「アルフース侯」
「──ストラス」
遠雷が不吉に轟く中、アンドレアルフースが黒馬から身を降ろすと、万魔殿の入り口には見知った顔が心細そうに立っていた。
「お出でになると聞いたもので」
「相変らずだな、ここ(万魔殿)は。そういうことだけ情報が早い」
「えぇ」
鴉総統ストラス。ロネヴェよりも一階級下に位置する参謀官であるが、悪魔と思えぬ優しく思慮深いその性格ゆえにアルフースが重用し、彼も何かとアルフースの肩を持つ。
官吏の中では珍しく、利害では動かぬ間柄だった。
「しかし大丈夫ですか?」
ストラスは、金糸のような長い髪と薄青の長衣を禍つ風(まがつかぜ)になびかせ、寄って来た。生まれつき線の細い顔を、さらに心労でやつれさせている。いつもはおっとりと微笑していてあまり目を大きくしない者なのだが、今日は紅の瞳が色を見せていて……どこか痛々しかった。
「ロネヴェ伯が随分とふれまわったみたいで……」
「弁解が通らなかったら何をしでかしてやろうかと、考えを巡らしている最中だ」
深くかぶった制帽のせいで、向こうにこちらの目は見えていないだろう。
が、その言葉に反応して、ストラスが大袈裟とも言える安堵のため息をついてきた。
「良かった。いつもの侯爵で」
「ん?」
意味が分からず見下ろして疑問符を与えると、ストラスが前を見たまま小さく笑った。
「心配していたのです」
ふたりは重々しい石積みの門を抜け、フォーカス大公が占拠する“中央参謀長官室”へと向かう。
ホールを横切る時にはいくつもの視線と小声が交錯したのだが、アルフースが悪意ある微笑をもって顔を向けると、たちまちそれらは消え去った。
「貴方が問題の発言をなさったのだとしても、何か理由があってのことでしょう。しかしここではそんなことに耳を傾けてくれる者はほとんどいません。下の階級にいる者はあわよくば上に行こうと狙っていますし、少しでも美に自信のある者は、貴方をよく思っていないのです」
「それで?」
「……そういうことを一番分かっておられるのは侯爵ご自身ですから。……自棄になられるんじゃないかと」
「自棄、か」
「はい。……でもお姿を見て安心しました。自棄になってはおられない」
──なりかけた。
本音を閉まって、アルフースはただ苦笑した。
「私の肩には私が思っている以上の命が乗っているのだと脅されてな」
「そうですよ。私も、貴方が上司で良かったと、心底思っているんですから」
相変らずスローテンポなしゃべりでストラスが言ってくる。
「つまらないことで亡くなったら困ります。穴埋めでどうしようもないのが上司になってしまったら、それこそ恨みますからね」
「覚えておこう」
「──それでは私はここで」
階段を登りきったところでストラスが足を止めた。
この階の最奥が、フォーカスの根城なのだ。
「心配をかけた」
「いいえ。……ご幸運を」
丁寧に一礼する彼に背を向け、思う。
ストラスは何故堕天したのか。
彼こそ心で神を慕い、敬い、未だ天界への忠誠を忘れてはいない。
“ご幸運を”
真なる堕天はそんな言葉を使わない。愛すると同時に憎んでいる者も、使わない。
それは “神のご加護を” その言葉と同義とみなされるからだ。
天界が滅んで己の道を失う者。彼はその中にいるのだろうか──?
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「中央参謀副長官、アンドレアルフース。弁明を聞いていただきたく参上しました」
儀礼である敬礼を交わした後、彼は床に片ひざをつき制帽をとった。
立ち姿だとひざまであるだろう漆黒の軍服。その裾が濃紺の絨毯に乱れる。
「──ロネヴェの言うことが全て正しいとは思っておらん」
己が一番という万魔殿の中にあって、下端の輩までからも一目置かれる大公、フォーカス。
長い口髭をたくわえ僧侶のような衣をまとい、地上では大鎌を振りかざす。
賢者の名は伊達でなく、哲学、修辞学、論理学、占星術を心得る。
冷酷で非情だとも名高いが、不合理ではない。
「あやつはお前が、天を滅ぼすことは無意味だと言った。そう騒いでおったが? その発言の重大さは分かっておろうな?」
「そうとも取れる言葉だったのは確かです」
「では正確には何と言った」
「滅ぼしたところには何があるだろうかと申しました」
老爺の目が鋭く光る。──が、アルフースは機先を制して素早く言い直した。
「何があるだろうか。いや、何もないのだ。戦いは無意味だ……、という反語に取ることもできましょう。しかし私が申し上げたかったことはそうではないのです。純粋な戦利品として何がどれくらい手に入るだろうか。具体的な数字を出しておくべきではないかと、そういうことです」
「何故」
「がむしゃらに報酬を出すわけにはいきません。後ろ盾がなくては。終盤になって報酬が尽き、士気が下がったなんてことにでもなったらお笑いでしょう。……財は有限です」
アルフースは絨毯の一点を凝視し続け、弁明した。
彼が言い訳のために頭を垂れ、ひざまづくなど──ロネヴェが見たらさぞかし喜ぶに違いない。
