冷笑主義

─ ジェノサイド ─

9.汝の名は……



 フリードは抜剣と共に地を蹴った。
 表情のない紅の目を睨みつけたまま、丸腰の吸血鬼に向かって聖剣を振り下ろす。
 ユニヴェールの手に闇の大鎌が現れるのが見えた。
 それは聖なる剣身を受け止めるためにかざされて──、
「──!?」
 次瞬、ユニヴェールが目を見開き身体を仰け反らせて跳び退った。
 フリードの剣に闇が霧散し、鎌が消え、空を切り裂く切っ先が男のあごをかすったのだ。
「アスカロン! 剣!」
 吸血鬼が叫んだ。
 フリードは聞かず、踏み込み突きを一撃。だがその場所に黒の麗人はもういなかった。
 空を仰ぐ。
(──いた)
 人にあらざる脚力は承知の上。しかしフリードもダンピール。ユニヴェールを追いかけ跳ぼうと身構える。
 その時、背後の白い集団の中から驚愕の悲鳴が上がった。
「へいお待ち!」
 続いて若い男の声が上がり、蒼空を一本の聖剣がくるくると回りながら飛んでゆく。
 それを宙で掴んだ吸血鬼が、軽い音を立ててフリードの眼前に着地した。
 そして嘆息する。
「私に対するダンピールはこの世にひとりしかいない。勝手が分からなくてね」
 誰か──デュランダルか、白十字か、その誰かの物なのだろう聖剣が上段に構えられる。
 フリードは中段に構えた。
 後ろでもすでに戦いが始まっているらしい。骸骨たちの不気味にそろった足音、ミトラの罵声、打ち鳴らされる剣戟けんげきの音……戦場全ての音がフリードの精神を蝕んでくる。苛立ち耳を塞ぎ叫び散らしたい衝動に駆られる。
「ユニヴェールの宝刀、“闇”が消されるとは思わなかった。世の中奥が深いものだな」
 つぶやくユニヴェールの手から、一瞬力が抜けた。
(取った)
 逃さず突っ込む。身体を低く沈み込ませ、勢いのまま吸血鬼の心臓目掛けて突き上げる。
 瞬間、重い衝撃が手に走り、頭に金属音が突き刺さる。大地にひざをつく。
 突き上げた剣の穂先は、ユニヴェールの剣、その平面に押さえ付けられ止められていた。
(──罠!)
 気付いた時には遅い。
 フリードの剣を支点にひらりとユニヴェールが頭上を舞い、背後を取られる。
 振り向く間もなく、首をねようと刃の迫る風鳴りがした。
 フリードは吸血鬼を背後にしたまま、咄嗟とっさに腕をかざす。そこへ容赦ない一撃が叩き込まれた。身体が絶叫する衝撃に歯を食いしばり、彼は腕で止めたユニヴェールの剣身を握り締める。
(逃がさない)
 そして身をひるがえす慣性に乗って闇をぐ。
「…………」
 捕えた薄い感触はあった。だが、吸血鬼はそこにいなかった。
 つかんでいたはずの剣身は手の中にない。
「真面目な性格は母譲り、か」
 ソレはまたしてもフリードの背後にいた。
「剣筋がソテール丸写しだ」
 骨を砕かれた腕から、地面に血が滴った。常人ならば腕ごと失くしていただろう。
「…………」
 痛みなんか感じない。彼はただ、化け物を睨みつけた。
「だが己が身を犠牲にしてでも勝利を欲する執念は、“ユニヴェール”そのものだ」
 彼を見下ろしてくる麗貌に感慨はない。
「私でさえあの家からは逃れられなかった。お前があの血を継いでいないわけがない。……だが手の平を切られる恐怖に剣を離してしまうというのは、いささか不甲斐ふがいないな」
 声にも、不純物は一切混じっていなかった。それが“化け物の中の化け物”なのだと言わんばかりに。
「立て」
「…………」
「ソテールが地にひざをついたままでいるなど、あり得んよ」
 フリードは白くなるほどに拳を握り締めた。そして立ち上がる。
「お前は」
 吸血鬼が聖剣の切っ先で指してくる。
「あらゆる裏切りを許容できるほどに、強くならなくてはいけない」
 クルースニクの証である白外套が、血を吸い土をつけ、重かった。
 けれど勝機がないわけではない。この剣が闇を散らしたように、この剣はユニヴェールを滅ぼせる。あの身体を貫けば、きっと。
「私はソテールほど甘くないよ」
 吸血鬼の剣が閃いた。
 フリードは片手で構えた。



