冷笑主義 中編

 ─ ジェノサイド ─

3.クルースニク・ユニヴェール




 時はさかのぼり十三世紀の黎明れいめい
 第四回十字軍遠征は失敗に終わり、イングランドの獅子心王(ザ・ライオンハート)・リチャード一世は世を去った。
 一方フランスの尊厳王(オーギュスト)・フィリップ二世は力を伸ばし、リチャードの後を継いだジョン王からフランスにおけるイングランド領をほぼ占領。そのジョン王はカンタベリー大司教の任命を巡って、時の人インノケンティウス三世から破門され、国民からは大憲章(マグナカルタ)を突きつけられていた。
 そしてその影では後の神聖ローマ帝国皇帝、鬼才フリードリッヒ二世が静かにドイツ王の冠を身に載せる──。

 教皇の世界を照らす燦然さんぜんたる権威と、その世界の片隅から一歩一歩着実に強大化していくフランス王国。
 全ては彼ら自身が成した所業の結果なのだと、歴史には刻まれよう。
 混沌たる世界を白き影となって滑り暗躍していた者がいたと、誰が知ろう。
 だが、彼らを所有していたがために教皇は太陽となり、彼らのひとりがフランス貴族出身であったがためにフランスもまた含み笑いを絶やさずいられたのである。
 “悪魔のクルースニク”
 規則破りで奔放な、そして脅威の力で好き勝手していた彼らは、そう呼ばれた。



◆  ◇  ◆



 ローマの片隅、コンスタンティヌス帝建立の格式高きサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂。そこは、清浄なる白に彩られた代々の教皇が座するカテドラルだ。
 市民や巡礼者たちはその恩恵を授かろうと足を運び、各国の権力者たちはいつかこの聖堂を掌中にしようと、ひざまずきながらも野心を持って見上げる。そして仰いだ瞬間、その自身の野心に戦慄を覚えるのだ。恐ろしい目的を胸中に秘めている興奮と、神の代理人を屈服させようという背徳。激しい感情の炎が身の内で燃え上がり、我こそが次に世界を照らす者なりと声高に叫びたいくらいの雄々しさを手に入れる。
 しかし時を置いて彼らはもう一度戦慄する。
 神に頭を垂れた瞬間、その炎は、寄せてきた波に洗われて消えてしまうからだ。
 神聖な聖堂に流れる耳には触れない言葉と歌とが、彼の身体から熱く赤いきらめきを奪い去ってしまう。そして代わりに白い砂で創られた永遠の地平が茫漠ぼうばくと胸に広がるのだ。
 たける精神は、いつの間にか簡単に静められてしまう。
 神を信ずる限り抗えない、それが世界の中心だった。
 インノケンティウス三世という強大な教皇が君臨する、聖域。

 そんな由緒正しい地下の一室に、ひとりの男が囚われていた。
 敬虔な市民たちは場所の存在すら知らなかったろうが、いつの時代にも世界は秘密と神秘と隠蔽で満ちている。


「記念すべき1001回目だな」
 ソテール・ヴェルトールが扉を開けると、囚われ人が中からそう言ってきた。
「記念パーティは1000回目でやった」
 後ろ手に閉めて応じると、
「1000回は大台に乗った記念。1001回は1000という縛られた数字を打破した記念に決まっているだろう」
 囚人はふてぶてしい態度で両足をテーブルの上に投げ出したまま、ソテールを見ようともせずに屁理屈をこねてくる。
 冷え冷えとした銀髪、塵埃じんあいのない斜に構えた蒼眸、とんがった顔つき、白い外套(コート)を羽織った長身。
 物の言い方が常人よりも横柄で無駄な余裕がありすぎるのは、彼がフランス貴族の血をひいているからだろうか。
 名はシャルロ・ド・ユニヴェール。

 地下謹慎処分1001回の重罪人である。
 もちろん、反省などしているわけがない。
 自宅謹慎など無意味だと悟ったお偉いさん方が苦肉の策として編み出した、地下室に閉じ込める“地下謹慎処分”なのだが。

