冷笑主義

第20話  ゴルゴタの丘

後編



「どういうつもりだ?」
 城の暗い廊下を歩きながら、アスカロンは前を行くユニヴェールに訊いた。
「交換条件の意味が分からない」
 ルナールに関してはパルティータに丸投げしたに等しい。こちらからすれば、彼女を承諾させることに比べたら、ユニヴェールの承諾なんてゴミみたいなものだ。
 しかし暗黒都市はおそらくユニヴェールの承諾の方に重きを置いている。ならば「魔女キルケのフェッラーラ経由入り」なんて条件よりもっと実のありそうな条件を出しても飲んだはずだ。
「ルカ・デ・パリスはすでに死んでいる。構成の都合上説明は割愛するが、私が殺したからな」
「パリスって、あぁ、デュランダルの新しい隊長か。……はァ?」
 ひとりで納得して、ひとりで首を傾げる。
「なんで死んでる奴がヴァチカンにいて、しかも隊長になってるんだ?」
 出掛けのユニヴェールとパルティータとのやり取りに「割愛」が凝縮されているんだろうが、この際知らなくても話は進む。
「パリスの殻の中に何か面白いものが入ってるんだろう。それがフェッラーラを惑わしてパリスの死をなかったことにしている」
 白昼夢に耽る小都。
「……そうか、ソテールはパリスの素性を疑ってフェッラーラへ探りに行ったのか」
 更迭されても聖なる血筋。何かの匂いを嗅ぎ分けたのかもしれない。
「三千年の魔女キルケが足を踏み入れれば、呆けたフェッラーラも飛び起きるだろう。多少の小細工はあの女の存在だけで吹き飛ぶ」
「ソテールに助け船を出したのか?」
 アスカロンの何気ない問いかけに、肩越しに寄越された吸血鬼の目が紅く光る。
 薄闇に余韻の残るテノール。
「現状を砕いて先に進んだ先が幸福だとは限らないさ。決めるのは私ではない」
 そして男は顔を戻して黒衣を翻す。
「さて、次の手を打っておくか」


