神が眠る大地の上で

──言わねばならない言葉はいつでも、言えずに終わる──

60000HIT、十朱李夏様に捧ぐ

 
 



いつまでも淡々と続いてゆくのかと思われた歴史に、ひとりの男が現れた。
月並みな言い方をすれば彗星の如く。
真実を語れば一瞬にして燃え上がる炎の如く。

誰も予見せず、誰も予想せず。
その若き皇子は父帝が身まかったことにより帝位を継いだ。
そして玉座に立つや否や次々と他国を侵略、併合していったのである。
彼の軍は数十国にも分かれた大陸を制覇せんばかりの勢いで、その白薔薇紋章の旗を各地に揚げた。

言うは容易い。
行なうは難い。

何千年という歴史の中で、誰も成し遂げたことのない大陸統一。
否──それは誰も掲げたことすらなかった。
隣国とせせこましく領土争いなどしてみても、大陸に敷かれた長き均衡を崩そうと目論(もくろ)む者はいなかった。
枕の夢に見た者はいたかもしれない。
だがそれはその程度のことでしかなかったのだ。

その男が現れるまでは。

大陸統一など夢物語だとしか思っていなかった人々が、それを現実のものと戦慄し始めた時……暗雲に覆われた空は嘆きと哀しみに彩られ、見渡す限り荒野の大地は鮮血と涙に染まっていた。
そして追われた人々の歌は亡き祖国を想い風となり、戦場の凱歌(がいか)は途切れることなく続いていた。


愚行というか偉業というかは人次第。

しかし明らかに彼は強すぎた。
帝位に就いてから数年、この時すでに彼は大陸三分の一をその掌中に納めていたのだ。

白い化け物。
そう呼ばれるひとりの姫を従えて。






◆  ◇  ◆  ◇  ◆





「ひとり残らず斬れ」

見上げる段上から降った皇帝の冷たい声音が、場を重くした。
遠征先の仮の城。そして仮の玉座。

「だ、そうですヨ」

主のすぐ隣りに控えた軽い男が、これまた場面にそぐわぬ軽い調子でつなぐ。

「御意」

段下に立つ武人の返答も(よど)みない。
大刀を携えたその男の横には、手足に縄をかけられた捕虜がうつむかされて並んでいた。全て、今日滅ぼした帝国の皇族である。
無論皇帝・皇子は戦場に散ったが、皇后や皇女、幼き皇子、そして皇族文官などはまだ命あるのだ。

しかしそこにいる誰もが知っていた。
覇者である段上の男は、敵兵を皆殺しにしないまでも皇族・王族はひとりも生かしてはおかないのだ、と。

「何か私に恨み言はあるか」

凍った蒼の双眸で、皇帝が見下ろす。
また玉座の間が冷えた。

「神は、そなたの悪行を許してはおきますまい」

誰が言ったのかは定かではなかったが、応えたそれは女の声。
皇后か、皇女か、いずれにせよもはや諦めた声。

「神、か」

皇帝が鼻先で笑う。
長い銀髪が、白布の帝衣を滑り落ちた。
戦場にあっては軍神と呼ばれ、城にあっては鬼神と呼ばれるその男。仕える者も、蹂躙(じゅうりん)された者も、皆彼を恐れた。

「この大陸には、神などもういない」

彼以外の者が言ったなら、誰も本気にしなかったに違いない。
だがその言葉は居並ぶ臣下達の畏怖と敬意、そして主への誇りをますます高め、異常な空気を作り出す。
殺戮(さつりく)の拠点である僻地の古城が、その男の色に塗り替えられてゆく。

「──殺れ」

厳かな一声の後、段下の大刀が閃いた。








「南は落ちましタ。次はどちらへ行きましょうかネ?」

深い藍色の法衣に身を包んだ痩身の男は、いつものように皇帝の背後を歩いていた。
処刑で血塗れた玉座を後にし、皇帝の自室へと続く回廊を行く。

「東を取りに行くか、それとも西を取ってジャデス帝国を包囲し、潰すか。どちらでも負けはしませんヨ、陛下のお好きな方へ参ると致しましょう」

彼の──ちなみに、肩書きは軍師だ──この口調は元来のもので、決して主を馬鹿にしているわけではない。むしろ彼は心酔していた。今まで仕えていた父帝に代わり即位したこの若き皇帝に。

