冷笑主義

第5話  背約の三使徒

後編




 世界で一番奇妙な体験をしているのではないかと、ルナールは思った。
 一日かけてジェノヴァ共和国に入ると同時、太陽が昇っているにもかかわらず一匹の蝙蝠コウモリが彼らを先導した。そして辿り着いた先がココ。町からは遠く離れたなだらかな丘の大樹の影、小さな教会の前庭だった。おそらく歴史の中程で、町そのものが場所を変え、置いていかれたものだろう。
 人気ひとけのないそこには黒い日傘を差したメイドが佇んでいる。濃い灰色の長袖ドレスの上から白いエプロンをつけた、長い黒髪の女。
 彼女が静かに見下ろす先には、男の首がひとつあった。
 両のまぶたを柔らかく閉じた、怜悧な男の首。
 それはふたりともがよく見知った顔だった。
 主、シャルロ・ド・ユニヴェール。
 身体はおそらく燃え尽きたのだろう、その首は燃やされ炭化した木々の上にのっていた。

 それ以上に不可思議だったのは、その焚き火のまわりに十三の屍が転がっていることだった。
 白い法衣と人数分の聖剣を見るにつけ、彼らはクルースニクなのだと知れる。
 十三人。その数字からルナールが思いつくところによれば、それらの屍はいつもユニヴェールがなぶっているような下っ端の輩ではなく、教皇庁直下の白十字団に違いなかった。
 ルナールは、ユニヴェールと共にいた時間がパルティータよりも圧倒的に長い。彼女は吸血鬼に仕えて十年にも満たないが、剣士は三百年近く──それこそユニヴェールが吸血鬼になった直後あたりから──彼の下僕でいるのだ。それゆえに、とりあえずのことは彼女よりも知っていた。
 彼は言葉を発して考えをまとめようと、御者台の上でくるくると指を回す。
「おそらくユニヴェール卿が出張したのは彼らのせいでしょう。白十字団──彼らは通常のクルースニクよりも高度な才を持ち、高度な訓練を受け、十三人でひと組で組織され、連携の取れた団体行動をするのです」
「……この中の誰かが我が愛すべき主を殺したっていうのかしらね?」
 パルティータがかがみ、日傘をたたむ。無残に折り重なった死体を見ても、生首を目の前にしても、顔色ひとつ変えない女。
 その彼女が美しい吸血鬼の首を持ち上げた。
 断たれた首の断面は焼け、血が滴り落ちることはない。
 だが同時に、白皙の肌にも冷たい銀髪にも焼けた跡はなく、傷もない。名を呼べば、その双眸が開き紅が輝きそうなほど。身体を失くしたことなどどこ吹く風で、してやられたと笑いだしそうなほど。それくらい吸血鬼の首は生きていた。
 首だけで、家事をさぼったことを婉曲的に咎め、悪口を言ったことに柳眉を逆立ててきそうな気配がある。
「十三人でひと組。僕らがここについた時には全員死んでいる。ということは、ユニヴェール卿の首を討ち、その肉体を焼き払い、その後にクルースニクは死んだということになりますね。あり得ますかねぇ?」
「第三者がいたとしたら……? 別のクルースニクとか」
「いません」
「何故」
「別のクルースニクがいたとしたら、こんなところに卿の首を残したりしませんよ。燃えた跡の灰もです。ヴァチカンに持ち帰るとか、湖の底に沈めるとか、海に捨てるとか、底なし沼に放り込むとか……灰だったらパンに練りこんで食べてしまうとか。ともかく、こんな場所に放っておくわけがないでしょう。甦りたくても甦ることができなさそーなところに始末するはずですよ。無駄ですけど」
