掌編 コンティ家の肖像
「そんなに嫌ならここにいなければいいのに」
白い寝台に腰かけた少女は、壁に寄りかかり腕を組んでいる不機嫌そうな男に言った。
絵的には窓辺に立たせたいところだが、あいにくこの部屋に窓はない。
「そういうわけにはいかないでしょう」
誰もが思い浮かべる執事然としたその男は、不興を隠す努力の欠片も見せずに噛み付いてくる。
文字通り、少女の首筋に噛み付いている別の男を威嚇しながら。
「そこのハンガリーの狗がいつ貴女を喰い殺すか分からないんですよ。いつでも葬れるように見張っていないと困るでしょう」
「そんなことにはならないって──」
「パルティータ、言っておきますが、それは信頼ではありませんからね。思考停止した単なる能天気です。そもそも貴女は魔物に対して危機意識がなさすぎるんですよ」
「黙れヴァチカンの使用人」
少女の背後で唸り声が上がる。
“ハンガリーの狗”。 緩いウェーブがかかった髪を後ろで束ね、褪せた青銅色の外套を羽織るその男は、後ろから抱えた少女の首に滲む血を舐めた。
そして執事を睨みつける。
「可愛い妹の可愛い娘を襲うか」
「吸血鬼が始めに襲うのは身内だというのは、鉄則ですよ」
「だいたいお前が瓶詰にして調達してくる血がどれもこれも古過ぎて喰えたもんじゃないのが原因だろうが。だからこうやって姪から血をもらわないと貧血になる」
「そんな我侭を言えた立場ですか、ヴァチカンに入れてもらっているだけでもありがたいと思いなさい」
「じゃあ追い出して見ろよ」
テンションの低い応酬。どちらの台詞にも大した抑揚はない。
「…………」
執事が奥歯を噛んで顔を背けた。
両眼を覆う包帯を巻いているため視線はないが、もしあればきっとこの吸血鬼を射殺せるのではないだろうか。
「ラースロー、クロワ、大人げない」
吸血鬼──パルティータの母の兄であるフニャディ・ラースローが執事を煽るのは、執事にはそれが出来ないと知っているからだ。
もちろん単純な力の比較では彼は執事の足下にも及ばない。だが、執事セバスチャン・クロワは実力行使でこの魔物を排除することができないらしい。
彼が結んだ契約によって。
契約者、つまりクロワの主人はすでに泉下の人間となってはいたが、それでもまだ契約は生きている。
「クロワ、紅茶がほしい」
「はいはい」
壁の花が身を起こし、しばらくして白い──比喩ではなく白い調度品でそろえられた白い──部屋にほんわりとした芳香が漂う。
クロワがどこからか持ち込む珍しい飲み物はすでに身に馴染み、夜のささやかなお茶会には欠かせない。他の誰にも言ってはいけないことになっているのだが。
「はいどうぞ」
寝台の横のテーブルに置かれるカップはみっつ。
ついでに焼き菓子が盛られた籠がひとつ。
「お」
パルティータの襟元を直すのもそこそこにラースローが菓子へ手を伸ばすと、クロワにぴしゃりと叩かれる。
「貴方の分はありません」
「鬼」
「私はこう見えて天使です」
「詐欺罪で地獄に堕ちろ」
「そんなことしたら、また顔を合わせることになりますよ。貴方は問答無用で地獄行きですからね」
「う、それも嫌だな」
少女の背後で蒼の吸血鬼がうなだれる。
不毛な議論はいつものことだ。
彼女は我関せず、焼き菓子をつまんだ。
「いいですか、パルティータ。貴方は猛獣使いではないんですよ、過信しないように。あらゆることに十分気を付けなさい」
気を付けろと言われたって、たかだか十と二年生きたくらいでは危険の回避方法などたかがしれている。
「はーい」
彼女は優等生な声色を出しながら、内心毒づいた。
──そんなに言うならお前がしっかり守れ。
しかしそれを声に出したらどれだけ小言が降ってくるだろう。
……分からず屋には身をもって教えるまでだ。
日差しはすでに夏、すっきりとした蒼空の下、ローマの街では常緑のオレアンドロが白や薄桃色の色鮮やかな花を咲かせ、家々の角に濃い影を作っている。
