冷笑主義

第3話  パルティータ誘拐事件

後編




 吸血鬼という生き物は、過酷な宿命を背負った者であると言われる。
 永遠の命と引き換えに、次々と失われてゆくものを受け入れねばならない。いかに優しき心の持ち主と言えど、他人を犠牲にせねば狂気に病む。
 そうして彼らは、闇に堕ちておよそふたつに分かれる。

 神を恨み、呪い、世界を憎む者達の一派。
 彼らは暗黒都市の中枢となり、光を蝕む手先となる。人を狩り、クルースニクと対峙する。夜を凍らせ、華やかな都市を紅に染め上げる。
 彼らを支配するのは、彼らをこの運命へと陥れた世への憎しみ。彼らは自らを置き去りにした光を、人間を、ゆるすことができない。
 世界を愛せば愛すほど、裏切りへの怒りは深くなる。

 もうひとつは、己の運命に嘆きその身を呪う者達の一派。
 彼らはいつでも悲劇の物語の中にいる。血の飢えと、理性の狭間。自らに課された永遠と、愛すべき者の喪失との間。求められる冷酷さと奥底に残る情との矛盾。
 世界を愛せば愛すほど、己の身を呪う言葉は深く傷をえぐる。


「どうにも愚かな生き物だな」
 夜に浮かぶこじんまりとした白の教会を見上げて、ユニヴェールはそう暇つぶしの解説を締めくくった。
「お前も吸血鬼だろうが」
 斜め下から白い眼を向けて聖騎士ヴィスタロッサが言ってくるが、ユニヴェールはフンと鼻で笑い、
「墓場の臭いがするぞ、ここは」
 彼女の言葉を軽く払いのけた。
 手にしたランタンをかざさなくとも姿を誇示する白いその建物が、ヴィスタロッサの言う幽霊騒動の教会だった。
 綺麗にそろえられた芝生の奥に、ひっそりと佇んでいた“墓場”。
 クルースニクやら吸血鬼やらが好んで使う用法から言うと──、死んだ場所そのものも墓場と言うことができるらしい。ならば、この教会を墓場と呼んでも悪趣味な冗談にはならないだろう。十三人も死んだのなら。
「神を崇める場所とは思えぬ禍々(まがまが)しさよ」
「お前には入りやすくてよかろうに」
「馬鹿を言え。人々の念が交錯する場所ほど頭痛のする所はあるまい?」
 言いながら彼は扉を押す。
 人間ならば大人ふたりでやっと開けるものを、片手で。
「…………!」
 扉を指差し何やら言いたげにわたわたしているヴィスタロッサから視線を外し、ユニヴェールは人間の聖地へと踏み込んだ。
 ドーム状に天高い聖堂。原色で彩られたステンドグラス。今まで幾度となく目にしてきたものと何も変わらない、質素な教会。
「……気に入らん」
 ぐるりと見まわした吸血鬼の顔に、不機嫌の色が横切った。
 純粋な祈り。隠された欲望。薄く全てを覆う支配の意志。嘆きと救済を求める声。懺悔と怒り。崇拝と策謀。
 やんわりと教会を漂うそれらの残された思念は、まとわりついて彼を締め付ける。眉をしかめて振りほどいても、聞き分けのない子どものようにすぐまた寄って来る。
「……丸ごと喰うぞ」
 しかし低く脅せば、それらの念は蜘蛛の子を散らすごとく霧散した。
 異様に縮こまっているヴィスタロッサを後ろに従えて、彼は一歩一歩、教会の中その聖堂に靴音を響かせてゆく。
