続々 もののけ草紙
蝕
世界を食む虫は、行き着く先を知らない。
* * *
「立ち入り禁止」
行く手を遮る面白味の無い看板。
錆びた鉄柵で封鎖された道を前に、車を停めて降りる。
ライトの点滅で無意識にロックしたことに気付き、自嘲の笑いが漏れた。
もう戻るつもりなんてないのに、習慣は律儀だ。
彼が車を走らせてきた道路は、右にカーブしてさらなる山奥へ──山中を大きくまわって市街地へと──続いているが、このひっそり分岐した先はいわゆる旧道だ。
20数年前までは生活道路、観光道路として使われていたのだが、地滑りなどの危険が高いと指摘されたため、より安全な新道が建設された。
今となっては思い出す人も少なく、その存在にはお役所の鍵がかけられている。
鉄柵のまわりに堆積した落ち葉は雪解けで湿り、リスが埋めて掘り出すのを忘れてしまったらしいドングリの山が木々の根元に点在していた。
後ろから来た車がゆっくりとカーブを曲がり林間を縫って登って行く。
そのエンジン音が遠ざかり再び静寂が戻ってから、彼は“向こう側”へ行くべく鉄柵をまわりこみ、ゆるい斜面を慎重に渡った。
草木が茂らず積雪もない今の時期だけが、この旧道を先へと進むチャンスだ。
鉄柵の端が露わになり、進入を拒むはずのそれが、向こうへの命綱となる。
もうしばらくすれば、今はまだ小さな笹たちが人間では太刀打ちできないほど鋭い切れ味の藪となり、柵や木々に絡む蔓草は緑の壁へと膨張し、こんな違法進入は出来なくなるのだ。
「……痛」
門番たちが眠っているとはいえ、斜面は急で、葉のない低木の枝は容赦なく刺さる。
擦れた皮膚に顔をしかめ、足もとを滑らせ、堆肥の匂いのする土を払い、彼はどうにか“向こう側”に立った。
柵のこちら側から見る向こう側──つまり元いた場所──は、何故か少し遠くに見える。
抜け殻となった乗用車だけが、彼の痕跡。
遠い現在、近い過去。
網目模様に枝が広がる早春の空は、煙ったように青い。降り注ぐ陽の光を浴びながら、彼は時のずれた旧い道を奥へと進み始めた。
腐食しかけて焦げ茶と白のまだらになっているガードレール。それを飲み込みかけている野バラ。
アスファルトの両端に積もる落ち葉。
ところどころふきのとうが顔を出しているそこを興味本位で歩いてみれば、足裏が沈み、まるで始めから土であるかのような錯覚に陥る。だが、いぶかってスニーカーで掘ってみれば、やはり堅い人工物にあたった。
確かにここは、両端いっぱいまでアスファルトの道路だったのだ。
しかし20年間積もり重なった落ち葉は腐葉土となり、アスファルトの上を滑っていた水はその土に還り、水は石を侵し、ふきのとうが顔を出す小さな大地となった。
奪われた場所をゆっくりと取り返すこの行為は、奪われた時とは反対に静寂を保ったまま誰にも気付かれずひっそりと成されてゆく。
途絶えた狸の足跡、斃された樹と共に落ちた巣、孵らなかった蝶、道を断たれた蛇、蓋をされた無数の命──数え切れない負の記憶を内包し、彼らは黙々と傷を塞いでゆく。
古い栗の木の下には大きなイガが散乱し、山側の斜面を固めたコンクリートの隙間をこじあけ緑が芽吹く。側溝は、長い時間をかけて堆積した枯れ葉で完全に埋もれている。
カーブの手前で傾き佇む道路標識には、今もう存在しない県の部署の名前。
そしてその標識に導かれてカーブを曲がり山陰に入ると、視界に入ってきたのは一面に薄く積もった雪だった。
もちろん何人も踏んでいない白い雪だ。
ただ、後足の長い野うさぎの足跡だけが転々と続いている。
体感温度も一気に下がり、ジャケットしか羽織っていなかった彼は身をすくめた。
頭上に飛び出ている倒木からは薄く茶色に色づいた氷柱が垂れ下がり、黒い枝に雪をのせている茂みの骨格が一層の寒さを呼ぶ。
谷側の木々の合間から見える、色柔らかな早春の山間。
陰る足もとに広がる暗い雪原。
季節のズレた奇妙な風景は、雪を踏みもう一度カーブを曲がると何事もなかったかのように春へと戻った。