ヴァチカンでは相変わらず大聖堂横のシスティーナ礼拝堂建設が続いており、朝から大工たちの声が響いていた。
朝。教皇庁の多くの人間が参加した恒例のミサが終わり、これからまた新しい一日が始まる。
緋色の聖人たちが厳かに側廊へと移動して行く中、パルティータは神学を学ぶ同年代の子どもたちの列の端で退出の順番を待っていた。
だが、その子どもたちの視線がちらちらと中央通路に向けられる。
厳正な人の流れを無視して、ひとりの黒い法衣をまとった男がこちらへと歩いて来たのだ。
その男はパルティータの前で足を止めた。
「…………」
中肉中背で全体的に粗野な造りの男だが、目の下のクマとげっそりとした影がさらに人相を悪くしている。
「お前がフォリアの娘か?」
かろうじてパルティータに聞こえる程度の問い。
「…………」
フォリア・デ・コンティ・ディ・セーニ。
それが彼女の父親の名だった。
もうこの世にはいないが。
「そうです」
そのことを知っている者は、ヴァチカンの人間であってもごく僅かだ。
「そうか」
まだ誰も異変とは思っていない。
どこかの司祭とどこかの貴族の子どもが話をしている、そういう光景に映っているのだろう。言葉を交わしているどちらの名も知らない人々にとっては。
「パッツィ家の凋落は、お前の父親の謀略が引き起こした」
男の声に憎悪が灯る。
だがその父と同じ双眸で彼を見据え、パルティータは冷ややかに答えた。
「そうですか。それは残念でしたね」
何が始まりであろうと跳ね返せずに転がり落ちたお前たちが悪いのだ、言外に含ませる。
男の目の中の劣情が燃え上がるのは一瞬だった。
「償え! 我々に!」
日常を裂いて、いきなり高々と叫ばれる断罪。
神聖な場に似つかわしくない鈍い刃の短剣が、採光高窓から注がれる夏の陽光を反射してぎらりと閃く。
空間を伝う、粘性のある光。
「…………」
パルティータは男を見据えたまま、彼女の視線は自分の身体に向かってくる凶器の軌跡すら追わない。
そして男の奇声を捉えたいくつもの目がふたりを視界に入れようと動くその前に、
「!?」
男の身体は宙に投げ出されていた。
少女の前に突如現れた蒼い外套の男に、思いっきり胴を蹴り飛ばされたのだ。
ほぼ一直線に飛んだ男は整然と並べられた長椅子の列に突っ込み、哀れな長椅子たちは木端微塵に砕け散る。
遅れて、衝撃で手放された短剣が難を逃れた長椅子の背にさっくり刺さる。
『…………』
事態の把握ができない沈黙が聖堂に満ちた。
何が起こったのか、誰も理解できていない。自らの予想と眼前に広がる現状を結びつけることができない。合理的な物語が出来上がらない。
凍りついた静寂の中、ややあって凶徒は頭を持ち上げた。
その目に入るのは、顔色ひとつ変えずこちらを見つめている少女だけ。
──あの蒼い男は幻だったのか? だとしたら何故自分はこんなことになっている? まさかあの娘にやられたのか? あの娘が自分をここまで吹っ飛ばしただって? ありえない。それに、あの男の禍々しい紅の目が脳裏に焼き付いて離れない。
椅子の残骸に埋もれたまま煩悶する男の顔が陰った。
表情が曇ったのではない、物理的に影になったのだ。
「狼藉のお代は高くつきますよ。フォリアのお遊びなんかよりずっと高くね」
両の頬を冷たい手で挟まれる。
彼の顔を覗き込んでいたのは、視線のない執事──双眸を包帯で覆った──だった。薔薇が絡みつく十字の首飾りが胸元で揺れている。 「……!?」
途端、何かを思い出したように身体が火照り息苦しくなった。ミシミシと音を立てて骨と骨の間が軋み始める。ささくれた木片で傷ついた腕や頭がひりつく痛みを発し始める。心臓の鼓動にあわせて全身の鈍痛が鐘の如く響きだす。
「貴方たちパッツィ家は、いつも攻撃する相手と時機を間違える。それが凋落の原因ですよ」
その宣告は子守歌に等しかった。
男の耳にざわざわとした騒がしさが戻ってくる。