「……遊んでいる閑はない」

「では西を先取りですネ」

「西か」

彼が一方的に決めると、後ろから露骨にぶっきらぼうなつぶやきが聞こえた。
振り向かなくとも分かっている。先ほど、顔色ひとつ変えずに十数人を一気に処刑した、大刀の武人である。
武人武人と祭り上げるほど筋骨(たくま)しいわけでもないが、長身の皇帝よりも頭ひとつぶん高い背丈の身体は、隙なく鍛え上げられてはいる。
やれと言われたことは不可能でもやる、そんな男であり、将軍だ。
だからこそ、ともすれば士気が下がってゆく休みない連戦でさえ兵士たちは乱れることがない。

「ハストラング将軍。また砂っぽい場所は嫌だとかそういう我がままはナシですヨ、ナシ。大国を潰すには補給路を断つのが一番手っ取り早いんですから。ま、コチラには姫がいるからそんなことは関係ナイと言えばナイんですけど」

軍師、アザ−・フォーマルハウト。
左軍将軍ネイザー・ハストラング。
脅威の皇帝の左右を固める二枚岩。

「……そういえば、この数日姫を見かけませんネ? 陛下、どこか遠くへスパイでもさせにお出しになったんデスか? 可愛い子には旅をさせよって言いますからネ。陛下は姫には特に甘いんですから、ちょっとくらい遠くに出した方がいいってモンかも……」

「…………」

「陛下?」

突然、皇帝が歩みを止めた。
そしてクルリとこちらを向く。

「陛下、いかが……」

「馬を用意させろ」

「ハァ?」

皇帝の真意が見えないのはいつものことだが、今日はまた格別だ。
アザ−が目を点にして首を大きく傾げると、いつも表情のない皇帝が軽くため息をついてきた。

「…………陛下」

生まれた時から気難しい仮面が貼り付いているのではないかと噂されているハストラング将軍の目も、点になる。

それを知ってか知らずか、彼らの主は帝衣を翻した。

「アレは数日前から家出しているのだ。──迎えに行ってくる」













戦争というものは、言いようのない喪失をその地に運ぶ。
家々は崩れ、焼け落ち、家族はバラバラになり、二度と帰らず、街には生活するものはおろか食べ物さえロクにない。

路傍には埃っぽい衣をまとった人々が虚ろな目をして座り込み、母親と思しき者が目の開かぬ子供を抱え子守り歌を歌う。
物乞いをしようにも物を持つ者がいず、敗北した街は無残に沈んでいた。

その(さび)れた路を歩く女がひとり。
壊れた街にそぐわぬ真っ白な衣装を身にまとい、豊かな黒髪を荒野の風に揺らし、彼女は淡々と歩いて行く。

けれど、誰も彼女に声をかけようとはしなかった。
誰も彼女に何かをねだることはしなかった。

「…………」

皆、その正体を知っていたからだ。

「白い化け物……」

囁かれた路地をちらりと見やり、彼女は特に何をするでもなく歩を進める。

白い化け物。
彼女がそう呼ばれて数年が経った。
今なお破竹の勢いで大陸を駆ける皇帝に仕えて、数年が経った。
人間ではなく、魔法使いでもなく、けれど尋常ならざる魔力を持ち、神出鬼没に現れ消える。
それが彼女だった。


「まったく……」

崩れ落ちた家の瓦礫の上で座り込んでいる幼い兄弟を見やり、彼女は眉をひそめた。
本来ならば、こんな戦争などする必要もないのだ。
彼女が腕を一線すれば、敵軍は壊滅する。何度か振り回せば、大陸などその日のうちに手に入る。
それで全てにカタがつく。