山のくぼみに置いていかれた冬の残り香は、もう少しすれば消えてしまうだろう。
ジャケットについてきた冷気を払えば、淡い陽光の中で悲鳴も上げずに霧散する。
彼は錆びかけたガードレールに寄って、今度は下をのぞきこんだ。
「…………」
目のくらむ、垂直に落ちてゆく深い谷。
しかしこの急傾斜でも名も知らない若木、大樹の群れは何食わぬ顔で林立し、枯れ草は折れ重なって地面を覆い、茂みは絡み合い、笹の子供たちはそこかしこに根をはっている。
目をこらせば、さらに下方には赤くひかえめな木瓜の花。
ここから滑り落ちて死んだら、彼らがその死を隠しやがて己の一部へと取り込んでくれるはずだ。
もしも彼が望むなら。
もしも彼らが許すなら。
それがただの逃避だとたしなめられても、蔑まれても、あの生命の本筋から大きく外れた空虚で煩わしい場所は、彼の肉体と精神をこれでもかと引き離す。
謙虚さを失い虚栄と傲慢に満ちた灰色の町。
そこに住む誰からも忘れ去られた場所で、徐々に朽ち果てやがて世界の一塵となる。
目を開けていてすら何度も夢見た至福の終焉。
谷底は心を呼ぶ。
身体はそれに応えようとする。
ガードレールに手をかけさらに一歩踏み出したところで、何か硬いものを踏んだ。
「?」
足をどけて拾いあげると、桐の実だった。
和製ピスタチオのような茶色の実。一枝に鈴なりになったそれは、どうやらガードレールの向こう側に凛と立つ大きな親木の落し物らしかった。伐り出せば、さぞかし立派なタンスが造れるだろう立派な桐の大樹。
「…………」
だが彼は、すぐにガードレールのこちら側に目を奪われた。
アスファルトの上に積もった土。そこから新しい桐の木が生えていたのだ。
彼の背丈を超えるほどの木が。
親木に比べれば笑ってしまうくらい細く、枝も数えるほどで、もちろん実なんてつけていない若い木だ。
それでも十分に“木”と言える木には違いない。
茶色の実ひとつから、どれだけの年月を経てここまで育ったのか。
しかしこの木は知る由もない。
彼が根をはった大地は、アスファルトの上の箱庭。
彼の未来の確実な限界も、やがて自身に訪れるどうしようもない危機も、彼は知らない。
だからこそ、彼はその時へ向かってひたすら成長し続けるだろう。
横にそびえる親木を目指し、それが自分の首を絞めるとも知らずに。
他者から見れば明らかな行き止まりへ向かって突き進む生命。
それは悲劇なのか滑稽なのか。
「大丈夫です」
「!?」
突然背後から人の声が聞こえて彼は息を止めた。
「…………」
そろりと振り向くと、そこには小学校低学年くらいの少年が立っていた。
──人為らざる者
ためらいなくそれを受け入れたのは、その少年が着物姿だったからだ。時代劇に出てくる町屋の子供がよくこんななりをしている。
若草色の着物に深緑の帯。足は裸足に草履。しかしまったく寒がる様子も無く、しもやけひとつ見当たらない。
それに……こういうのには少し慣れている。
「大丈夫なんです。こいつの方が強いです」
少年は桐の若木を見て言う。
「──あぁ」
そうだろうな、何故かするりと納得してしまった。
きっと灰色のアスファルトよりも、この細い木の方が強いだろう。
「あっちも。あっちも」
少年が指す方には、同じようにアスファルトの上の土から生えた若い木々があった。
同じ桐もあれば、棘々のタラの木もある。
まだ芽は出ていないが、摘んで天ぷらにしたら美味しそうだ。
「道路より、強いです」
少年は無表情だ。
表情なく淡々と断言してくる。
「……そういうもんか?」
「はい」
少年がそう言うのなら、そういうものなのかもしれない。
そうやって、棄てられた人工物はだんだん山と同化してゆくのだろうか。
あともう何十年かしたら、道は道でなくなりここは山に呑まれる。ふかふかとした落ち葉と雑多な木々が我先にと天を追う森の中で、標識はぽつねんとカーブを指し示すのだ。
勝手に限界を決めた者を哄いもせず、彼らは粛々と生き続ける。
厳冬も暖冬も、さらされるままに翻弄され、淘汰され、生き残った者が次を紡ぐ。