◆  ◇  ◆


「──というわけでソテール・ヴェルトール当人はデュランダルの隊員が全力を挙げて捜索中です。……しかし!」
 被審問者であるソテール・ヴェルトールが逃亡して不在という前代未聞な(だが半ば予想されていた)状況の中、審問会は予定通り開かれた。
「今までの彼の功績は皆様のお手元の資料にある通りです」
 教皇庁内の講堂に明瞭なルカ・デ・パリスの声が響く。
 白く長い隊長衣に身を包んだ彼は、分厚い紙束を掲げばさばさと振ってみせた。
「これが、みなさんが彼に救われた、あるいは彼を利用した全記録、全ての歴史です」
 栄華を極める大聖堂、教皇庁それ自身の彩りとは反対に、講堂の壁は石造りそのままの灰色をさらしている。
 両側面には細い尖塔アーチの柱が整然と列を成し、その奥にある窓から光が差し込む。
 まばゆい光、照らされ白になる灰色、光によって生まれる影。
 そこにあるのは、色が無いゆえに漂う冷たい清浄の空気。
「事前にお配りしましたが、読んでいただけましたか?」
 大きな楕円の円卓に着席しているのは、選ばれし聖人たちだ。
 奥の細窓を背に審問委員長。そこから両側へ広がる委員。しかしその全員が司祭枢機卿か助祭枢機卿であり、枢機卿団(カーディナルス)の中でも最も位の高い司教枢機卿の姿はない。
「みなさんがお生まれになる前から活躍しておられましたからね、ソテール・ヴェルトールは。ご存知ない事も多かったことでしょう」
 緋色の集団の対角線上には本来ソテール・ヴェルトールがいるはずの空席があり、その近くに参考人としてシエナ・マスカーニ枢機卿──強いて言えば彼女だけが司教枢機卿である──、ルカ・デ・パリス、ミトラ・マンノウォー、カリス・ファリダット、フリード・テレストルが席を用意されていた。
 デュランダルのかつての上司であるヴァレンティノ・クレメンティにも出席の打診をしたというが、多忙を理由に断られたとか。しかしその連絡一切をマスカーニが行ったらしいので、真偽は怪しい。
「こんな会が開かれるのもおかしいくらいの功績ですよね? シャルロ・ド・ユニヴェールの吸血鬼化を防げなかった件、少々難ありな統率力、時折の命令無視、そんなものたいした傷ではありません」
「そのユニヴェールに我々がどれだけ頭を悩ませているか君は知っているかね」
 紙束から視線を上げて、顔の前で手を組んだひとりが口を開いた。
「申し訳ありません」
 すぐにパリスが手を挙げてそれ以上の言葉を制した。
「そこは軽率な発言でした。しかしこれだけははっきりとさせてください。これは一体何のための審問会なんですか? ジェノサイドの件ならば、彼の更迭、デュランダルからの除隊で片がついたはずです」
「その結果、我々は今、ユニヴェールと同じだけの力を持った化け物を持て余しているんだよ」
 頬のこけた委員長の声は説法を聞く市民の顔の如く空ろで、だが何故か力強い。
 高い天井に反響してわずかの不快が耳に残る。
「デュランダルの隊長ではない、デュランダルの一員ですらない、ではあの化け物は何のために存在し続けるんだ?」
 デュランダルという檻の隊長という鎖につないでおくからこそ、ソテール・ヴェルトールをヴァチカンに従わせ、行動を制御することができた。
 檻と鎖はヴェルトールを縛る大儀だったのだ。
「ソテール・ヴェルトールは聖職者ではない。どこかの国の貴族でもない。どこにも何にも(ゆかり)のないアレが、政治の道具に使われたらどうする?」
 今までは、ヴァチカンが飼っていたことに加え本人も興味を持っていないらしく、ソテール・ヴェルトールが政治に足を踏み込むことはなかった。