「そうね」
「とはいえ、誰が殺そうとも卿が滅びていない以上、何の脅威でもないでしょうが」
「そうね」
 パルティータの小さな相槌を聞きながら、ルナールは沈黙の思考に落ちていった。
 そして彼に代わるように、パルティータが沈黙の穴埋めをする。
「ユニヴェール様を殺した者は、滅ぼすことが不可能だったのか、必要がないと判断したのか、それともこれで滅びたと思ったのか」
 こんなに美しい首が残っていて、敵が何も思わぬわけがない。
 今は物言わぬ主だが、こんなに簡単に滅びるわけがない。
 そう、シャルロ・ド・ユニヴェールは過去何度も死んでいる。だが、一度として滅びたことはない。
 ヴァチカンもクルースニクもそれを充分知っているはずだ。
 ここで滅びるのは普通の吸血鬼だけ。だが彼女の手の中にある吸血鬼は、滅びない。普通ではないからだ。
 彼が滅びる時は、闇が滅びる時でもある。
 それだけのものを背負っている者が、たかだか十三人の殺し屋にやられるわけがない。
 灰にされようが刻まれようが聖なる水に漬けられようが、甦った男だ。
 誰もがりつかれたように魅入る首が残っていて、倒した気になるクルースニクが世にいようか?
「何にせよ、ご本人様に聞いてみるのが早いでしょうね」
 平らな目をしたパルティータは、ルナールを振り返り口端を吊り上げた。
「やっぱり起こします?」
「たぶんそのために呼ばれたんでしょうし」
「…………」
 ルナールがひきつった笑みを浮かべて背を向けた。
 パルティータ程ではないにしろ、艶やかな黒髪が揺れる。
 長閑な休息を懐かしみ、その終わりを悲しむ剣士を背景に、パルティータは主の首を下に置いた。
 ただ眠っているだけに見える主。
 だが、紛れもなく死んでいる。首だけなのだから当たり前だ。
(──このまま私が放っておいても甦るかしらね?)
 ふとそんな邪心がよぎるが、すぐに答えが聞こえた。
(もちろん、甦る)
(──なんで?)
(ユニヴェール卿だから)
(──あぁ)
 いとも簡単に納得し、彼女は面白い実験を中止することにした。
 後で不気味に笑った主に詰め寄られるのは、避けたいところである。
「では」
 パルティータは手近に転がっていた聖剣を取り、自らの指先を切った。
「痛……」
 鈍く響く痛みと共に、見下ろした指先が紅に染まっていった。
 陽光に鮮やかな血の雫。
 彼女は顔をしかめながら、指を燃えた焚き火の跡へとかざす。
 すると一滴、二滴としたたりが灰へと吸い込まれ、黒い染みを作ってゆく。
「我が主。再びこの世へ戻らん」
 彼女はユニヴェールの首を灰の上にかざした。
 蝋人形の如く美しく、死者の如く白く、生者の如く思惑に富んだその顔。
「死んでいる場合ではありませんよ」
 彼女は淡々とそう言うと、死する吸血鬼の冷ややかな口元へと己の紅唇を重ねた。
 もしもルナールが卿の叱責を恐れて背を向けていなければ、彼はその不思議な光景を目にすることができただろう。
 そう多くはないはずだ、吸血鬼が聖なる死から再び這い上がるところを見たことがある者は。
 しかも太陽が燦々(さんさん)と輝く中!
 燃え朽ちたたきぎの灰。どこへともなく風に飛ばされたはずの灰。
 それらが音もなく集まり、人型を成そうとしていた。
 地を踏みにじる靴となり、虚空を掴む白き手となり、陽光を吸い込む黒衣となり、重厚な質量のある存在へと変わってゆく。