◆  ◇  ◆



「やっぱり、よろしくないですよね」
 屋敷の中、パルティータの横で一緒に戦況を眺めていたルナールがつぶやいた。
「親子で剣を向け合うっていうのは」
 それを軽く流して、パルティータは眉間にシワを寄せる。
「……ユニヴェール様、足引きずってない?」
「貴女でも分かりますか」
 この男は、悪気はないのだろうがイチイチ波風の立つ言葉を使う。全身黒尽くめ、目のまわりに不気味なアイラインをひいた剣士。今日は長い黒髪を後ろで結んでいる。
「さっき、フリードの剣に小さく斬られていましたから。それですよ、たぶん」
「…………」
 腕を落とされてさえ平然としていられる吸血鬼。なのにそれだけのことでメイドにさえ不自由を悟らせるということは、いかにダンピールが毒であるかという証拠だろう。
「でも、剣を避けているようには見えないわね」
 ユニヴェールは、得意の剣身鷲掴(わしづか)みを何度もやっている。その度ダンピールは動きを封じられ、地を転がり傷を増やす。
 一方でユニヴェールの手にも炎が走り、一瞬だが顔がしかめられる。
「滅びを恐がって保身に入るような人ですか」
 ルナールが窓から離れた。
「どうせ滅ぶなら、身が滅ぶまで攻め続ける類の人ですよ、あの人は。それが一番楽しいそうですから」
「三百年も好き勝手に生きてりゃそうも言えるでしょうよ……って何してるの」
 ルナールが腰に帯びていた二振の剣を抜き、食堂のランプにかざしていた。がれ具合か──渇き具合を確めるように。
「行ってくるんですよ。止めにね」
「…………」
「知ってました? 剣術だけなら僕、あの人と同じくらいやれるんですよ」
 得意げなのが気に入らない。
「僕の剣もあの人と同じ、何でもアリの泥くさい型ですから」
「そう」
 髪のリボンを揺らし出て行くルナールを止めようとは思わない。
 かつてカステル・デル・モンテの魔物は、この馬鹿猫がホーエンシュタウフェンの末裔だと言った。それが正しいのなら、彼もまた剣の音に心躍る血の持ち主なのだ。どこまでも教皇にうとまれた、まむしの子。黒い鷲の紋章をはためかせ戦った、失われた皇帝の血筋、ホーエンシュタウフェン。
「…………」
 パルティータは食堂のテーブルを見下ろした。フライパン、すりこぎ、なべ、まな板、箒、ちりとり、ワインボトル、にんじんジュース、絵版画の分厚い束……。用意したものは多いが、全部装備するのは不可能だ。
「さて。どれを捨てどれを持つべきか……それが問題ね」