 だが檻も鎖もなくなった今、もし彼が後ろ盾を欲したら。彼の動向次第では世界の勢力図は大きく変わる。
 特に教皇に反抗的なデッラ・ローヴェレ枢機卿を匿っているフランスに身を寄せるようなことがあったら──。
「この審問会は、野放し状態になった化け物をどうするか、そのための会だ。決定を間違えばユニヴェールを二匹に増やしかねない。──理解したかね? パリス隊長」
「……はい」
 パリスが神妙にうなずいて着席した。
「では、こちらかの質問に移る」
 委員長が宣言し、示し合わせたように端の枢機卿が咳払いをひとつした。
「ミトラ・マンノウォー。君はユニヴェールが抜けた後、ソテール・ヴェルトールを補佐することが多かったようだね?」
「はい」
「君から見て、彼の隊長としての資質は満足できるものだったかな?」
「組織人として答えれば“いいえ”。個人的には“はい”、です」
「それは?」
「自ら進んで規律を乱し、勝手に個人行動を取るのは組織人としては落第です。しかし人間の格としては申し分なかったと思います」
「人望はあったと?」
「はい」
「ではジェノサイド時のクーデターは何故起こったのだ?」
 やり取りを遮って、委員長が灰色の視線をミトラに投げてきた。
「…………」
「クーデター!?」
 口を結び真っ直ぐ前へ顔を向けているミトラの横で、パリスが驚きの声を上げた。
「ごめんなさい、パリス隊長。貴方にはまだ説明していなかったわ」
 マスカーニがのんびりと柳眉を寄せた。
 今日も大粒の宝飾品に囲まれ、大国の女王然とした美しい威圧感を振りまいている。春と夏の輝く色を人間の形にしたらこうなるのかもしれない。
「後で詳細は話してあげるけど、先のジェノサイドの時、ソテール・ヴェルトールはデュランダル自身から暗殺されかけたの。過ぎた力は毒ということかしらね。戦禍に紛れて反逆が起きたのよ」
「そんなことが……」
「!?」
 フリードは鋭くカリスを振り返った。
 あれはクーデターではなく、教会からの命令だったはずだ。
「初耳です」
 唖然とつぶやくパリス。
 彼を一瞥して、委員長が再び質問を再開した。
「カリス・ファリダット」
「君はその聖剣で、ソテールが弟子としていたそこのフリード・テレストルを瀕死に追いやった。事実かな?」
「えぇ」
「神父カリス!?」
 いちいち驚くパリス。
「ミトラ・マンノウォー。デュランダルが負ったすべての計画の中心にいた。そうだな?」
「はい」
「そんな」
「委員長!」
「フリード・テレストル、君に発言権はないよ。君はマスカーニ枢機卿のご厚意でここにいるだけだということを分かっているかな」
「ですが、」
 確かに審問会に出席させてくれとマスカーニ枢機卿に直談判した。そして許可をもらった。だがそれはただ聞くためではなく、ソテールを擁護するためだ。
「お黙りなさい、フリード。わたくしの顔に泥を塗らないでね」
 マスカーニが甘く凄んできた。
 にっこりと微笑んで、決して笑っていない目で。
「ですが!」
 食い下がる若者の横で、
「……なるほどね」
 白皙の神父が薄く息をつく。
 そしてやおら起立すると円卓を見回し、透明度の高い声で告げた。
「ソテール・ヴェルトールの傍若無人が目に余り、我々が彼を討つことに決めました」
 円卓がざわつく中、双眸を伏せ彼の言葉は女主人へ。
「これでよろしいですか?」
 その視線をやんわり受け流し、当のシエナ・マスカーニは羽扇を広げて大げさに天を仰ぐ。
「まさかソテールの教育係だったという貴方が首謀者だなんてねぇ……」
「神父カリス、何を言っているんですか!?」
 芝居がかったパリスの怒声が講堂に響く。

