牢の囚人


 ──自由の翼を手にしたいのなら、存在を無くすことだ。
 世界からも、記録からも、記憶からも、消えさえすればいい。



“白い人間が幼子を探しているよ”
“馬のひづめが大地を叩くこと叩くこと。近づいてくる”
“美しい剣が鬼子の首級しるしを欲しがっているらしい”
“何人もの狩人が森の中で目を光らせている”
“見つからない腹いせで、莫迦な魔物が手当たり次第、ちりにされたとさ”
“八つ当たりか”
“八つ当たりじゃ”

 月の光の届かない部屋の隅で、魔物が囁く。
 背の低い、枯れ枝のような手をした老翁や老婆が、蛙の串焼きを手にしながらぼそぼそと会話を交わしている。
 耳障りな軋み声。
 音と認識しようにも、頭は勝手に言葉を拾う。
 この部屋には己しかいないのだと言い聞かせても、いるものはいる。

「今日の月は半月より大きい」
 闇に住まうものたちを無視し、少年はつぶやいた。
 遥か頭上の鉄格子。その間から見える月の姿を一日一回確認して、もう軽く1000回は超えている。
「明日の月は、今日よりもう少しだけ大きい」
 わずかに夜空を見せる鉄格子から月光が差し込み、彼の人形めいた顔を白く映し出す。
 額にかかる髪は、暁に凍る晩秋の霜。芯から冷ややかな色。幼さの残る顔には、払えぬかげ
「明日も生きていれば、の話だけど」
 遠くに野犬の遠吠えを聞きながら、少年は天蓋のついた寝台に座りぷらぷらと足を揺すっていた。
 その小さな目に見える部屋は、不満を言う隙間もないほど贅沢な調度で溢れている。
 寝台然り、どこぞの異国から取り寄せたという水差し、絨毯然り。紫檀したんのテーブルの上に置かれた色鮮やかな果物、甘い芳香の漂う菓子然り。無造作に広げられた大判の古書、版画の綴り束、然り。
 今は使われていない暖炉も冬になれば薪が途切れることはなく、朝から晩まで煌々と赤い炎が燃え続ける。
 全て使用人が運び入れたものだが──彼が欲しいとさえ言えば大抵のものは手に入るはずだった。
 大抵のものは。
「僕に必要なのはこんなものじゃない。牢でもない。剣だ」
 ──牢。
 そう、彼は世界一驕奢(きょうしゃ)な牢の中にいた。
「自由はいらない。剣がいる」
 冗談で教皇冠が欲しいと言ったら本当に持ってきたくせに、剣だけはいくらねだってももらえなかった。
 理由は知っている。
「剣さえあればいいのに」
 少年は不貞腐れて寝台に身体を投げ出した。
 天国に近いのか地獄に近いのかさえも判然としないこの部屋。
 あの格子窓から覗いて見えるのは、真っ平らな地平だろうか。それとも星が散らばる藍色の夜空だろうか。
 少年は真剣に考えた。
 これは重要な違いなのだ。占い師が予言する運命の岐路などより、ずっと重要だ。
 予言をくつがえした英雄はいても、空と大地を覆した者はまだいない。
 空を頭上に地を足元に。そうであって初めて世界は人の手に収まり──……。
「起きていますか?」
 ふいに、鍵のかかった扉の向こうから女の声がした。
 少年の母親だ。
「生きてるよ」
 彼は身体を起こすことなく応えた。
「…………」
 どうせこの部屋には選択権というものがないのだ。出るか入るか、少年自身に決める権利はない。加えて、母が扉を開けることもない。扉を開けるのは一言もしゃべらない老いた使用人一人。
「もう少し我慢なさい」
 扉越しに聞こえてくる母親の声は、いつも震えている。誰を哀れんでいるのか、誰を怖がっているのか。しかし奇妙なことに彼女の声は強くもあった。退きがなく、覚悟がある。
「この家に生まれた貴方が生きるためには、これしかないのです」
 彼は物心ついた時からこの部屋に幽閉されていた。もしかしたら、生まれた時からいたのかもしれない。
 記憶の中の森は絵画の森。山も、川も、湖も。馬に乗るのも狩りに行くのも広げた本の中。父親の声は、覚えがない。
 よく考えれば、人間の声は自分と母のものしか聞いたことがないような気がする。
「彼らは狂っています。貴方は見つかったらすぐに殺されてしまうでしょう」
 彼らとは、少年の親戚のことを指していた。薄笑いを浮かべた親戚たちが、こぞって少年の命を狙っているのだ。この家の幼い次期当主の命を。
 自らが頂点に昇らんがため。
「ごめんなさい。私には他に貴方を守る術が分からなかったのです」
 だから彼はここにいる。
 華やかで緩慢な、そしてどうしようもなく退屈な、子供部屋に。
 誰も存在を知らない、この檻に。
「家名なんてただの記号なのに、血を流して争うなんて愚かなこと」
 母がため息をつく。
 同じ形の月を三回は見ないとやって来ない彼女だったが、来るたびに同じ台詞で嘆いている。
 ──仕方ないんだよ。
 少年はつぶやいた。
 ──彼らは意味が欲しいんだから。
 歩いてきた道と、辿り着いた場所と、そしてそこから更に向こうへと伸びている道の意味が欲しいのだ。
 初めから確固たる意味を持って生まれてきた記号をその身にまとい、安堵したがっている。意味がないことは何よりも恐ろしいことだと信じている。
 存在自体の価値では、満足できない。
「母上、剣が欲しい」
 少年は以前却下された願いを再び口にした。しかし、
「いけません」
 逡巡もなくまた退けられる。
「いつになったらいいの?」
 聞くと、
「貴方がミサの式文をすべて暗唱できるようになったらね」
 慰めを含んで言われた。
「……明日から練習するよ」
 剣をもらえない理由は分かっていた。
 剣が殺すのは対峙する相手だけではないからだ。命あるものならば何でも殺せる。時には命のないものも、自分さえも、殺せる。
 母は、神がそれを阻止できると思っているのだろうか。
「おやすみなさい、シャルロ。愛しているわ」
 とうの昔に、彼女の言葉が嘘か本当か考えることは止めていた。
「おやすみない」
 安らかに母は去り、かすかな鐘の音の反響が耳を過ぎる。空気は深遠な森の匂いに満ち、夜は更ける。