 灰の一粒一粒に定められた場所があるように、違えることなく迷うことなく、本来の姿へと戻ってゆく。再生されてゆく。
 降り注ぐ陽射しの下で、刻々と死が蹂躙じゅうりんされ、凌駕されていく。神の領分か、死神の領分か、だがどちらもこの男に鎖をかけ牢に繋ぐことはできない。
 主の首を支えていたパルティータは、手が軽くなったのを感じ取った。
 瞬間、腕をどけ口付けを離そうとしたが──、逆に腰に手を回され肩を抱かれる。
「出迎えご苦労」
 軽く合わせられた口端から、いつもの柔らかい低音が流れた。
 その唇は冷たい。だが、確かに男は存在していた。
「……お目覚めの気分はいかがで?」
「死んだわりには悪くないな」
 仰げば、不敵な紅の双眸が笑っていた。
 吸血鬼、シャルロ・ド・ユニヴェール。
 陽光の下だろうがなんだろうが簡単に復活してしまう脅威の麗人。
「呼び付けてすまなかった」
 彼は斜めに微笑むと、足りないとばかりにもう一度パルティータの口を塞ぐ。
「十三人全て滅ぼしてやったんだが、ヴァチカンが妙な小細工をしていてな」
 ついばみながらの穏かな物言い。
「小細工?」
「機械仕掛けの死者。実際は低級な死者蘇生術ネクロマンシーらしいが……、死んだ後もただひとつの命令を遂行するまで意志なく動き回るというやつでな。まぁ目的を果たしたらまた死ぬんだが。……白十字を全員殺した後、腕を落とされてどうしたもんかと悩んでいたら、殺られたのだ」
「ヴァチカンが死者蘇生術を?」
「なりふり構わぬといったところか」
「……慢心」
 ぼそっとしたパルティータの言葉に、ユニヴェールの片眉が跳ねた。
「……油断」
 優美な光を灯していた紅が、硬度を増す。
「……っていうか自己責任ですよね、ほとんど」
「…………」
 黒衣の紳士はねぎらうようにパルティータの切れた指先へと唇をつけ、さっと馬車に向き直った。
「ルナール!」
「はい〜っ」
 多少裏返った声が、黒塗り馬車の影から響く。
「暗黒都市へ行く。このまま馬車を出せ。さっさと支度をしたら、暴言の半分はなかったことにしてやる」
「……か、かしこまりまして」
 この破格の吸血鬼はそこまで何でもお見通しなのだろうか。
 もしや家事をさぼったこともばれているのだろうか。
 内心ひきつりながらパルティータが視線で問えば、馬車を見つめる姿勢を崩さないまま、主がフッと笑いを漏らしてきた。
(……釣ってみただけね)
 胸中での嘆息。するとそこへ主のテノールが重なった。
「ヴァチカンは、どうあっても一戦交えたいらしい」
「──はい?」
 意味が分からず疑問符を上げれば、吸血鬼は肩越しに後ろを見やり、教会を仰いだ。白塗りの壁に福音のステンドグラス。そして塔の先に掲げられた十字架。
 陽光の下、神の御前、時代と人の数だけ重ねられた聖なる祈りの残響。
 少しは苦に感じるところはあるのだろうが、その男は一片の素振りも見せずにただ嘲笑う。
「闇は潰す。それが奴らの結論だそうだ」
「昔からそうだったではありませんか」
「だから私も丁重におもてなしすることにした」
「丁重に……」
「ユニヴェール卿〜! 出発しますか〜っ!」
「ついて来い、面白い物をみせてやる」
「──御意」
 ばっと黒日傘を主に掲げるパルティータ。
 面白い物といわれたが、当面一番面白いのはシャルロ・ド・ユニヴェールという生き物であることは間違いない。
 正しくは死んでいるが。


