冷笑主義
第6話 白く冷たく美しく
前編
その男は、淡々と地下を歩いていた。
申し訳程度に灯された炎に照らされる、薄暗い地下の通路。
湿気はない代わりに、ちらちらと空気中に細かい砂が舞う。
等間隔に並ぶ両脇の円柱から広がるアーチ状の天には、人目に触れぬというのに繊細な絵物語が綴られ、けれどそれは長い年月の風化によって所々剥げている。
劣化した碧とくすんだ金色、褪せても荘厳さだけは失わない色彩が何十年ぶりかに彼を迎えていた。
揺らめくその僅かな明かりに映し出されたのは、光をすべて喰わんとする漆黒の髪。ただ強く前を見据える蒼い双眸。柔と剛を内包した年齢不肖な相貌。そして死者の骨よりも白い長外套に包まれた長身痩躯。
閉じ込められたローマ帝国の風が震え、静かな靴音が通路に響く。
ヴァチカンの象徴──サン・ピエトロ大聖堂。
聖ペテロが刑にかけられたこの地に、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世によってこの聖堂が建立されたのが324年。もう、大昔の話になる。
もっとも、教皇がサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂からこちらの地へと住まいを移したのは最近のことだから、教会の中心地としての歴史は百年に満たない。それでも聖ペテロの墓所として各国から巡礼者たちが集い、改修や増築を繰り返した聖堂は巨大な懐をもって人々を迎えた。
だがそんな光の都は、旅人はもちろん、ローマの住人もヴァチカンの住人もほとんどが知らない秘密を胸の奥に抱えていたのだ。
意図して隠していたわけではなく、公にする機会も必要もなかっただけかもしれないが、彼らが畏れ敬い涙を流す大聖堂の下、太陽の届かぬ地の底に歴代数多の教皇が永遠の眠りについている地下聖堂があるということを、知る者は少なかった。
それよりも深い場所に初期の教徒たちが眠る死者の街──ネクロポリス──が広がっていることを知る者はさらに少なかった。その最奥に眠る者こそが聖ペトロであることを知る者は……。
そして──。
「……馬鹿が」
白外套の男は、前を歩く人物に向かって言い放った。
年長者に対する尊敬も敬意も含まれず、ため息のような声音。
「まぁそう言うな、ソテール・ヴェルト-ル」
彼の先を行く白い司祭服の老人が振り返りもせずに間延びした調子で返してくる。
「家名を付けるなと、何度言ったら分かるんだ?」
男は寝起きで虫の居所が悪かった。
「……私がお前と会ったのは三十年程前のこと、一回だけだよ、ソテール」
老翁に懐かしむ色はない。ただ漠然と時の流れを告げてくるだけ。
彼はそう言われてようやく思い出した。
── 己は不老であった、殺されるまでは不死であった、と。
「三十年前……東ローマ帝国滅亡か」
「そうだ。その一回だけ」
相手は面倒くさそうに形だけの相槌で終わらせてくる。
歓迎はされていない。それは彼──ソテールにも分かっていた。
だが、必要とされている。
約三百年前に彼がこのネクロポリスに封印されて以来、起こされる時は必ず決まっていた。
彼の力が必要になった時。
つまり、
「ユニヴェールが動き出したのか?」
「奴が仕掛けてきたわけではない」
「?」
「何にせよ、枢機卿にお会いして直接話を聞けば分かることだ」
「ならばそうさせてもらおうか。だが──、俺がどこまでも教会の言いなりになると思われては困るな……」
白の男はふいに立ち止まり、人差し指を立てた。
完璧な造形の指が、カビて澱んだ空気に美しい文字の帯を描く。
銀糸で豪奢に刺繍された袖が揺れ、彼の薄い唇からはその文字を小さく読み上げる微かな息吹。
「ソテール!」
先導していた司祭が気付き振り返ったときにはもう遅い。
「さようなら」
