冷笑主義
第13話 特別
前編
事を起こす輩は、大抵ふたつに分けられる。
人生が楽しくて仕方ない奴と、どうしようもなく弱い奴と。
およそ吸血鬼は後者だ。
月が昇る度、死んでまで何を必死になっているのかとあいつが嗤っている。
私は哄い返す。
生きたことも死んだこともないお前は我々以下だと。
◇ ◆ ◇
南フランスの田舎街パーテル。
地図に載るか載らないかきわどい小さな町は、夜半からの雪によって白銀の中に埋もれていた。森も山も、見渡す限り広大な白。
言わずもがな、空気は冷たく息も凍る。
それでも人々は夜明けと共にむくむくと起き出し、雪の中にいくつもの足跡を刻んでいた。
教会へ向かう足跡、パン屋へ向かう足跡、水場へ向かう足跡、工場へ向かう足跡、人が雪の中にめり込んだ跡、それがずりずり引きずられた跡……その不気味な溝は町を横切り坂を登り、町外れの大きな屋敷の前へと続き──。
「落ちてるものを片っ端から拾ってくるようなメイドに育てた覚えはない」
「貴方に育てられた覚えはありません」
「元いた場所に返してきなさい」
「そんな可哀相なことできません」
「お前ならやれる」
「どういう意味ですか」
屋敷の二階。さほど広くない一室で、ひとつの寝台を挟んで一触即発の舌戦が繰り広げられていた。
メイド対主人。
通常ではあり得ない光景だが、この屋敷では日常茶飯事だ。
「どうしてお前はこんなのが落ちているところに遭遇するんだろうな。この間はちょっと目を離した隙に得体の知れない婆ァからロクでもないもんもらっていたし」
「それは反省しました」
「反省だけならルナールにだって出来るだろうが」
「……あのそれは」
部屋の隅で指を咥えて突っ立っていた黒い男はとりあえず反駁の声を上げてみたが、
「ルナール以下だっていうんですか」
「そうじゃないと言いたいなら捨てて来い」
完全無視される。
(…………)
「魔物には関わるなとあれだけ言ってもまだ分からんのか。吸血鬼を拾ってくるなんぞ言語道断!」
「この化け物屋敷にいて、魔物に関わらないなんてことが出来るとお思いですか」
椅子から腰を浮かせて指を突きつける黒衣の主と、銀盆を盾にしながらそっぽを向くメイド。
(いつまでやってるつもりですか)
ひとり除け者にされている黒い男──自称亡国の王子ルナールは、心の中でため息をついて首を振る。
彼が目覚めに飲もうと温めておいたミルクは、食堂のテーブルの上ですっかり冷たくなっているのだろう。空気の凍りついた朝にひんやりミルク、考えただけでも身が震える。
「行き会うことと拾ってくることは別だ」
「自分が殴って気絶させちゃったものをそのままにしてくるなんて、人間のすることではありません」
「お前なんてどうせもうほとんど人間ではなかろうが」
「私は魔物ではありません!」
「そういう勘違いした輩が多いから生真面目なクルースニクが板ばさみになるのだ! ちょっとでも魔物の気があるやつは片っ端から斬り捨てればよいものを!」
「今更大昔のことを愚痴らないでください」
ふたりの喧々とした言い合いを右から左に流しながら、ルナールは件の寝台へと目を落とした。
屋敷の中では比較的おとなしい装飾が施された白い寝台。中にすっぽりおさまっているのは、パルティータが今朝拾ってきた栗毛の少女だ。外見はひとまわり小さなパルティータといったところで、並べてみれば姉妹といっても納得されるだろうほど。
違うのは少女の肌は血の気が薄く、ユニヴェールと同じ死の匂いがすること。そしてパルティータのようなメイド服ではなく、赤いふんわりとしたドレスを身に纏っていることだ。
「お前が世話をするのか!? 結局私が面倒を見ることになるんだろう!?」
「私のものは貴方のもの、当たり前ではありませんか!」
「いい加減にしませんか! 卿もパルティータも」
つい怒鳴ってしまって即座に後悔する。
ふたりの目がギンッとルナールに向けられていた。
そして異口同音。
「黙ってろ」
「黙りなさい」
「……はい……」
事の発端は、まだ夜も明けきらない雪のパーテルをパルティータが歩いていたことだったらしい。
突然背後から何者かに襲い掛かられて、彼女はいつもの対処をした。
