冷笑主義

─ ジェノサイド ─

6.吸血鬼ユニヴェール



 ソテールに聞こえていたのは、耳元を過ぎる風の音だけだった。
 追いかけてくるフランス騎兵のひづめの音など耳に入らない。

 彼は友の遺体を抱え、表情なく白馬を駆っていた。
 ひたすら前へ、前へ。乾いた大地と褪せた木々の荒野を疾走する。
 潮風が彼の黒髪をさらい、陽光を反射する白い外套が音をたてて翻る。
 何か考えがあったわけではない。ただあの場所から──そしてフランスから── 一刻も早くこの男を遠ざけたいと、そう思ったのだ。
「戻ってこなければ墓に閉じ込めると言ったろう」
 彼は、自分が何を言っているのかもよく分かっていなかった。
「特別に選ばせてやる。お前はどこで眠りたい。“ユニヴェール”の墓か? それともフランスのどこかか? ローマか? ──歴代の教皇たちと地下墓地グロッタなんてのも最高だろうよ」
 どこへ行くべきで、何をすべきなのかも分からなかった。
 ソテールはローマで生まれてローマで育ち、故郷はローマしかない。
 だからなのだろうか、彼が知らず向かっていたのはローマだった。

 けれど彼の故郷は、インノケンティウス命令でユニヴェールをその地に入れることを拒んだ。
 そして追いかけてきたフランス兵は教皇庁に事の顛末てんまつを説明し、ユニヴェールを引き渡すように迫った。
 ソテールはローマ以外に帰る場所を知らない。
 挟まれたまま、馬上から険しい視線を双方に投げていた。
 それから数時間後、フランス兵は有無を言わさず追い返され、一方ソテールとユニヴェールはローマに入ることを許された。
「シャルロの破門は解かない。けれど彼は死してなお“ユニヴェール”の主。歴代の者と同じく化け物となりかねないから、我らの手でしかるべき埋葬をする」
 馬から降り、ラテラノ宮でベルディーニ枢機卿にそう告げられたソテールは無論納得するはずもなく、友を抱えたまま外へと飛び出した。
 しかし愛馬を探し駆けたその足はすぐ止まる。

「ソテール」
「──猊下げいか

 緋色の枢機卿を数人従えて、クルースニクの前に立ちはだかった者。
 それは輝かしい教皇衣をまとった世界の支配者、インノケンティウス三世その人に他ならなかった。
「お前は、錯乱している。自分で分かるな」
 ソテールは久しぶりにその人物を前にして、かつて──かつて、ユニヴェールがインノケンティウスを指して“あの男はコンスタンティヌス帝に似ている”そうしみじみつぶやいていたのを思い出した。
 コンスタンティヌス。その皇帝は恐ろしく冷酷に権力を追い求める者だった。彼はキリスト教を迫害こそしなかったが、それはただ統治に利用できたからだ。彼はその代わり、目障りとなった親族は容赦なく殺した。従兄弟であろうと、妻であろうと。
 彼は純粋な支配者だった。
「シャルロ・ド・ユニヴェールは天に召された」
 召されてなどいない。あの男は自ら乗り込んでいったのだ。
「もはや我々には、彼を相応に葬るしか何も出来ないのだよ」
 ソテールは、この男が教皇位に就いた時のことを覚えている。
 まだ子供ではあったが、はっきりと。
 枢機卿団中最年少。パリ、そしてボローニアという最高峰の大学で学んだ才人。意志強固な顔つきに、嘘さえ真実に変えてしまうかのような弁舌。
 そんな男が頭上に載せた冠は、かつての教皇たちが載せた白孔雀の冠ではなく、煌めく宝玉が所狭しと散りばめられた王冠だった。
 ラテラノ宮へ向かう“教皇の道”。新しい教皇は目に鮮やかな緋色の布で飾られた美しい白馬に乗り、花輪咲く市街地を騎馬隊と共に過ぎて行った。
 あの時、皆が感じていたはずだ。座に据えた枢機卿たちもそれを期待していたのかもしれない。
 この教皇は世界の王となる、と。
「お前には地下謹慎を命じる、ソテール。休息が必要だよ、静かな休息が」
 憎らしいほど白い石畳。へたりこんだクルースニクは、顔色ひとつ変えない傍らの友を見下ろし、それから教皇を見上げた。
「お前が彼を手にかけずに済んだことこそ、神の慈悲」
 佇む教皇の姿が太陽に重なり、逆光で表情が見えなくなる。
 けれど分かっていた。
 この男の灰色の目には、支配すべき世界以外何も映っていないのだと。
「連れて行きなさい」
 その一言で枢機卿たちが恭しく腰を折り、ひとりはユニヴェールを拾い上げ、ふたりはソテールの腕を取る。
「またあとで、ソテール」
「…………」