吸血鬼始末人ソテール・ヴェルトールは、密やかな嘲笑だけを残して眠りに満たされた地下の街から消え去った。
その存在を知る者は数少なく、そこに何があるのか知る者は更に少ない、地下墓地ネクロポリス。
コンスタンティヌス帝の頃には、人々が酒を酌み交わしご馳走を食べ騒々しく死者と語らう聖堂として活躍していたらしいが、今では当時の空気がそのまま閉じ込められているのではと思うほどに人の出入りがない。
煉瓦積みの壁に四方を囲まれた地下、聖ペテロの墓地より手前にある隠された分岐から横に逸れ道になりに進んでいくと、誰もを暗澹たる気分にさせる牢獄がひとつある。
そしてその中をのぞけば、十数個の石棺が無造作に並べられているのを見ることができる。
一見すれば、罪人の墓地なのかと誤解しそうな殺風景な牢獄。
しかしその石棺に囚われた者たちには、誇られるべきあるいは畏れられるべき、名前が与えられていた。
通称“ローランの剣”。
正式には、ヴァチカン教皇庁直属、非公式特務課、デュランダル隊。
それは白十字団よりも更に上位に位置する、対魔、対暗黒都市に特化した半ば伝説的なクルースニクの精鋭組織だった。
三百年前までは。
しかし三百年前、所属していたシャルロ・ド・ユニヴェールが吸血鬼に堕ちてからは、彼らの使命は変容した。
彼らが命を懸けて狩る標的は、元同僚であるユニヴェールとなったのだ。ユニヴェールが動く時にはデュランダルも動く。ヴァチカンが本気でユニヴェールに仕掛ける時は、デュランダルが先陣を切る。
家族を捨て、友人を捨て、恋人を捨て、あらゆる個人的な関係を断ち切り、遥かなる時間を超えてパーテルの吸血鬼と対峙し続ける集団。
そしてその隊を率いている者こそ──三百年前のあの時も、今この時も──代々その任を負うヴェルトール家の若き当主、ソテール・ヴェルトールである。
結局ソテールが件の枢機卿の前に現れたのは、彼が目覚めてから有に一週間以上経ってからだった。
サンピエトロ大聖堂の横に建つ、実際の政務が行なわれている教皇庁。
その一郭、午前の陽射しが降り注ぐ巨大な一室に、何人かの枢機卿、大司祭、司祭が集められ、問答は始まった。
部屋の両脇を飾る古の聖人たちの石像。その前に白い僧服をまとった者たちと緋色をまとった枢機卿たちとが隙間なく立ち並ぶ様は壮観で、そのどれもが厳しく神妙な面持ちだ。
「起きてからここに現れるまで、お前は一体何をしていた」
部屋の主の第一声に、静寂が深まる。
が、問われた本人──部屋の中央に立たされている男は、あっけらかんと笑って見せた。
「俺は三十年も眠らされていたんだ、情報収集くらいは当たり前の行動だろう。それと、墓参りもだ」
「お前はただ言われたとおりに動けばよい、ソテール」
「つけあがるなよ」
白いクルースニクは鋭い笑みを浮かべた。
「…………」
正面デスクの向こう側で大窓からの陽光を背負っている緋色の男が、ぴくりと神経質に眉をひそめた。
ヴァチカン教皇庁総務局長官代理、ヴァレンティノ・クレメンティ枢機卿。教皇直下の長官は名誉職も同然だから、実際の権力はこの男が握っていると考えてもいいだろう。
デスクの上で両肘をつき、指を組み、硝子眼鏡の向こうからこちらを真っ直ぐに見ている聖職者。枢機卿と呼ばれるにも、長官代理と呼ばれるにもまだいささか若く。しかし周りに控える者たちの態度を見れるにつけ、金で買った地位ではないようだ。
家柄と、実力。
それでもソテールは、その蒼眸を糸にして軽く言い放った。
「たかが三十、四十年生きたくらいで大きな口を叩くなよ」
神聖なる空気が張り詰める。
「お前の作戦は遂行してやる。だが、いちいち細かいことに口を出すな」
「規律の乱れは作戦の綻びになる」
「俺は貴様らを護るためにいるわけでも、貴様らの教義を護るためにいるわけでも、教会の権力を護るためにいるわけでもないんだから」