◆  ◇  ◆



 頬をユニヴェールの剣がかすめた。剣圧に肌がぴっと裂ける。
 しかしフリードは構わず踏み込む。
 振りかぶった剣は受け止められたが、そのまま蹴りを放つ。
(──当たった!)
 思ったのは一瞬。捕えたはずの吸血鬼は優雅に宙を舞い、再びその場に降り立つ。
 息つく間もなく両者は剣を構え──、
『…………』
 獲物目掛けて風を斬った刃は、しかし出会うことなく途中で止められていた。
 割って入ってきた、二つの刃に。
「ルナール」
「卿、僕も遊ばせてくださいよ」
 二刀流の正体は、黒い剣士だった。あの時メイドと一緒にいたルナール。……この男の心地良い昔話だけを信じていられたら、どんなに楽だっただろう。
「お前はどっかその辺でテキト−なのとやっていればいいではないか」
 渋々剣を退き、ユニヴェールがげんなりした様子でため息をつく。
 けれどルナールは吸血鬼を牽制するように剣をかざしたまま、
「その、思いっきりどうでもよさげに扱うのやめてくださいよ。いっつもいっつもいっつもいっつも」
 文句を言っている。
 フリードは剣を押す力を強めてみたが、ルナールの剣はびくともしない。
「…………」
「それに、来ているじゃありませんか」
 ルナールの愛嬌以外すっからかんな双眸が、こちらを見た。否、その目はフリードの肩の向こう、にぎわう戦場の更に遠くを見ていた。
 武器を手に震えている街人。対峙して顔を強張らせ、一歩も動けないでいるクルースニク。雪崩の如く押し寄せる骸骨兵を次から次へと薙ぎ倒してゆくデュランダル。蒼い魔女を追うカリス。やさぐれた若者と刃を合わせているミトラ。
 骨が折れ崩れる音、怒鳴り声、悲鳴、哄笑が入り混じった喧騒、次第に濃くなる血臭と狂気の色。
「ソテール・ヴェルトール、か」
 ユニヴェールが目を細めた。
 すると、一匹たりともクルースニクを逃すまいとしていた街人包囲網の一郭がわらわらと動き出し、あっという間に道を開けた。それは逃がすための道ではなく、迎え入れるための道。
「……遅いお出ましだな」
 開けられた道に、馬の影がひとつ現れた。馬上の男が飛び降りると、白い長外套ロングコートがあわせて大きく舞う。
「戦場で会うのは何十年ぶりだろうな」
 ユニヴェールがつぶやき聖剣を捨てた。すでにルナールとフリードのことなど眼中にないのだろう、彼は大仰な足取りで白いクルースニクへと歩を進め始める。馬から降りた白の男もまたこちらに歩いてくる。ふたりの歩む先は自然と道が開けられていった。
 吸血鬼のあごがひかれ虚空に手がかざされる。クルースニクが歩きながら己の聖剣を抜き、正眼せいがんに構える。
 紅と蒼、強すぎる視線がぶつかり、真正面から見据えあう。
 次第に速められてゆく歩速に黒衣がひるがえり、白外套が砂埃を舞い上げる。
「──!」
 フリードが息をつめたその瞬間大地は蹴られ、皆が頭上を仰いだ。
 直後、身体の芯を揺さぶる鋭い大剣響がパーテルに轟いた。


 白と黒。着地するなり振りかぶる。
 ソテールの聖剣とユニヴェールの闇の刃、凄まじい速度と力でぶつかり合うたび剣花が散る。
 地面で踊る影はクルースニクを下から狙い、降り注ぐ陽光は吸血鬼を上から狙う。
 影がクルースニクの腕を穿うがち、光が吸血鬼の肩を貫く。
 荒い気合の声が交錯し、流れる血液が大地を濡らす。
 剣、そして光と闇。
 見る者を圧倒する──いや、次元の違う攻防だった。


