騎士団の先頭を走ってきたのは、乗り手のいない白馬。それは真っ直ぐミトラの元へと駆けて来る。そして馬と飼い主がすれ違う瞬間、男はしっかり手綱を握り馬の背にひらりと飛び乗った。白い残像が目に焼け付く。

 ソテールとフリードの間、フリードとカリスの間。次から次へと馬が通り過ぎ、顔の見えない白い騎士たちが通り過ぎる。
 ミトラを先頭に、ルナールとパルティータを追っているのか?

「お前がどこにいても、私には分かる」
 馬上でミトラが言った。
 走るルナールとパルティータの横にぴたりと並び、彼は馬を駆る。
 ルナールがミトラとは反対側にパルティータをやると、新手の白馬がパルティータの横につく。
 ふたりは、挟まれた。
 剣士が最後の手段と馬の足を斬り付けようとすれば、ミトラは大きく馬を離す。
「目が見えないってのに、厄介なかんを持ってるんだから」
 ルナールが不機嫌に舌打ち。
「──おい!」
 クルースニクが後方に何事か告げると、彼を追っていた聖騎士団のひとりが進み出て彼に銀槍を渡すとまた集団に紛れてゆく。
「馬上の槍と地上の剣では戦いにならんことくらい、ホーエンシュタウフェンなら分かっているな?」
 突き下ろされた穂先は逃げ走るルナールの腕にぴたりと定められ。
「パルティータを護ったところでお前には何の得もあるまい」
「僕の名前は──“ルナール”と言うんです!」
 穂先を払いのけ、突如ルナールは疾走を止めた。慣性に引かれて土の上を滑りながら、体勢を逆に変え、パルティータがコケる前に思いっきり彼女をこちらに引っ張る。
 そして彼は黒衣をひらめかせ逆走を開始した。
「無駄よ」
 パルティータがいつも通りの平坦な声音で言ってくる。
「僕は卿がおっしゃったとおりにします。足掻あがくんですよ」
 言い返すと、彼女は低く笑う。
「彼らは私を殺さないわ。──今は」
「そりゃ良かったですね」



(動けない)
 前も後ろも馬馬馬。ソテールは唖然としたまま、砂埃をたて猛然と過ぎてゆく彼らを見送った。
 襲歩ギャロップの大群が巻き上げる土色の煙のせいで視界が悪い。砂塵が口の中にまで入り込み、咳が出る。甲冑の跳ね重なる優美な音が戦場に小さく響く。
(たかが女ひとり、こんなにムキにならなくてもいいだろうに)
 宗教的な狂気さえまとう壮観な聖騎士たちの軍勢にため息をつき、もとの場所へと視線を移したその瞬間──、
「フリード!!」
 轟音にかき消される中、ソテール・ヴェルトールは色を失くしてその名を呼んだ。心の底から。

 一瞬の白馬の切れ間。

 一気に踏み込んだカリスが、うずくまりうなだれたままのダンピールに聖剣を突き立てていた。



 人と馬では速さが違う。
 すぐに追いついてきた神の傭兵たち。
 ルナールとパルティータのつなぎ目を外そうとするが如く、ふたりを挟む二頭の間にもう一頭が突っ込んでくる。両横の白馬は剣も振れないほどに幅を狭め、パルティータ側の聖騎士は時折手を伸ばして彼女を捕まえようとする。
「こんな奴らに都合よく殺られてやるつもりはないからね」
 セーニがセーニの顔で小さく笑った。
「パルティータ!」
 黒い剣士のそれは悲鳴だったかもしれない。



「フリード!!」
 喉が裂けんばかりに絶叫した光のクルースニクに、過ぎゆく白馬の合い間から、顔を上げたカリスが冷ややかな顔を寄越してくる。生者たるべきすべてを殺した石膏せっこうの顔。
 フリードの背から剣を引き抜いたその男は、とどめを刺すべく刃を振り上げる。
 咄嗟のことにワケが分からずただ目を見開き血を吐く弟子に、ソテールは渾身こんしんの力を振り絞ってえた。
「父親との約束だろう! 生きろ!」



 ルナールとパルティータ、ふたりの手が離れた。
 つながれていた場所を正義の馬が断ち切った。
 足を止め身を低くしてやり過ごそうとしたセーニの行動を読み、大きくあぶみから身をずらした聖騎士が彼女の腕をがしっと掴む。騎士が半ば引きずるようにしてパルティータを馬上に引き上げた。その途端に三頭は拡散し、ルナールを引き離すとまた集まる。そしてミトラがセーニを受け取り、自分の前に抱え込んだ。