「こいつを牢に連れて行け!」
彼の身体を長椅子の残骸から発掘しているのは執事ではなく聖堂の衛兵たちだ。誰も執事を気にする素振りを見せていない。まるでそこにそんな男などいないかのように──。
「おい、こいつすごい熱だぞ」「本当か?」「ほら」「医者を呼ぶか?」
抱き起され、朦朧とする網膜に映像だけが刻まれる。
クルースニクの隊衣を着た大男と一言二言交わした少女が、修道衣の大人たちに囲まれ聖堂から退出しようとしていた。
肩越しに振り返り、男に向けられた少女の目には何の感情も浮かんでいない。
恐怖も、焦燥も、驚きも、安堵も、憐れみも。
──確かにあれは、フォリアの血筋に間違いない。傲慢で高飛車で決して揺るぐことのないコンティ家の、セーニの系譜。
「……化け物……」
何に対してつぶやいた言葉なのか、突然の高熱に正気を焼かれてゆく男にはもはや分からない。
「そんなに嫌ならここにいなければいいのに」
少女は椅子に座らせた男の包帯を取り換えながら、寝台で不貞腐れたように胡坐をかく蒼の吸血鬼に言った。
「そういうわけにはいかない。いつそいつがお前を襲うか分からないからな」
「貴方じゃあるまいし」
クロワがため息をつき、一拍置いて続ける。
「パルティータ、貴女を襲おうとしたあの男は死んだそうですよ。熱病で」
「へぇ」
クロワは他人事のような言い方をしているが、もちろん彼が男に姿を見せたから死んだのだ。
セバスチャン・クロワは死の天使。その姿を見た者は、遠からず死ぬ。
「凶行は、熱に浮かされて狂った男がワケも分からず起こしたもの、とされたようです」
順序が違うが、この際どうでもいい。
「パッツィ家の関係者だというのは嘘ではありませんでした。あの家もフォリアに随分痛めつけられましたからね。恨んでいたようです」
パルティータの父親は、ヴァチカンの地下に幽閉されながらも代理人を巧みに操って各国各人から違法すれすれで金を巻き上げ、ヴァチカンの裏金庫に財を築きあげた才人だ。世間的にはロクでなしとも言う。
ゆえについたあだ名が“ラードーン”。
ギリシア伝説の中に生きた黄金の林檎の樹を護る巨竜だ。
そして貯めた財の分だけ恨みや憎しみを買い、異国の伝説に則って、彼は彼の素性を突き止めた男──そいつもまた彼の策略で落ちぶれたひとりだったが──に殺された。
パルティータが生まれて数年後のことであるから、彼女に父親の記憶はない。
母パレストリーナ、クロワ、ラースロー、ミトラ、その他様々な教会関係者の話を繋いだフォリア像と、フォリアの遺した怨恨が原因で毎度彼女が襲われるという事実、それが父について彼女が知るすべてだ。
「とはいえ今のパッツィ家の惨状はフォリアとは関係ないと思いますが」
大人しく包帯を巻き直されながら、クロワが薄い笑みを浮かべる。
「歴史の流れを読み間違えたんですよ、彼らは」
パッツィ家は、フィレンツェにおいてメディチ家と双璧を為す銀行家だった。
だが教皇シクストゥス4世とメディチ家は政策を異にして対立するようになり、教皇は教皇庁の金融管理をメディチ家からパッツィ家へと移した。
それを機にパッツィ家とメディチ家の対立は激化し、パッツィ家はメディチ兄弟の暗殺を実行、弟ジュリアーノは殺したものの、兄ロレンツォは逃がしてしまう。
対してそのロレンツォの報復は速やかで容赦なかった。暗殺者はもちろん、加担した大司教、パッツィ家の関係者を根こそぎ処刑したのだ。
パッツィ家と結び計画を黙認していた教皇は激怒、大司祭を勝手に処刑したことへの罰としてロレンツォ・デ・メディチを破門し、彼を支持するフィレンツェを聖務停止とした。
現在、教皇と、教皇と同盟関係にあるナポリとに睨まれ、フィレンツェやロレンツォ自身は切羽詰まった状態にある。
しかしパッツィ家の失墜はその比ではない。教皇を頼って生き延びた者はいるものの、今やメディチと比べる者はいないだろう。
