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- そこは、何よりも美しかった。
- そこは、どこよりも広かった。
- そこには何一つ憂いなく、何一つ波立ちはなかった。
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- 空は高く、風はどこまでも吹き抜け、緑は遠く地平線へと続き、鳥は歌う。
- 人々は争いを知らず、時とともに生きる。
- めぐりゆく季節と歩み、流れに身を任せる。
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- そこはすべての根源であり、そこはすべての本質であった。
- 生きとし生けるものの源が母なる海であるならば、その地は陸へと上がったものたちの
- 故郷。
- 身体の深い中に刻まれた故郷。
- 深層に埋められた、生命唯一共通の記憶。
- ──安らぎの地。
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- しかし、はるか古の人々はその地を捨てた。
- 凡庸たる時間を捨て、安穏とした日々を捨てた。
- 己に翼があると信じ、彼らは茫洋たる未知へと足を踏み出したのである。
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- 真なる自由を求め、羽ばたくことを夢みて。
- 繰り返される同じ日々ではなく、自ら求める日々を。
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- 「あの地での我々は、神々の飼い鳥であったのだよ。あの地は鳥籠。与えられた
- ものしかない、我々が求めて飛ぶことのできぬ籠だった。しかし──我々は解き放たれた。自由の翼を羽ばたかせる時を、自ら手に入れたのだ」
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- ある英雄はそう言ったという。
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- 楽園からの旅立ち。
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- そこにはもはや彼らを守るものはなく、絶えず流れの変わる風が吹く。
- そこには道標もなければ、道さえない。
- 歩けばつまづく荒涼たる前途。
- 彼らの先に見えるのはぼんやりとした、未来という名の時。
- 不安という名の薄暗闇と、希望という名の薄明かり。
- そして自由という名の大空と、責という名の足枷。
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- 「思うままに。可能性の限り」
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- 鳥籠の楽園から逃れた者たちは、無我夢中に自らの存在すべき場所を創った。
- 村を作り、街を作り、都市を作り、国を作り……。
- 彼らは神々の手を離れ、安楽の地を離れ、自らの意志にて世界を作り動かしたのだ。
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- そして羽ばたいた。神をも凌げとその翼を広げた。
- 探索し、模索し、拓き、世界を駆け。
- 科学という魔法を得、未知や不可能と戦い続けた。
- あらゆる時間を短縮し、欲するものすべてを作り上げた。
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- そうして夢は次々叶えられ、世界は複雑に秩序化されていったのである。
- 隙間なく、整然と、挑戦と前進の世界が組まれていったのである。
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- が──
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- 「ねぇ、本当に探すつもり?」
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- 長い黒髪を揺らして、女は両手を腰に当てた。
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- 「信じてるの? 単なる昔話よ?」
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- 「探すさ。頭っから信じてるわけでもねぇけど、探さなきゃなんねぇんだよ」
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- 黒の皮ジャンを着込み、宙を滑るエアバイクに乗った男は意味もなく断言する。
- 彼女の目の前で止まったまま、しかし彼はヘルメットさえはずしていない。
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- 「理由もないのに探さなきゃならないわけ?」
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- 「理由ならあるさ。誰かが“その場所”を見つけださなきゃ、世界は狂っちまう」
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- 「今だって充分おかしいわよ」
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- 女は上を見上げながら言い捨てた。見えるのは、超高層ビルに囲まれた薄い
- スモッグがかかる四角い空。
- そんな小さな安らぎでさえ、ぶんぶん飛び回るエアバイクの影に汚される。
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- 「それに」
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- 「それに?」
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- 「そんな場所が本当にあるなら、もうとっくに見つかってるはずよ。今この世の中に、まだ誰も知らない地なんてあるわけないじゃない」
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- 「そうかもな」
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- その言葉は単なる相槌なのだと、彼女は分かっていた。
- 何を言おうが無駄。
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- 「──『鳥籠の楽園』。アンタみたいに信じてる奴がいるだけ、まだこの世は救いようがあるってことかしらね?」
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- ため息まじりに言えば、男が笑う。
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- 「何かを忘れてる。何かを求めている。……そんな風に感じたことはないか?」
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- 「家を長くあけるときは、いつもそうだわ」
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- 「そんなもんかねぇ」
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- 彼の軽い声と共に、軽いエンジン音が彼女の耳に届いた。
- もう行くつもりなのだ。
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- 「鳥籠の楽園。人々が捨て、人々に残された最後の楽園、か。──見つかるといいわね」
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- 「あぁ。期待してろ」
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- 頬を打つ風を置いて、彼は去った。
- かの古き言い伝えの地を探しに。かの楽園を探しに。
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- 「ここは、羽を伸ばすには窮屈すぎるんだ」
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- 人々は鳥籠を捨て、羽ばたいた。
- だが同時、人々は鳥籠の安息を完全に捨てることはできなかった。
- めまぐるしい時と、溢れた自由。
- 無機質な街と、作られた美。
- それらに埋没できるほど、彼らは強くなかったのだ。
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- 楽園を捨ててから自由を目指して羽ばたき続けた彼らは、疲れていた。
- そして、可能性へとひたすら挑み続けた彼らは、捨てたはずの記憶を思い出していた。
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- 『鳥籠の楽園』
- 世界でただ唯一、彼らの手が及ばなかった最後の楽園。
- 永遠なる安息の地。遥かなる神々の地。
- もう誰にもその確証はない。
- もう誰にもその在処は分からない。
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- だが、誰も羽ばたき続けることはできないのだ。
- どんな屈強な鳥でさえ、永遠に飛び続けることはできない。
- 広げた羽を閉じる勇気も持たねば、二度と高度は上がらない。
- 再び籠に入ることを恐れるか?
- 籠に入り、自由を奪われることを恐れるか?
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- 否。
- 籠に入り、痛んだ翼を癒し、そして── もう一度飛べばいい。
- もう一度自由を求めて羽ばたけばいい。
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- だからこそ、再度の飛翔を厭わぬ勇気ある者は、その翼の向きを変える。
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- 自由から、鳥籠へと。
- 奥底に眠る記憶を辿り、彼らが帰るべき故郷へと。
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- 時空のどこかに隠された楽園。
- 目を閉じれば鮮やかに甦る、母なる大地。
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- THE END
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