「あの馬鹿」

だが、皇帝はそうしようとはしなかった。
彼は(かたく)なに人間の軍を率い、戦争をした。
そして未だに双方が傷つかねばならぬ道を取り続けている。

「……私が何のためにいると思っているのだ?」

彼女は皇帝を大陸の覇者にするべく彼の横に立っていた。
だが彼は彼女に大したことをやらせない。
せいぜい敵軍の補給路破壊、武器庫破壊、内情スパイ。そのくらいのことしかやらせてはくれないのだ。
それをわざわざ派手な演出をしてやっているからこそ名前も知れているが、普通にやっていたんでは完全に地味な裏方である。
過小評価にも程がある。
それに断固抗議すべく彼女は家出してきたわけだ。

“白い化け物”、“姫”。
好き勝手に呼ばれる彼女の名は、インペリアル・ローズ。
皇家の紋章、白薔薇を冠したその女、謎の生き物である。




「……す、すみません……」

呼びかけられてローズが振り向くと、妙におどおどしたひとりの女が上目使いに立っていた。
崩れる家から逃げる時にでも何かしたのだろう、衣の裾はほつれ、破けている。

「何か用か?」

「あ、貴女はセレシュ皇帝の魔……魔法使いだと……」

「魔法使いとはちと違うが、まぁ似たようなものだな」

「では!」

いきなりその女は膝を付いた。そしてローズの足元に額を付ける。

「どうか私の息子をお助けください! 昨日の攻撃で大きな怪我を負って、このままではあと数日も生きられないでしょう……。筋違いとは存じておりますが、どうか!」

地面が濡れた。

「何も差し上げるものはありませんが、私の命と引き換えでも構いません! どうか息子だけは! どうか、どうか……」

「…………」

これが戦争だ。
関係のない命が失われ、いらぬ涙が流れてゆく。
砂が混じる蒼空を見上げ、そしてローズは“お願いします”と言い続けている母親を見下ろした。

「礼などいらぬよ。息子とやらはどこにいる? 案内しろ。余程のことでなければ治してやろう」

「あ、ありがとうございます!!」

顔を上げた女の顔は、砂と涙でぐちゃぐちゃだった。
静かに笑い、ローズは返す。

「礼はいらぬと言ったであろう?」





人間でもない。魔法使いでもない。それらを更に超えた魔物。
そんな彼女にとって、怪我の治療くらいは大した面倒事でもなかった。
故に皇帝軍は死者はあれども負傷者はない不思議な軍隊なのだから。

ひとりを治せばもうひとり、それを治せば更にもうひとり。

いつしかローズの前には、この街の人間が列を作っていた。

「──婆さん、……よく生きてたな」

「昔はもっと酷い戦争もあったでなぁ。こんなにアッと言う間に終って、びっくりだがや。けどな、その方がワシらにとってはありがたいことかもしれんて」

逃げる時に足を痛めたという老婆。

「──母さんを守ったのか」

「父さんはセンソウに行ったから。男は俺ひとりだから!」

肩に矢を受けた少年。

「──大丈夫、すぐ治る」

「本当ですか、良かった……」

崩れた壁で額を怪我した母親を連れてきた娘。

ローズの野外病院は、空が黄昏色に染まってもなお続いていた。
治療が終わった者も(かたわ)らの路地に留まり、他の街人と話を続ける。
ローズの横に座り、あれこれ口をはさむ。
まるでどこかの(ひな)びた街の日常風景のように、牧歌的な景色。
セピア色の、懐かしき風の匂い。


しかし、その平穏は突如として破られた。


『──!!』

人々が声にならぬ驚愕の声をあげ、慌てふためき地面にひれ伏す。
一目散に逃げて行く者もあった。
空気が一瞬にして張り詰め、息も出来ないくらいに重くなる。

「…………?」

怪訝に思ったローズが顔を上げれば──

「ローズ、迎えに来た」

どこに残党がいるやも分からぬこの街で鎧も兜も付けず、普段の帝衣のままこちらを見下ろしている男がひとり。
その衣にはただひとりしか身にまとう事が許されぬ、白い薔薇の紋章。