 皆の予想どおり、この男は君臨した。
 大憲章マグナ・カルタに激怒しイングランド全土を破門してしまうほどに、強力な教皇となった。
 異端アルビジョワ根絶のためならば、どれだけ血が流れようが顔色ひとつ変えなかった。いや、むしろ血の粛清を使命とした。崇高なる目的のため、彼の聖なる軍には敵の皆殺しが命じられた。
 教皇とは神の使徒にすぎない。
 だが、彼は地上の神であった。



◆  ◇  ◆


主よ、(レクイエム)永遠の安息を(エーテムナム)彼らに(ドーナー)与えたまえ(エイス ドミネ)、絶えざる光(エト ルークス)を彼らに(ペルペトゥア)照らしたまえ(ルーケアト エイース)


 雲ひとつない蒼天の日。
 ローマの郊外小さな森の中には、細い唱和が響いていた。とても遠慮がちに。
 土をかぶせられてゆくひつぎの中で眠っているのは、破門された者。
 そのような者を教会が埋葬するなど異例ではあったが、仕方なかった。

主よ、(テー デケト)シオン(ヒュムタス)にて賛(デウス)歌を捧げ(イン シオン)エルサレ(エト ティビ)ムにて(レッデートゥル)誓いを(ウォートゥム)果たさん(イン イェルサレム)

 立ち会ったのは数名の枢機卿と三名のクルースニク。
 教皇の厳命により、最も近しい者は参列していなかった。彼は独り地下に残されていた。

われらが(エクサウディー)願いを聞き入(オーラーティオーネム)れたまえ(メアム)すべての(アド テー)肉体は御(オムニス)許へと至らん(ウェニエト)

 誰が気付いただろう。
 白い女の手が、柩を覆ってゆく柔らかな土の中に小さな鍵を混ぜ入れたことを。
 柩を何重にも縛る銀の鎖。その鍵を忍ばせたことを。

主よ、(レクイエム)永遠の安息(エーテムナム)を彼らに与え(ドーナー エイス)たまえ(ドミネ)絶えざる(エト ルークス)光を彼(ペルペトゥア)らに照らし(ルーケアト)たまえ(エイース)

 形式的に歌われる悼みの声は誰に聞かれることもなく、その墓地を囲む全ての景色は重く沈黙していた。
 頭上に広がる美しい蒼空とは対照的に。



◆  ◇  ◆



 ── 一年後。


 太陽が地上を焦がす酷暑。インノケンティウス三世はローマから離れ、山岳の都市ペルージアで療養していた。
 時折“死”が彼の床をのぞいたが、彼はそれをことごとく追い払った。
 彼にできないことなどないのだ。
 全ての王侯、皇帝の位を授けるのが彼ならば、それを廃するのも彼。逆らえば礼拝や洗礼などの一切を禁止する「聖務停止処分」で国家に介入し、容赦なく伝家の宝刀「破門」を抜く。
 彼はかつてコンスタンティヌス帝が行なったように、カトリックをもって、そして流されたおびただしい血をもって、強大な国家を築くことに成功した。国王を、そして皇帝をも従える教会国家を創り上げた。