「ソテール……」
 師の、あんな戦い方を見たことはなかった。
 なりふり構わぬ剣だ。動きの全てが急所を狙う攻撃で、蹴りも殴打もいとわない。
 策も小細工もあったもんじゃなく、ほとばしる力と力の死闘。
 全身全霊命懸け。
「ソテール・ヴェルトールは美しい剣術を使います。人に対する時、洗練された無駄のない剣術をね。しかし、一方で型のない縦横無尽な剣を使うこともできます。クルースニクとして、どんな手段を使ってでも魔物を仕留められるよう」
 ルナールがフリードの剣を払い退け、向き直ってくる。
「貴方の剣が素直なのは、あの人がそういう剣しか教えなかったからです。人に対するための、美しい剣しか教えなかったからです」
「…………」
「では何故彼はそれしか教えなかったのか。おそらく彼は、貴方をクルースニクにするつもりはなかった。魔物と戦わせるつもりはなかったんです」
 ルナールは、一向に剣を構えようとしない。
「それが貴方のためだと思っていたんでしょうね」
「僕は──」
 言いかけると、
「何です」
 飄々(ひょうひょう)うながされる。
「僕は戦場が嫌いです。戦うことも。でも、それでも戦わなきゃいけない理由があるんです」
 何故この男相手だとしゃべってしまうのか、彼自身にも不思議だった。
「ダンピールは人間でも魔物でもない。その貴方が魔物に弓を引くというのがどういうことか、分かっていますか」
「…………」
「魔物の側は決して貴方を受け入れなくなるということですよ。それどころか完全に敵とみなして標的にするかも」
「分かっています」
「本当に?」
 ルナールの口元には涼しい笑みがのっている。
「ダンピールはいつ魔物に豹変するか分からない。ヴァチカンだって心から貴方を仲間だと認めることはありませんよ」
「承知のうえです」
「クルースニクの道を選んだのは貴方です。その理由が卿への憎しみだろうと卿への猜疑さいぎだろうと、貴方が選んだんですからね」
「そうです」
 キッパリ答えると、ルナールの眼光が鋭く重くなった。
 獲物を射程圏内に捕えた猫のように、男の視界からはフリード以外のものが完全に排除されている。
「今、ヴァチカンと暗黒都市、両者に弓を引ける者はひとりしかいません。貴方が戦いの中に身を落とすなら──、いいですか、しっかり覚えておいてくださいね。貴方はその人と同じだけ強くならなければいけないんです」
「…………」
「つまり、シャルロ・ドユニヴェールと同等にならなくてはいけないということです」
 あの化け物と、同等。
「でも貴方たちは……」
「僕らはあの人のオマケに過ぎませんよ。もし万が一あの人が滅びたら、僕らに帰る場所はありません。光の世界にはもちろん、暗黒都市にもね」
「…………」
「“どちらでもない”というのは、そういうことですよ」

 “──お前は、あらゆる裏切りを許容できるほどに強くならなくてはいけない”

 フリードの脳裏で、あの化け物がもう一度言った。
(…………)
 そして、唐突にルナールが訊いてくる。
「フリード。剣を収める気はありませんか?」
「……剣を?」
 無意識に、鼻で笑っていた。

 ここで剣を置いたら、何のために母の望みを、ソテールの願いを、裏切ったのか分からなくなる。
 何のために茨の道へ足を突っ込む決心をしたのか、分からなくなる。
 父に自分を認めさせるのだ。ヴァチカンに自分を認めさせるのだ。
 そして確めるのだ。あの吸血鬼が、自分にとって何であるのかを。

「そんな気はありません」
「では、本気でかかってきてくださいね」
 ルナールが流れる動作で剣身の背を舐めた。鈍く輝く刃の向こうで小さく笑う。
「こう見えても、僕は強いですよ」



◆  ◇  ◆



 休む間もなく叩きつけられる刃の衝撃が全てだった。
 交わす言葉など、とっくの昔に尽きていた。
 互いに残っているのは命だけだ。それも、神を裏切ったいびつな形の命。
「──!」
 言葉にならない吠え声を上げ、ソテールは渾身こんしんの力で聖剣を叩き込む。
 ユニヴェールも、ネジが外れた不敵な笑顔で闇の刃を振り上げてくる。
 防御などという生易しい剣術は存在しない。
 全てが必殺。前進あるのみ。
「!」
 跳ね返されたユニヴェールが骸骨兵を数体踏み潰し、同じく反動で跳ばされたソテールは「邪魔だ!」と背後のクルースニクに斬りつけた。
 そして化け物ふたりは視線を交わして一瞬、再び剣を構えて走り出す。


 “神を殺した”
 三百年前、ユニヴェールはペルージアでインノケンティウス三世に向かいそう言った。
 その言葉と、そして未だ世に君臨するこの男の存在は、世界を根底からくつがえすに足る。
 闇に落ちまいと背徳を重ね神を裏切り、それゆえ神にゆるしを乞い続けた人々はやがて、その神が人々の期待を裏切り闇にたおれたことを知るだろう。歴史に埋もれた狂気の血──“ユニヴェール”を裁けなかったことを知るのだ。