 そうだ。芝居だ。これはすべて。
 一編一編のあからさまな意図が全体像を隠していたのだ。
 しかしそもそも最初のページはどこだったのか……。


◆  ◇  ◆


「わざわざこの街に泊まるのか? 私は全然疲れていないが……」
「魔物だらけの暗黒都市へお入りになる前に、世間の変わり様をご覧になるも一興でしょう」
「……そういうものかな」


◆  ◇  ◆


 小鳥たちが愛の歌を競い合う墓地の一郭で、男は立ち止まり墓碑銘を見下ろした。
 ── 
Luca de Paris
「…………」
 昨日まではなかったはずだ。
 墓石がなかったのか名前がなかったのかは定かではないが、見逃すはずはない。
 かがんで表面を撫でても白い手袋につく砂土はわずかで、石の劣化もなければ彫られた名前への土の堆積もない。
「新しいな」
 花のひとつも供えられていないそれは物悲しく、来る季節を謳歌する瑞々しい生命たちがまばゆく映る。

 更なる痕跡を求めて街を歩けば、誰も近寄らない街外れのゴミ溜りに行き着いた。
 ひどい腐敗臭が鼻の奥をつく。
 生き物が死んだ後──そう、彼が幾度となく立った屍積み上がった戦場と同じ臭いだ。
 白い長外套(ロングコート)が汚れるのも構わず有象無象の山をかきわけ登る。
 鼠の死骸、鳥の骨、床敷きの藁、流れ着いた家畜の糞、腐りかけた果物の芯、貝殻、野菜の尻尾……。
 その中に身なりのよい人間の残骸を見つけて、白の男は手を止めた。
 周辺には他に何人分も転がっている。
 人間“だった”としか形容できないグロテスクな成れの果て。
 今更吐き気を覚えることもないが、それほど硬化した精神にため息も出る。
「この紋章は……?」
「──パリス家」
 亡骸の衣服に向けたひとりごとに若い男の返事があり、男はゴミ山の上でゆっくりと身体を反転させた。
 陽光を背負い、視界を絞る。
「お前は」
 山のふもとに佇んでいたのは、橙色の強いベタ塗りの緋色マントをまとい、顔には白い仮面を着けた男。
 両手から溢れる光の中でさえその仮面の眼窩には闇が巣食い、瞳は見えない。
「僕はしがない死刑執行人(ブーロー)です。罪あって彼らパリス家の人間を処刑しました」
「罪とは?」
「我々にとって不要──いえ、むしろ邪魔で」
 ……我々。
「人の記憶は操作が簡単ですが、不必要な存在は削除するのが最善なんですよ。どうせこれからも必要ないんだから、いらないものは棄てるに限る」
 この街を包んでいた霧はすでに晴れたのか。
「神の鉄槌が下ったと知れば民衆が混乱するでしょうから隠しておきたかったんですが……。まさかアイエイエーの魔女がここを通るとはね。すっかり油断していたから、圧力に押し負けてヴェールが飛んでいっちゃいましたよ」
「…………」
 ソテール・ヴェルトールは結氷した蒼で執行人を見下ろした。
「ルカ・デ・パリスはすでに死んでいる。では今ヴァチカンにいるのは何者だ? ユーリス・ロバン」
「あぁ、僕も有名になったもんだ」
 答えは訊かなくても察しはつく。
 サイド・ロバンを処刑した正義の死刑執行人の首からは、銀細工の薔薇十字(ローゼンクロイツ)が下がっているのだ。
 神の名のもとに、厳粛な白の地平を目指す者たち。
「真実を暴いた貴方は、ヴァチカンにお戻りになるつもりですか?」
 執行人の声は底抜けに陽気だ。
「それが?」
「無駄ですよ」
 地方で少し名を馳せた程度でデュランダルの隊長に抜擢されるほど、ヴァチカンの門は緩くない。
 では何故フェッラーラなんてところのルカ・デ・パリスが後任となったのか。
 ヴァチカンはすべて知っているからだ。
 すべて。
「お前は、首と胴体が離れれば黙るタイプか?」
 ソテールは汚れた白を脱ぎ捨て、低く唸った。
「最近は斬ってもしゃべり続ける奴が多いんだ」
「やめておいた方がいいですって。力ではどうにもならないことだってあるんですから」
 ユーリス・ロバンがくつくつと声を上げて笑った。
「貴方は大事な仲間たちを人質に取られているんですよ。我が主はいつだって、彼らに死の運命を与えることができ…る──!」
 ゴミを蹴り宙空へ踊ったソテールはユーリスの語尾と共にその背を断った。
 抜剣された刃が流線に閃き、着地は軽く。
「……無駄ですって」
 声だけ残して執行人が霧散する。
「とりあえず、斬られたら黙れ」
 血糊も脂も付かない剣をまじまじと眺め、ソテールは吐き棄てた。


◆  ◇  ◆


「叱るばかりじゃなく、どうやって脱出したか教えてもらうべきでしたね、ミトラ」
「……あぁ」
「何のんきなこと言ってるんですか!」
 クーデターの首謀者として地下牢につながれたカリスとミトラ。
 牢の外で途方に暮れるフリード。
「こんなに品行方正に生きている私が牢に入るだなんて思ってもみなかったものですから……」
「無実の罪という選択肢を想定し忘れていたな」
「まったくです」
 別々の牢に入れられていても、一向に危機感のないふたり。
「カリスが勝手にキレて向こうの挑発に乗ったからこんなことになっているんですよ!」
 フリードは格子を掴んで叫んだ。
 カリスがうるさいうるさいと耳をふさぐ。
「ものすごく反省しています」
 絶対していない。
「カリスは昔から怒りの沸点が低いからな」
「なかなか直らなくて」
 直す気なんてないクセに。
「僕、委員長にきちんと説明してきます。当事者が言うんだから、少しは聞いてくれますよね?」
「やめなさい」
 カリスが座っていた寝台から腰を上げ、こちらに寄ってきた。
「余計なことをするんじゃありませんよ、フリード。貴方まで標的にされたら困ります。今度こそソテールに殺される」
 どこまで本気で言っているのか全く分からないのがこの人の怖いところだ。
「大丈夫。まだ打つ手はいくらでもあります」
 美しい金髪が擦れるのも気にせずカリスが格子に寄りかかり、吐息混じりに囁く。
「我々は、自分の首が飛んでもあきらめてはいけません。……特に私は二度と」

