冷笑主義
第16話 王家の結婚
後編
数日後の早朝。
シャムシールとルナールはアンボワーズから離れ、オルレアンのほど近く、モンタルジの街に来ていた。
セーヌ河の支流、ロワン川の流れが街にめぐらされた、小さな運河の街。
まだ薄暗く霧が立ち込め、羽ばたく鳥の姿は黒い影。
「こんな田舎へ来てどうするんです?」
ずんずん先を歩いてゆくシャムシールにルナールが訊くと、
「ここに摂政様がいるんだって」
少年は振り返りもせずに返事を寄越す。
「で?」
「頼むのさ」
「何を」
疑問符の数が多すぎたのか、少年がガバッと身を反転させてきた。
しかし怒っているわけではなさそうだ。
その証拠に、彼の大きくて丸い金色の目は何かできらきらと燃えている。
「マルグリット・ドートリッシュを条件なしでオーストリアに返すように頼むんだ」
確かに離縁同然とはいえ、彼女はまだフランスの手の中にいる。あの冴えた女摂政のことだ、マルグリットをそのまま手持ちの札に加えようとしていても不思議ではない。
彼女は、将来のローマ皇帝に対する必勝切り札にさえなるかもしれないのだから。
「頼むんですか?」
「そだよ」
「脅すんじゃなくて?」
「そーとも言う」
主顔負けのケロリとした口調で言ってのけると、法衣に着られた少年は再びずんずん歩き始める。
「そうですか」
「でも僕ひとりだと門番とか衛兵とかに追い返されちゃうでしょ。剣向けられたら怖いし。だから一緒に来てよ」
いかに希代の動物使いとはいえ、身長のハンデは大きい。
用心棒を用意するのは賢い対策だ。
「はいはい分かりました。僕をこの面倒臭い家に引きずり込んでくれたのはあなたですしね、何でもやりますよ」
ルナールは、シャムシールのねずみを追いかけまわしていてこの少年に捕まった。
そして化け物に突き出されて今に至る。
「……ユニヴェール様怒らないかな」
ぽつりと声を落とすシャムシール。
「怒らないと思いますよ。あの人身内には砂糖菓子より甘いから」
根拠になっているようななっていないような、つまり無責任なルナールの言葉だったが、
「マルグリットには直接関わってないもんね」
少年は気を取り直せたらしい。
「そうですね」
いい加減な返事をしてから、
「……ほら、やっぱり必要なかった」
ルナールはひっそりつぶやく。そして黒衣の中から一枚の手紙を取り出した。
「なんか言った?」
「なんでもありません」
広げた羊皮紙の上には、主からの一行とルナールからの返事が一行書かれていた。
──介入すべきか?
──Non.
「過保護なんだから」
ルナールが丸めたそれを明け方の空に放り投げると、一羽の烏がぱしっとくわえてパーテルの方向へと一直線に消えていった。
◆ ◇ ◆
「何者だ、お前たちは!」
いくら聞き飽きた台詞だからと言って耳を塞いではいけない。
それが彼らのお仕事なのだから。
だぶだぶ法衣の明るい少年と、あからさまに不審な黒尽くめの不健康そうな剣士と、そして彼らふたりの後ろにいるねずみの大群とを追い払うお仕事。
「答えろ!」
ねずみたちがてんでばらばらにきぃきぃ騒ぐ声がうるさすぎて、門番たちの声も絶叫に近くなっている。
「僕はシャムシール。こっちはルナール」
「はぁ!? もっと大きな声で言え!」
「僕はシャムシール! こっちはルナール! パーテルから来たの!!」
「聞こえねぇよ!!」
「──ルナール、やっちゃって!」
シャムシールは、けっこう気が短い。フランベルジェよりも。
「了解」
答えた時すでに、ルナールの剣は疾っている。
踏んだステップは門番の数だけ。
囁くような靴音と共に次々転がる屍。
警告の叫びを上げる間さえも与えず最後のひとりを斬り捨てると、剣士はそのまま大きな門扉を蹴破り、少年を振り返って恭しく腰を折る。
「はい終了。お通りください、坊ちゃま」
少年の背後、遥か稜線に太陽の金色が走るのが見えた。
腐っても鯛。
小さくてもユニヴェール家の一員。
門前での一件はすぐさまアンヌ・ド・ボージューに伝えられたのだろう。そこから先はそれほど死人を出さずに会見場へたどり着くことができた。
もともと、フランスの摂政ごときにあの吸血鬼の手下を拒む力はないのだ。
会いたいと言われれば、会うしかない。
「それで、ユニヴェール卿は私に何をお望みですか?」
あからさまに顔をしかめて、アンヌ・ド・ボージューが部屋に現れる。