 神は絶対ではない。
 だが絶対にしておかなくてはならない。それが、人々が世界に抗するための唯一の支えであるならば。

 凶暴な“ユニヴェール”の血をもてあまし、戦火をあおっては流される血の中へ飛び込んでゆく吸血鬼。
 悲哀を知らず、情も非情も興のうち。滅びも願わず伴侶も求めず。
 欠陥はいい加減な性格と傲慢不遜な態度くらい。

 ……神が滅ぼせないと言うのなら、人が滅ぼすしかないではないか。
 “ユニヴェール”を殺す役目を負い、その横に立ち続けた“ヴェルトール”が。
 ユニヴェールの対極にあって、誰よりもユニヴェールに近いヴェルトールが。


 繰り返される跳躍と斬撃。
 互いの刃は未だ相手の身体を刻んではいない。
 それでも、ソテールの身体は苦痛を訴え始めていた。
 激突の衝撃は骨を軋ませ臓腑ぞうふを叩き、白刃となった烈風は肌と言わず外套と言わず裂いてゆく。
 ソテール・ヴェルトール。彼は不老ではあるが不死ではない。強靭ではあるが人間を辞めたわけではない。
 鋭く吐き出す息吹は、鉄錆の味がした。

 そして空には、いつしか雲が集まり始めていた。

 黒い影が宙を舞う。
 落下の速度を加えて振り下ろされる闇の刃。
 ソテールは身体ごと斜めに斬り上げ真っ向から受け止める。
 脳髄を貫き世界に轟く剣の悲鳴。
 音は波となり空気を走る。
 そして──街の中央に建っていた教会の尖塔せんとうが音をたてて崩れ落ちた。
 砂煙が立ち上り、訪れた静寂の後にはパラパラと割れた石のかけらが地上に転がっていく。
『…………』
 戦場に寒さが漂う。肌をう、畏怖の悪寒。

「……腕を上げたか?」
 こめかみの上から血をだらだら流して、ユニヴェールが訊いてくる。
「上げたさ。起こされてからヒマだったもんでな」
 頬から流れ落ちてきた血を舐め、ソテールは口端で笑った。
「ほう」
 声が聞こえた次瞬ユニヴェールの剣がすっと退かれ、
「──!」
 電光石火脇腹を薙がれる。
「!」
 だがソテールも返す刃で肩から腹へと斬り込んでやる。
 薄汚れた土のうえに、新たな血雨が降った。
光あれ(フィアット・ルクス)
 大きく後ろに跳び退いた化け物を、光槍が追撃。
 しかし吸血鬼は己の影を盾にして光をやり過ごし、背筋を伸ばし笑ってくる。
 だが──、
「…………」
 その紅の視線が静かに自らの胸元へと下ろされた。
 吸血鬼の身体が、見事背中から剣に貫かれていたのだ。
「ソテール・ヴェルトールだけがクルースニクとお思いか」
 背後にあるのは白く短い外套。
「……デュランダル、か」
 言い終わりと共に勢いよく聖剣が抜かれ、吸血鬼がたたらを踏んだ。更なる血がぽたぽたと地面に滴る。
「思い出していただけましたか」
 ユニヴェールのまわりを、白い始末人が取り囲んでいた。
「そいつは貴様らの敵う相手ではないと何度言ったら理解するんだ!」
 ソテールは腹の底から怒鳴り、血糊のついた聖剣を握り直して走り出す。
「…………」
 それを視界の端に、吸血鬼が顔だけで後ろを振り返る。軽薄な笑みがそこにのっていた。
「……デュランダル。ローランの剣」
退けッ!!」
 ソテールはもう一度吠えた。
 だが。
『──!』
 灰色の空に、仮面をつけたクルースニクの首が弧を描いて飛んだ。
 それを追うようにして紅い鮮血の半円も描かれる。
 一本の聖剣が空虚な音をたてて転がり、のこされた身体がどさりと崩れる。
『…………』
 声を失い目を見開いた者たちの白装束に、ぽつぽつと赤い飛沫が降り注いだ。
 次いで訪れる沈黙。
「お強いことだ」
 ユニヴェールがこれみよがしに指に付いた血を舐め取った。
 凍らされた白い空気が、その言葉に再び沸騰する。
 激昂したひとりが剣を振りかざし──、しかし呪詛の声を上げる間も与えられずにその身体はユニヴェールの腕に貫かれる。
「他愛ない」
 吸血鬼が笑って腕を引く抜くと、絶命した身体が糸の切れた人形の如く地に落ちる。
「退けと言っている!」
 怒鳴り、輪の中に斬り込んだソテール。
 それを闇の刃で受け止め、左手で掴むユニヴェール。
 ソテールの聖剣が動きを封じられたその一瞬、闇の刃は後方に一閃デュランダルを薙ぐ。
 肉が断たれる不快な音が耳に届き、血臭が一層濃くなった。
 否。
 この戦場は、血の臭いしかしていない。
「これがデュランダルかね?」
 ユニヴェールがわらって目を糸にする。
 ソテールは剣を引き抜き、血濡れて顔に貼り付く黒髪を払いのけた。
(こいつ、完全に“ユニヴェール”になってやがる)

