冷笑主義

第7話 フィレンツェ

前編




「──そう。そういうこと」
 パルティータは軽くうなずいて、腕を組んだ。
 真っ直ぐに伸ばされ、綺麗に切りそろえられている黒髪。おそろいの漆黒の瞳。感情の起伏が一切見えない容貌に、もうすっかり板についた灰色のメイド服。
「どうします?」
 楽しげに訊き返してきたのは、“薄情”に黒衣を着せたような細身の男だ。放蕩者の貴族の坊ちゃんに見えないこともないが、腰には飾りではない二振りの剣を帯びている。
「約束は約束。守ってもらわないと」
「では?」
「行くのよ」
「フィレンツェまで?」
「大量虐殺犯の手下になるのは真っ平ごめんなさいでしょ」
 きっぱりとパルティータが断言すれば、男が明後日の方向へ眉をひそめた。
「……すでに大量虐殺犯ではあると思うんですけどね、あの御方。そういう人種ですし」
「だから何だって言うの?」
 彼女は抑揚のない口調と平らな目でゆっくり問い掛ける。
「……ルナール」
「……はい」
「私は契約の時に“むやみに人を殺さない”っていう条項をユニヴェール様に飲ませたの。それを破られると私が困るのよ。ここを出て行かなきゃならないでしょ」
「……えぇと……はい?」
「“貴方が契約を破ったんですよ。私は辞めさせていただきます”ってカッコ良く去るのがスジってもんじゃない?」
「……はぁ」
 ──演劇の見すぎだと思いますよ
 ルナールの目に横切った言葉は黙殺されたのだろう。
 パルティータの顔は水平なまま。
「でもこのご時世こんな給料払いの良い所他にないわけ。出て行ったら私が困るのよ。それなのに私が出て行ったってあの方はみじん切り玉ねぎのひとカケラだって困らないんだから」
「……ひとカケラくらいは困ると思いますけど」
「ひとカケラ困ったくらいで私の気が済むと思うの?」
「いいえ」
 ルナールがやる気なく首をぶんぶんと振ると、パルティータは口元を緩める。
「分かってるんじゃない。それなら次にやることも分かってるわよね」
「吸血鬼退治の支度」
「そのとおり」
「で──」
「何?」
 純粋に首を傾げるパルティータに、ルナールがにっこり笑って人差し指をぴっと立てた。
「装備はフライパンと包丁、どちらにします?」
「…………」
 パルティータは凶悪な笑みで応えた。
「使えるものは全部持っていくのよ」


◆  ◇  ◆


 そんな会話から少し前──。まだ世界が夜の闇に包まれていた時分、暗黒都市はいつになくざわついていた。
 あらゆる悪徳がはびこり、華を咲かせる世界の影。
 決して昼が訪れない、南フランスの魔界都市。
 化け物たちを統べる女王の居城、そこへと真っ直ぐ通じる石畳の通りはもちろんどこよりも人(魔物)通りが多い。馬車がひっきりなしに行き交い、道端では大道芸人が喜劇を演じ、毒草や焼き菓子の振売り屋が声を上げ、錬金術師が影のように店を渡り歩き、どこぞの下男が主の使いで忙しなく走り回る。
 そのみやびに飾り立てられた大通りを、やけに目立って歩く五人組がいた。
 雑然としたざわめきの音量が次第に絞られ、舗石を行く馬車の速度が落ちる。魔女や薬屋はそそくさと道の端へ寄る。誰もが足を止めて振り返り、近くにいた名も知らぬ者と密やかに言葉を交わす。
 注目の的となっている一行の一番前を行くのは、茶色いふわふわした髪の少年だった。大きすぎる深い草色の法衣をひきずりながら、楽しそうに精一杯大きな歩様で胸をはる。
 その後ろに並ぶふたりは、充分な大人だった。ひとりは黒騎士崩れの格好をした、しかしそれが似合わぬスレた顔つきの若者。もうひとりは人々に氷河の風を与えながら行く、優雅な物腰をした女性。
 貴族から小間使いまで、この都市にあって三人の名を知らない者はいない。彼らの主が彼らを起こしたことは、すでに周知の事実となっていた。
 そしてこの日は、それこそが道行く者たちのおしゃべりを奪った原因だが──その主までが一行の最後を歩いていたのである。
 闇を渡る能力があるが故に、都大路に姿を現すことは少ない暗黒都市の番犬シャルロ・ド・ユニヴェール。
 どこからみても奇抜な人間としか思えぬ黒の剣士を横に従えて、飄々と城を目指す。
 月光よりも冷たい銀髪に、ルビーよりも鮮やかな紅の双眸。新月の夜を織った黒衣を身に付け、自身に群がる好奇の視線をむしろ喜んで笑っている。