 誰も──そう、誰も。もはや彼の前には立てぬ。

 彼が小さな笑みを浮かべて夜の眠りにつこうとまぶたを閉じた時、天蓋てんがいの向こうで低い声が何事か囁いているのが聞こえた。
「Sanctus, Sanctus, Sanctus, Dominus Deus Sabaoth.」
 外には、黙認の愛妾である女がひとり控えているだけのはずだった。
 しかし聖なる式文を唱える声は男のもの。
「Pleni sunt caeli et terra gloria tua. Hosanna in excelsis.」

「誰かいるのか!」
 痛む身体を無理矢理起こし、教皇は天蓋を荒々しく開けた。
 声が止む。
 と同時、教皇は目を見張った。
「──貴様! ──ッ!」
 怒りのあまり言葉が続かない。
 彼の視線の先に女はいた。
 だがもうひとり、やはり男が入り込んでいた。
 青い月明かりの中、佇む女は男の首に両手をまわし、男は女の腰を軽く抱き、彼女の首筋に顔を埋めている。静かに、だが執拗に濃く、口付けを落としていた。
「Benedictus qui venit in nomine Domini. Hosanna, in excelsis.」
 神を称える言葉を睦言むつごとのように紡ぎながら。
「貴様その女が何か知っているか! 私が誰か知っていてのことか!」
 宮殿を揺るがすほどに怒鳴れば、
「──知っているか、だと? あぁ、よく知っている。知りすぎるほどに存じ上げておりますよ、猊下(げいか)
 男が女の肌からゆっくりと顔を上げ、言う。そしてそのまま今度は女の唇をついばむ。
 熱に浮かされたような女の吐息、濡れた音が隠されもせず響いた。
 だが男の背中はこちらを向いているため、肝心の顔が分からない。
「誰かいないのか! この男をつまみ出せ!」
 教皇は自らそのふてぶてしい侵入者を捕まえてやろうと寝台の上でもがいた。あまり言うことをきかない足をどうにか動かし──はたと動きを止める。
 夜の影となり絡みあう男女の間に、いくつかの水滴がぽつぽつと床に散っていたのだ。今日は鬱陶しいほどの晴天だったから雨漏りのはずもない。
「…………」
 インノケンティウスは徐々に広がってゆく水溜まりを凝視した。
 時を置かず漂ってくる生臭く錆びた風。
「……血、か?」
 流れの源を視線で追えば、愛妾の首筋に行き当たる。
 男の口付けをねだる女の艶やかな肌が、ぬめりをもった黒に染まっていた。これが陽光のもとであったら、鮮やかな紅だったのかもしれない。卒倒するほどの。
「お前は──……」
「もうそろそろ、貴様の時代は終わりにしてもいい頃だろう。フリードリッヒは鳥カゴから出るべきだ」
 男が女の唇を解放し、言った。
 女は不満げに喉の奥でく。甘い熱を求める。
 しかし、
「もう貴女に用は無い。どうもごちそうさま」
 黒い影は理性だけの台詞を言い放ち、女のすがる手をやんわりと振りほどいた。
 そして、指をぱちんと鳴らす。
 同時にドサリと音がして、糸を切られた操り人形の如く女が崩れ落ちた。
「同族にはしませんよ。面倒くさいので」
「…………」
 月の光にぼんやりと輝いている白い石床。ゆるゆると血溜まりが広がっていった。女の身体はぴくりとも動かず、教皇が唖然と目を見張っていると、ふいに男が黒衣を翻しこちらを向く。
 ……目があった。
「お前はユニ……ッ!」
 教皇は叫ぼうとしたが、後ろから何者かの手に口をふさがれ語尾は意味をなさないうめき声に変わる。逃れようともがけど、所詮老いた者の足掻き、空しく終わる。
 半ば放心状態で見下ろせば、その何者かの手は月光を受け付けぬ黒い色だった。眼前に立っている男の黒衣と同じ、光を呑み込む闇の色。

