落鴉(らくあ)


 ──それでもなお、道は未来へ続いている。


◆  ◇  ◆


 シェーラー・ルノは決別を残し、アルフース邸から出て行った。
 おそらく二度と戻らないだろう。
 性に合った召喚士というのは、悪魔にとって最良の理解者にして最大の天敵なのだ。
 その者の存在によってのみ、神の目が光る地上において確かな存在意義を与えられ、その者の存在によって「契約」という鎖に縛られる。
 放埓な地獄における唯一の法──人格ある同族を滅ぼしてはならない──これを犯す危険は桁外れに大きくなるけれど、それさえも怖くはないほど、地上の理解者というモノには抗い難く魂が引かれるもの。
 もちろん気に入らない輩に召喚されることもある。しかしひとたび共鳴する召喚士に会ってしまえば、その呼びかけを拒否するのは至難の業だ。それは、人間が他愛もなく阿片に侵蝕されるが如く。


「……サマエル」
 地獄の王族、鴉総統ストラスは、つぶやいて足を止めた。
 ルノを見送り、上司であるアンドレアルフースに報告を終え、彼の居城を辞そうと正面階段を下りていた時だった。
 階下にそびえる城門脇に、まだ噂としてしか聞いた事のないその姿があった。
 冷笑めいた佇まいをした、赤い僧衣の青年。
 しかしその格好はどうせ仮初だ。世界を渡り歩く彼の、一時的な“服装”に過ぎない。
 けれどどれだけ服装を取り替えても変わらぬもの、それが彼の両眼をぐるぐると覆う真っ白な包帯。
 モーセの魂を天へと導くのに失敗し、打ち焼かれたのだと言われる双眸。
 彼の閉ざされた眼差しは、おそらくルノが去ったであろう方角へと向けられていた。岩石ばかりの荒野を貫く細い道。気の遠くなる長い年月、大地を踏み固めただけの。
「……美貌侯は行かせるんですね」
 ストラスが軽い会釈を送り横を通り抜けようとすると、声がかかった。
「…………」
 顔だけ向けると、枯れた風にぱさぱさと翻った相手の赤に視界を塞がれる。
(のり)を知らないわけではないでしょうに」
「……ルノは信念一直線ですから。言っても聞きません」
 砂埃にまみれてくすんでいるはずの赤は、しかし何故か鮮烈な原色として網膜に突き刺さった。
「そうでしょうね。あの勢いでは」
 頭の痛くなる、赤。
 それ以外何も覚えていられないような。
「私も愚行だと忠告してみたのですが、軽くあしらわれました」
 サマエルの無意味な笑い声が、陽光のない世界に響く。
 ストラスは細い眉を不快に寄せた。
「……アルフース侯に何か御用ですか? 私が代わりに承りましょう」
 なんとなく、この男をアルフースの居城に入れるのは嫌だった。
「いえ。美貌侯に用はありません。──今は」
「は?」
「私は、貴方に用があったんです」
 サマエルの手がこちらに伸び、ストラスの金髪に触れた。
「せいぜいご自愛くださいよ、王子サマ」
「…………」
 何を返せばいいのかと逡巡(しゅんじゅん)しているうちにサマエルの手はさっと離れ、背が向けられる。
 鳴動する火山、溶岩を映し渦巻く暗雲、雨を呼ばない雷閃、乾いた大地にそびえる石の城、立ち尽くす蒼の悪魔と遠ざかる一点の赤。