 そして──。

“白い人間が、幼子を探しているよ”
“馬の蹄が大地を叩くこと叩くこと。近づいてくる”
“美しい剣が、鬼子の首級を欲しがっているらしいね”
“こちらにおいで”
“沈まぬ月と絶えぬ歌”
“あり余る食い物と溢れる美酒”
“咎もなければ罪もない”
“偉ぶった倫理もない、分かり顔の諦めもない”
“仲間のための檻はない”
“仲間のための牢はない”

 林冠を揺らす風のざわめきと共に、魔物の囁きが戻ってくる。

「じゃあ、先に剣をおくれ」
 少年が横目で言うと、
“それは駄目じゃ、それは駄目じゃ”
“お前に剣は持たせられぬ”
“我らが危うい”
“それは駄目じゃ”
 首を縮めて左右に振り、魔物たちはかすんでくすんで消えてゆく。
「待ってよ、ひとつだけ教えてくれない?」
 どこかでまた野犬が吠えた。
 白い聖なる外套をまとった男たちが目を光らせているのだろう、森のあちらこちらから、聞こえてくる。
「世界は誰が作ったのさ」
“世界はお前が作ったのだよ”
「…………」
 少年は表情のない蒼眸を闇に向けた。
“お前が見ているもの、それが世界。お前が作り上げた世界”
 そこには女がいた。
“月ひとつを望めど思うところはそれぞれ。者々が作る世界どうしは擦れ合い、融け合い、傷つき合う。ゆえに人は心に炎を灯し、闇を宿し、光を求め、ぶつかりあい、やがてその荒ぶる波がひとつとなる”
 月の光も届かない暗闇。古書が積まれた本棚の影。
 漆黒の髪を大きく結い上げ、色とりどりの宝玉を散りばめ、緋色の衣が艶やかな女が立っていた。腕には白い毛布でくるまれた赤子が抱えられている。
“己の作りあげた世界で多くの者を包み、夢を見せた者。それを支配者という”
 不自然に白塗りされた顔が、じっと少年を見つめていた。
“今はまだ、神の方が多くの心を取り込んでいるだけのこと”
 ひび割れというひび割れから染み込んで来る、雨のような声音だった。
“世界は神のものか。否、世界は闇のもの。光よりも古く、闇はあった”
 ほんの僅か、雨一粒浸入を許しただけで、じわじわと心の奥深くまで侵されてゆく。
“歴史は繰り返す。いつか、全ては闇に帰る。わらわに帰る”
「ありがとう」
 少年は女から目を逸らし、シーツの中へ潜り込んだ。
 しかし、
“剣を手にこの牢獄から逃れたとて、結局は同じこと”
 声は止まない。
“悪魔も青ざめる人の欲。休む間のない裏切り。見せる笑顔と腹内の嘲笑。刺さるため息、泥沼の策謀。──お前の願う平穏な世界は、息も出来ずに死んでゆくだろうよ”
「ありがとう、もういいよ」
 少年は彼女の高説を遮り寝台を叩いた。
“朝陽が昇るたび、お前はまだ首があることに安堵する。だが同時、まだ首があることに絶望する。空気に満ちた悪意はお前を削り、蝕む”
「もういい」
“お前が溺れる世界は幻。現実はこぞってその首を絞める”
「そんなこと知ってる!」
“そう、お前は知っているだけ”
 耳元で、わらわれる。
 白い花弁が落ちるように、そっと空気が揺れる。
“牢も、剣も、お前を苦しめ切り刻むだけなのにねぇ。誰もお前を救えない。お前も誰一人救えない。お前自身すら救えない。それが闇と光と人の狭間に墜ちたユニヴェールの宿命”
 少年は耳を塞いだ。
“血には抗えぬ。牢からは出られぬ”
 それでも声は追いかけてくる。
“願いは踏まれ続け、何をすることも出来ず、お前はいずれ耐えられなくなる”
 彼は叫んだ。
「──誰に何を願えって!?」
 だが、返されたのは重く傲慢な断言。
“お前はいずれ、血の重みに潰される”
 少年は息を止め、きつく目を閉じた。
“お前がユニヴェールの頂点なのだと、世界に知らしめることになる”