◆  ◇  ◆


 ユニヴェールは元々クルースニクであった。
 吸血鬼を討ち、闇を滅ぼす側の人間だったのだ。
 その当時も今と変わらず、クルースニクの中の化け物と呼ばれた。畏怖と皮肉とひがみを込めて。
 だが彼は死んだ。殺されたのだ。
 そして吸血鬼となって再び世に舞い戻った。
 今度は畏怖と恐怖と欠片の羨望を込めて、吸血鬼の中の化け物と呼ばれた。
 クルースニクから吸血鬼への転身。
 しかも、彼を追って闇に身を落としたクルースニクがいた。
 それが教会……否、ヴァチカンの最高機密機関、吸血鬼始末人クルースニクたちの最高峰、デュランダル隊最大の汚点と言われる──背約の三使徒、である。


「いかにユニヴェール卿と言えども陛下のお許しがなければ!」
「私は私のものを取りに来た。それだけだ」
「しかし手続きは踏んでいただきませんと!」
「面倒臭い」
 ずんずんと歩いていくユニヴェールの後ろを、いかめしい顔をした大男──おそらくは傭兵なのだろう──が、ひたすら下手したてに懇願している。
「暗黒都市って一日中夜なのね」
「だから暗黒都市って言うんですよ」
 半分社会見学のような気分で、その後に続くパルティータとルナール。
「私は化け物が寄り集まってるから暗黒都市っていうのかと思ってたわ」
「人間が言う場合の“暗黒都市”は、その意味が大半だとは思いますが……」
 ルナールはほとんど化け物なので、何度もユニヴェールに連れられてこの都市へ来たことがあった。
 しかし人間であるパルティータは入ったことがなかったのだ。
「しかも人間をお入れになるなんてどーゆーことですか!」
 あからさまにこちらを指差して大男が言っている。善意で言えば大男だが、率直に言えば怪物の域だ。どこかの伝承の巨人族だろう。いかめしく、巨大。まぁ門番だか衛兵だかにはうってつけの人材だろが。
「……あの怪物、フライパン持ってたら思いっきり殴ってやるのに」
「やめなさい」
 両手をわきわきさせた彼女の肩に、ルナールが手をのせて静めてくる。暗黒都市は常に夜だが、地上は昼間なので猫にならないらしい。
「人間は入ったが最後出られないのが規則です! 同族になさるおつもりですか!? それならよいですけどもっ」
「…………」
 ユニヴェールが立ち止まった。
 しばし考え、言う。
「アレはほとんど人間ではないから大丈夫だ」
 そして彼はまた歩き始めた。
「そんな無茶苦茶なこと言われたって困りますよ〜〜」
 怪物は泣きそうになり、パルティータの平面顔に青筋がひとつ浮かぶ。
あいつ(ユニヴェール)も殴り倒してやる」
「やめときなさい」



 暗黒都市。
 黒い森に存在する、不可視の都。
 女王の住まう黒曜の城を中心として、四方八方に広がる夜の都。時計台やら宮殿やらが炎に照らされ輝き合い、いくつもの馬車がカラカラと小気味よい音をたてて石畳の通りを走り抜けていく。
 黒のケープを羽織った魔女たちがけたたましくしゃべりたて、怪奇趣味の毒々しい衣装をまとった魔貴族たちが優雅な足取りで歩み行く。
 空には大きな燃えるように赤い月。
 時折過ぎるのは大鴉(おおがらす)の羽音。
 入るのもためらわれるような格調高いガラス窓の向こうには、整然と並べられた見たこともない品。
 紅茶を飲みながら、片眼鏡で品々を物色をするどこかの骨ばった術師。
 幻想的なほの暗い光を放つ灯火も届かぬ路地裏では、煙玉のような物体が目をぱちくりさせ、こちらを見ては逃げていく。
 けれどそんな煌びやかな都を眺めていたのも束の間。
 彼らは今、その都市の地下を歩いていた。