 顔こそ冷ややかで理性そのものだが、今やこのシャルロ・ド・ユニヴェール、おそらくは血を求める衝動だけで動いているのは明白だった。
 この化け物は血に酔っている。
 血をもって血の上に君臨しようと欲する、“ユニヴェール”の血。ただひたすら他の己の血を流し、より強大な力を求める。そこに求める理由などなく──欲する事こそを理由として──求める。
 その欲求を野放しにした吸血鬼。……これこそがヴァチカンが怖れ、ヴェルトールに殺させようとした“ユニヴェール”だったのだろう。


「頼むからお前たちは退いてくれ」
 ユニヴェールだけを見据え、ソテールはデュランダルに言った。
「退く必要はない」
 ユニヴェールが機械的な声音で返してくる。

 裂けた黒衣を、白い手を、笑みの浮かぶ口元を、そして冴えた銀髪をも鮮血に染め、化け物は立っている。そこには“卿”と呼ばれた片鱗などない。そこにいるのは、近付く者全てを喰い殺さんばかりの飢えと渇きを持った獣だ。
 視界に生者がいなくなるまで狩り続け、山と積まれた屍の上でのみ満たされる。
(──ユニヴェール家が滅びた時も……)
 こうだったのかもしれない。
 一族すべてを皆殺しにしたのは、この“ユニヴェール”だったのかもしれない。