「ユニヴェール様、今日はどういったご用件で呼ばれたのですか?」
 美女が振り返った。
「さぁ」
「……そうですか」
 半ばあきらめた表情で、彼女が顔を前に戻す。
 すると今度は少年が大きな目をきらきらさせながら、身体を反転してきた。
「ねぇユニヴェール様、用件が終わったらソロン通りのガリアでパフェ食べてもいい?」
「パフェ?」
「この間書庫で見つけた暗黒都市案内決定版に、ガリアのデザートは都市一番の五つ星って書いてあったんだもん。食べてみたい」
 輝かしい笑顔に下から見つめられて、ユニヴェールはとがったあごへと右手をやる。
 そしてひとつ間を空けて、
「──よし。終わったらみんなで行くとしよう」
 寛大な領主を演じるが如く、もったいぶって宣言した。
 少年が歓声をあげ、美女が口元にあてた両手で小さく拍手する。
 だが黒騎士姿の若者だけは頭の後ろで手を組んで、斜めな視線を主に向けた。
「パルティータ嬢はどうするんだ? ひとり退け者じゃ可哀相じゃねぇの?」
「お持ち帰り用があるからそれでいいだろう。アレは生クリームが思いっきり使ってあるケーキが好きだからな」
「なるほど」
「……あの、僕は甘いの苦手なんですけど」
「ではさっさと城に行くことにするか」
 黒の剣士、ルナールの申告は完全に無視された。


◆  ◇  ◆


 暗黒都市ヴィス・スプランドゥールの中央に位置する黒曜の城。
 それが世界の闇の中心であった。
 燃えるような赤い月を背負ってそびえている城は、美しくもあり不気味でもある。そして、軽やかな誘いと深い魅惑に満ちている。その内部で行なわれている鋭く執拗な応酬を、見えぬヴェールですっぽりと覆い隠したまま。