削られてもえぐられても、ひたすらに時を待つ。
取り戻す日を。
「特別なことじゃありません」
少年の視線を追って山側を見上げれば、いくつもの巨木が根元から折れて他の木にひっかかっている。
道路の片隅に転がっているのは、折れた傷が痛々しい太い枝。木々の間を縫って滑り落ちてきたのだろう。
表面には瑞々しいコケを宿し、キノコが群生し、剥がれた木の皮の間にはすっくと背を伸ばす小さな新芽。
それはテレビのドキュメンタリーでこれでもかと映される、陳腐な生命の輪廻だ。
厳かに、感動的に語られるナレーション。
しかしこれは奇跡でも神の所業でもなく、何千万年前の太古から繰り返されてきた日常なのだ。
冬に敗れた葉、風雪に耐えられなかった木々。
屍の上に命は立つ。
落ち着いて見回せば、数えることさえバカバカしく笑えてくるありふれた光景。
親は子のために死に、子は親を糧として頭上に広がる空を目指す。
愚直に守り続ける彼らの理。
「ね」
少年がこちらを見て笑った。
「そうだね」
彼は肩をすくめて返した。
「お兄さん、この先へ行くんですか?」
少年が首を傾げてきた。
「どうして」
「この先は何もないですよ」
「?」
「まだこの道路に車が走っていた頃、この先に公園があったそうです。動物園もありました。ロープウェイもありました。でも全部引越ししました。ブランコとかロープウェイの駅とか動物を飼っていた檻とかならまだありますが、他には何もありません。誰もいません」
「──そうか。今、山に治している途中なのか?」
少年が無言でうなずく。
「じゃあ、邪魔したら悪いね」
彼は奥へと視線をやりながら言った。
道は九十九に折れているようで、ガードレールの白も途中で見えなくなっている。
「そんなことはありません」
少年はぶんぶんと首を振ってから、
「でも、大神に気に入られてしまったら帰れなくなってしまうかもしれません」
と付け加えてくる。
今更何が出てきたって驚くまい。
「君も?」
「いいえ。僕は大神の子どもにしてもらいました」
午後へと陽が傾いたのか、奥から吹いてくる風が冷たくなり、野バラに絡まっていた山紫陽花の乾燥した花びらがはらはらと散った。
頬が凍り、耳が痛む。
「そうか」
茶色の落ち葉の中、点々と続く派手な色のキノコの列。
宿主を絞め殺さんと巨木に巻きついたツルは、途中で無残に千切れている。ツルの成長を宿主の成長が上回った結果だ。
「僕はあっちに車を停めてあるんだ」
「そうですか。では早く帰った方がいいですよ。気をつけて」
少年が屈託ない顔で手を振ってきた。
森に侵食されつつあるかつての広い車道。その真ん中に佇む少年。
「あぁ。じゃあね」
背を向けてもう一度振り返ったら、きっとそこには誰もいないんだろう。
だが振り返る気は無い。
彼はガードレールに沿って、再び谷を見下ろした。
すとんと意識が落ちていく高さに、背中をはう一瞬の恐怖。
しかし何故かその感覚に安堵する。
自分の足跡が残る雪の上、冷凍された空気、林冠にこだまする鳥の声、勢いよく伸びる黄緑色の雑草、風渡る笹の細波、満ちる融け出した土の匂い。
ふたつの季節を渡り、前方にあの鉄柵が現れる。
その先には下界へと続く舗装路、置いてきた自分の車、日々新芽をふくらませる木々の梢、薄布を一枚まとった春霞む蒼空。
彼は背後でざわめく深き森の誘いを振り切るように一気に進み、何か思う前に鉄柵の向こうへ駆け込んだ。
息が切れる。
だがまだ足りない。
足早に車に乗り込み、ロックをしてからエンジンをかける。
慣れた重い振動が身体に響き、彼は深呼吸してようやく鉄柵の“向こう側”を正視した。
とりつかれた焦燥とは裏腹にそこにあるのはただの旧道で、「立ち入り禁止」の看板も事務的な警告に過ぎない。
あと一ヶ月もすれば笹が茂りあちらへ違法進入することはできなくなるだろう。
しかし県はあの鉄柵の鍵を持っているわけで、開かずの扉ということもない。
“向こう側”はそんなに神秘的なものでは、ない。
──何をそんなに焦って帰ってきたんだ?