つまり、携帯していたすりこぎで思いっきりその不届き者をかっとばしたのだ。
しかしハッと我に返り雪の中でのびている人物をよく見れば、それなりの身なりをした少女で、この時期放っておけば凍死の可能性もある。というより凍死する。困ったパルティータは気絶したままの少女をずりずりと屋敷まで引きずってきたわけだが、運悪く就寝前のユニヴェールに遭遇し、彼は見るなり眉を吊り上げた。
「この娘は私と同類だ」、と。
この屋敷の主は、何故か同類に厳しい。身をもって吸血鬼を知っているせいか、特にパルティータのまわりに吸血鬼がうろつくことを嫌う。
それゆえにあまり屋敷に入れてもらえないロートシルト伯は、毎日のように大量の恋文を自分で投函していくのである。
今回も例に漏れず、ユニヴェールは少女を屋敷に入れることを良しとしなかった。だが耳を貸さないメイドは、主の勘気をものともせず客間の寝台を整えて寝かせてしまった。
そしてこの状況、である。
「どこの馬の骨とも分からん化け物を……」
厚い黒のカーテンで朝陽が遮られた部屋の中、蒼白い顔をした銀髪の麗人がこめかみに手をやり息をついた。
怒気より諦め。男の紅い双眸は暖炉で爆ぜる炎に向けられていて、ただ、境界を焦がしながら揺らめく緋色を映している。
ゆっくりと焼かれゆっくりと散ってゆく古びた空気は何世紀前からここにあったものか、しかし階下から染み出してくる冷気には敵わない。
ルナールは身体の芯を伝う寒さに耐えられなくなり、そろそろと横ばいに暖炉のそばへ寄っていき──
「っくしゅん」
寝台から聞こえてきたくしゃみでカニ歩きを止めた。
「……気が付きましたか?」
寝台をのぞきこんだパルティータの声は変わりなく事務的だった。……あれだけ主とやりあった割には。そして、当のユニヴェールはといえば冷ややかな顔で炎を眺めたままだ。
まったくもって大人げない。
「寒いですか?」
ルナールは吸血鬼を視界の隅に残しながら、寝台に近付いた。
「寒ければ薪を持ってきますが」
「──い、いいえ」
少女が身体を起こそうとして、挫折した。もう一度起き上がろうとする彼女を押し留め、パルティータが柄にもなく神妙な顔つきをする。それもそのはず、少女の額には大きな青あざ。
「ごめんなさい、咄嗟のことで思いっきり殴ってしま──」
「あ、あの、私はエーデルシュタイン伯爵のところにいたパッセと申します」
パルティータの弁明を遮った少女の言葉は、ユニヴェールへ向けられていた。
“どこの馬の骨とも分からない”、彼の台詞に応えたものであることは明白だ。
「……あのガキか」
ユニヴェールがつぶやき剣呑な視線を少女にやる。だが彼はすぐに逸らした。
理由は分かる。
瓜二つとはいかないまでも、この少女の基本的な作りはパルティータなのだ。人形めいた顔、真っ直ぐ伸ばされた髪、浅いのか深いのかさえ判断できない目。
黒と茶、色味は違ってもパーツは相似。決定的な違いといえば、パッセにはパルティータのような得体の知れなさがない、というところか。
「お知り合いですか?」
ルナールが訊くと、
「あぁ。生意気な──少年の姿をした吸血鬼だよ」
淡白な調子で答えが返ってくる。
「私は──、伯爵の屋敷で飼われていました」
「飼われていた?」
ルナールが首を傾げると、
「吸血鬼であることよりも暗黒都市の貴族であることを楽しんでいる連中は、血を求めて狩りをするなんて非効率なことはしない」
ユニヴェールがやはり感情の欠落した声音で告げてくる。
「人間の没落貴族から娘を買い上げて屋敷に飼っておき、喉が渇けばそれで潤す。そうすれば狩りの不在の間に謀られ地位を追い落とされることもなく、クルースニクに追い回されることもない」
「…………」
ルナールが目で確認すると、パッセがうなずく。
「そのとおりです」
つまりはこの少女も両親に売られ、そのエーデルなんとかという吸血鬼に買われた。今彼女が吸血鬼であるということは、すでにエサとしての役割を果たした後なのだろう。
だが、同類として生かされているということは、多少なりとも気に入られているのかもしれない。
「私は伯爵のところから逃げてきたんです」
吸血鬼になった後で? 普通その前じゃないか?