 ──何を。


◆  ◇  ◆


 何もできなくても、時は過ぎる。
 だが感じることはできる。
 幸いな血か、呪われた血か、容器と中身のわずかなズレが不協和音となって流れてくる。

「…………」
 あれから数日。
 ソテール・ヴェルトールの件について結論が出される日がやってきた。
「失礼します」
 フリードが開いた扉は、ルカ・デ・パリスの部屋──隊長室の扉だ。
「はい、どうぞ」
「お時間を割いていただきありがとうございます」
 声を追って窒息しそうな薔薇の香気に襲われる。
 部屋に踏み込み目に飛び込んできたのは、ガラスを隔てて庭が広がる真正面の大窓とその前に捧げられた祭壇だった。十字架にかけられた磔刑像(クルシフィクス)、それを彩る真紅の薔薇。
「とても敬虔な方なんですね」
「執務室にまでこんなものを作って?」
 祭壇の前でこちらに背を向けていたパリスがゆっくりと振り返ってきた。
 かつてソテール・ヴェルトールのものであった白く長い隊衣。金髪碧眼の柔らかい物腰の人間がまとうとこうなるのか、生物の匂いが全くしない。血の匂いも、過去の匂いも。
 糾弾ではなく慈悲、正義ではなく愛。全部が円を描いて優しい。
「薔薇が綺麗に手入れされています」
「あぁ、まぁね」
 フリードが数歩入ったところで静止していると、新しい隊長殿が近づいてきた。
「ようやく君用の隊服が出来たんだね」
 吸血鬼と人間の混血に贈られた、聖なる狩人の白い外套。
「ますます父親の若い頃に似てくる」
 立ち止まったパリスの目が失われた時へ向けられた。
 ルカ・デ・パリスが知りようもない大昔へ。
「君はとても不自然な存在だ」
 部屋には余計なものが一切なかった。
 廊下から続く赤い絨毯、祭壇、執務机、ソファ、燭台があるだけ。本棚ひとつ、本ひとつ、水差しすらない。
「魔物でありながら人間の皮を被っている」
「ソテールやみんなはどうなるんですか」
 フリードはパリスの言葉を無視して、しかしその姿から視線は外さず、訊いた。
「妥当なところで、グロッタの奥の棺に戻されるだろうね。あのじいさんたちには彼らを死罪にするような思い切ったことはできないから」
 ダンピールの視線に応えるように、パリスの金色が蒼眸を捕らえる。
「だが、その後で事故が起こるんだよ。グロッタの火災だ」
 パリスがフリードを見据えたまま両手を広げ、天を仰いだ。
「残念ながら、君の後見人たちは助からない。彼らは殺せば死んでしまう存在だからね。君の頑丈なお父上とは違う」
「──貴方はこんなにも敬虔な神の御使いなのに、僕はちっとも苦しくないんです。魔物の血が貴方を拒絶しない。ソテールやカリスやミトラといると、時々息苦しいのに」
 フリードはあごをひき、蒼を濃くした。
「何故でしょう」
「…………」
 表情のないパリスの背後で、磔刑像に絡みついた蔓薔薇がこちらを伺っている。
 幾重にも巻いた深い紅の花弁、思考を麻痺させる強芳香、誰にも触れさせない棘。
「貴方からは軋む音がする。貴方の中の何かが噛み合っていない」
「君、熱でもあるのかな」
「ソテールは、父が魔を制御できなくなった時にすぐ父を殺すことができるよう、いつも行動を共にしていました」
 朝の冷気が暖まりゆく窓の外。窓いっぱいから差し込む光。
 若者の足下に落ちた影がざわつく。
「貴方は僕を止められますか?」
「……もちろん」
 パリスが微笑を浮かべる。ソテールのそれとも、ユニヴェールのそれとも違う、春霞のような淡く儚い微笑。
「試してみるかい?」
「ソテールやカリスやミトラが棺に戻されないよう、計らっていただけませんか」
「デュランダルの隊長にそんな権限はない。僕らは政治屋じゃなく兵隊屋さんだろう?」
 フリードがマスカーニのところではなくここへ来たのは、本能だ。
 鍵はこちらにあると血が告げた。
「なら、試してみましょうよ」
 彼は口端を吊り上げた。
 普段、決して見せない皮肉な挑発。
「僕自身、どこまで自分を見失うのか分かりませんが」
 どうすれば魔が目覚めるのかも知らない。
 しかし今なら出来る気がしていた。
 身体中の血が沸々と温度を上げているのを感じる。視界が狭まるにつれ、どこかに閉じ込められていた黒い獣が唸り声を立てて近づいてくる。
 薙がれる爪跡は深く、牙が剥かれる。
 身体の、どこだか分からない場所で何かが咆えている。
「……くっ」
 ──何故、頭が痛む?
「お父上に似て好戦的だね」
 パリスの声で総レースのカーテンが閉まり、外からの視線が遮断される。
「それが美徳かどうかはともかく」
「……!」
 嘔吐感の激しい頭痛に、フリードはその場で膝を折った。
 本当に星が飛んでいる目を押さえ、額に浮いた脂汗を拭う。
 耳鳴りがどんどん強くなる。
「なるほど。ユニヴェール家の闇は、君には重過ぎるのかな?」
 パリスが再び近づいてきた。
 純白の権威の証が空気を揺らす。
「さぁ、フリード。顔を上げて僕を見なさい。君が持ちかけた賭けだろう?」
 言われ、彼はギリッとそちらを睨──
 瞬間、