「ヴァチカンにお戻りいただきます。パルティータ・ディ・セーニ」
「…………」
 そのままクルースニクの長は両眼を覆う緋色の布を翻し、数人のパーテル聖騎士を従えて戦場を抜けていく。
 一路、ローマへ。



 刃と刃が衝突する高い音。
 蒼い目を爛々(らんらん)と輝かせたフリードが、声に応えて斜めに斬り上げカリスの剣を止めていた。折れていない方の片手だけで、止めている。鮮血が拡がる己の白外套には目もくれず、若者はゆらりと立ち上がった。
(傷つけられて“魔”が目覚めたか……?)
 ソテールは全身体能力を使って地を蹴った。フリードの助けに入る事を妨げていた馬の列を前転しながら飛び越える。
 着地するや否や剣を抜きつつ振り返り、カリスが振り下ろした剣と火花を交わす。
 カリスの背後で、フリードが剣を斜めにごうとするのが見えた。
 その後ろで、横切る列最後尾の聖騎士が剣を地面と平行に振りかぶるのが見えた。
「──!!」
 悲鳴は音にならなかった。
 その瞬間、馬の速度も加わった銀の剣が、ダンピールの首をねていた。
「フリード」
 鮮血がほとばし飛沫しぶきが飛ぶが、ソテールの視界は白い。
 起こった事に頭がついていかない。
「フリード」
 若い弟子の残された身体がどさりと地に落ちる。離された頭が地に落下する。
 ソテールの耳元では、“だから連れてくるなと”、“だからクルースニクには向かないと”、“だから戦場は合わない奴だと”……、いくつもの声が重なり繰り返された。地獄の池から湧き出る亡霊たちのように。その口より発せられる呪詛のように。
「フリード」
 駆け寄ることもできない。何も考えられない。
(──嘘だ)
「さすが貴方は、聖騎士ながらに化け物の始末の仕方をご存じでいらっしゃる」
 意志をなくしたソテールの剣を邪険に払って、カリスが馬上を仰ぐ。
「レネック隊長」
 剣の血糊もそのままに、馬を止めかぶとを脱いだ青銀色の髪の男が小さく一礼した。



「……カリス」
 ソテールが言葉を取り戻した時、そのクルースニクはふところから小瓶を取り出し、フリード・テレストルの遺体に香油をかけ始めていた。
「“クルースニク・ユニヴェール”が“魔”を見せた時、彼を始末するのはヴェルトールの仕事だったように思うが」
 そう言えたのは、全てを閉め出したからに他ならない。後で倍以上の血涙を流すことになるのを覚悟して、精神を麻痺させたのだ。
「──火を」
 罪のおののきひとつない顔で、カリスが馬上の聖騎士団に向かって言う。異様な威圧感を発している彼らは、いつの間にかフリード、ソテール、カリスを中心に据え、同心円状に整列していた。
「……カリス」
 ソテールの声を無視して、奥の方から松明を持った騎士が進み出るとカリスに渡す。神父は静かに受け取り、厳かに聖印を切るやフリードに火を放つ。
 横たわる若者の上をぱっと炎が走り、一気にその身体を包んだ。
「彼は優秀なユニヴェール始末人ではありましたが、一方で我々にとって人々にとって……ヴァチカンにとって、脅威でした。いつ父親のようなとんでもない魔物に豹変するか分からない。そんな化け物を生かしておくわけにはいきません」
 魔物を滅ぼす証である白外套に火が移り、高々と燃えてゆく。血の気をうしなった白い手が火炎にあぶられ色を変えてゆく。
 首を断たれ大きく見開かれたままのフリードの蒼眸が、炎の中でじっと虚空を見つめている。硝子のようなそれに、雲の晴れた青い空と無情な赤い炎とを映して。
「…………」
 ソテールは息を止めて目を逸らした。そこにカリスの声が続く。
「彼は、クルースニクではなかったのです」
 空気が焼かれ、揺れる。
 熱された風が、顔を火照らせる。唇が乾き、頬が焼ける。目が痛い。
「彼は、血が大幅に薄れたとはいえ“ユニヴェール”の正統な継承者でした」
「それは分かっている」
 ダンピールを焼き払う聖なる炎を挟み、ふたりの視線がぶつかった。
「殺すのはヴェルトールの役目だ」
「ヴェルトール。貴方はそれが嫌で家名をお捨てになったのではありませんでしたか? ソテール・ヴェルトール隊長」
「…………」
 取り巻く騎士団から凍てついた殺気を感じ、ソテールは剣を腰で構えた。
「貴方にフリードを始末させなかったのは、もはや貴方が我々側の人間ではないからですよ」
 カリスの言葉と共に、聖騎士団の槍の穂先がザッと音を立ててソテールの方を向く。
「聖であれ魔であれ、強すぎる力を持つことは身を滅ぼす元となる。つまり──どちらの都市も飼い犬が強くなりすぎて頭を抱えていたのです。手を噛まれたら飼い主自身が一気に瓦解がかいしてしまうだろうほどに、犬は強くなり過ぎた。……そう、暗黒都市もヴァチカンも、もう化け物はいらないと言っています」