「……つまり私は信用していただけていないと」
 ユニヴェールの言葉に、謁見の間に集まった魔貴族たちは口を閉ざした。
 高い段上、御簾の向こうにいるのであろう女王はまだ一言も発さず、事はその下で粛々と進んでいる。
「そういうことですね?」
 シャルロ・ド・ユニヴェールはもう一度丁寧に訊き直す。
 彼は、吸血鬼の中の化け物と呼ばれる、生物学的にも物理学的にも、……ついでに言えば神学的にも道徳的にも間違った化け物だ。
 陽光を浴びて灰になることもなければ(日焼けはするらしい)、銀の銃弾は喰らう前に叩き落してしまうのが常だが本人曰く無意味、無論そんな輩に十字架なんぞ掲げてみたところで鼻先一笑されるのがオチ。
 あげく心臓に杭を打たれたてもむくりと生き返り、首を落とされても甦る。
 つまり──何度死んでも滅びない。
 そういう吸血鬼だ。
 そして付け加えるならば……
「我々は貴方のご出身が気に入らないのですよ。元、吸血鬼始末人(クルースニク)というね」
 ひとりの若者がゆっくりと進み出てきた。
 金髪の──誰も疑うところのない──美青年である。背が高く、理性的な顔立ちに貴人の華やかさとしなやかさをあわせ持つ、人間。
 だが育った環境が彼に尊大という悪徳を与えた。
「ミランドラ伯」
 口元にわずかの笑みをのせて、ユニヴェールは胸に手を当てる。
 ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ。
 北イタリア、ミランドラ城主の末子であるこの貴族は、ギリシア語からアラビア語までおよそ十五ヶ国語を操り、幼い頃から神童と呼ばれ誉めそやされてきた天才的な哲学者だ。
 そして今では、……暗黒都市指折りの魔術師でもある。
「私はてっきりパリにお逃れになったものと」
「はじめはパリにいたさ。だが、陛下からお声がかかってね。今は暗黒都市と自由の都フィレンツェを行き来している」
 常人とは頭の構造が違うらしい彼は、「人間の自由意志」というものを説いた。人間はその選択によって神の世界にも、また動物の世界にも、どちらにでもなりうるというのである。
 しかし、1486年に彼が開催しようとした世界哲学会議での発表草案「人間の尊厳について」が教皇インノケンティウス八世の逆鱗に触れた。
「魔術とカバラ(数秘術)はキリスト教を補足する」、その論はあまりにも時代に挑戦し過ぎていたのだ。
 魔女を見極める指南書まで作られて無実の者が累々(るいるい)と処刑されているこの時代に!
 魔術とキリスト教を融合させるなど狂気の沙汰に等しかった。
 教会は彼に異端の烙印を与え、才余った彼はフランスに亡命したのである。
「お声をかけたのは陛下だけではあるまい?」
 ユニヴェールの面白がるような揶揄やゆに、ピコの眉が片方上がった。
「ロレンツォ様のことかな?」
「フランスは私の庭のようなものでね。貴殿が逃げ切れず一度捕まったことは知っている。そしてメディチ家の当主とシャルル(フランス国王)が援助して貴殿を救済したことも知っている」
 艶のあるユニヴェールの視線が広間を撫でると、居並ぶ魔貴族たちは更に存在を押し殺す。
 彼は四人の手下を背後に控えさせたまま、喉の奥で笑った。
「ロレンツォ・デ・メディチ。フィレンツェの経済を牛耳るあの御大おんたいの加護があれば、教会も歯噛みするしかないでしょうな。貴殿は異端狩りに怯える必要もなく、自由にのびのびやりたい放題やれるわけだ。あぁ、飼い犬の身の私としては羨ましい限り」
 やりたい放題やっている男がそう言っても全く悲哀は感じられない。
 誰もが言いたかっただろうが、誰も言えずにユニヴェールの言葉が続いた。
「──しかし博識な貴殿のこと、メディチ家がいかようにして成り上がったか、知らぬわけでもあるまい?」
 ユニヴェールの爵位は子爵。ピコは伯爵。
 もうすでにユニヴェールは死人ゆえに生前の階級など意味をなさないのだが、それでもこの男は上位者を嘲るように慇懃な態度を取り続ける。
 三百年という年月をかけた、底無しの深遠を垣間見せながら。
「世間が教皇派か皇帝派かに分裂していた昔、フィレンツェ市は教皇派だった。しかしあの都市中でも教皇寄りの黒党ネーリと自治を目指す白党ビアンキとの対立があったのは御存知だね? 黒党のアヴェラルドという男がクーデターを起こしてフィレンツェから白党を追放する」
「…………」
 美しい吸血鬼の爪が宙でくるくると回った。
「このアヴェラルドが、追放した白党から奪った財産で金貸し業を始めた。それがあのメディチ家の始まり」
「……だから?」
「あなたも同じだと言うことですよ」
 ユニヴェールは目を細めてあごをひく。
「私が元吸血鬼始末人クルースニク、向こうの出身者で信用がおけないというのなら。教皇派から生まれたメディチお抱えの貴殿も、信用がおけない」
「…………」
 青年がじっとこちらを見据えてきた。
 感情的な色のない、碧眼。
 古典復興に燃える絵師たちがこぞって描きたがる、白皙。
「噂には聞いていた、ユニヴェール卿。貴方を侮ってはいけないと」
「伊達に長年生きていないのでね」