「…………」

皇帝、セレシュ=クロード。










「帰らぬ」

「ローズ」

「そなたよりこやつらの方が私を必要としているのが見て分からんか」

「…………」

縮こまっている人々を眺めやった皇帝。その銀色の髪が、冷たくなり始めた夕風にさらわれる。
白と蒼、両の絹を織りあわせた帝衣も翻る。

「インペリアル・ローズは皇帝セレシュ=クロードのために存在している。昔、そういう言葉を聞いたが?」

「空耳だ」

「そうか」

それなら仕方ない、小さく笑ってそう言うと、皇帝は患者のためにと用意されていた椅子に腰を下ろした。

「家出の理由は知っている。私がお前をないがしろにしていると、そう思っているのだろう?」

「…………」

「別にお前に出来ぬと思っているわけではない。お前にやらせたくないだけだ。手を血に染め人の怨みを背負うのは、剣を手にした軍人だけでよいのだよ」

「そのためにいらぬ死人を増やすのか」

彼女が戦場に立てば、味方に決して死者は出ない。
ただの一撃で、勝利は決まる。
だが人間同士の戦いはどうだ?
いかに皇帝軍が強いと言えど、無傷で勝ちはしない。
三、四日、長い時はそれ以上、ずっと戦い続けることもある。
疲弊し、傷を負い、死者となる。

──それを回避する方法があるというのに、この男はそのカードを引こうとしない。




「ローズ。……この大陸には名前が付いていない。歴史書にも『大陸』としか記されず、誰もその名を知らない。何故か分かるか?」

皇帝が切れ長の蒼眸をローズに据えて、訊いてきた。
玉座では誰にも見せぬ、鬼神の穏かな眼差し。
しかしローズは黙って首を左右に振る。
するとセレシュが子供に絵本を読むような調子で、遠い過去、置き去りにされたその昔話を語り始めた。
もはや語れる者さえ少なくなった大陸の伝承。吟遊詩人も歌えぬ物語。


「古、まだ神々がこの大陸にいた頃のこと。神々はあるひとつのことで絶えず争っていた。しかしその争いはやがて争いなどというレベルを超え──やがて【神々の大戦】と言われる全面戦争が起こった。けれど大戦などとは名ばかりで、それは最後に誰が生き残るかという殺し合いだった」

「でも結局皆死んだのだったな」

ローズの横で地面に座っていた老婆が、遠くを見つめながら相槌(あいづち)を打った。

「そうだ。大戦の終わりはすなわち、神々の滅びだった。全ての神は(むくろ)となってこの大陸に眠ったのだ。誰ひとり生き残ることなく、彼らの命運は尽き果てた。だからこの大陸にもはや神はいない。人々が祈るべき、願うべき、すがるべき、神はいない」

セレシュ=クロードの顔つきが一瞬険しくなり、元に戻る。

「神々がそこまでして争ったものが何か、分かるか?」

「……分からぬ」

ローズは不機嫌の色を隠しもせずに棒読みで応えた。
口はへの字。
それでも皇帝は静かな笑みをたたえたまま、続ける。

「神々は自ら以外全ての者を滅ぼしてでも、“明日を紡ぐ力”を欲しがった」

「明日を紡ぐ力?」

母親の腕にしっかり抱かれた少年が、それでも好奇心を抑えられなかったのだろう、即座に訊き返した。
母親は蒼白の顔をして子どもを更に強く抱えたが、当のセレシュは気にした様子もなく。

「つまり──全ての運命を支配する力、ということだ。それを手にした者はすなわち、全ての命の明日を、未来を決めることができる。人間はおろか、他の神の明日でさえも」


未来を定める者。
明日を決める者。
人はそれを神と呼び、それが決した道を運命と呼ぶ。

しかし真実誰もそんな力など持っていなかった。
全ての道を決する力など、神でさえも持ち得なかった。
それ故に神はその力を望み、争い、滅びた。


「全ての明日を握ること。それは結局、全ての頂点に立つことと等しかった。それゆえに、この力を手にした者が大陸の真の支配者となるはずだった」

「……じゃが、神々は死んだ」

蒼眸が老婆に向かって深くまばたきされ、ローズに戻る。

「アヴァロン、シグリッド、レオノイス、ミューシア……。大陸の都市はほとんどが神々に由来する名を付けられている。その土地を支配していた、な。だが、大陸そのものには名前がない」