──そういうことか。

「不滅の吸血鬼:シャルロ・ド・ユニヴェール、光のクルースニク:ソテール・ヴェルトール、魔のダンピール:フリード・テレストル、そしてヴァチカンをいつまでも呪縛し続けるセーニ。世を脅かすこの化け物たちを一掃するため、クレメンティ卿が編んだこの任務」
 冬木の如く凛と立つ金髪のクルースニクの後ろに、世界が見えた。
 白く気高いヴァチカンと、闇に艶美な暗黒都市。化け物たちを裏切った光と影の二大都市。それは世界がどちらを欠くことも出来ない双子の牙城。
「ユニヴェールは滅び、フリードも死に、パルティータはユニヴェールにくみした魔女として処刑されるでしょう。残るは貴方だけです」
「“ユニヴェールが滅んだ、あぁやれやれ”って俺が地下墓地グロッタで眠ったところを殺るのが一番手っ取り早いんじゃないか?」
「ユニヴェールが滅び、フリードが殺され、それでも貴方はヴァチカンに戻る気があるのですか?」
「ないね」
「でしょう?」
 カリスの剣が天に掲げられた。彼の薄い唇が息を吸う。
 そして、
「──れ!」
光あれ(フィアット・ルクス)!」
 声は同時、天上から光の槍が降り注ぎ、聖騎士たちが地鳴りを轟かせた。

(俺は生身の人間だぞ)
 罵りながら鋭く一回転して槍の雨を薙ぎ払う。
 低く地を転がり、フリードのそばに落ちていたユニヴェール銘の剣を拾った。
 瞬間頬をかすめる剣圧。
 目をあげればカリス。
 笑う間など与えず下から突いてやる。
「──!」
 耳にはうめき声、引き抜いた剣には鮮血、だが致命傷か否かなど気にしているヒマはない。
 なだれ込んでくる騎士の群れをだたひたすらに自分の足と二振の剣で駆け抜ける。
 槍を折り、馬の足をすり抜け、右で払い、左で斬る。
 肩を突き刺されれば槍ごと騎士を落とし、地を蹴り馬上を跳んで騎士の首を刎ねる。
 鮮やかな噴血に全てが染まる。
 吐き気を呼ぶ鉄錆びの匂いをのせた風が吹き抜ける。
(……やってることはユニヴェールと変わらない……)
 違うのは全然楽しくないことだけだろう。
(──どこへ逃げる。──知るか)
 ローマはもはや、彼の帰る場所ではない。
(──逃げる? 何故逃げる)
光あれ(フィアット・ルクス)!」
 ヴェルトールの命に応えて天から光槍の驟雨しゅううが降る。
 背中から頭から、光に貫かれ絶命した騎士たちがばらばらと馬から落ちていく。

 光は、剣を遥かに凌ぐ無作法な殺傷兵器だ。神はこれをもって罪人を断ぜよとヴェルトールに命じたのか。
 それゆえに、光と影の釣り合いを保とうとする世界は、ユニヴェールに闇を与えたのか。
 ならば、真の罪人は誰だ。
 人々を裏切り続けているのは誰だ。

「!」
 避け切れなかった槍が、斜め上から脇腹に深く刺さった。
 息が止まり、身体が硬直する。
(動け!)
 止まれば蜂の巣になるのは必然。
 ほら、背中にまでまた一撃。
「イーダ! イーダ!」
 声の限り呼んだそれは愛馬の名だった。
 叫び走り疲れたソテールの声は枯れ果てて、この地響きの中どこまで届いたか知れない。