 両脇には乱れなく並べられた長椅子があり、壁の燭台にはひとつも消えることなく炎が揺れていた。
「神よ、呪われた我が身を救いたまえ」
 ユニヴェールは中央で足を止め、眼前の祭壇へと高らかに乞うてみた。
 微塵の思慕も映さぬ双眸は十字架を見据え、凍てついた微笑みをあらわにする。
「そう言ったら私はどうなるだろうね? 私は救われるか?」
「お前は救いなんか求めていないだろうが」
「求めぬ者には与えぬか」
「…………」
 聖騎士がこちらを睨んだまま口をつぐんだ。
 凛とした白の衣装は気高く、永遠にしゃべらなければ彼女は実に美しい。だが死すればその美しさは滅するだろう。明後日の方向を向いたその口が開かなければ、彼女は彼女でない。死とはそういうものだ。
 少なくとも、ユニヴェールはそう断じていた。
 安易だろうが、世の中そんなものなのだ。
「自分を慕わぬ者には加護を与えぬ。だから神は偽善と言われるのだ。見捨てられた者からな」
「そんなことはない! 神は全ての者を想っているのだ。自らを信じない者に対しても、慈愛の心を持っておられる」
「ならば何故堕ちる者が存在する」
 答えが聞きたいわけではなかった。
 ユニヴェールは答えなど必要としていない。今一番必要なのはメイドなのだ。憐れみよりも紅茶を運ぶ者が。赦しよりも起床を告げる者が。
「私は神を憎んでもいないし、人間を憎んでもいない。この身を呪ったこともない」
 彼は祭壇の前に並んで立っている十三人に目をやった。
 ドレスを血に染めている貴婦人や、子ども達。首がとれかかっている青年に、なんだか眼が据わっている老人。年月のためか、どこか古い絵画のようなカビ臭さがあるが──皆、曖昧な笑みを浮べてこちらを見ている。
「全知全能の偉大なる神など所詮は我々の幻想だ。人の運命はなるようにしかならん」
「だが救世主は実際に!」
「救世主はただの改革者に過ぎない。いつでも」
 彼の声音はいたって穏かである。
 寝息をたてる猫の背をなでるように、優しくしなやかで……だがその実、劇場歌手のようにどこまでも響いている。
「シャルロ・ド・ユニヴェール。お前は何故吸血鬼なのだ」
 びしっと、空気を叩く音がしそうなほどに剣を突きつけてくるヴィスタロッサ。
 彼女の瞳はユニヴェールに固定されていて、おそらく不気味十三人組のことは見えていないのだろう。
 ここがくだんの教会だということも忘れているに違いなかった。
 ユニヴェールは小さく首を傾げて女殺しの笑みを浮べる。
吸血鬼始末人クルースニクをやることに飽きてな」
 言い捨てるなり彼は大きく祭壇へ跳びあがり、真ん中に置かれていた十字架を優雅に掴んだ。
 火傷なんぞ気にはしない。そもそも彼の白磁のお肌には傷ひとつ付かないのだ、こんな薄汚れた思念で崇められた十字架などでは。
「何故だろうな? この教会には幽霊だけじゃなく暗黒都市の悪鬼までが入り込んでいるぞ。……ヴィスタロッサ! 後ろだ!」
 言うと同時に鋭い金属音が耳に鳴った。
 銀色の刃がひるがえり、大きな狼のようなシルエットが床を打つ。
 これが戸口で鳴いた家からは必ず死人が出るという黒の妖犬、バーゲスト。あれだ。