「他人にウロウロされると、お前とり合うのに邪魔なんだ」
「邪魔ならば消せばよい」
 ユニヴェールが高らかに笑った。
 そしてその笑みにソテールが剣を構えようと腕を動かした時すでに、疾風の如き黒衣はその蒼眼の目前にあった。
 地を蹴る軽い音がする。
 黒衣が眼前から消える。
「──な」
 身を反転させようとしたのは、反射だった。
 身体よりも先に背後をとらえた目に、こちらを向いた吸血鬼が映る。その手に握られているのはいつもの大鎌だ。死者の骨を鍛えて創られたかのような、おぞましい造形の、黒い鎌。
「消せ」
 血の気のないあの男の唇が、そう動いた。
 鎌が振られる。黒衣が派手に翻る。
 そして次の瞬間、闇がうなり世界が白んだ。
『──!』
 あまりの閃光に腕をかざし目を閉じたソテール。その横をかすめるようにして、昏く重い衝撃波が走り過ぎて行った。
 強烈な風に持っていかれそうになる身体を必死で留め、抗する。
 耳元を支配する業風ごうふうに混じり、ぱきぱきというやけに軽い音がした。
 嫌な予感がした。
 不吉な胸騒ぎがした。
「…………」
 風が止み、蒼眸を開けてまず飛び込んできたのは、自らのすぐ横にある大地のえぐれ。
 そのえぐられた大地を見渡すと、そこには骸骨兵もクルースニクも、誰ひとりいなかった。
 姿はおろか、残骸さえない。
 吐き気を催すほど色濃く充満していた血の臭いまでが、サッパリ消えていた。
「こいつは……」
 全てが消し飛んだなど──ありえない。
 見ているものが事実であるということくらい知っている。ありえないことなどないことくらい知っている。それでも、彼は呆然とそうつぶやいた。その身体を包むのは行き場のない徒労感。倦怠感。
 まだ地獄絵図の方が現実味があっただろう。怒って叫んですぐにでもユニヴェールの胸倉を掴み殴っていたかもしれない。
 だが……いっそ清々しい荒野の風に、声を立てて笑い出したくなる。
「…………」
 それを抑えて口を結び黙って立ち尽くす光のヴェルトール。その傍らに聖剣の折れた柄が落ってきた。
 遅れて、大地にはひょうの如く骨の欠片が降る。
 そして最後に、ほつれた白い布切れがひらひらと静寂を横切っていった。
 それを眺め、
「やりすぎたか。肉の一片、血の一滴も残らないとは」
 淡々とつぶやく吸血鬼。
「ユニヴェール」
 ソテールは聖剣を地面に突き立て、
「楽しいか?」
 訊いた。
 すると、ユニヴェールが愉悦の微笑でうなずいてくる。
「あぁ、楽しい」
 紅の瞳を狂気に爛々(らんらん)と輝かせて。
「……そりゃ良かった」
「しかしまだ残っているクルースニクが目障りだな」
「……それなら全部消せばいいだろう」
 ソテールは投げやりに言い捨てた。
「パーテルもヴァチカンも暗黒都市も何もかも全部壊して世界を荒野に戻して、それから俺とお前で決着をつければいい」
 なんだかもう、理屈なんてどうでもよくなっていた。
「勝った方が世界の主だ」
「…………」
 ユニヴェールがしばし思案顔であごを撫で、ひとつ息つくと満面の笑みを向けてきた。
「面白い。乗った」
 そして吸血鬼は回れ右。
 パーテルの住民たちと、彼らと対峙しているクルースニクを臨む。
「では次はこちらだな。街ごと消そう」
 骨まで神に侵食された正義感ゆえだろうか、クルースニクたちは民を吸血鬼から隠すように体勢を変える。地面から足を離さず、ゆっくりと、化け物を睨みつけたまま。
無意味だ(ノンサンス)
 クルースニクたちの表情は仮面に隠され分からない。
 だが住民たちの顔ははっきりと見えた。恐怖におののき、中にはすでに墓場を歩く幽鬼の如き者もいる。わななく唇からは言葉など聞こえない。意味不明の喘ぎ声がとめどなく漏らされるだけ。
 いきなりそこまで迫り来た“死”に、成す術もなく。神に祈る正気すらなく。