 馬上から振り下ろされる剣。突き出される槍。
 身をひねってかわした時に気がついた。
 外套が赤い。ついでに重い。
 幾多の魔を斬り裂いてきた百戦錬磨の聖剣も、鈍ってきた。
 上体を低くすればそのまま倒れかねない。
(馬に踏まれて死ぬのはごめんだ)
 眼前に突き出された槍を一閃し、もつれる足を叱咤してひたすらに走る。
 と、彼の行く手を主のいない白馬が遮った。
「イーダ」
 これが最後だと身体をなだめ、弧を描く跳躍。赤く染まった外套が鮮烈な色を見せて翻り、彼は馬の背にまたがるや否や腹を蹴った。
 下を攻撃するために穂先を下に向けていた騎士たちは慌てて、構え直す。
 一瞬乱れた白の波間を白馬はかき分けるように突き進む。
 ソテールは二剣を振り回し、鎧の合い間の頚部けいぶを狙って次々騎士を落としてゆく。
 むせかえるような血臭が再び戦場を覆った。

「──抜けた」
 突如広がる町の空間。
 緩やかな斜面に沿って造られた、のどかな町。黄昏の一歩手前、一段と濃い金色の光に染められて、遠くに流れる川の水面がキラキラと輝いている。森に帰る鳥の影がぽつぽつとのんびり横切ってゆく。
 町は静かだった。
 だが、眺望を愛でている時間はなかった。
「……逃げるぞ」
 ソテールが再び馬の腹を蹴ると、白馬は矢のように走り出す。
 数瞬遅れ、聖騎士の軍勢が白い濁流となって町に雪崩れ込む。
 入り組んだ石の町並みを、右へ左へ流れは分岐し合流し獲物を探してうねり狂う。
 固いひづけの音は迫り遠退き、迷宮の中で反響し、町全てを支配する。
「──どこに行った!」
「路地を探せ!」
「町を包囲しろ!」
「生かして出すな!」



◆  ◇  ◆



 滅ぼすべき相手ももういない。教えるべき弟子もいない。
 そのうえ、二度も“ユニヴェール”の死を許してしまった。三百年前のシャルロ。そして今度のフリード。
「何がヴェルトールだ」
 結局何一つ護れていない。シャルロ・ド・ユニヴェールも滅ぼせなかった。それどころかフリードに父親を滅ぼさせた。その時自分は何をしていた。ただ立っていた。クルースニクの血が、それでユニヴェールは滅びるのだからと冷静に言っていた。
 彼は人である前に、クルースニクだった。
「確かに、化け物だ」
 石壁を叩いてみても、痛みを感じない。
 身体のあちこちから生命の源である血液が流れ出しているが、その痛みもない。
(これが“絶望”か?)
 喉の奥から込み上げてくる鉄臭い血の熱さが、無性に愛しい。
 家と家との狭い隙間に座り込んだ彼は、切り取られた空を見上げた。だんだん視界がかすんでくる。奥に押し込めた愛馬が鼻を寄せてくるが、撫でてやるために手を上げるのがひどく億劫で動かせない。
 一応空樽を路地側に積んでみたが、見つかるのは時間の問題だろう。
(眠い)
 痛みはないが眠かった。ひたすら眠かった。ここで眠ったら死ぬんだとは分かっているのだが、眠いものは眠い。しかし三百年も生身で生きたのだ、ユニヴェールとて文句は言うまい。
おやすみ(ヴォナノッテ)、フリード。おやすみ(ボンヌ ニュイ)、シャルロ)
 彼は微かに笑ってゆっくりと目を閉じる。
 だが柔らかな眠りに引き込まれようとしたその時──、
「ソテール・ヴェルトール、デュランダル隊長でいらっしゃいますね?」
 死にかけたソテールの上に影が降り、若い女の声がした。
(──女?)
「…………」
 声を出せず顔だけそちらに向けると、落陽の光を背負った聖騎士が兜を脱いだ。
 窮屈な中から解放された豊かな金髪が揺れる。
 彼女は言った。
「わたくしはパーテルの聖騎士、ヴィスタロッサと申します。レネック邸に貴方をかくまうよう仰せつかりまして参りました」
(あぁ、……そうかい)
 彼女の言葉の意味がロクに理解できない。
 ヴィスタロッサ、レネック、匿う……?
(……もう、一度……)
 訊き返そうとするが、眠気の前に世界が薄れていく。
「ヴェルトール隊長?」
 女の顔さえ見えない。
 寒い。
「ヴェルトール隊長!」
(また、後でな……)
 そのまま、ソテールの意識は混濁した闇に滑り落ちていった。




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