「なんでこんなものがっ」
 悲鳴ひとつ上げずに血糊を振り払うヴィスタロッサを横目、ユニヴェールは自分に向ってきた妖犬に思いっきり十字架を投げつけた。見た目は良くないが──まぁ誰も見ていないので構わない。
 そのままの勢いで軽く祭壇から着地をすれば、彼の仲間と言うのか敵と言うのか“食屍鬼グール”がわらわらと聖堂に入場してくるところだった。
 食屍鬼。その名のとおり屍を喰らう闇の者である。自身も死者であり、身体は腐敗しその目に意志はない。あるのは食す本能のみ。多く暗黒都市の輩が操る下級兵士とでも言おうか。
 斬っても斬っても立ち上がるそれはさすがに気味が悪いのか、ヴィスタロッサがユニヴェールの方へと後退をしてくる。
「結婚式でもやるつもりか……」
 彼女は余裕のない冗談を床に落とす。
 対してユニヴェールは背筋を正して直立。腕組みをして蔑みの眼差しを食屍鬼の群れへとくれてやる。
「こんな奴らを入れていたから、今まで眠っていた幽霊達が目を覚まして人々の目に触れていたわけだな。闇は闇を呼ぶ」
「ユニヴェール! 何を呑気なことを!」
 さすがの銀剣も、切れ味が鈍ってきたのだろう。一撃で倒せずにヴィスタロッサの足が後退の歩を速めていた。消えない炎の揺らめきが大きくなる。
 荘厳なる聖堂には濃い死臭が充満し、呪われた死の行進が引きずるような不気味な和音で迫ってくる。
「ここの幽霊達は、悪気はなかったと言っているぞ。ヴィスタロッサ」
「あぁそれは良かった! だが今は幽霊よりも食屍鬼をどうにかしろ」
「この食屍鬼は──我が同朋だな。暗黒都市からやってきた」
「だから手出し出来ぬと言うか!?」
「──そんな義理など持ち合わせていない。ただな、ここにこ奴らがいる理由を思いついたのだ」
「そんなことはどうでもいい!」
「無関係だった点と点が繋がったのだ。誘拐犯はここに我がメイドを隠している。食屍鬼を外の見張り役にしてな。人為的でなければ教会にこんなやつら現れん。そしてそれゆえに食屍鬼の気配を察して幽霊が起きた。素晴らしい。完璧だ」
「ユニヴェー……ル」
 叫んで振り返ってきた聖騎士の声が尻すぼみになっていた。
 彼女は碧眼を歪めて、息を詰める。
 ユニヴェールはただ自らの推理に満足して笑っていただけだ。
 そして彼を誰とも判別できずに向かってきた食屍鬼の首をその研がれた爪で掻き落とし、笑っていただけだ。どす黒く変色した紅の雫が、白い手を音もなく流れ落ちてゆく。
「盛大な挑戦状を叩き付けた割には、子どものお遊び止まりだな。もっとも──」
 彼は奥へと続く、祭壇横の小さな扉へと視線をやる。
「これができる限りの最善であると分かっているところは、さすが女王陛下と言うべきだろうが」
「コラ待てユニヴェール! 勝手な行動は慎むのだ!」
 黒の吸血鬼は化け物じみた(というか化け物だが)脚力でひらりと食屍鬼の大群を越え、群がろうとする者の首を躊躇ためらいなくね、目的の扉を開いた。
「ヴィスタロッサ。幽霊どもは悪さなどせんから、お前の頼みはめでたく完了したぞ。金はそのうち請求しておく。では──おやすみ(ボンヌニュイ)