「大陸を真に支配した者がいないから、……か」

ローズはようやく、セレシュを見た。
その皇帝は、淡い夜に染まった薄い雲へと涼しい蒼眸をやっている。

「古から、神を含めてさえもこの大陸を手にした者はいない。それ故に大陸そのものには名前がない」

「だから何だ?」

ローズは立ち上がり男を睨みつけた。

「それとこれとは話が違うであろ」

「違わないな」

氷槍のような皇帝の断言。
返される視線は、目に痛い。

「私はこの大陸に名前を付けるために剣を取っているわけではない。だが、時々それが分からなくなる。大陸の運命をこの手に握ることが最終目標なのだと錯覚しそうになるのだ。全ての頂点に立つために軍を率いているのだと、思い込みそうになる」

遠巻きにしている人々は、息を呑んで聞いていた。
普通ならば目にすることもできないだろう雲上の皇帝。
何度殺しても殺し足りないだろう、侵略者。
それでも誰も動けない。
白の魔物を諭すこの男に、近づけない。

弓を引きさえすれば、剣を振りかぶりさえすれば、この男は(たお)れる。
この大陸に神はいない。
この男は神ではない。
もし誰も運命を紡げないのだとしても、定まった未来などないのだとしても、ひとつだけ例外があるのだ。
人間として生まれた時から定まった未来が、ひとつだけ。

──必ず死は訪れる。


だが、誰も動けなかった。
復讐することも、罵ることも、できなかった。



「……お前は、私よりもこの街の人間の方がお前を必要としていると言った。だがそれは大きな間違いだ」

神に最も近い男。
恐怖をもってそう囁かれていることを、この皇帝は知っているのだろうか。

「お前がいなければ私は(おご)り、神々と同じ末路を辿るだろう。力に酔い、支配に酔い、ただの殺戮者として史書に名を残し、現れた英雄に討たれるだろう。そしてここまで荒らされ残された大地は、それをめぐり更なる戦乱に巻き込まれることになる」

伸ばされた男の手が、ローズの手を取った。
皇帝は祈るようにそれを自らの額へと持っていく。

「お前というとんでもない力を持った魔物を横に置いているからこそ、私は私が万能ではないことを、私の力が微々たるものであることを、私が剣を奮う理由を、私が神ではないことを、忘れずにいられるのだよ」

ローズは口を結び、されるがまま立っていた。
実を言えば、彼女だってまさか皇帝本人が迎えに来るなどとは思っていなかったのだ。ただ少し困らせてやろうと思っていただけ。
軍師が来ようが将軍が来ようが、一兵士が来ようが、文句のひとつを言って戻るつもりでいた。
それが……。

「ローズ、お前の手を借りればすぐだということは私も分かっている。だがそういうわけにはいかない」

「……分かっている」

そう、分かっていた。

「人の世は人の手で決しなければならないのだ。譲れぬ私の我侭(わがまま)だよ」

「分かっている」

そっぽを向いてローズは言い捨てた。


始めから分かっていたのだ。
皇帝が彼女をないがしろにしているわけではないことくらい。
皇帝が彼女の力で世界を取ろうとしない信念の堅さくらい。

言われなくても分かっていた。

ただ、もどかしかっただけだ。
皇帝を取り巻く怨みの霧が、日を追って濃くなってゆくのを見ていることしか許されぬのが。

「ローズ。お前は私の忠実な部下だ。それならば、私の命令に背いてはいけない。分かっているな? ──おいで」

立ち尽くす彼女の手を引いて、皇帝は自分のひざにローズを座らせる。
そして無表情な彼女に笑い、軽く抱き寄せた。

「私は神ではない。だが、人として生きるにはこの手を血に染め過ぎた」


インペリアル・ローズが何者なのか知っているのは、セレシュ=クロードただひとり。
セレシュ=クロードという人間を知っているのも、インペリアル・ローズただひとり。


「そしてこれからも私はお前から見れば不合理なやり方で、命を奪い続ける」

許されることだとは思っていない、そう彼は付け加えた。だが、

「それでも──」

言葉が途切れた。

「分かっておるよ」

ローズはフッと息をつき、両の口端を吊り上げる。

「言わずとも、分かっておる」

“それでも、やらねばならない” 眼の前の男はそう続けるのだ。きっと。

「…………」

皇帝が、目を閉じた。
ローズはその頬に軽く口付けて、立ち上がる。

「戻るぞ、セレシュ。長時間城を空けてはアザ−にまた長ったらしい説教を喰らう」

彼女は言って身を翻した。


どれだけ刃向かってみても、やっぱり結局彼はローズの主なわけで。
絶対に力では彼女方が上だけれど、彼女が皇帝に力を奮うことは絶対にないわけで。
あの寡黙な皇帝がこんなにしゃべったところなんて初めてみたわけで……。