「──お前ッ!」
たまらず声を上げた壮年の大司祭を、それより若年のクレメンティが一瞥で黙らせる。
そのままひとつ息をつき、彼はゆったりとした優雅な動作で身体を背もたれへと預けた。
そして改めてソテールを見据えてくる。目的のためならば手段など問わない、そういう琥珀色をした冷ややかな眼差し。若い、強固な理想を映した眼差し。
歴史の大河を渡る船を漕ぐには必要な色。
「ではお前は何のために飼われているんだ?」
「白十字が一団丸ごと返り討ちにあったそうだが」
ソテールは問いには答えず、訊き返した。
クレメンティの眼が嫌そうに一瞬だけ外され、すぐ戻る。
「誰かが道草を喰っていて集合に遅れたからな」
「俺がいなかったから白十字だけでユニヴェールに向かって行ったって? どうして退却しない。白十字ではどうにもならん相手だということは明白だろうに。退くことは必ずしも敗北ではない。良かったな、調子に乗ったあの男がここまで乗り込んで来なくて」
ソテールはよく切れる双眸で居並ぶ聖職者たちを撫でた。
白より白く漂白された言葉が、一言一言部屋の空気を重くする。
「そもそも、ユニヴェールを滅ぼしに行くのに白十字は必要ない。デュランダルさえ必要ないくらいだ」
髪の先からつま先まで彫刻めいた、しかし他を制する強靭な意志が宿った男。
「俺にはあの男を殺す義務があった。だがあれを殺したのは俺でなかった。それがすべての元凶なんだからな」
ヴェルトール家とユニヴェール家は互いに吸血鬼始末人の名門だった。一族から何人も精鋭を輩出した。
だが一方は栄光の道を歩み、一方は自らの血で呪われたのだ。
「もう一度聞く。お前は何のために飼われている」
今度は話題を逸らすことは許さない、言外に含んだクレメンティの問い。
いつもならソテールの言葉から逃げるのは聖職者の方であるのに、この怜悧な官吏はどうあっても言うことを聞かせたいらしい。
「何のためか?」
古書に降り積もった砂塵が吹き払われるように、三十年の眠りが白いクルースニクの顔からすっと消える。
と同時、太陽が雲に陰り、部屋から陽光までもが消えた。
その中で囁かれる穏やかな宣言。
「デュランダルは──否、俺は……教会がどうなろうと関係ない」
一度息継ぎを入れた彼の脳裏、あの男の姿が笑って通り過ぎた。
凍てつく月のような銀髪、禍々しい紅の双眸、光を飲み込む黒衣、人を喰った道化な性格、──闇の街で思うままに君臨する元部下。
「俺は、シャルロ・ド・ユニヴェールを滅ぼすためだけにここにいる」
◆ ◇ ◆
今からおよそ二百年前。
あの頃、度重なる十字軍遠征の失敗に教皇権は失墜していた。
それを回復させようとした教皇ボニファティウス八世は、権威の優位をめぐりフランス・イギリス両国王と争ったが、1303年、フランス王フィリップ四世によってローマ近郊のアナーニで捕えられ、解放後まもなく没した。あげく乗じて1309年、フィリップ四世は教皇庁を南フランスのアヴィニョンへと強硬的に移す。
そして以後七十年間教皇庁はフランス王の干渉を受けることになる。
南フランスへの教皇庁の移転。
それは後、“教皇のバビロン捕囚”と言われ、子ども達を悩ませる歴史用語のひとつとなるわけだが──しかしこの事件は、人の目の見えぬところでも大きな意味を持っていた。
そう……南フランスにはあの都市があるではないか。
ローマ、教皇庁、教会、そして生きとし生ける者の対極。決して朝の訪れない、世界最大の闇夜。魑魅魍魎が跋扈して、華麗なる悪徳がはびこる街。
与えられた名は、暗黒都市、ヴィス・スプランドゥール。
そしてそこは、優秀すぎる番犬を一匹飼っていた。
当時すでに悪名を轟かせていた不滅の吸血鬼、シャルロ・ド・ユニヴェール。
暗黒都市がこの好機にまず狙ったのは、自らの目と鼻の先で不自由に喘いでいるアヴィニョンの教皇庁ではなかった。