 はっきり言ってつまらない。
 目に映るのは石積みの壁と等間隔にかけられたランタンだけなのだ。

「ユニヴェール卿〜、お願いですから一度陛下に目通りを」
「必要ない」
 いい加減にしろと言わんばかりに、吸血鬼が表情を険しくした。
「言っておくが、私はお前たちと同じではない。私は契約の上でここにいるだけだ。自分のものを自分で取りに行くことくらい自由でなければやっていられん」
「……そーんなぁ……」
 大きな怪物君が図体に似合わず可愛らしい台詞で途方に暮れ掛けたその時、迷宮の地下通路に低く鷹揚おうような女の声が響いた。
<わらわのしもべをそう困らすでない、ユニヴェール>
「……陛下」
 わずかに紅を見開き、ユニヴェールが片手を胸に当てる。一応の礼儀らしい。
<そなたの好きにするがよい、そう──そなたと暗黒都市のつながりは忠義ではなく契約じゃ。だが、理由を聞かせてはくれぬかえ?>
「理由、と申しますと」
<そなたの歩む先に何があるか、わらわが知らぬと思うてか? そなたの大事は、わらわの都の大事ともなりえよう。事情を把握しておくのは勤めのうち>
「私の力を信用なさっておられない?」
 試すような吸血鬼の口調。
 どこか上を見上げる目の奥が笑っている。
<そうではないよ。ヴァチカンの動きを知っておきたいだけじゃ。近頃雲行きが怪しゅうてなぁ>
「…………」
 吟味するように耳を傾けていたユニヴェールだが、彼はふいと視線を横にそらし腕組みをした。
 短い嘆息の後、告げる。
「ヴァチカンはデュランダル隊の封印を解いたようです。ソテールが放たれ、ダンピールの用意もあると。少しでも危機感を感じさせようとしたのか、死に際の白十字が教えてくれましたよ」
<救世主ソテール・ヴェルトール、絶対なる吸血鬼始末人(クルースニク)ダンピール──ユニヴェール、いいのかえ?>
「何がです」
<……いや、よい。そなたがそう申すならば、すべて任せよう。自由に動け>
「承りまして」
 寒気のするような笑みを残し、主はすぐに歩き出した。
 この暗黒都市を統べる女王の声──ゆったりと流れる大河ドナウのような声はもう、追ってこない。
「……い、一体何をしに行くのですか、ユニヴェール卿」
 吸血鬼は、こけつまろびつやはり後を付いてくる怪物の言葉を無視した。
 彼は滑るように地下の奥へ奥へ進んで行くだけ。
 迷路のように入り組んでいる地下を、迷うことなく確信的に歩む。
 時折すれ違う兵士らしき者達が敬礼をしてくるが、主はそれにも全く応えなかった。
 彼は無言のまま歩き続け──いい加減パルティータが噴火しそうになった時。
 ようやくユニヴェールが立ち止まった。
「ここは……」
「私専用の監獄だ」
 視線が指し示す先には、三つの牢獄があった。
 そこは薄暗く、部屋のほとんどが闇に覆われている。炎もなく、寝台もない。皿や食べ物の形跡もなく、……それどころか何かが存在していた様子もない。
 ただ、引き伸ばされた六角形の柩が、銀の鎖でぐるぐる巻きにされて置いてあるだけ。
 ひとつの牢獄にひとつの柩。
「あの、まさか……」
 岩の如くごつごつした怪物男の顔が、歪んだ。
「いえ、あの、貴方は…もしや……」
「私たちを閉じ込めるつもりですか?」
 パルティータは怪物君の後を継いでみた。
「馬鹿言え」
 ユニヴェールに一蹴される。
「……ま、さか、ユニヴェール…卿」
 しかも大男は別のことを言おうとしていたらしく、未だ口をぱくぱくさせていた。
「ありえ…ませんよね、あの、ほら……」
「あれを起こすんですか?」
 代わりにズバリと続けたのは最後尾を歩いてきたルナールだった。
「起こす」
「背約の三使徒……」
 怪物がつぶやき、
「へぇ」
 ルナールが柩を見つめる。
「…………」
 怪物君の張り詰めた空気を感じた様子もなく、ユニヴェールが黒衣から鍵束を取り出した。
 華奢な六本の鍵がつながれた、銀色の輪。
 ひとつは牢獄の鍵。もうひとつは柩を縛る鎖の鍵。
 皆が見つめる中、彼はゆっくりと柩を開ける。
「フランベルジェ、起きろ。時が来た」
 木製の箱の中に眠っていたのは、青みがかった髪をした妙齢の女だった。
 ユニヴェールが声をかけ、白い指が彼女の唇をなぞったと同時。長い睫毛を有したまぶたがぴくりと動き、ゆっくりとその青の瞳が姿を現す。
 ──氷の魔女。
 それ以外に呼び様のない女だと、パルティータは思った。
 どこか夢見ているような半開きの双眸。白夜に映える氷の如く、霜の降りた青のローブ。
「…………」
 起き上がれば長身で、軽くパルティータを超えていた。
 おっとりとした動きの彼女は完全に柩から出ると、にっこり微笑んでユニヴェールに向き直る。
 そして胸に手をあて一礼した。
「おはようございます、我が主(モン メートル)