 言うだけ言うと、彼は軽くキスを投げて後ろ手に扉を閉める。
 目の前には細くて息苦しい回廊が奥へと伸びている。あまり入れ替わることがないのだろう空気が、まずい。
 なんだか背後の扉の向こうから呪詛のような言葉が聞こえてこなくもないが、過去にはこだわらない主義なのだ。
 そうだ。過去はいい。
 なんであろうともう過ぎ去ったものなのだ。
「……茶番だが……」
 ユニヴェールはふと嘆息気味に肩を落とす。
「つきあわなければあのメイドは、自主的に帰ってきそうもない……」
 問題はいつだって未来なのだ。


◆  ◇  ◆


 どこへ続いているのかも分からぬ暗い回廊。誰がいるのかも分からぬ闇の先。
 それなのに高らかな足音をさせて歩むユニヴェールの眼前に、小さな扉が現れた。……そこで行き止まりだった。
 並みより高い背丈の彼がそれでも一応身をかがめずに済む、それほどの扉。
「…………」
 今日何度目かのため息を押し殺して開ける。
「…………」
 開けて見えた光景に、そのまま閉めてきびすを返したいのをどうにかこらえ、彼は恐ろしく落とした声音で言った。
「……貴様、そこで何をしている」
「これはまたお早いお出ましで。アナタ様が教会なんかを恐れる人ではないとは思っていましたが」
 そう一礼しながら、道化師の仮面マスクを顔にかざし、部屋の中央に立っていた男がくるりとこちらを向いた。
 誰かれ構わず神経を逆撫でする慇懃な口調。
 だが、
「貴様ではない、ベリオール」
 ユニヴェールは一瞥すらくれずに挑発を叩き返す。
 彼の紅は、ロウソクに照らされた部屋の向こう側、何種類もの揚げ菓子やら果物のタルトやら切り分けられたパンケーキやらがのせられたテーブルの向こう側を、じっと射ていた。
「そこの灰色。貴様だ貴様」
「──はい?」
 名指ししてようやく、彼女は動かしていたフォークを宙に止めて顔を上げてきた。
 しばしそのまま制止し、思い出したように口を開く。
「あぁ、ユニヴェール様」
 長い黒髪に血色の悪い顔、いつもどおりの灰色メイド服をしっかり身に付けたその女は、紛れもなく彼の持ち物であった。
 ちょうどユニヴェールと対面する形でテーブルについている彼女は、どうやら片っ端からおやつを食べていたらしい。
「パルティータ」
 声をかけるユニヴェールの顔には、自然この世の果てまで華やかにするだろう凶悪な笑みがのる。
「何ですか?」
「何をしている?」
「捕まってます」
「そうか」
「はい」
「それはまた楽しそうだな」
「これくらいの役得がなきゃ人質なんてやってられません」
 平面顔でそう言うと、彼女は真っ直ぐ主を見据えてきた。
 暗黒都市の闇よりも深い双眸が無味乾燥な無言で告げる。
「…………」
 吸血鬼は笑みを消した。
 一度まぶたは閉じられ──次瞬開いた紅の瞳には、道化の仮面が映りこむ。
「ベリオール。何をした」
「ユニヴェール卿。そう恐い顔しなさんなって。俺はただ色よいお返事をいただきたいだけでね」
 獅子か虎。そうでなければ竜だ、この男は。
 ウォルター・ド・ベリオール。
 彼はきっと、下にいるだけでは飽き足らない。忠実に仕えながらも、虎視眈々と取って代わる日を狙っている。その相手が暗黒都市を統べる女王であっても、だ。
 ……生来の魔物で、生来の野心家なのだ。
「では質問を変える。私が“Non”と言ったらどうなる?」
「メイド募集の広告をお屋敷の前に貼り出すことになるかもな。あんたも知っているだろう? 俺の特技は剣じゃなく、“烙印”だ。」
「烙印の呪を押された者は、術者の意志によって殺される。どれだけ術者と烙印者が離れていようと、どれだけ烙印を押してから時間が経っていようと。人間には出来ない──究極の暗殺技だな。色々と制約もあるのが難点だが」
 ユニヴェールはなるほどとうなずき、しかし……と首を傾げた。
「それは女王陛下の指示された行動とはいささか違う。そうだな?」
「とはどういう意味でしょうか?」
 道化の黒騎士は面白がって馬鹿丁寧に疑問符を返してきた。だがユニヴェールは鷹揚おうように対する。
「女王陛下は、メイドを殺してまで返事を持ってこいとはおっしゃっていない。あの方が指示したのはメイドを誘拐して私を脅迫しろというところまでだ」
「そうか」
「そうだ。何故なら──」
 一拍置いて、彼は仮面の合間からのぞくベリオールの目を捕える。
 この男の目は、すべてにとって危険な目だ。均衡を崩す意志と勢いを持った目。感情を殺さぬ目。
 それを見つめたまま、告げた。
「女王陛下は私が“何者でもない”ことをご存知だからだ」
「……何者でもない」
 おそらく消滅その時まで失せることのないだろう強い光──ベリオールの視線が一層強まった。道化の仮面は外されず、しかし声には本人が混じる。
「……アンタは、ただ一人で光と闇、両方の刃を受け止められるつもりなのか、ユニヴェール卿」
「それは誰にも分からんさ。やってみねばな」