◆  ◇  ◆


「おーい、生きてますかー?」
 まぶたに注がれるほの暗い光。
 頭上から降ってくる間延びした間抜けな声。
「頼むよホント、おーい」
「…………」
 命知らずな旅人が助けにでもきたのだろうか、彼は首を傾げて鉄格子を見上げ──、
「ッ!?」
「何、びっくりした鳩みたいな顔してるんだお前は」
 ユニヴェールが目を開けた瞬間そこにあったのは、燭台の炎に照らされた友人の顔だった。
 いつまで経っても生真面目の色が抜けない、見飽きた顔。
「……ソテール」
「はい何でしょう」
「…………」
 蜘蛛の巣が絡んでいる頭を落ち着けゆっくり見回すと、そこはヴァチカンの一郭にある自室だった。備え付けられた調度品だけの、殺風景な夜の部屋。
 ちなみに自分は寝台の上。
 そう認識した途端、夏の熱気がどっと身体にのしかかってくる。
「……暑」
「とりあえず、俺の名前が言えるなら大丈夫だ、良かったな」
 友人は手にした報告書でばっさばっさとこちらを扇いでくれているが、しかし風の大半が彼自身へと送られているため、全く涼しくない。
「これはどういうことだ?」
「覚えていないならいいんだよ。なんでもない」
 白い外套──ヴァチカンの駒、クルースニクである証だ──を肩にひっかけたソテール・ヴェルトールが、何やら不自然な笑顔でさっと立ち上がった。
「待て、吐け」
 ユニヴェールはその聖服の端をはしっと掴む。
 ソテールが振り解こうと引っ張る。
「なに、大したことじゃない」
「なら言え」
「だから言うほどじゃ」
「言わなきゃ殺す」
「言っても殺される」
「ほー」
 言いながら、ユニヴェールは寝台の横に立てかけられた己の剣を確認した。
 今は簡単に振り回せる、剣。これさえあれば前に進めると錯覚した、剣。
 ソテールがこちらの視線を追ったのだろう、両手を挙げた。
「俺とお前は書庫で口論した。お前は梯子の上で分厚い本に目を通していて、俺がその梯子を蹴っ飛ばした。お前は見事に落ちた」
「……口論の原因は?」
「好物は一番先に食べるべきか最後に食べるべきか」
「……先だ」
「後だ」
「そんなんだから貴様は──」
 ユニヴェールは身を起こそうとして、言葉を切った。
「どうした? 打ったところが痛むか?」
 ソテールが屈み込んで手を伸ばしてくるが彼はそれを払いのけ、
「違う。ただの頭痛だ」
 こめかみを押さえて顔をしかめる。
 夢を見た後は、いつも頭が痛い。
 彼は小さく舌打ちした。
 何も考えられなくなるこの鈍痛は味方なのか敵なのか、分からないまま苛立ちだけが募ってゆく。
「薬もらってくるか?」
「どうせ効かない」
「あ、そ」
 ソテールが肩をすくめた。
 そのまま出て行くのかと思いきや、彼は去ろうとせず、窓際に置かれた椅子に腰掛ける。
 そしてユニヴェールに向かって指を突き付けた。
「お前は俺の副官だ」
「……なんか嫌味だな」
「覚えてるか? 明日は魔女狩りだ。お前は俺の命令だけ聞け」
「……そんな話あったか? 場所は」
 ユニヴェールは面倒臭いと首を振った。
 ソテールが「お前やっぱり流し聞きしてたな」と苦い笑いを浮かべてくる。
「フランスだ。故郷なんだろう?」
「フランスと言ったって、広い」
「確か──パーテルとかなんとか。暗黒都市のある、黒い森の入り口にある町だ」
「ふ〜ん」
 魔物の巣窟暗黒都市。広大な黒い森。
「人間があの森に足を踏み入れると、放たれていた番犬たちが我先にと女王に知らせる。女王が命を下すまでもなく、その吠え声を聞きつけた魔物たちが捕まえ喰ってしまう。だから、あの森に入った人間は誰ひとり帰って来ない。……らしい」
「──番犬ね」