ルナールの横で、パルティータも同じような顔をしている。
それに応えるかのように、目を伏せてパッセが言った。
「私、血って言葉を聞くだけでダメなんです」
『…………』
「気分が悪くなって目の前に星が飛ぶんです」
へぇ。
「見ると吐き気が……するんです」
ねぇ……それって吸血鬼って言う?
──数日後。
「血がダメな吸血鬼っているんですね」
ルナールは早朝の食堂で温めたミルクを飲んでいた。昨夜もまた雪が降ったらしく、曇った窓の向こうは白い静寂が広がっている。
「血がダメな人間が吸血鬼になったら、当然ダメだろうな。ワインを飲まなければ死ぬぞと言われても、酒が飲めない奴はどうしようもないのと一緒だ」
彼の目の前にいるのは吸血鬼を超えた吸血鬼、シャルロ・ド・ユニヴェール。
どこともつかない空間を見つめる男の眼差しはやや眠たげで、彼はすでに就寝のためガウンを羽織っている。
「まぁ、確かにそうですね。でも、そーゆー吸血鬼はどうするんです?」
「どうするも何も、滅びるしかあるまいよ」
寝る前の一杯、ユニヴェールがグラスにつがれたワインを一気に飲み干した。
「吸血鬼の不老不死をつないでいるのは他人の血だ。他人の血を己の命とできるからこそ、吸血鬼は吸血鬼であって永遠の化け物となる。それができぬのならば滅びあるのみ」
ここ数日間は、パルティータがつきっきりでパッセを看病していた。
なんとか血を飲ませようと悪戦苦闘しているようだったが、ユニヴェールににんじんジュースを飲ませるのとはワケが違うらしく、全敗だという。
見せると失神、匂いで卒倒、どれだけ隠してみても目ざとく見つけて器用に意識を飛ばす。
ロートシルトが暗黒都市から極秘入手してきたボトル入り高級血を一滴鍋へ、そこに世界各地大量の香辛料を放り込んで煮詰めているメイドの姿はもはやヤケクソ以外のなにものでもなかった。しかしその調理方法が間違っているんじゃないかという言葉をかける勇気は、誰にも無い。
そしてそれ以上に悲惨なのは、屋敷の主の機嫌が斜めっぱなしなことだった。
理由は簡単、自分のメイドが見知らぬ吸血鬼に取られたからである。
「いい加減諦めたらどうだ」
──ほら。こうやってパルティータが食堂を通るたびに同じ台詞を吐く。
そしてメイドはいつも無視して素通り。だが今回は違った。
「神に負けを認めろとおっしゃるんですか」
本を一冊脇に挟んだ彼女が、珍しく足を止め振り返ってくる。
「吸血鬼は神のもとへなど行かない。死ぬのではなく滅びるのだから」
「だったらなおさらです」
「あれを助けて親に感謝料でも請求したいのか?」
「…………」
男の低次元な嫌味に、パルティータの目が凄んだ。
「──それもいいですね」
売り言葉に買い言葉。
「さすがにセーニのスケールは違う。今まで貯めに貯めた金をつぎ込んで、その倍をゆく慰謝料を吹っかけるおつもりとは。だが娘を売るほどの貧乏貴族、そんな金払えるものかね」
そんな貧乏貴族相手に慰謝料を請求したって銅貨一枚儲かるわけがない。あの計画犯パルティータがそれを分かっていないわけがない。だからこの看病が金目当てでないことくらいきっとこの吸血鬼も承知している。
それでも出てくるこの悪言。
ルナールは白い目で男を見やった。
(いい歳して、女の子相手にやきもち焼くんだからこの人は……)
「滅びかけている者を助けようとしてはいけませんか」
一方パルティータもパルティータだ。普段は主の揶揄なんて軽くかわしているのに、今日は虫の居所が悪いのかやけに突っかかる。
「魔物と人間が関わるとロクなことにならない」
「では灰になった貴方を助けたのも間違いですか」
「私は別だ」
「そうですね」
「私は滅びない。何があっても」
吸血鬼の声に重みはなかった。それはその男にとって誓いでもなく約束でもなく、必然だからだ。現に彼はそんなことを言いながら、バスケットに盛られたクッキーをぱりぱりとかじり、空になったグラスを未練がましく弄んでいる。
「…………」
傾けたカップの淵からルナールが盗み見たパルティータの顔には、何色ものっていない。彼女はただ、確かに質量のある視線で主を見ていた。