「…………」
 ソテールは聖剣を手にしないまま、冷然とそれを見ていた。
 彼は神の使用人では──大天使ミカエルでは──ないのだ。人のために奮う剣など元から持っていない。……シャルロを殺したのは結局、人だったのだから。
さようなら(アデュー)
 ユニヴェールが鎌を高くかざした。
 ──と。
「これがどうなってもいいんですか」
 突然背後から聞こえてきた女の声に、吸血鬼の動きがぴたりと止まる。
 ソテールは身体ごと振り向いた。
「燃やしますよ」
 いつの間に現れたのだろう、ユニヴェール邸の灰色メイドがソテールの後ろ、そう遠くない位置に突っ立っていた。左手には大きな絵版画の束を抱え、右手にはどこから持ってきたのか燃え盛る松明。
 どうやら本を“物質ものじち”に取っているらしい。
「パルティータ」
 鎌を手にしたまま、苦味と酸味が混ざった声でユニヴェールがうめいた。
「それは私が集めたこの世にひとつしかない──」
「出しっぱなしにしてあったのが悪いんです」
「出しっぱなしにしたのは私ではなくてシャムシールだろうが」
「シャムシールの保護者は誰ですか」
「…………」
 ユニヴェールが肩をすくめる。
「私は騒音と血の匂いと戦場が嫌いです」
 メイドが本を置いて──それを片足で踏んづけて──メイド服から紙を取り出す。綺麗に丸められ、赤いベルベットのリボンで結んである羊皮紙。
「パルティータ! その本は丁寧に扱え!」
「多少のことなら看過しますけど、これ以上ドンパチやらかすんでしたら私は辞めさせていただきます」
 ユニヴェールの悲鳴を無視して、メイドが紙筒を放り投げた。
 それは皆の視線を一身に背負いながらくるくると放物線を描き、ぽとりと吸血鬼の手に落ちる。
「…………」
 乾いた血が付着するユニヴェールの細長い指が紙を開けば、ソテールからでさえ見えるほどに大きく『Demission(デミスィオン)(辞表)』と書いてあった。それだけ。たったそれだけ。
「……今月分の給料は」
「いりません」
 やけにキッパリ告げる女に、ユニヴェールが嫌疑の眼差しを送る。
「お前、私が掘り出した財産全部馬車に積むか何かしてからここに来ただろう」
「…………そんなことはありません」
「嘘付け」
 即座に切り返す吸血鬼。
 その目から血の恍惚は消えていた。
「パルティータ、お前は──」
「パルティータ!」
 ユニヴェールの言葉が遮られた。
 吸血鬼よりも深い、あらゆる感情を内包した深い声音で彼女の名を呼んだのは、まとった白装束を内から染み出す血色に染めたミトラだった。
 大きく間合いを取ったところにアスカロンが立っている。
「……なんですか、神父ミトラ」
 メイドが、本を踏んだまま身体の位置をずらす。
 ソテールの後ろで、また吸血鬼が低い悲鳴を上げた。
「我らの戦いに終止符を打てるのはお前だけだと、お前は分かっているな?」
 その言葉にはもう、名を呼んだ時ほどの深さはなかった。男の声を貫いているのは、クルースニクとしての白い鋼鉄の使命感。
「…………」
「シャルロ・ド・ユニヴェールを赦せ」
「……赦さないと言ったらどうしますか」
「赦しなさい」
 ──赦すだの赦さないだの、お前なんか悪い事したのか? という視線を吸血鬼にやると、サァ? と首をひねりながらの疑問符が返って来る。本人もワケがわかっていないらしい。
「パルティータ」
「…………」
 あるはずのないミトラの視線を受け止めきれなかったのだろうか、メイドがふいと顔を逸らしてパーテルの街を見やる。崩れ落ちた教会を見つめる。
「パルティータ・ディ・セーニ!」
 ミトラの恫喝どうかつが空気をびりびりと震わせた。
「お前にその名の誇りはないのか!」
「…………」
 メイドはそっぽを向いたまま、漆黒の双眸に何を映すでもなく無表情。
 だが、
「セーニ。………セーニ、セーニ、セーニ」
 代わって吸血鬼が独り言のようにつぶやいた。
 ソテールにも、その名の心当たりがあった。
「セーニ」
 ユニヴェールが、無残な姿をさらす黒衣をひきずってこちらに歩いてくる。
 足取りは貴人、指はその唇をなぞり、目は遠く。
「パルティータ。お前の誕生日は7月16日だったな?」
「……そうです」
 男が足を止めた。
「私は276年前のその日、ひとりの男を殺した」
「知っています」
「セーニという名を持つ男だった。セーニ地方の領主の家系だったのだ」
「知っています」
「ジョヴァンニ・ロターリオ・デ・コンティ・ディ・セーニ」
「知っています」
「しかし世の中はその男を別の名で呼んでいた」
「知っています」
「そう。誰もが別の名で呼んでいた」

 吸血鬼ユニヴェールの紅がパルティータの闇色を捕える。
 声音は最後の審判のように重く、“卿”たるべく厳然と。

「──インノケンティウス三世」





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