彼らの標的は、教皇が捕えられた後も光の都市という地位を保っていた教皇領・ローマとヴァチカンだったのだ。
主人のいなくなった生者の聖地に、真の夜が訪れた。
幽鬼は揺りかごから子どもをさらい、死鬼は家々に隠れる生者たちを襲い、悪霊たちは灯のない路地を騒ぎ行く。黒く巨大な化け犬が死を告げる家を探し回り、意地の悪い妖精たちが甘い魅惑の歌声を響かせる。
甘美な幻夢にとり憑かれてしまった者たちは、もう二度と返らない。夢の中で悦楽に浸っている間に魂を喰われ、知らぬ間に死を迎えるのだ。天使に手を引かれることもなく、神の前に立つこともなく。
闇に抗するべき聖人たちは、だが、押し寄せる魔物たちの数に為す術もなく骸と化していった。
光の都市には夜な夜な暗黒都市の凱歌が流れ、もはやこの荒廃は誰にも止められないように思われた。
市民の喧騒に満ち、娘たちの歓声が溢れていたその街は今や、煤けた髑髏が風に転がり、人々のすすり泣く嗚咽が空虚な土壁に反響する街と化していた。
かつて吟遊詩人に褒め称えられた光の都は今や、色のない灰色の廃墟。
戦々恐々の夜は瞬く間にローマを支配し尽くし、それは教皇領すべてへと広がった。そしてまた彼らは、黒死病までもを引き連れて諸国を死の恐怖に突き落としたのだ。
そして暗黒都市の女王からの下命により、それら全てを率いていたのが──。
「ユニヴェール」
「……ほう?」
ソテールがその名を呼ぶと、その男は振り向き、楽しげに口端を吊り上げた。
夜のローマにひっそりと佇む小さな聖堂。
左右の巨大な円柱に護られ、金箔に彩られたその内部。
焚かれた香の匂いに混じり、歩を進める度に濃くなってゆく血臭。
吐き気をもよおすほど若くもないが、それでも自然眉間にシワがよる。
「ユニヴェール、やっぱりお前が来ていたな」
見上げるほどの祭壇の前には血に染まった法衣の人間が糸切れた人形の如く伏し、一見して息絶えていることが分かった。
胴体と首とが離れた場所に転がっていたからだ。
「間抜けな者どもとはいえ、貴様を目覚めさせておくほどには頭があったか」
男が、手にしていた司祭の首を軽く横へ放り捨てた。
彼の指に流れた鮮血が床の上に散り、恐怖に引きつった老人の顔が物言わぬ使徒像の足元で虚ろに空を見つめる。
「何をしに来たか聞いてもいいか? ソテール」
整えられた銀髪、生温かく凍った紅の双眸、冷笑を浮かべた口元の牙に、星のない夜を織った黒衣。
紳士を絵に描いたような物腰をしているくせに、他人を寄せ付けない。
そんな男が一歩こちらに踏み出してきた。
「ローマを、人々を救いに来た。そう答えれば喜んでもらえるだろうな」
闇夜の黒髪、蒼水の双眸、挑戦的な笑みに、床すれすれで翻る白の長い外套。
始めからケンカ腰の、血生臭い麗しき始末人。
ソテールも一歩前へ踏み出した。
すると、両手を広げてユニヴェールがクツクツと喉奥で笑う。
「確かにそれは傑作だ。クルースニク名言語録集のはじめの方のページに収録したいくらいにな。だが嘘はいけないだろう、ソテール。仮にも聖職者なら」
「分かった。言い直す」
こちらもまた不敵に笑い声を上げて、腰の両側に帯びた聖剣へと手をかけた。
刀身に聖言を刻んだ、およそ三百年前からの愛剣。
「今夜こそ決着が着くかと思ってね」
「クルースニクと吸血鬼、どちらが滅びるか、か?」
勝手にウンウンとうなづきかけたユニヴェールに、
「違う」
ソテールは斜め下からの視線を吸血鬼に送る。
ずらりと並べられた燭台の炎に明るく照らされる、生きた屍。
「吸血鬼・ユニヴェールと始末人・ヴェルトール、どちらが滅びるか、だ」
聞いた黒の男が、ニヤリと笑った。
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