(……ああああ、嫌なかんじ)
例えて言うなら、夫婦喧嘩に挟まれた子供の心境だ。
逃げ出したいが逃げ出すタイミングが掴めない。どうにかして雰囲気を和らげたいが、何を言っても火に油を注ぎそうで無駄に緊張する。だんだん息をするのも苦しくなってくる。神様、僕は地上で溺れ死にそうです。
だがそこへ、女神が現れた。
「ユニヴェール様、暗黒都市から会議召集のお手紙です」
おだやかに食堂を潤す薄氷の声。
ユニヴェールの三使徒のひとり、暗黒都市から帰宅したのだろう蒼の魔女フランベルジェだ。
彼女は部屋の空気に何を感じた様子もなく優雅な足取りで主へ寄ると、一枚の黒い紙を手渡した。
「日付は?」
「本日だそうです。これからすぐ」
「噂をすれば、だ。議長はエーデルシュタインだと」
ユニヴェールは紙を裏返して確認すると、鼻先で嘆息。
それを見ていたパルティータは、
「……お支度を」
それだけ言い残し、まわれ右をして食堂から出て行った。
「…………」
テーブルの上にはさっきまで彼女が抱えていた本が残されている。
ふと手に取り表紙に目を通した瞬間、苦虫を噛み潰した顔になるユニヴェール。
ルナールは彼の手元をのぞきこんだ。
装丁は深い紫紺。表題は美しい金字。
『吸血鬼の飼い方 マリー・テレストル著』
あぁ……フリード・テレストルの母親だ。
◆ ◇ ◆
ユニヴェールが屋敷を発ってから数時間後。
「さっきから変な人がうろついていますね」
ルナールは食堂の窓から外を監視し続けていた。
積もり積もった雪の中、少し前から長身一人、中背中肉一人、小柄が一人、計三人の男がこちらの様子を伺っている。彼らの純白の法衣は容赦ない寒風に音をたててはためき、その背には黒く染め抜かれた十字架。
本人たちが寒がっている風はないが、あんなものだけで風邪をひかないか、他人事ながら心配になってしまう。
「ソテール・ヴェルトールたちとは違う衣装ですね?」
「えぇ。あれはクルースニクではないわ」
ハーブティを手にしたフランベルジェが窓際で目を細め、白い手をさする。
「クルースニクの紋章ではないもの」
「じゃあ、彼らはなんです?」
「さぁ……でも教会の関係者ではありそうね。寄付でも集めに来たんじゃないかしら。私たち、仕事がない時はよくやっていたわ。いかにも正義の代理人って顔をしてね、寄付しなきゃ地獄に落ちるわよって殺し文句を使うと効果抜群だったの」
「……あぁそうですか」
それは殺し文句ではなくて脅し文句でしょう。ルナールが心の中でひっそり訂正した時、
「ねぇ、来たよ!」
窓枠にしがみついていたシャムシールが嬉しそうに飛び跳ねた。帽子のぽんぽんもあわせて飛び跳ねる。
時を同じくして扉を叩く音、“どちら様でしょう”と玄関で響くメイドの声。そして何言かのやりとりがあり、扉を開ける音がする。
ルナールが黒衣を翻し音なく向かえば、彼の目に映ったのは白い正義の味方に手首を掴まれたパルティータの姿。
「…………」
彼は問答無用で抜剣した。
次瞬、
「──ッあああああああ!」
ほのぼの雪景色をつんざく絶叫が上がり、うるさそうに眉を寄せたメイドが後退し、玄関先の雪の中に宙を飛んだ不届き者の手首がぽとりと落ちた。
後を追ってぱたぱた降り注ぐ鮮血。
「うちのメイドにばっちい手で触らないでください」
喉が裂けんばかりの悲鳴を上げて血の海を転げまわる白の男を見下ろしながら、ルナールはパルティータを屋敷の中へ押しやった。
「で、この方たちはどういうご用件でいらしたんです?」
「斬ってから訊くなよ!」
金髪の、小柄な正義の味方がつっこんでくるがとりあえず無視をする。
「パッセを返せですって」
「だってパッセはエーデルシュタイン卿の所有物でしょう?」
「私が拾ったものは即私のもの。私のものはユニヴェール様のもの。よってパッセは現在ユニヴェール様のものです」
パルティータが屁理屈をこねてくるがそれも無視をする。
「なんだって、“クルースニクではないけど教会関係者”の人たちが吸血鬼を返せなんて言ってくるんです?」
「なんだその説明的な命名は!」
「じゃあ貴方たちは何なんです?」