 ──影だ。

 彼は直感でそう思った。
 夜によって月によってこの部屋、いやこの世界至る所に創られた影が、この男の命令で私を押さえつけているのだ、と。
「ご機嫌麗しく、猊下」
 口端についた女の血を、立てた人差し指でぴっと払い、男が笑う。
 そして切れ目の無い優美な動作で両手を広げてきた。
「何故、と? 杭も打った、首と胴は離した、その間に聖剣を置き、柩の中はさんざしの枝で埋めた、聖水をふりまき、ロザリオを握らせ、柩は銀の鎖で幾重にも縛った。──なのに何故私がここにいるのかと、おっしゃりたい。そうでしょう」
 衰えたとはいえ、その全身全霊をもって世界を屈服させた男。
 インノケンティウスは何一つ反応せず、冷ややかに道化を見据えた。
 だが相手は教皇の視線などどこ吹く風、一拍置いて告げてくる。
「何故か。それは私が“ユニヴェール”だからです。そしてシャルロ・ド・ユニヴェールだからです」
 付け加えはごく軽く。
「あぁ、神も殺しましたがね」
「──!?」
 インノケンティウスが思わず息を止めれば、男の紅の双眸が嬉しそうに三日月を描く。
「比喩に過ぎませんよ。そう、ただの比喩に過ぎない。けれどそれが私にとって何を意味するかはお分かりですね?」
 シャルロ・ド・ユニヴェール。
 それは一年前に死んだ男の名だった。
 今、眼の前に立っている男の名だった。
 忌まわしきユニヴェール家、最後の主。
「神を殺した私には──」
 ユニヴェールが黒衣の胸元に手を入れ、銀色の物体を取り出した。
 白く細い指でもてあそばれているそれは、インノケンティウスの愛妾がいつもつけていたロザリオ。
 男は聖なる十字に軽く口付けをして、微笑む。
「“聖なる”などという言葉は無意味だということです」
 ロザリオが真っ直ぐな軌跡で床に落ちてゆき、だが音はしなかった。
 銀は広がる血の池に浮かび、そしてゆっくりと紅に侵食されて沈んでゆく。
「Sanctus, Sanctus, Sanctus. 私を護る神も、私を哀れむ神も、私に怒りの裁きを加える神も、私を救う神も、もはや存在しない。死して、そして神を殺した私は、この世界の外にいる」
 冴えた銀の髪、魔物の証である紅の目、通った鼻梁、鋭さを増した蒼白い相貌。
 生前白いコートを羽織っていた長身を今包むのは、白いタイの映える漆黒の外套。
 口元からのぞくのは、牙。