「紹介する。私の死を追ってクルースニクから暗黒都市の住人に転身してしまった部下たちだ」
 パルティータは黙って紹介された。
「この女はフランベルジェ・ド・モントヴァン。魔女だ」
「どうも初めまして、以後お見知りおきを」
 魔女でなければ修道女シスターか聖女だと、人は言うだろう。森奥の凪の湖面を擬人化したような先ほどの女性は、俗っぽさがないかわりにどこか浮いていて、ふんわりした──“お姉さん”に近いものがある。
「それからこっちの小さいのはシャムシール。墓場のむくろや動物を手なずけるのが得意だ」
「よろしく」
 小さな手を差し出されて、パルティータは毒気を抜かれたまま握手した。
 どう見ても少年なのだ。
 茶色い髪の、利発そうな少年。深い草色の法衣はだぶだぶで、裾をひきずっているところが可愛らしいといえば可愛らしい。
 が。
(──こんな小さい子まで飼ってるってどういうことですか)
 ギロリと睨みやると、ユニヴェールがついっと目を逸らす。
「で、こっちの馬鹿は……」
「馬鹿で悪かったな」
「主人に向かって殴りかかるやつがあるか、愚か者」
「しょーがねぇだろ! ン十年も寝てりゃ殴りたくもなる!」
 最後に起こされたのは、スラムの路地にいそうな擦り切れた若者だった。あごをさすっているのは、ふたを開けた瞬間ユニヴェールに鉄拳をくらわせようとして逆に返された勲章だ。
「死人のくせに血の気が多い、アスカロン。素手でも剣でも、狂戦士バーサーカー並みに猪突猛進」
「お嬢さん、楽しくやっていきましょう」
 鳶色の髪の彼がパルティータの手をとりうやうやしく口付けた瞬間、二方向から鋭い睨みが飛んだ。
 ルナール。そしてユニヴェール。
 パルティータはその挨拶を甘んじて受けながら、早くも疲労を感じ始めていた。
「恐れることはない、全員、実に理性的で役に立つ普通の死人だ」
「そうですか」
 死人は普通死んでいます。
 もはや正す気にもなれず、パルティータは乾いた笑い声をあげた。
 こういう大雑把なところがいかもにも主らしい。
 この吸血鬼は、敵の数だとか種類だとか思惑だとか、そういったものにほとんど注意を払わない。向かい来る者の刃を正面から受けようとする。それどころか策を弄するときは、さらに事をややこしくしようとする時なのだ。
 不利だとか有利だとかではなく、面白くなるか否か。
 それだけがこの男の基準だ。
 だがそうでありながら、ユニヴェールが心底困ったところを、彼女は見たことがなかった。もちろん怖気づくような場面も、追い詰められた場面も、まして“窮地”など見たことがない。
「それで、」
 パルティータは、しらっとした顔で立っているユニヴェールを見やった。
「全員私が面倒みるわけですか?」
「…………」
「構いませんけどね」
「それでこそ私のメイド」
「お給料は上げてもらいます」
「…………」
「あぁ、あとお屋敷の壁に書いてくださった血文字。あれ誰が掃除します?」


──地においては善意の人々に平和あれ(エト イン テラ パクス オミニブス ボーネ ヴォルンターティス)──



THE END



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