「異端審問官」
「異端審問官?」
「お前異端審問官も知らないのか! 正式には教皇グレゴリウス九世が──」
「知っています」
仲間が蒼白になってのたうちまわっているというのにわざわざ解説を付けて来る男を押し留め、彼は血糊のついた中剣を男の顎下に突きつけた。
「ではついでにもうひとつ。異端審問官がどうしてその剣を持っているんですか」
ルナールが視界で捉えていたのは、後ろに控えた長身の男が気配なく構えていた剣。
雪の如く白い男の長髪と相まって更に冷たい光を放っているその銀剣は、かつてシャルロ・ド・ユニヴェールも手にしていたヴァチカンの聖剣だ。
本来ならばクルースニク以外が手にしてはいけないはずのものではないのか。
「確かに聖剣はクルースニクにしか支給されない。だがだからといってクルースニクしか持っていないわけではないだろ」
なるほどね──ルナールは道化の顔をほんの少しだけ緩ませた。
人の世は深くて複雑で面白い。
どうせ自分はその敗者なのだろうが、記憶がないのだから嘆く必要もない。ナイナイ尽くしで存在し続けているのなら、空になった分だけ謳歌を詰め込むまでだ。
「了解しました。では始めに戻ります。吸血鬼が飼っている吸血鬼を、何故異端審問官殿が“返せ”とおっしゃるのですか?」
「約束だからさ」
「誰との?」
「神との」
男の不適な笑みが言葉の終わり。
次瞬、聖剣閃きルナールの剣先が弾かれ二人の間に距離が生まれる。
「こいつを運んどけ」
男が背後に向かって言うと、長身の男が無表情のまま不機嫌な声を出す。
「俺にも遊ばせろよ」
「余ってたらな」
「余りません」
ルナールは律儀に口を挟んで雪を蹴った。
「そうかい」
軽捷な応えと、森を貫く剣響。そして身体を震わす衝撃波。
音の消滅を待たずに斬り重ねたルナールの一撃は再び止められ、返される一閃が飛び退く彼を追って空を薙ぐ。
雪が粉になって舞い、視界が白く染まった。
飛び退き宙空で後転したルナールは、着地と同時重心を落とし、飛び込んできた男を斜めに斬り上げる。
だが腕には硬い痛撃。
耳にはざらつく金属音。
すぐさま身体ごともう一撃。
かわす男を追走し、愛剣を雪に疾らせる。
「クルースニクでもない人が、」
「よくやる、か?」
ルナールのつぶやきを拾い、男が振り向き様の連斬。
金髪の奥から笑ってくる。
「あんな軟弱な狗とは違うんだよ」
陽光輝く銀剣の閃きがルナールの視界を横切る。
──間合いが狭い!
彼は大きく前転跳躍。
黒衣を濡らして新雪に降り立つと、身体を反転させた異端審問官が聖剣を握り直してこちらを見据えていた。
「…………」
互いに抑えた息の中、ルナールの地獄耳に届いたのは馬車の音。
おそらくは、フランベルジェが気を利かせてパッセを暗黒都市へ連れて行ったのだろう。向こうのユニヴェール邸に行けば何人も──魔でさえも──無断で立ち入ることは許されない。
「クルースニクとは仲がよろしくないようですね」
「あいつらは、誰のことも愛していない」
「──へぇ」
ルナールは顔にかかる黒髪を払い、へらっと口端を崩す。
「そうなんですか」
「そうなんだ」
今度は向こうが先に雪を蹴った。
◆ ◇ ◆
「パルティータ・インフィーネ」
男の遠い真正面。
椅子に深く腰掛けた少年が、飾った嘆息を漏らした。
その瞬間、沈黙が積もり積もった部屋の中にわずかな揺れが生じる。それは緊張とも高揚ともつかないざわめきの波紋。
「お聞きしますが、ユニヴェール卿」
光にあっても闇にあっても忌避される名が、呼ばれる。
「何です?」
返ってきた存外まともな答えに、円卓に集った者たちは遠くを見る目をしてふたりを視界におさめた。対峙する華やかな少年と、不遜な麗人。
「貴方はいつ、彼女の首を刎ねるおつもりですか」
人の世の裏、広大無辺に煌く暗黒都市。その中枢たる女王の居城に、魔物が集まっていた。
女王下、非公式に開かれる貴族会議。通称──オンズ。その名のとおり、構成員は秘裏に選ばれた11人だ。
「……というと?」