◆  ◇  ◆



「最初からその姿とは珍しいな、ストラス」
「そうですか?」
 最良の理解者は、得難く、離れ難い。
 しかしその引力に抗い断ち切ってこそ、自愛と忠誠が成されるのだろう。
 ……分かってはいた。以前からずっと。
「いつもは(カラス)の格好で出てくるだろう」
(フクロウ)の時だってありますよ。気分によりけりです」
 澄んだ水色が濃淡を描く薄衣(うすぎぬ)の乱れを直し、召喚陣の中から一歩踏み出したストラスは、そのまま男の横へ歩み寄った。
「──まだ戦っているのですか」
「向こうの召喚士がなかなかの強者を手に入れたらしくてな。黒い悪魔だ」
 肌に冷たい風が吹き抜けるそこは、岩山の中腹にそびえる堅牢な砦の上だった。
 少し前、交戦中の隣国から奪った要所だ。
「お相手はどうあってもここを取り返すつもりらしい。一昨日、昨日と連夜攻められた。それも、こちらは持ちこたえるだけで精一杯という勢いで、だ。今日もまた夕刻になればまた攻めてくるだろうから、お前さんを呼び出した」
 男の肩書きは軍師。しかしその容姿は知略謀略をめぐらすそれよりも、馬上で槍を構え戦場を駆け回る猛者のそれだ。
 しなやかに鍛えられた体躯は大柄で見上げねばならず、あちこちに彫られた召喚紋章の刺青は盗賊どもの親分のようであり、辺りをはばからない大声は極秘作戦も何もあったものではない。
「それならば、私より適任がいるでしょうに」
 ストラスは知識を与える悪魔であって、剣を振り回す悪魔ではないのだ。何者にも得手、不得手がある。
 肩をすくめると、
「お前さんが血生臭い話が嫌いなのは分かってるさ」
 男が傷跡だらけの両手を挙げてこちらを向いた。
 イーザー=フォーマルハウト。
 ストラス級の悪魔ならば誰を呼んでも制御可能であろう、叩き上げの召喚士だ。気の毒になるくらい身に刻まれた無数の傷は飾りではなく、努力を積んだ証。
豹総統(オセ)あたりにお出まし願えば向こうの切り札にも対抗できるはずだが、それでは勝てない」
 イーザーの背が石積みの防壁に預けられた。
「化け物を化け物で足止めできたなら、勝負は人間の戦いで決まる。しかし我が軍は昨日までの戦いで戦力を失いすぎた。純粋に、人間同士の戦いでも勝ち目はない」
 彼の目が肩越しに眼下へ落とされる。
 要塞から眺めることのできる景色は、ひどく退屈なものだ。塗り潰された灰色の空、重なる白い岩、間を埋める砂、そんな大地でさえ育つ雑草。
 雨も養分もないこの山に(いろど)りの木々はない。果てしなく、石と砂とわずかの緑。
 ふもとの辺りには折れた槍と思しき金属が点々と刺さり、すでにただの屍となった両軍の兵士たちが無言で転がっている。
 風景として数えるなら、もはや彼らも石と何ら変わりはない。
「もう少しで、もう少しで完成するはずなんだ」
 男が厚い身体を反転させ、こちらに背を向けた。
「死者をも戦力にすることができれば、逆に我等の勝利は固い。その術があともう少しで完成する」
 拳を握り、歯噛みする召喚士。
 漂うのは、ひたすら己の理論の立証を追い求める無邪気な執念。
 ひとつ知識の種を与えれば、突拍子もない色形の花を咲かせようと狂気さえ見せる。人も悪魔をも囲う世界の理を貪欲に暴こうとする。
 ストラスにとっては、中毒同然だった。
 この召喚士の(ほとばし)る才と怖れを知らない意志は、智の更なる深遠を見せてくれるのだ。背筋に寒気が走るような、謎と驚愕に満ちた深遠を。
「何も死者を生き返らそうと言うんじゃないさ。生前の歴史なんぞいらないし、各個の意志も必要ない。……動けばいいんだ。立ち上がり、槍を掴み、敵を突けばいい。俺の命令どおりに」
「神の領域を侵す術」
 ストラスがぽつりと漏らすと、イーザーの視線だけがこちらを見て笑った。
「──神とは、誰だ?」
 鋭利な嘲笑が、一瞬。
 真意を読み取る前にそれは消え、彼の拳がごんごんと石を打つ。
「敵国の死者まで自軍と為すことができたら、戦況が優勢だろうが劣勢だろうが関係なく勝てる。死者そのものだって減らせるはずだ。見ていろ、今はこんな弱小国だが大陸統一も夢ではなくなるぞ」
「……しかし悠長に一歩一歩夢を現実にしている時間はなくなった」
「そういうことだ。何せ、今夜その術が必要なんだからな」
 何が可笑しいのか、広がる荒野に向かってイーザーが豪快な笑い声を立てた。
 そしてすぐ真顔に戻る。
「手ごたえはあるんだ。が、最後の一歩、何かが足りない。お前さんの有り余る知識を借りれば、その一歩を埋められると思ってな」
 もちろん、ストラスとて正解を知っているわけではない。人間如きが死者を操る術など。
 しかし助言をすることくらいはできる。
 水さえかけてやれば、この男は絶対に成し遂げるのだ。
「……ではまず貴方の理論とやらをお聞かせ願いましょうか」
「お。すんなり協力してくれるんだな、先生」
 隣国は、無謀にもストラスの上司アンドレアルフースを召喚、使役しようとし、当然の如く失敗して国内がぐっちゃぐちゃになったらしい。そんな国ひとつ落とせないようでは、この男の名が廃る。
「えぇ、貴方は教え甲斐がありますから。──ただし」
 ストラスは色素の薄い顔の横に一本指を立てた。
「これで最後です」
「……最後?」
 とぼけたつもりだろうか、男の声はことさら明るかった。
「何が」
 振り返った顔にも曇りはない。
 けれど、目は笑っていない。
「貴方の呼びかけに応じるのは、です」
「どうして」
「命が惜しくなりました」
「…………」