「見るんじゃない!」

 扉が蹴り開けられる音が響き、鋭い怒声が鼓膜を突き抜けた。
 ここ半月、ずっと探していた声。
「ソテール!」
 条件反射のように振り仰げば、その姿を確認する前にぼふっと顔が何かと衝突し、
「う」
そのまま押さえつけられる。

 ──今度は窒息して死ぬ!

「遊びが過ぎるぞ、サマエル」
 フリードの心の悲鳴はひとまず棚上げ。
 白いクルースニクは片膝を床に、フリードの顔を胸に抱え、その男を剣で貫き、その男を直視して言った。
「子供相手だ」
「これはこれは、お帰りなさい。ソテール・ヴェルトール元隊長」
 その男はもはや、ルカ・デ・パリスではない。
 パリスの身体は糸の切れた人形よろしく絨毯の上に崩れている。
「えぇ、彼は怖ろしい子供です。少年シャルロの闇よりはまだマシだとしても」
 白い包帯で両眼を塞いだ天使が笑う。
 刃を胸に刺したまま。
 それでも血の一滴さえ流れ落ちない、人にあらざる者。
「魔物に家族を殺され嘆く民衆を横目に、魔物を手厚く保護する。それもあの吸血鬼の血を引く者を。……なんという裏切りでしょうね」
 ソテールの腕の中でフリードが身じろぎする。
 だが今緩めてこの男を見せるわけにはいかない。
「この平和な庭の中で安穏としている君たちには聞こえないだろうね。理不尽に虐げられる者たちの怒りと絶望も、まかりとおる悪に諦めるしかない虚無の沈黙も」
 天使の焼かれた目には、色のない世界が広がっている。
 きっと。
「ヴェルトールは人を背負うのが宿命。地上に生きる民の味方であるべきが君だ。だとしたら、君が最初にしなければならないのは、その第二のユニヴェールを葬ることではないのかい?」
 ソテールはサマエルを見上げたまま、応えた。
「お前の描いている神の国に人はいない」
「そうならば、神の国にふさわしい人間が誰もいなかったというだけのこと」
「人間のせいでお前は天を追放された。それほど敬愛する神から堕とされた。違うか? お前の正義に適う人間はいるのか?」
「裁いた果てに残った者たちこそが、神の国の住民にふさわしい者」
 サマエル。
 その名の意味は神の毒、あるいは神の悪意。
 その過去の真実は誰も知らない。
「神の御心に沿う者こそが楽園での平和を許される」
「ヴェルトールは人を背負うのが宿命」
 ソテールは天使に突き立てていた剣を引き抜いた。聖剣とは比べ物にならない、粗悪な鋼のバスタード。
「お前が神の代理として俺の民を泣かせるつもりなら、俺は神ごとお前を斬る」
「貴方の背負っているのは呪われた十字架だと、忠告しても受け入れないでしょうね」
「お前の姿を見た俺に、そんな呪いの意味があるのか?」
 ソテールの軽い自嘲に、サマエルが眉を動かした。
「あぁ! 確かに。可哀相な罪人たち。頼みの綱はすぐ切れる」
「あいにく。ユニヴェールが滅びないうちは、ヴェルトールは死なない」
 肉体から、精神から、どれだけ血が流れようとも。
「………フフッ」
 レースのカーテン越しに見える世界は長閑だ。
 照らされる芝生の緑、木々の黄緑、建物の日陰、明暗は鮮やかで、空は終わらない。
 しかしレースの糸間を縫って侵入してきた光は、部屋全体に薄い影を作っている。
「──聖剣も持てない傲慢な救世主」
 死の天使がつぶやく。
「人間なんかを背負うんだからそんなもんだろう」
 涼しく返せば、無言でこちらに背を向けるサマエル。
 ──刹那、扉がノックされた。
「パリス隊長、審問会のお時間です」
 開かれた隙間から、衛兵のひとりが顔を出す。
「!?」