 ──生ける屍、吸血鬼。

 血の臭いが一層濃くなった気がした。

主よ、(ピエタ)我らを哀れみたまえ(スィニョーレ)
 インノケンティウスは目を閉じ、天を仰ぎ、聖印を切った。
 「敗北」の文字が暗い眼前に駆け巡る。
 十字軍が失敗し、コンスタンティノープル略奪を引き起こした時でさえそうは思わなかったものを、この男を眼の前にしてはっきりとそれを悟ってしまった。
 ここまできて、敗北。
 底のない穴へ放り出されたような転落感が彼を襲った。
 生まれて初めて、真実神にすがった。
「“ヴェルトール”が光であるように、おそらくは“ユニヴェール”はその対極、闇であったのだよ。歴代も薄々気付いてはいただろうが、確信には至らなかった。なぜなら彼らは私ほどに完成された“ユニヴェール”ではなかった。彼らは、どうしても神を殺せなかった。信じることを止めることは、できなかった」
 コツコツと靴音を響かせてこちらにやって来ながら、男は再び指を鳴らす。
「あれだけやっても光など扱えなかったものを、闇は意のまま」
 ユニヴェールのつぶやきに似た嘆息。
 だがインノケンティウスにそんなものは聞こえていなかった。この世で最も高い場所に君臨する老人は、波の如く押し寄せる戦慄をひた隠しにしながら横を見る。
「…………」
 彼の萎えた肩のすぐ脇を、天から降った闇の槍が刺し貫いていた。
 寝台を貫通している。
「皮肉なものだろう?」
「…………」
 うめく気にもなれなかった。
「神の審判から人々をお救いになる救世主は、私からも人々を救うことができるだろうかね」
 そして教皇はようやく気が付いた。
 この吸血鬼の目の中には、憎悪や復讐の色はない。
「別にこの世を滅ぼしてやろうと思って戻ってきたわけではないよ」
 見透かしたように、ユニヴェールが肩をすくめた。
「聖職者や貴族を皆殺しにしようと思ったわけでもなし。ただ──もう少し遊びたいと思ってね」
 吸血鬼は腕を組み、柔らかく目を細める。
「私は敗れた。しかし貴様は世界と戦い、勝った。これからも世界に挑むものが絶えず現れるだろうな。もう芽は出ている。貴様のカゴの中にいるドイツ王フリードリッヒはおそらく世界に指名される者だ。勝敗は分からんが」
 教皇の口を押さえていた影が、ふと緩む。
 すかさずインノケンティウスは振り払って吐き捨てた。
「それを眺めていたいと言うのか!」
「それで遊びたいだけだ」
 あっさりと、返される。
「…………」
「ただし」
 解かないこちらの睨みを察したか、吸血鬼があごをひいて白皙に落ちる影を濃い色にした。
「この世が私にとって無用となったら容赦なく捨てるつもりだよ。潰して、滅ぼす」
「…………」
「戦う者が消え、神に憐れみを求める声、救いを求める声、あるいは冷笑、虚無。それだけが響き溢れる世が訪れたならば、そんなつまらぬもの、早々に葬ってくれる」
 継ぎ目なく奏でられるテノールの旋律は心地良いが、中身はとんでもなく物騒だ。
「白馬の背に乗る征服、赤き馬の背に乗る殺戮、黒馬の背に乗る飢饉、そして見よ、青白き馬の背に乗る死。殉教と、天変地異。響くラッパの音色と傾けられる七つの鉢。──神が審判なんぞを行なう前に、私が全て引き連れてこの地を見渡す限りの荒野に帰してやろう」
「神は──」
「私は神のように人を選びはしない。平等主義だ。崇められようが祈られようが、やるとなれば徹底的にやるぞ」
 吸血鬼の顔に、心の底から楽しげな笑みがのる。目の奥までが笑っている。
「神の祝福溢れた千年王国。その後訪れる最後の審判。神が新たに創る天地には、死も悲しみも痛みもないという。あるのは永遠の愛と賛美。──そこに拾い上げてもらうことが貴様らの望みだったか?」
「…………」
「かまわぬよ、それが望みでかまわぬ。だが、私はそれを許さない」
 柳眉をしかめ、
「清く正しく生きようとするのは、そんな生ぬるい世界に旅立つためか? そこを目指すためか? 遠く遠く、霞みの先しか見ず、口走るのは救済を求める言葉ばかり。そんな世界、つまらなすぎて身の毛がよだつ。生ける屍の大群だぞ、あぁ退屈で死ぬかもしれない」
「…………」
 そんなに退屈が嫌なら無理矢理この地に留まらず、本来自らがあるべき状態に戻ればいいではないかと思うところだが、一度敗北を受けたこの男、もう一度自分から退くことなど始めから選択肢にないのだろう。
 そんな教皇のため息を知ってか知らずか、元クルースニクの吸血鬼は鋭い爪の先を突きつけ言ってきた。
「貴様のような輩たちが、教えに背いていようが何だろうが互いにしのぎを削り世界と戦っているのを見ながら、私は優雅に葡萄酒ワインを傾け儚い栄華よとわらう。……そのために負けた恥を背負って戻って来たのだよ。生きている者が必死になって生きているのを楽しむために!」
 そしてまた指を鳴らす。
「なんとしてでも生きようとする生者。無様な格好に成り下がってさえ戦おうとする者。彼らがいなくなったなら、私は飽いてこの箱庭を壊すだろう。──神の怒りから貴様らを救ってくださる救世主は、私から貴様らを救うことはできるかな」
「お前の神が死にお前を裁けずとも、我らの神がお前に鉄槌をくだすだろう」
 インノケンティウスは顔を歪めて声を絞りだす。
 さっきまで口を押さえていた影が闇の刃に変わり、喉元に押し付けられていた。
「そうでなくてはな! そうでなくては面白くない!」
 吸血鬼の高らかな哄笑。
「貴様らの敵はここにいるのだ、私は逃げも隠れもしない。やってみろ! このシャルロ・ド・ユニヴェール、滅ぼせるものならば滅ぼしてみろ!」
 憎しみも恨みも嫉妬もない、よみがえった死者から弱き生者たちへの挑戦状。