ユニヴェールは足を組み肘掛にもたれ、露骨に気のない顔で片眉を上げた。昔から──クルースニク時代から、“会議”と名の付くものは嫌いだった。ひとつの空間に縛り付けられているという事実が気に入らないし、議題が自分の屋敷内の話となればなおさらヤル気がなくなる。
内政干渉だ。
「貴公は我々が何も知らないでいると思っているのか」
誰かが少年の言葉を継いだ。誰なのかは分からない。分からなくても問題ない。
「あの女は魔に滅びをもたらす」
「危険なのだよ」
三百年前から、似たような台詞を何回聞いただろう。ローマで、暗黒都市で、……そして生家で。人も魔物もまるで進歩しない。
あいつが危ない、あいつには気をつけろ、そうやって自ら次々敵を作って闘おうとする。そうやって、彼らは自ら世界を狭く厳しくしてゆく。
「……貴方がたはお強い。怯えることもないでしょう」
ユニヴェールは、もたれた背を起こすことなく答えた。
だが、
「我々が怖れているのは娘個人ではない。セーニの血だ」
間髪入れず返されて、ユニヴェールの柳眉が寄る。
「ユニヴェール卿、セーニをあなどってはいけません」
円卓を代表するように少年が身を起こした。単色の世界に一輪だけ咲いた色鮮やかな薔薇の如く、彼はいつも鮮烈だった。人間が見たら“天使”と表現するに違いない。大天使ミカエルと共に槍で魔を薙ぐ聖なる者だ。
「セーニ……コンティ家の血は、世界の流れを変える力を持っています。貴方が嫌いな言葉で言えば、“運命の力”。彼らの運命に巻き込まれて歴史が渦を巻く様を、貴方も随分ご覧になってきたではないですか」
言わずと知れたユニヴェールの飼い主インノケンティウス三世。異端審問官の生みの親にして、かのカステル・デル・モンテのフリードリッヒ二世を破門したグレゴリウス九世。そしてフリードリッヒ二世亡きホーエンシュタウフェン家を更に泥沼化させたアレクサンデル四世……すべてセーニの血を汲む者。
「魔物も同じです。あの娘に関わった魔物は、セーニの運命の力に呑まれて滅びます」
「お言葉ですが」
ユニヴェールは静かに異を唱えた。
「私は滅んでおりません」
「だが彼女が現れた十年の内に首を落とされ、あげく微塵の灰になりましたね?」
「…………」
吸血鬼は紅の視線を上げ、少年を見据えた。怜悧な目に捕らえられた少年は、しかし微笑を含んで平然と見返してくる。
少年の言いたいことは分かっていた。“化け物の中の化け物”が、あまりにも短期間に醜態を晒し過ぎだというのだろう。
「そのうえ──」
「アデリーヌやフリード・テレストルも付け加えますか?」
更に続ける彼を遮り先手を取ったつもりが、
「彼女がヴァチカンを出奔した際、手を貸した魔物がいたらしいですよ。噂によれば、もうとっくに滅んでいるとか」
外れる。
「それはそれは大変なことですね」
言葉を交わすたび苛立ちが増してくるのは自覚していた。何に苛立っているのかは分からないが、長居は無用だ。
「それで? なんだかとっても怖いからウチの優秀なメイドを私の手で殺せとおっしゃる?」
「我々が殺っても構いませんが」
「ほう。そこまでしてセーニを葬りたい、と。それはまた、随分とご自身の力に自信のない方々が集まっておられるようだ。有事ともなれば我先にと逃げ出すのではありませんか」
「予見できる有事にはあらかじめ手を打っておくのが賢明でしょう」
「人間ではあるまいし」
ユニヴェールは薄く笑った。
だが横合いからその笑みに低く杭が打たれる。
「お忘れか、ユニヴェール卿。インノケンティウスはその運命の力で陛下の母上を──」
刹那、
<よい。……黙りゃ>
11人しかいないはずの部屋に、物憂げな女の声が降ってきた。少女のようでいて、老獪。鈴を鳴らすようでいて、深奥。
「しかし陛下」
<この男には何を言うても無駄え>
『…………』
互いの顔がようやく分かる程度の明かりの中、再び沈黙が積もる。地上を白く染めている雪の如く、肩に、髪に、指先に、わずかな重みが重ねられてゆく。
<面白ければ囲う。飽きれば捨てる。──のう?>
女の言葉に、ユニヴェールは吐息で笑った。
そのまま少年を見やると、澄ました顔から含みが消えて無表情がのっていた。子供特有の、透明な残忍さが潜む人形の面。