だが、彼の心は平静だった。
波ひとつない湖面だった。
「……そういえばお前は数学にも長けておったな」
「御意」
アルフースには少なからぬ功績がある。今まで上の期待を裏切ったことはほとんどない。
時々奇抜で反抗的な道を取ることもあるが、それでも最後は望まれる場所へと帰結させた。
唯一上を心底失望させたのは、彼が召喚士などを妃にしたことか。
しかしもう侯妃は亡くなったので時効だが……。
「ロネヴェ伯が悪い方向へと曲解したことが、騒動の発端かと思います。私めが参謀官であり、数学を片腕としているのは周知の事実。しばし考えれば、また一言問い直せば、財のことであると分かりそうなものでしょうに」
アルフースの顔は無表情。だが声のトーンには含みが混じる。
「どうも私としては、伯爵に意図して不利益を押し付けられたような気がしてなりませんね。しかし、すぐ天界を滅ぼすことは無意味だなんて方向にもっていき、疑問も抱かず問い直しをすることもなく皆に告げてまわるなど、……普段伯の方がそう思ってるのやもしれません」
「お前の見解は聞いていない」
「──申し訳ございません」
ぴしゃりと叩きつけられた叱責に、うつむく悪魔。だが非のない白皙には微笑が咲く。
「もう行ってよい。聞けば、今回のことは問題として取り上げるまでもないことだ。一歩間違えば軍団そのものが削除、消滅されるところだったが……。ロネヴェには、くだらん事で上を煩わせるなと釘を刺しておかねばならんな」
「御意」
「これからも忠義を尽くせ、我らの麗しき明星」
「もちろんです」
アルフースが退出するとすぐ、ストラスが階段を駆け上がってきた。おそらくはひとつ下あたりで待っていたのだろう。
「どうでした?」
「疑いは晴れた」
言いながら制帽をかぶり直し、気合を入れるように手袋を直す。
長い軍服の裾を払い、襟を正す。
「不問ですか?」
「あぁ」
「それは良かった」
今度こそ本当に、安堵のため息。
ストラスに心労をかけると、本当にすまない気になるのだから不思議だ。
「だがもうひと仕事あってな」
「え?」
黒髪の奥、軍帽の影で、美しいルビーが輝いた。
アルフースはホールまで降りると、靴音も高らかに中央へ。
何が起こるのかと、遠巻きに好奇と蔑みの目を向けてくる者達を横目。
彼は聞くもの全て凍りつかせる美声を、鋭く低く響かせた。
「ロネヴェ! 私の面前に出てくる勇気はあるか!?」
売られたケンカは買え。
この日、アンドレアルフースの信条には、そう一文書き加えられたのである。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「良かったじゃねぇか。死にかかった割りには何もなくて」
「ロネヴェの奴は捕えて散々脅し上げてやった」
「おぉ怖い」
ストラスを彼の居城に送り届け、自らが帰った時にはもう、夕宴の支度が整っていた。
自室へと急ぐアルフースの後ろを、件(くだん)の若者が追いかける。
「……ルノ。なんでお前がここにいる」
「帰れって言われてないし」
年齢を数えることは無意味であるが、一応アンドレアルフースの方がシェーラー・ルノよりも年上である。しかし、体格差はほとんどない。……そんなのに始終つきまとわれていたのでは、暑苦しいことこの上ないのだ。
「犬じゃあるまいし帰れと言われなくても時を見て──」
「帰らなくてもいいように軍隊に入れてよ。アンタを蘇生させたの、俺でしょー」
「お前は」
アルフースはぴたっと止まりぐるりと回れ右をして、紅の尖った爪をルノに向けた。
「軍の規律を守れるような性格ではない」
「…………」
押し黙るルノを片眉上げて見やり、アルフースは再び歩を進めた。
「だけどさー、アンタだって官僚の規律時々破るだろ? それと同じようなもんでさー」
一歩進めれば一歩分。四歩進めれば四歩分。
ぶーたれた声が付いて来る。
「規律破りって言っても許容範囲だと思うぜ? そういうのを大きく包んでこそ指揮官の器ってやつがだなー」
「……あぁうっとおしい」
悪魔軍というものは、戦うことを運命付けられている。
究極は、殺されねばならないことを運命付けられてる。
どんなに有能な指揮官であっても、その必然には逆らえない。誰一人亡くさずに勝とうとは思う。努力する。だが現実、そういうわけにはいかない。
軍というものは、そういうものだ。
だからこそ──
THE END
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◆メサイア Messiah ・救世主 ・イエス=キリスト この物語では、messiah 一般的な救済者の意。
◆時代的には本編を基軸として、妃が亡くなった150年前からアルフースが封印される前の間の話。大体本編より110年〜120年前くらいまで。
BGM by J.Pachelbel 「カノン」 Miyuki-Nakajima 「地上の星」
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