「フォリアは確かにパッツィ家の不正な金を横取りしたことはありますが、もちろんメディチからも取り上げています」
「結局、均衡が最も平和、というわけか」
ラースローが肩をすくめ、
「しかしこれはなんだ?」
げんなりした顔で部屋の奥を見やった。
指ひとつで雪崩がおきそうな、贈り物の山。ひとつも開けていないので何が入っているかは分からないが、片付けるだけでもひと手間だ。
「今回の件の見舞いの品ですよ」
「あぁ」
誰も、フォリアの裏金庫がどこにあるのかを知らない。
彼の莫大だと思われる財産がどこにあるのか知らない。
だから、枢機卿たちはこぞってパルティータに媚を売る。
金庫の在り処を知っていて、その鍵を持っていると思っているから。
白い鳥かごに閉じ込めたまま、その鳥かごをこれでもかと美しく飾る。
「パッツィ家にも教皇にも勝ち目はありません」
「これからの話か?」
「えぇ」
「ロレンツォとフィレンツェはこの危機を乗り切れる?」
ラースローの紅が細くなる。
彫りが深いのに柔和な顔貌は、王族と武人と死人と魔物のクォーターゆえ。
「ロレンツォの後ろには、ユニヴェールがいるようです」
「パーテルの」
「はい」
シャルロ・ド・ユニヴェール。
静かに歴史を蝕み続ける不滅の吸血鬼。地を這う霧のように、いつも誰かが低い声で噂している。聖地だというのに、その陽炎のような存在は不吉に漂っている。
あの男が良しというまで世界の閉幕は許されないのだと、例え神が世界を終わりにしてもあの男の偽りの生に終焉は訪れないのだと、気弱な衛兵たちが声をひそめている。
「破門にされても涼しい顔をしているのはそのせいでしょう。あの吸血鬼がひと言囁けば、山も崩れる。ロレンツォに有利な方にね。きっと睨み合いは長く続きませんよ」
「それは……パッツィ家もデッラ・ローヴェレ家も完全に色々と誤ったな」
「それを反省せずに自らの零落を誰かのせいにするのは論外です。とんだとばっちりを受けましたね、パルティータ」
「いいえ。──はい、できあがり」 執事が礼を言うより早くラースローの顔が明るむ。
「いつもすみませんね、ありがとうございます」
新しい包帯の位置を確認してから執事が立ち上がり、
「では夜のお茶にしましょうか」
テーブルに飾られた真っ白なオレアンドロの花枝を横切る。
「わーい」
夜を照らす蝋燭の炎が、鳥かごの一人と二匹を照らし出す。
しかし、優雅な物腰で茶器を運ぶ男にも、寝台から降りてこちらへ歩み寄ってくる男にも、影はできない。
「でもお前、少しは避けようとしろよ。普通刺されそうになったら身構えたり避けようとするだろうが。反射神経ないのか?」
「下手に動くと邪魔になるでしょ?」
「あまりふてぶてしいと守ってあげませんよ」
「じゃあ、きゃーって可愛い声出して喚くか、目を開いて絶句して一歩退けばいいの?」
テーブルについて首を傾げると、クロワが眉をひそめた。
「それも気持ち悪いですね」
「俺が言いたいのは芝居の仕方ではなくてだな、」
棚から焼き菓子を取り出しながら口を挟んでくるラースロー。
パルティータは上目に彼らを見ながら紅唇の両端を吊り上げた。
「だって、避けたって避けなくたって、私のことくらい守れるでしょう?」
答えは異口同音。
『もちろん』
分かっている。
クロワの主は亡き父で、ラースローの主は亡き母だ。化け物たちが彼らとどんな契約を交わしたのかは知らないが、契約が終われば彼らはパルティータの盾ではなくなる。
それどころか──。
「あれ、俺、ここに花梨の蜂蜜漬けを置いておいたと思ったんだが」
「あ、それ私が食べましたよ」
「誰に断って」
「そこに置いてあるものはみんなのものです」
「ちょっと待ってクロワ、私はひとつも食べてない」
終わりは来る。
人は、それが始まりだと、信じている。
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