若さを過去に置いてきてもなお、理知的な顔貌は変わらず声も凛々しいフランスの摂政。白のレースが引き立つ深い枯葉色のドレスをまとった彼女は、ぶつぶつ言いながら小さな椅子に腰掛けた。
「こういうことには口を出さない方だと信じていましたが」
「ユニヴェール卿は、何も」
使者は剣士の方だと思い込んでいたのだろう、アンヌの目が驚きを含んで発言者に向けられた。
「僕からお願いがあって参りました」
「あなたは──」
「シャムシール。三使徒の一番小さいのです」
「まぁ。そう」
何故だか彼女の口調が柔らかくなった。
しかも可愛らしい愛玩動物を見つめる目になっている。
「今日は、マルグリット・ドートリッシュのことできました」
「陛下とアンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を取り下げる気はありませんよ。もちろん、マルグリットとの離縁も」
感情と現実は別物だったらしく、彼女はぴしゃりとはねつけてくる。
「彼女をすぐにオーストリアへ返してください」
負けじと要求をぶつけるシャムシール。彼は女摂政へと歩み寄り、一枚の羊皮紙を突き出した。
「誓約書です」
「…………」
受け取ったアンヌ・ド・ボージューが大袈裟に眉をしかめる。
「……随分と細かい規定だこと」
「大雑把では抜け道ができてしまうからって」
「誰が」
口を挟んだルナール。
「パルティータ」
額を押さえる。
「……どいつもこいつも過保護なんだから……」
しかしフランスの摂政殿は誰が書いたかということ以前に、その文面自体がお気に召さなかったらしい。
「私がこれに同意する理由はあるかしら?」
誓約書を掲げ、呆れた半笑いで睨んでくる。
対して、
「国民を失いたくなければ」
シャムシールはにっぱり笑って言った。
「あら。ユニヴェール卿のようなことを言うのね」
手の甲でころころと笑う女摂政。
しかし、
「黒死病」
シャムシールのそのひと単語でアンヌの顔が強張った。
「中庭をご覧になった方がいいかもしれませんよ」
追い討ちをかけるルナール。
「…………」
摂政はその忠告に従い、剣士を疑わしげに見つめながら中庭の見える大窓へと寄る。
深紅のビロードカーテンを開けて下を覗き込み、
「!」
その聡明な眼差しが見たものは。
「鼠が黒死病に関係していることはご存知ですか?」
芝生の緑を覆い尽くし、灰色に蠢く動物の群れだった。
モンタルジ中のすべてを集めてもまだ余りあるだろうほどの鼠鼠鼠。
互いの背を踏み台に、白い壁を、植えられた木々までを侵略しようとうねっている。
毛のかたまりの中で、裸の尻尾だけが別の生き物のように飛び跳ねている。
「国民のいない国王なんて滑稽だと思わない?」
朝焼けが連れてくる鳥たちの歌は、悲鳴なのか怒声なのか鼠たちの休むことない大きな私語にかき消されている。
「……たかが子爵の分際で、よくまぁこれだけの手駒をお持ちだこと」
「だ・か・ら、ユニヴェール卿は関係ないんだって!」
シャムシールの地団太は無視される。
「死人なら死人らしく死んでいればいいものを」
「未来と戦うことは、過去の亡霊と戦うことに等しいと思いませんか?」
ルナールが言うと、
「今まさにそう思っています」
ぎろりと睨まれる。
しかし彼はしらっと続けた。
「それが歴史というものです」
「詭弁です」
「しかし選択肢はあるのですよ。しかもあなたが選べるのです。国民を手放すか、マルグリット・ドートリッシュを手放すか」
「…………」
短い沈黙が部屋を支配する。
「……ペンと国璽を用意しなさい」
アンヌ・ド・ボージューは背後で控える秘書に告げた。
「そういえば──あなた方のところに“パルティータ”という娘がいましたね? ユニヴェール卿を戴冠式に出席させてくれた」
誓約の証が用意されるまでの間、摂政がふと漏らした。
「いますけど」
「彼女を探しているという男がここにやってきたそうですよ。両目を包帯で覆った不思議な男だったとか」
一拍置いて。
「門番のひとりが応対したようですが……」
「斬っちゃったかもしれませんねぇ」
「お知り合い?」
ルナールとシャムシールは顔を見合わせ首を傾げる。
『──さぁ』
◆ ◇ ◆
数日後のユニヴェール邸。
「摂政殿からお手紙だ。契約違反だから金を返せ、だと」