 イーザーは、地獄の掟など知らない。
 知る必要がない。
 召喚士は、掟など知らなくていい。
 知ったところで、召喚術を手放すことなどできないのだ。
 一度皆が強力な力を手にしてしまった以上、その力が他国からの侵略を抑止する役目を果たしている以上、誰も放棄することができない。
 例え召喚士が召喚術からの脱却を正義だと叫んでも、国の存亡と民の平穏には代えられないと人々の口は言うだろう。
 掟を知り苦しみながら力を使うよりは、知らぬまま奔放に才を伸ばした方がいい。
 そうでなければ、悪魔とて最良の理解者を見つけることができないのだから。
 結局は、悪魔自身が地獄を選ぶか理解者を選ぶか、だ。

「……分かった」
 挟まれた沈黙は長く、そして彼はそれ以上何も訊いてこなかった。
「先生がそう言うなら、力を借りるのはこれで最後にしよう」
 ストラスにとっての最良の理解者が彼以外に存在しなくとも、彼にとっての召喚相手は数多存在する。
 それを再認識するに足る、決別の言葉だった。
 しかし。
「本当はそんなこといちいち受け入れてたらラチがあかないんだが」
 大きなため息をついてイーザーが遮るもののない空を仰いだ。
 日に焼けた武人の手で目を覆う。
「大人気ない我侭を並べて先生を困らせるわけにもいかない」
「…………」
 声にして返すべき言葉は思い浮かばなかった。
 何か言えば前言を撤回しそうだった。
 やっぱり止め。いつでも呼んでいい。呼べば応えるから。
 そう言ってしまいそうだった。だから黙るしかなかった。
 それなのに、声はした。
「この国は、アンタとその男がいなくなれば(もろ)いそうだ」
 そして空が陰り、石畳に影が落ちた。
「アンタに怨みはないけど、俺はアイツの国を護らなきゃならない」
 影の主を見上げるより先にイーザーの前へと障壁を張ったのは反射だ。
 遅れて振り下ろされた黒い衝撃波がその障壁を薙ぎ──イーザーはそこを一歩も動かなかったが──彼の頬は薄く切れて血が滲んだ。
 それは、致命的な力の差だった。
「俺は地獄を捨てた」
 石積みの防壁の上に降り立ったそれは、平坦な声音で言った。
 蝙蝠(コウモリ)の羽を背負い、真っ直ぐな金色の目をした悪魔。
 柔らかな黒髪や艶やかな黒衣は上空を駆ける風に揺られているが、こちらを見下ろしてくる視線に揺るぎはない。
「逃げなさい」
 ストラスは紅の双眸を召喚士の足下に刺した。
「しかし、」
「私の代わりを呼んでいる時間はありません」
 反論を許すつもりはなかった。
「丸腰の人間が悪魔に敵うわけもない」
 ストラスが念じれば、その手に白銀の錫杖が現れる。
 かつて天界で最も美しいと謳われた、世界樹を育む知恵の泉で鍛えし奇跡の杖。
「イーザー=フォーマルハウト」
 眼前の悪魔は地獄を捨てた。だからこそ、自分は地獄を取るつもりだった。
 けれど今ここにいる以上、やるべきことはやらねばならない。
「私には、貴方を護る義務があります」
「義務じゃない」
「未来の可能性を護る義務があるのです。智を授ける者として」
 お前の責任ではないと庇ってやるほど、優しくはない。
「貴方には、私が護るだけの価値がある」
 男の両肩に載せきれないほどの期待をかけてやる。
「私の命を重くするか軽くするかは、貴方次第です」
 それが、自分の命の代償。上司の嘆きの代償。
 深い呼吸音がひとつ、ストラスの背後で足音は去って行った。
「──ルノ」
 蒼い悪魔は、追って飛び立とうとする黒の悪魔を錫杖で制す。
「アイツも殺せと言われている」
「彼のところへは行かせません」
 ルノの主が己の主の敵将とは、世界も案外狭い。
「私も彼の国を護らなければいけませんから」
 ストラスは、穏やかに笑った。