 ──何者でもない。
 その言葉は、分かる者の間では世界でたったひとつの意味しか持たない。
 光と闇の間にある、“中立”。
 善意を持って言えば、何もされなければ脅威にはならないということ。
 悪意を持って言えば、理由があればどちらにも牙をくということ。

 中立。
 それは本来あるはずのない、しかしただ一匹の吸血鬼のためだけに用意された椅子。

「黒騎士ベリオール。貴様の一存で実験を開始する心構えはあるか? 暗黒都市と私を戦わせる覚悟はあるか? 女王陛下はそれを回避するために我がメイドの“誘拐”で事を留めたのだ。陛下のお怒りを身をもって私に知らしめる、それで事を収めるおつもりだ」
 緩やかな脅迫だった。
「階段を昇りたいのなら、時を選んだ方がいい。──もうすぐその時は来る」
 歌うように上品なテノール。
 だが地の底をうような熱もまた、潜む。
 魔物が人を堕とす時と同じ、セイレーンの如き魅惑の旋律。
「メイドを殺しても構わんが、その代償は思うより大きいぞ」
 ムッと眉を寄せる灰色のかたまりを視界の隅に、ユニヴェールは肩をすくめた。
「どうする」
「……たかがメイドひとりにお優しいことで」
 道化の仮面が静かに降ろされた。
 今にも喉笛を噛み切ってきそうな目が爛々《らんらん》とこちらを睨んでいるが、手は剣にかかっていない。
「私をなめられては困るのでね」
「……化け物が」
 吐き捨てられたと同時、騎士の姿は霞と消えた。
 ウォルター・ド・ベリオール。
 暗黒都市の暗黒。
「…………」
「…………」
 ユニヴェールが息をついて視線をずらせば、彼のメイドはじーっと目の前の菓子山を凝視していた。
 が、主の目に気がつくと変わらぬ真顔を上げ、彼の言葉を待つ。
「怪我は」
「あるわけがありません」
「烙印は」
「消えました」
 過去は過ぎ去ったものだ。
 失ったものも、壊されたものも、自ら壊したものも、どうにもならない。そして、それらには何の感慨もない。情もなければ未練もない。何もない。何者でもない。ただ世界を見下ろして、光と闇とを天秤にかける。
 そうやって軽く笑う。
 そんな現在を繰り返す。
 死者に──吸血鬼に将来と呼べる未来はない。だが、問題は未来なのだ。将来がなくとも未来はやってくる。世界の時は流れ続けている。
 ならば、永遠に未来と格闘し続けることが彼の宿命だろうか? だとしても彼の優位は変わらない。
 野心もない、目的もない。
 だからこそすべてを抱き、すべてを飲み込むことができる。
 歴史の大河と同じように。