主よ、我(サルヴァ)らを救い賜え(ノス デウス)
 教皇は今まで誰を見つめたこともない灰色の目に、その男を映した。
 紳士然として笑っている闇。
主よ、我(サルヴァ)らを救い賜え(ノス デウス)
「だが……貴様ならたった一言で私を滅ぼせたかもしれぬのにな。残念なことだ」
「──!?」
 ユニヴェールの含んだつぶやきに、教皇はハッと息を止める。
 しかし遅かった。
 瞬間、華麗に鳴らされる吸血鬼の指。
 それが世界の支配者、インノケンティウス三世がこの世で最後に聞いた音だった。




 部屋の外。
 あまり触り心地のよろしくない壁に背をあずけ、ソテールは一部始終を聞いていた。
 インノケンティウスの命でペルージアに来ていたのだが、何故か助けてやろうという気は起きなかった。

 中から黒衣の男が出てきた時も、その男が目の前を通った時も、そのままだった。
 だがその影が通り過ぎた次瞬間、澄んだ金属音が夜を貫き、古代エルトリアの風渡る丘陵に反響した。
 斬りかかったソテールの聖剣。
 受けたユニヴェールの影の剣。
 一瞬遅れて、双方の翻った外套が足下の石をこする。
 ふたりは刃を合わせたまま微動だにしなかった。
 そして先に言葉を漏らしたのはユニヴェール。
 生前と同じように人を喰った笑みを浮かべ、
「お前が探している男は、もういない」
 言う。
「分かってるさ」
 ソテールは鼻先で払いのけた。
 続けて軽く首を傾げる。
「お前は世界をひっくり返したいのか?」
「…………」
「人々が支えとしているものは全て無意味で虚構だと言って、この、神に支配された可笑しな“世界”という機械を──歯車ではなくて機械ごと壊したいのか」
仔羊イエスごときでは私を止めることはできない。さて、どうするね?」
「…………」
 ソテール・ヴェルトール。その名の意味は、世界の救世主。
 彼はユニヴェールの霜降りた双眸を睨むように見据え、口端を吊り上げた。
「またお前と手合わせ出来て嬉しいよ」
 ユニヴェールの笑みが深くなる。
──Jesuis de retour.



 そしてふたりは互いに背を向けた。
 闇は闇へ消え、光は教皇の逝去を告げに光へと戻った。
 時代は終わり、始まったのだ。
 荒れる流れに翻弄される人々の歴史と、そこで駒をはじき遊び笑う吸血鬼の歴史とが。

 数日後、ローマに偉大なる死を悼む唱和が響いていた。
 教皇のために、九日間もの間、美しく哀しい調べは街をめぐる。

──Requiem aeternam dona eis, Domine. et lux perpetua luceat eis.







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誉むべきかな 主の名によりて来るもの

いと高きところに オザンナ

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