なんだか、満足したのだ。

例えどれだけあの男が血を浴びようとも、怨みを背負おうとも、全てが彼を裏切ろうとも。
彼女は必ず横にいる。
それは運命なのだ。
人間に死が運命付けられているように、彼女はあの皇帝のために存在している。

覚悟や信頼ではない。
それは呼吸をすることと同じように当たり前で──。



「セレシュ。どうやってここまで来た?」

「表通りに馬をつけてある」

「では私は先に帰るよ」

ひらひらと手を振って、ローズは皇帝を残し勝手に路地を進んで行く。
人外魔境、神出鬼没、白い化け物インペリアル・ローズ。

「……まったく世話の焼ける」

セレシュがそれを追って立ち上がると、

「お前さん」

地面に座り込んだままの老婆がとぼけた顔で声をかけてきた。

「何か用か?」

振り返れば、明後日の方向を向いて彼女が言う。

「言ってあげなくていいのかね?」

「…………」

「神々の過ちは、もうひとつあったのだがねぇ?」

砂埃に埋まった婆さんが、崩れかけた石壁に背をあずけ意味深げに笑った。

「神々は、自らが永遠だと思い込んでいた。だが実際は──明日など今日だけにしかないものでな。明日生きているという保証なんぞ、実はどこにもない。……お前さんはそれをよう知っておるのではないか?」

「私とて神ではない。いつ死ぬか分からんさ。こうも毎回先陣の指揮を取って戦場を駆け回っていれば、明日生きていることが当たり前とは思えぬようになってくる」

滅びた街。滅ぼされた街。
滅ぼされた者。滅ぼした者。

全てを包み込むように、全てを癒そうとするように、夜が訪れる。

「そして私の望む世界は──、私が死なねば完成しない」

「…………お前さん、」

老婆がこちらをじっと見つめ、ため息をついた。

「あの嬢ちゃんを泣かせるつもりかえ?」

「…………」

「だったら尚更早く言ってやるべきではないかのう?」

軍神。鬼神。紅蓮の皇帝。凶帝。
そう畏れられ忌避されている大陸唯一の男が、目を細めて星降る夜空を仰いだ。

「お前がいるからこそ私は今日生きている。そして、明日も生きようと思い願う。──そう、言ってやれと?」

「そうではないのか?」

「…………」

セレシュは老婆に背を向けた。
しばし沈黙し、肩越しにつぶやく。

「その言葉はもう少し後まで取っておく」

「いつまで」

しつこく老婆は食い下がってきた。
皇帝は苦笑を浮かべて振り返り、肩をすくめる。

「あの娘が、私以外の男に惚れた時だな」







そしてその真意は誰も知らぬまま、この男は二年後、大陸全てを制圧する。







THE END

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あとがき

この短編は、60000HITを踏んでくださった、十朱李夏様に捧げたいと思います。
お題はテーマで「主従愛」。  すいませんすいませんすいません。(←この人最近謝ってばっかり)
お分かりの人はお分かりのとおり、新しいふたり組ではなく、長編で頑張り中のふたりになってしまいました。
「主従愛」ときたらどうしても書きたくなってしまいまして……。
心配事は長編を未読の方でも短編として楽しめたかどうか、でございます。そこらへんのところをお教えいただけるとありがたいので、ぜひお願いします。
人間ではない故か、疑いの欠片もなく横に立ち続けるインペリアル・ローズ。溺愛しながらも自らの道を決して変えぬ皇帝セレシュ=クロード。長編の関係があり、謎が謎のままで終わっている部分もありますが、そこはひとつご容赦いただきますよう。

不二




 この短編の親玉、連載中長編「ホワイト・ハザード」

執筆時BGM by Rina Aiuchi [NAVY BLUE]
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