久しぶりにガウンのままお茶をしていたユニヴェールが、手紙を差し出してきた。
「契約? あぁ、今回の結婚騒動には一切の手出しをせず、でしたっけ」
彼の横でケーキを食べていたパルティータは、皿の上を綺麗にしてから受け取る。
今回のドタバタ劇、彼女はユニヴェールの名前を使い多額の『何もしない料』、つまり手出し止め料をフランスから受け取っていた。
ただし、本件はユニヴェールも了承済みである。
バカな配達員が偶然ユニヴェールに手渡してしまい、途中でやり取りがバレたからだ。
「やはりシャムシールが乗り込んでいったからな。マルグリットを戦略の駒には使わない、2年以内にオーストリアへ返すと誓わされたんだと」
「へぇ」
主の楽しそうな報告を聞き流し、摂政殿の怒りを抑えに抑えた文面を斜め読みし、彼女は席を立って飾り棚の引き出しから一枚の契約書を取ってきた。
「契約違反ではありませんよ。ほら」
パルティータはフランス側の用意した明瞭簡潔な一文を指差す。
『シャルロ・ド・ユニヴェールはこの婚姻・離縁に関して一切手出しをしないこと。』
その下にはユニヴェールのサインが書かれ烏揚羽の紋章が押してあり、約束は厳かに結ばれている。
「今回手を出したのはルナールとシャムシールです。この書面では、家人が手出しすることは禁じていません。もし仮にユニヴェール様が命を下したのだとしても、口出しすることを禁じていませんから問題はありません。庶民の税金は我々のものです」
働かずして大金をせしめた吸血鬼は、しかし何故か深く深くため息をついてきた。
「……それを穏便な文章で伝えなさい」
◆ ◇ ◆
フランス国王シャルル8世とアンヌ・ド・ブルターニュの結婚式は、この年の秋、ランジェの城で行われた。
国王の戴冠式に現れ出席者を仰天させた吸血鬼は、しかし今回は姿を見せなかった。
暗黒都市でパルティータやフリード・テレストルについて言及されて機嫌を損ね、招待状なんぞ中も見ずに破り捨てたからである。
結婚式の翌日。
国王の紋章を刻んだ馬車は、アンボワーズの城にあった。
正面ではなく裏にひっそりと。
そして、陽が高くなってから厳かにやってきた馬車は今、城の主のもとから永遠に去ろうとしていた。
マルグリット・ドートリッシュは十字の窓の隅からそれを見下ろし、じっと口を結んだ。
小さな王妃と愛されて、きらびやかな花園に植えられ、百合の花の傍で育った数年間。
王のために高貴に、王のために美しく。
だがそれも花園を追い出されれば虚しい幸せ。
嘆きとも憎しみとも分けられぬものが涙となって流れてゆく。
そしてふと、彼女はロワールの対岸にふたつの影を見つけた。
黒い男がひとり、少年がひとり。
彼の金色の目と視線があったと感じた瞬間、
──私、あなたがいれば何があっても耐えられる気がするの。
かつて彼に告げた言葉が鮮やかに蘇る。
「!」
同時、凄まじい羽音と共に白い鳩の群れが彼女の視界を遮った。
鳩たちはガラスにぶつからんばかりの勢いで横切り、曇りはじめた灰色の空を大きく旋回する。
抜け落ちた羽がふらふら舞い、羽音は近付き遠ざかり、空気を震わせどこかを目指して飛んで行く。
思わず呆気にとられた彼女は、次瞬ハッと我に返り視線を川岸に戻した。
しかしそこにはもう、魔物の姿はない。
そこにあるのは、この城へ来た時と何ひとつ変わらない、穏やかなロワールの流れだけだった。
THE END
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※ この後のマルグリット・ドートリッシュは、度重なる夫の早世など結婚生活はあまり恵まれませんでした。
しかしアンヌ・ド・ボージュー並みの政治手腕を発揮し、ブルゴーニュを女総督として統治。甥であるカールの摂政も務め、神聖ローマ帝国皇帝カール5世誕生の一翼を担いました。
フランスのフランソワ1世との激戦を制した戴冠だったため、彼女としては復讐を果たしたことになるかもしれません。
BGM by THE
SWAN LAKE BALEET,Op20[ Valse -from Act 1 ]
Carl Orff [Carmina Burana]
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