 ぽつりと反芻し、ユニヴェールは友人を見やる。
「貴様はデュランダルならその森から帰って来られると信じてるのか?」
「さぁ、そこまでは知らん。俺たちが行ってみれば自ずと答えは出るだろ」
「その森の周辺に城はあるか?」
「どこの貴族の持ち物だか分からんデカイ屋敷ならいくつかあるらしい」
「教会はあるか?」
「教会のない町があるのか?」
「…………」
「なんだ、知ってる町かもしれないのか?」
 矢継ぎ早の質問に、ソテールが身を乗り出す。
「さぁ」
 対してユニヴェールはいたって淡白に返す。
「なにせフィリップの領土は広いからな」
 “ガンガン”という音が聞こえてきそうな頭の痛みが鬱陶うっとうしい。
 蝋燭のゆらめく炎さえ吐き気になって、彼は顔を背けた。
 すると突然、
「……なぁ、シャルロ」
 一体何を思ったか、目の前の男が口調を改めてきた。
「何だ」
 ユニヴェールはどうにか返す。
「俺を強くしろ」
 この男がそんなことを望んでいないのは知っている。
「あぁ、分かってる。シノンで契約した」
 だがこの男の真意も知っている。
 糸より頼りないモノで、己の副官がどこかへ飛んでいかないように縛ろうとしているのだ。
 信頼だとか、友情だとか、約束だとか。
 せっかくあの場所から逃れたというのに、新たな牢獄を作られ始めている。
「もうひとつ」
「?」
 若い隊長殿が、ふんぞり返って腕を組んだ。
「笑え」
「は?」
「笑え」
 大真面目に言われ、
「…………」
 ユニヴェールはとりあえず唇の端を上げた。
「ひきつらずに!」
「…………」
「心から! はい!」
「何が“はい!”だ。いい大人が、ふざけるな!」
 ソテールの掛け声に吹き出したユニヴェールは、一球入魂で枕を投げつけた。
 笑うのは苦手なのだ。
「お前、上司の言うことくらい慎んで聞けよ!」
 飛んできた枕を片手で掴んでソテール。
「貴様が貴様の上司の言うことを聞いたことがあるか!? えぇ!?」
「あるさ! 数えれば!」
「そういうのは“数えるほどしかない”と言うんだ!」
「全くないお前よりマシだろう!?」
「それは貴様に上司の資質が欠けているからだよ! 恥じろ!」
「お前には部下の資質が欠けている! 心を入れ替えろ!」
 月の見下ろす聖なる都に、罵声と枕が飛び交う。
「正しい心というモノはどこで売っているんですかねぇ? 隊長殿」
「フィレンツェ」
「嘘付け」
 ソテール・ヴェルトールの一言一言に、その男の作る世界に、手足を縛られてゆくのが分かる。
 息苦しい牢獄に囚われてゆくのが分かる。
「あの街で買えるのは芸術だ」
 しかしそれと同時、自分もこの男を牢に囲っているのだと気付く。
 シャルロ・ド・ユニヴェールの作る世界の中へと、こいつを引きずり込んでいる。
 窓枠に腕を乗せ、夜の庭へ目を落としているクルースニクを、捕らえている。
「きついこと言うよな、お前は」
 牢獄から放たれたいのなら、存在を無くせばいい。
 世界からも、記録からも、記憶からも、消えさえすればいい。
 それは知っている。
 だが、出来ない。
「当事者以外の者は好き勝手に言えるものさ」
 ユニヴェールが皮肉混じりに嘆息すると、
「当事者でない者はいない。役者、観客、咳ひとつ、すべて我らの劇の内」
 ソテールが声を出して笑った。
「そういうものか?」
「そういうもんさ。だから俺の命令を聞け」
「どうしてそういう結論になる」
 呪いながら、蔑みながら。
 それでもまだ、この身を縛る牢獄が愛おしい。



THE END



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