 ユニヴェールは満足げに目を細めて、メイドに背を向けた。
「では、屋敷に帰るぞ」
「御意」


◆  ◇  ◆


── ニ日後 ──

「……今日買い物に出かけましたら、ヴィスタロッサ聖騎士が昇進したという話を聞きました。なんでも食屍鬼の百人斬りをしたとかで」
 パルティータが声をかけても、紅茶をテーブルに置いても、主はあごに手をやったまま紙束を睨み微動だにしなかった。
「女王陛下から謝罪のお手紙も来ていました」
「ベリオールも意外と律儀者だな、あんな失態まで報告したのか」
 相変らず視線は紙を忙しなく行き来し、しかし一応聞こえてはいたようである。
「食屍鬼をあんなに動かして、聖騎士をひとり昇進させるまでに事が大きくなったら、報告せざるを得ないと思いますが……。しかし、彼は単なる食屍鬼で卿を追い返せると思ったんでしょうか?」
「あいつはきっと私が来るとは思ってなかっただろうよ。この私がメイド一匹を本気で取り返しに来るなんてな。あそこに来るのは一般人と巡回の聖騎士だけだとタカをくくったから、食屍鬼だったのだ。──いいか、パルティータ覚えておけ。勝負というものは、驚いた方が負けだ」
「…………」
 夜陰の降りた窓の外をちらりと見、パルティータは気を取り直してずいっと主の手元をのぞきこんだ。
「……まだ決まらないのですか?」
「あと三人だ」
 ばさっとテーブルに投げ出されたのは労働契約書の束。
 不合格と烙印を押された紙の年齢欄を、鋭利な流線型を描いた爪がコツコツ叩く。
「年齢が問題だ。子どもは難しい」
 ユニヴェールとパルティータ。ふたりが現実を見つめれば、大きな食堂のテーブルはいつになく大盛況。老若男女十三人、共通項はホラーについた血糊と不気味な薄笑い。あの教会にいた幽霊たちだ。
「大体なんで私が暗黒都市への就職斡旋(あっせん)をしなければならない? 本来神の御許に行きたいもんじゃないのか?」
「権力は有意義に使うべきです。あんな陰気なところにずっといたのでは可哀相ですよ。神様は助けてくれそうにないですし」
 手をつけられる気配のない主のティーカップ。彼女は言いながら砂糖を入れてかきまぜた。ミルクポットを軽く持ち上げれば、主は緩く首を左右に振ってくる。
「──あんな陰気なところで楽しげにおやつを食べてたのはどこのどいつだ」
「誘拐でもされれば、ありがたみが身にしみて給料上がるかと思いまして」
「三分の一カットだな」
「ひどい。誘拐されたあげく不当に労働条件を悪くされたのでは黙っているわけにはいきません」
 パルティータが棒読みで拳を握ると、ようやく紅茶に口をつけた吸血鬼が嫌味な微笑を向けてきた。
「昔のつてでヴァチカンでも紹介してやろうか? その特異体質では実験台にでもされるのがオチだろうがな」
「そういえばユニヴェール様は──何者でもないとおっしゃっていましたね?」
 話が飛ぶ。
 だがユニヴェールは答えた。
「何者でもない」
「では何故暗黒都市の番犬なんかやっているんです? どこから見ても闇に染まってますよ。中立には見えません」
 深い理由があるのだろうと思ったわけではないが、それでも答えはあまりに早かった。
「労働契約なのだから仕方ない」
「……はい?」
「柩に眠って人を襲って眠って襲って眠って襲って……私はな、そんなことを繰り返しているだけの低文化的な吸血鬼ではいたくはないのだよ。芸術を愛で、育て、美味いものを食べ、少しばかりどこかの国に肩入れし、歴史の天秤に触れ──そうするためには力と地位に見合った暮らしをしなければならない。だが、他人の厚意によってそれが手に入っても意味がないのだ。恩を受けるということは、そこから身動きがとれなくなるということだからな」
 要するに好き勝手やるためには、特定の者から庇護を受けるわけにはいかない。自立しなければいけないということか。
「世の中金だ。地に足つけたまま笑ってやるには、自分で稼がねばならん。ま、単に金払いがいいのが女王陛下だっただけの話だな。私は暗黒都市に雇われているのだから、よほどのことがない限り暗黒都市の命によって動くがね」
 あっさりした白皙で、主はもうひと口紅茶を含んだ。
 裏も表もなさそうで、しかし裏だけしかなさそうな飄々たる風貌。
 どこまでが嘘でどこまでが本当なのかは分からない。分からないが──パルティータはあからさまに顔をしかめて非難の声を上げた。
 「世の中金だなんて、はしたない。それが紳士で売っている吸血鬼の言うことですか?」
 似た者同士であるということを教える者は、誰もいない。
 ついでに、黒猫ルナールの心配をする者も、いない。

「あぁそうだ、パルティータ。劇場の無料招待券があるんだが、今夜行くか?」



THE END


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