 振り返ったソテールと目が合い、息しか出来ずに目を丸くしている。
「あぁ、ご連絡ありがとうございます」
 応じた男はルカ・デ・パリス。
「ちょうどいいですから、この人たちも連れてきてくださいね」
 金髪碧眼の隊長は、膝をついたままのソテールと抱え込まれたままのフリードの横を過ぎ、
「貴方が良い子でロバンの言うことをきいてくれれば、彼らには姿を見せないと誓ってあげようと思っていたのに」
ひとりごちながら平然と部屋を出て行く。
「…………」
「…………」
 開けっ放しの扉。
 パリスが見えなくなる廊下。
「……あの、ソテール隊長も」
「俺は隊長じゃない」
 おそるおそる声をかけてきた衛兵に、意地悪くニヤつく。
 そして、押さえつけていた腕を放すと、
「ソテール! どこに行ってたんですか! 窒息するかと思いました!」
 びっくり箱の人形よろしくフリードが飛び出てくる。
 ぶっ倒れそうな気配を出していたわりに、元気そうだ。
「化けの皮をはがしに、ちょっとフェッラーラまで。それよりお前、大丈夫か?」
「はい。治りました」
「治っ……。あのなぁ、……まあいいか」
 本能のまま突拍子もないことをやろうとするのは父親譲り、そう思うと説教する気も失せる。説教をしても無駄だからだ。
 立ち上がって白い長外套の埃を払うと、フリードが待ち切れないとばかりに口を開く。
「ソテール、カリスとミトラがジェノサイドの時のクーデターの首謀者だって決め付けられて捕まっています」
「捕まりっぱなしか。鈍くさい」
「何か策はあるんですよね? カリスが言ってました」
「とりあえず、出席者全員問答無用で地下牢にぶちこんで無罪って言うまで飯抜きの監禁でもしてみるか」
「え?」
「冗談だ。──行くぞ」
 十字架代わりのバスタードを背負い、衛兵に先導させて荘厳な薔薇園(ラ・ロズレ)を出る。
「はい」
 あのクレメンティ長官代理の執務室とはちょうど対極にあるパリスの隊長室。
 高くアーチを描き立ち並ぶ柱、人智を凌駕する気色で天井を彩るゴルゴタの物語、美化された記憶を植え付けられ佇む殉教聖人たちの石像。
 あの時と同じ、ホールの奥、地下階段から聞こえてくる足音。
 だが今度は複数だ。
 両手を鎖で繋がれているカリスとミトラ、彼らを連行している衛兵がひとりづつ。
 ソテールとフリードの姿を認め、彼らもその後ろに歩を合わせる。
 大きな採光窓から注がれる光を浴びて、石の十二使徒が彼らを見下ろす。
 絨毯に吸い込まれる足音は、運命が扉を叩く音。
 ヴェルトールを先頭に裁きの間へと歩む四匹の白いクルースニク。
「そろそろ、ユニヴェールが駒を進めてくる頃だ」

 聖なる都は白に染まりゆく。
 一切の汚れを許さぬ白に。

 ──
Libera me(リベラ メ), Domine(ド ミ ネ), de morte(デ モルテ) aeterna(エテルナ). (主よ、私を解き放ちたまえ、永遠の死から)


◆  ◇  ◆


「これはこれは、よくぞいらした、ドンナ・ファルコーネ」
「キルケでけっこう。それで──フリードリッヒは?」
「城に連れて来ておる。まさかアレが貴女のお捜しの猫だったとはな」
「自分が殺した男の末裔を、何食わぬ顔で自分の手元に置いておく。これが紳士のやることか?」
「奴に説教をしても無駄だがね」
「烏、蝙蝠(こうもり)、蟻……なぁ、あの男は何に変えてやるのが似合いだと思う?」



THE END



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