◆  ◇  ◆



 冷たい石の上に仰向けに転がる身体。
 その下で広がりきり、少しずつ石の隙間へ染み込んでゆく己の血。
 刻々と失われてゆく痛覚。
 朦朧(もうろう)と霞む空に、ふと赤が()ぎった。
「私は神から使命を授かりました」
 そして頭上から静かな声が注がれる。
「あらゆる者に死を与えること」
 夜を包む雨のように。
「人はただ神のものであるのだと知らしめること。天使も悪魔も、人の愛に触れることなかれ」
 天上に流れる歌のように。
「それが神のご意志です」
「──イヴ……です…か?」
 ストラスは赤から逃れるように視界を閉ざした。
 あるいは、視力の方が彼を見限ったのかもしれなかった。
「……そうかもしれませんね」
 笑い話として聞いたことがある。
 サマエルは神が造った人間の女に恋をした。見守るだけでは我慢ができず、蛇の姿で近付いた。だがそれは神の怒りを招き、地の底へ堕とされた──。
 モーセの話が偽りで、誰も信じなかったこちらが真相だったと……?
「王子。貴方の死が必要なんです。他の誰でもない、貴方の死が」
 この悪魔はルノに何を吹き込んだのか。
 あの国をどんな虚言で煽ったのか。
「貴方は知らないようでしたね。私のふたつ目の名前は“死の天使”。私と出会った者には、そう遠くなく死が訪れるんですよ」
 ……まさか。
「そうそう。地獄には同族を殺めてはいけないという規があったんでしたね。ではルノは近く美貌侯に討たれるでしょう。腹心である貴方を殺られて、その制裁を他の者にやらせるような御方じゃあない。……ですよね?」
 だからルノに声をかけた。
 ストラスを待っていた。
 ルノと、召喚士を別つため。
「美貌侯には少々荷が重い役回りでしたかね」
 そうだ。それが何よりも辛い。
 この身が滅びることで、ルノを討たねばならなくなることで、どれだけ彼が苦しむか。
 目をかけていた悪魔に部下が殺られたとなれば、彼の立場はどうなるのか。
 あの不器用な悪魔のために自愛をしようと、イーザーを手放そうと決めたのに、己のせいでますます追いつめ自棄への道を拓いてしまった。
 弁明もできない。何も遺せない。
 それだけが辛い。
 しかしこの天使の前で悔し泣きなどしたくない。
「死は(まぬが)れえぬもの。愛は断たれるもの」
 強い語気が暗い頭の中に響く。
 冷たくなってゆく身体の底が、どうしようもなく熱い。
 生まれて初めて、叫びたいと願う。
「それが私が神から託された掟。神がお望みになる世界」
 ──違う。それは、他人の愛を憎むお前の望む世界。
「そうは……いかない」
 もしそれが真実神の望む世界であるならば。己の大切な者たちが涙を流す世界を望むと言うのなら。
 今度こそ本気で天に弓を引こう。
 この身のすべてを、この呪いのすべてを、未来の反逆者に捧げよう。
「鴉の死骸に何ができる」
 死の天使が耳元で囁いた。
「歴史は何度も繰り返すのです。最後の審判が下される、その日まで」
「……歴史は、変わり、ます。……いつか」
 絞り出したはずの呪詛は、己の鼓膜にさえ届かなかった。
 息ができない。
 それでも、なお──願う。



 沈黙する岩山、変わらず吹き抜ける寒風、暗鬱な一面の灰空、石畳に(たお)れ冷えゆく蒼の悪魔、その下に広がる紅の海、静かに沈む薔薇十字の首飾り。
「やがてすべては神の御許に還る。それまでこの籠を清く正しく保つのが私の使命」

 遠ざかる一点の赤。



THE END


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