とはいえ齢は数十年、そろそろ生前を知る者が死に絶える頃か。
ユニヴェールはしばし少年を眺めていたが、白い手袋のはめられた指で己の唇をひと撫で、立ち上がった。葡萄酒に漬け込んだような絨毯を軽く踏み、円卓に背を向ける。
『…………』
だがしかし、断りもなく退席しようとする彼を非難する声はなかった。
まだ夏の“ジェノサイド失敗”は、暗黒都市の傷となって残っているのだ。負い目となり、引け目となり……魔貴族は人よりも敏感に強弱を感じ、己を保身する。
<ユニヴェール>
彼が扉に手をかけると、背後から声がかかった。
<母上のこと、赦したわけではないえ>
彼は振り向き、一言だけ返した。
「結構」
城の廊下は広く、高く、暗く、長い。
一見して分かるとおり、この城はロワール渓谷に点在するどの城よりも壮麗で、莫大な財が糸目なくつぎ込まれている。
設計者、建築者は、死してなお美への欲念消えぬ古の賢人ばかり。
見上げればため息、見下ろせば笑み。
赤い月を背景にそびえるこの黒い城は、神を裏切り魔へと堕ちた者たちが競争心と才能のままに創り上げたまさに芸術の粋、力と狂気の象徴だった。
オンズの会合を辞したユニヴェールが歩いていた回廊も例に漏れず、両側にこれでもかというくらい化粧漆喰の装飾が施されていた。
“生”、“死”、“時”、“大河”、“暁”、“黄昏”……まとわりつく薄闇の中に白く擬人化された哲学たちは、自由を奪われた恨みの眼差しで、解放を求める眼差しで、静寂の漂う虚空を見つめている。枯れない華が死なない鳥が、咲き続け歌い続けている。
その肢体ひとつひとつに芸術家たちの常軌を逸した執念が宿り、広々と絢爛なはずの回廊には、重く濃い空気がどんよりと停滞していた。
人が迷い込んだら毒気にあてられひとたまりもないだろう城。ユニヴェールは目を細め哲学たちの呪詛を聞きながら“未来”を過ぎ──。
「…………」
彼はそこで足を止めた。
彼の向かうべき方向にひとりの少年が立っていたのだ。
ませた衣装に身を包み、今までもそしてこれからも挫折など知らないだろう澄ました顔の少年。先程の会議で円卓を率いていた少年だ。そして彼は、
「私に御用ですか? エーデルシュタイン伯」
パッセを飼っていた吸血鬼でもある。
「ユニヴェール卿、貴方にひとつお聞きしたいことがあります」
「私に答えられることならば、何なりと」
ユニヴェールは流れる動作で腰を折った。
だが、顔を上げながらゆっくりと少年に合わせられた紅の双眸は、奥底で光る冷笑を隠そうともせず。しかし少年もそれを不快と表さず。
二匹の魔物は遠すぎる距離を置き、世間話の軽さで会話を続ける。
「最近私の家の者がひとり行方不明になってしまいまして。情報網のお広い卿の耳、何か入ってきてはいませんか?」
「家の者というと、ご家族で?」
「いいえ。使用人です」
「貴方が使用人にも気を巡らすとは珍しい。しかし残念ながらご期待には添えないようです」
エーデルシュタインはおそらく、ユニヴェールの屋敷にパッセがいることを知っている。本当に探しているのなら先程の場でオンズ全員に訊いた方が利口というもの。一対一を選んだということは、“私はお前が拾ったことを知っている”と、暗黙に告げていることに他ならない。
だから、吸血鬼の中の化け物は嬉々として白を切った。
その方が面白いからだ。
「力及ばず申し訳ありませんが、幸い伯爵の人脈は私より優れておいでだ。そちらを頼られるのが得策かと思います」
「…………そうですか」
少年が沈黙したわずかの間は、撤回の猶予だったのだろう。だがユニヴェールは満面の愛想笑いを浮かべたまま瞬きひとつしなかった。
「……それなら良いのです。もし誰かが匿っているようならば──、誘拐としてあらゆる手段に出ようと考えていましたから」
「誘拐?」
「えぇ、誘拐です。相応の報復は当然になりますね」
少年の存在も笑みも声も凛と美しいのに、回廊の空気はいつまでも濁り淀んだまま、色を変えることはない。強すぎる華の香のような支配、そして閉ざされた花園のような背徳。それらは城を包み都市を包み、そこに住まう死者たちをも呑み込む。