 対して悠然と佇むこの吸血鬼は、その造形が美しいことには美しい。
 けれど、時を刻むことをやめたその容貌から正確な年齢を読み取ることは誰にもできない。加えて、その男が危険なのはそういう見目ではなかった。
 存在が、空気が、笑みが、深さが、人を捕えて離さないのだ。
 目を合わせたら最後、流砂や底無し沼に呑まれるように彼の闇に呑まれてしまう。差し出された手に自らの手を重ねたその瞬間、もう帰ってはこられない。
 吸血鬼ゆえなのか、ユニヴェールゆえなのか、それは分からない。
 しかし彼はそういう男だった。
「なぁ、そんな小難しい話俺にはどーでもいいんだけど」
 肩をこきこきとやりながら、ユニヴェールの背後から黒騎士の若者がだれた声を上げた。
「アスカロン」
 若者の横に立っていた蒼の美女が形ばかり叱責し、彼──アスカロンは口を尖らせる。
「だって時間の無駄だぜ。前置きはいいからさ、若造、さっさと用件言えよ」
「そーだそーだ。パフェを食べる時間がなくなる」
 便乗して少年、シャムシールも法衣をばさばささせた。
「まったくもう」
 やはり形だけ怒って見せて氷の魔女、フランベルジェが何事もなかったかのようにおっとり前を向く。
 彼女だって暗黒都市の頭でっかち貴族には飽き飽きしているのだ、本気で制止しようなどとは微塵も思わない。
 そして彼女はふわふわした微笑みを浮かべたまま言い放った。
「女王陛下、ミランドラ伯。わたくしたちも、我が主も、暇ではありませんの。大した意味のない戯言ざれごとはお仲間うちだけで後ほど楽しんでくださると嬉しいのですが」
 円卓に座った魔貴族たちが口をぽかんと開けた。
 女王の御簾、段下にひっそりと控えたいつかの黒騎士──ベリオールが目を剥いた。
 魔術師ミランドラのただでさえ冷涼な視線が、冷たさを増した。
「お呼ばれした用件はなんですか?」
 たぶん彼女は、針山でさえ平然と歩けるに違いない。
 緩くウェーブした薄蒼の髪が、唖然としている相手の視線を弾く。
「すまないね」
 魔貴族たちの自尊心に助け舟を出したのはユニヴェールだった。
「私の部下は私に忠実だから」
 だが船は即沈んだ。
 彼は小さく肩をすくめると立ち上がり、ピコへと歩み寄った。
 そして低い声でささやく。
「私が暗黒都市に忠実であるという証明でもさせたいか」
「……してくださるならば」
「詳細を言え」
「では、フィレンツェを血に沈めてみてください」
「貴殿を護るフィレンツェを?」
 ユニヴェールが訊くと、ピコが美貌を一層冷たくする。
「あそこには狂人がひとりいましてね。せっかくメディチの繁栄で風紀が乱れきって第二の暗黒都市ともなろうとしていたところに、それを真っ向から糾弾する男が現れたのですよ。メディチ家と教会、教皇の乱れを凄まじく罵る男がね。ロレンツォ様が何故か気に入ってらっしゃるから、教会も苦虫を噛んでいてどうしようもない。あげく人心はだんだんその男に向かいはじめている」
「敬謙な都になる前に闇に堕としてしまえということか?」
「えぇ。あの男の言うことなど、神の存在など、誰も信じなくなるほどに」
「皆殺しか?」
「そこはお任せしますよ。僕には関係ない。あなたが女王陛下への忠誠を示してくださればそれでいいのです」
 ユニヴェールは考えるようにしばし虚空を見つめ、ひとつ深く息をつくと段上に向かって胸に手を当てた。
「──了解(ダコール)
<よろしく頼んだえ>
 凪の海の如きのんびりした声が降り、それきり御簾の奥からは物音も気配も消えた。
 ユニヴェールがピコを一瞥すれば、最初とは変わって天才魔術師が深く礼をする。
「──行くぞ。フィレンツェだ」
 他の魔貴族には目もくれず、彼は黒衣をひるがえした。
 それを追いかけてバタバタと三使徒が続く。
「えーーー。パフェはどうなるのさ〜〜」
「そんなもの後だ後!」
「でも今出て行ったら、外界は昼間ではありませんの?」
「…………」
「ねぇー! 昼間は動けないんだからさぁ、パフェ食べたっていいじゃないさー!」
「あれっ。ルナールがいねぇ、あいつフィレンツェ大虐殺が恐くて逃げ出したかねぇ」
「ユニヴェール様、やはりここはいい感じの思い出を作ってから出かけませんと」
「……ルナールがいない?」
 フランベルジェとシャムシールを完全無視して、ユニヴェールが眉を寄せた。
「あぁ、いねぇ。いつからいなかったんだろうなぁ?」
 軽〜く言ったアスカロンに対し、ユニヴェールが頭痛を我慢するようにこめかみを押さえた。
「あの馬鹿……」
 ぽつりと漏らしてぐるりと三使徒へ向き直る。
「パフェを食べている暇も太陽を避けている時間もない! すぐにフィレンツェへ行くぞ」
『ええええええええええ〜』
 不満の唱和をそっぽを向いてやりすごし、彼らの息が切れたところで再び向き直る。
 不滅の吸血鬼は、部下ひとりひとりをじっくり睨みつけながら言った。
「急がねば鬼の形相をしたパルティータが先回りして我らを待っている」



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