その自問は水面に生じた波紋の如く姿を変える。
──俺は今まで何をそんなに恐れていたんだ?
──何でそんなに疲れていたんだ?
音もなく円周を増大させてゆく波紋を小さく笑い飛ばし、彼はハンドルを握った。
──他人のせいにならいくらでもできる。何もしようとしていないことを棚に上げれば。
ギアをドライブに入れ、アクセルを踏む。
そして鉄柵の前でUターン。
下界へ向かってゆっくりと走り出すと、後ろへ送られる白線も加速して、バックミラーに映った柵の奥も見る間に遠ざかる。
閉ざされた静寂の森を背景に、手を振る少年とその脇に佇む着流し姿の男。
どんどん小さくなってカーブで消える。
木漏れ日でまだらな道路を滑りながら、前だけを見る。
「…………?」
ふいに、助手席のシートに放り出してあった携帯電話が震えた。
ディスプレイには、登録した覚えのない、しかし心当たりはある名前が表示されている。
彼は待避所に車を寄せ、通話ボタンを押した。
「──もしもし」
<遠野です>
「……珍しいな」
文明の利器を通して聞こえてきた高校時代の後輩の声は、年月を痛感するほど大人びている。
彼はまだこの街にいるのだろうか。
しかしそんな感慨も空しく、
<不破さん、2度目はないですよ>
相手は前置きひとつなくこちらの懐に刺し込んできた。
「…………」
そういえば、この男は高校生の時もそういう予言めいたことばかり言って学校中から気味悪がられていた。
<助けられたと思うのは勝手ですが、彼らにそんなつもりはありません>
まるで何もかも見通している言い方。
「でも気が変わったのは事実だ」
<彼らの生気を分け与えられた気になりましたか? しかしそれはあなたが彼らに喰われただけです>
あの廃道と同じように。
<生きている森は、手当たり次第何もかも同化しようとします>
その力はアスファルトをも山へと創り変える。
置き去りにされた村、行き先のない橋、民のいない社、届かぬ郵便ポスト、砂埃に転がる羽虫、落ちた鳥、斃れた鹿、棄てられた車、眠る墓碑、すべて彼らの血肉となる。
<彼らは我々が願うより優しくないんです>
フロントガラス越しに広がるのは、里山の背後にそびえる雄々しい雪の峰々。幾人もの遭難者を抱く霊峰は、清冽な氷風に洗われて天に槍を刺す。
感性は引きずり込まれ、理性は視線を外したがる、畏怖。
<彼らはこちらの道理が通じる相手じゃない。仏とは違います>
遠野の言う“彼ら”とは誰を指しているのだろう。
山か、森か、少年か、着流しの男か──。
「大丈夫、肝に銘じておく」
適当に返した言葉に、しかし遠野はそれ以上何も言ってこなかった。
世間話をするでもなく、思い出話をするでもなく、電話を切る。
「……愛想のないヤツ」
電話を放り投げ、ウインカーを出し、彼は再びアクセルを踏んだ。
今は振り返らない。
だがいつか、彼らと真正面から対峙できるようなよぼよぼのじいさんになって命尽きかけた時に、もう一度行こう。
笹を分け、下草を掴み、あの標識をたよりに、この巨大な生き物の深い呼吸の一部となるために。
そして、今眼下に広がっている騒々しい灰色の景色をすべて喰い尽くそう。
彼らと共に、そうと知られぬまま静かに、世界を食む者を食むのだ。
見渡す限りの緑、響く鳥の歌、めぐる野ネズミの足音、地に群れる蟻の行進、淀みない水の流れ、過ぎる魚影。
あるいは。
遮るものなく吹き渡る緋色の風、点々と続く甲虫の足跡、光となり影となり一粒ずつ姿を変える、底なしの砂漠。
生も死も理のまま、雑音は永遠に絶え。
究極に美しい世界は、誰も見ることができない。
了
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参)「人住まぬ 不破の関屋の 板びさし 荒れにし後は ただ秋の風」(藤原良経)
「秋風や 藪も畠も 不破の関」(松尾芭蕉)
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by 志方あきこ [軌跡]
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