いかに美しかろうが醜かろうが、結局は“死”に同化する本質は皆同じ。
化け物に化け物扱いされるユニヴェールとてそれは同じ。
「誘拐ねぇ……」
彼はつぶやき、同胞に向かって一歩踏み出した。
「それは違うと思いますよ。吸血鬼の存在は点に等しく、吸血鬼の歩んだ道は線に等しいのですから」
「…………」
エーデルシュタインからの返事はない。
「貴方は、エウクレイデスの“原論”をご存知か?」
ユニヴェールは温度のない目を少年に戻し訊いた。
すると、険しい顔をしていた少年に余裕が戻る。
「……点は部分を持たない。線とは幅のない長さ」
「そのとおり」
古代ギリシアの数学者エウクレイデスが著したと言われる数学書、“幾何学原論”。それはまず23の定義から始まる。
ひとつ、点は部分を持たないものである。
ひとつ、線とは幅のない長さである。
ひとつ、線の端は点である。
ひとつ、直線とは、その上にある点について一様に横たわる線である……。
そしてこの定義たちを礎に、いくつもの定理を証明する長い旅が始まる。この延々と続くなだらかな登り坂をひたらすら歩む様は、とても正気とは思えない。終わりに財宝があるわけでもなければ、その瞬間誰を救えるわけでもないのだ。あるいは賛美すらないかもしれない。
しかしそれは、剣を持たない者たちが世界の正体を暴こうとする、最も洗練された神への挑戦とも言える。
「エウクレイデスによれば、点は、位置はあれども大きさがない。線は、位置と距離はあっても幅はない。──まさに吸血鬼そのものではありませんか」
ユニヴェールはコツコツと軽快な足音を立ててエーデルシュタインへと向かう。
「存在はあれども生命の実体はなく、存在し続けていれども歴史には刻まれない。実体のないものがいくら連なっても、結果はゼロです。“無い”ものを誘拐するなんて、誰にできましょうね?」
言い終えた時、彼は少年の真ん前に立っていた。
「誰にもできますまい」
「ユニヴェール卿」
押し殺されたエーデルシュタインの声は、鋭かった。
「私は、いなくなった者が“吸血鬼”であると言いましたか?」
少年はユニヴェールを仰ぐことなく、回廊の奥へ視線を固定し続けている。
「いいえ」
ユニヴェールは彼の詰問を鼻であしらった。回答は楽しく朗らかに。
「貴方はご自身に誇りを持っていらっしゃる。そんな貴方が執心なさるのは、同じ吸血鬼くらいのものだろうと思っただけですよ。ただ──何かに心動かされるような御方だったとは、驚きでしたが」
「私には、貴方が、貴方自身を滅ぼすだろう娘を飼っていることが理解できません」
「えぇ、お小さい貴方には分からないでしょう。滅びを愛する楽しさなんてね。男の浪漫ですよ」
喉の奥で笑うと、少年の硝子の瞳にギロリと睨まれる。あからさまな敵意の含まれた横目。
たかがセーニ一匹、吸血鬼一匹の話、そんなに恨まれるつもりはない。シャムシールも同様、つくづく子供は何を考えているか分からないものだ。
「女の罠にはめられて無様なことになっても知りませんよ」
「女の手の平で踊ることもできない男なんて、芸術のないフィレンツェのようなものです」
「…………」
零下の睥睨を残して去って行く小さな吸血鬼。
その後姿を見送りながら、彼の言っていた言葉を思い出す。
“あの娘に関わった魔物は、セーニの運命の力に呑まれて滅びます”
「セーニの力、ね」
パルティータがああもパッセに固執しているのは、“セーニの血が持つ運命の力”とやらを感じているからなのだろうか。
自分に関わる魔物は皆滅びてゆく──そう感じているからこそ、あの出来損ない吸血鬼を滅ぼすまいと懸命なのだろうか。
考えて、麗人は自嘲気味に首を振る。
──あの娘がそんなタマか。
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Akihiko Matsumoto[LIGHTSより/I Know Your Dreams]
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