 変化のない白い壁、磨かれた大理石の床、窓の無い密閉空間。
 絵画のひとつも花もなく、あるのは一応ふかふか豪奢な寝台と、レースのクロスがかけられたテーブルがひとつ、木製の洒落た椅子がひとつ。
 調度はそれだけだ。
 こんな殺風景な部屋に閉じ込められたら、常人は発狂する。
 人間は、刺激がありすぎると卒倒し、なさすぎると逆に狂うという、なんともわがままな生き物なのだ。
 しかしそれもこの男には通用しない。
 ソテール自身にも。
「それで、どうしたんだ? ソテール。貴様も一緒に地下謹慎だったろうに。むやみに出歩くと、貴様だけ先に1002回を更新してしまうじゃないか」
 脱走常習犯の蒼い目が、ようやくソテールを見た。
 二日ほどここに入れられているはずなのだが、飽きた様子は微塵も無い。
「お前、何を考えてた?」
 ソテールはユニヴェールの問いには答えず、返した。
「アスカロンを見つけた時のことさ。あれは傑作だっただろう?」
「あれか……街中、ローマの兵に追い掛け回されたんだったか。何せ犯人隠匿だからな」
「だが私の目に狂いはなかった」
 アスカロンというのは、あるクルースニクの名だ。
 普通クルースニクは、家系やら各地教会の紹介状やらで採用されるものなのだが、アスカロンの場合は違う。
 彼は孤児のようだった。
 貴族の持ち物を盗んだという罪で逃走しているところを、偶然通りかかったユニヴェールが見つけた。何を思ったかユニヴェールは、あの饒舌で追っ手を言いくるめ、青年を拾った。それだけの話だと思っていたのに、言いくるめたはずの追っ手がすぐ枢機卿に告げ口したのだ。
 おかげでローマ中を警備兵に追い掛け回され、当の貴族に怒鳴り込まれ、枢機卿には嫌味を言われ、始末書を書かされ、アスカロン関係では散々なメにあったのだ。
 しかしアスカロンの才、その伸びと鋭さは他の安穏あんのんとした育ちのクルースニクを遥かに凌ぎ、誰もが黙らざるを得なくなった。
 ユニヴェールとふたりしてざまぁみろと笑いあったのは言うまでもない。
「それで、ソテール隊長殿。そんな笑い話をしに来たんじゃないだろう? いい加減本題を話したらどうだ?」
 言われて、ソテールは扉から背を離した。
「ユニヴェール、脱走することに異論はあるか?」
「ない」
 間を置かずに返ってくる歯切れよいテノール。
「フランスへ行くぞ」
了解(ダコール)
「……理由くらい聞け」
「そんなもんどうでもいいだろうが」
 白の相棒はヒラリと足をテーブルから降ろし、立ち上がった。
 一仕事終えたように手を払い、支度は出来たと言わんばかりに真顔で指を一本立てる。
「こんなとこに閉じ込められていたら色々考え過ぎて今以上に頭が良くなってしまうだろ。あんまり賢いのも困りものなんだよ。第二のソクラテスになりかねん。理由より何より、ここから出ることが大切なのだ」
「謹慎令も一応刑罰としての効果はあるわけだ」
「お偉方に告げ口するなよ」
「もちろん」
 ソテールは軽くうなずき、斜め上を見た。
「──問題は脱出の方法だ。性懲(しょうこ)りも無く何人か見張り番がいるはずだが……」
 ユニヴェールも同じ方向を睨みやってくる。
「緊急令だと嘘を付いて逃げ出すのは五日前にやったしな」
 それが失敗してまたここに逆戻りしたわけだ。
 ふたりとも、自分の邸宅にいるよりここに閉じ込められている方が多いかもしれない。
「……ここはやはり」
 ユニヴェールがぽんと手を打つ。
 ソテールが蒼い目をやると、彼もまた蒼い視線を水平に動かしてくる。
『強行突破』
 見事に唱和した。



 静寂と清浄の象徴、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂。
 そこから軽やかに駆け出てくる姿はふたつ、それを追うのは神父数人と槍を構えた衛兵の集団。
 数十という靴音が石畳を叩き、罵声と怒号、そして悲痛な懇願の声がローマにこだました。
「ヴェルトール隊長! ユニヴェール卿! お戻りください!」
「貴様ら何ぼーっとしてたんだ! 早くやつらを捕まえろ! また教皇のお叱りを受けたいのか!」
『あのふたりに勝てるわけありません』
「そんな弱気なことでどーする!」
「ヴェルトール隊長! ユニヴェール卿! 今度こそ私の首が飛びます〜〜!」
「早く追え! 奴等をローマから出すな!」
 だが衛兵隊長の叱咤空しく、相手には助っ人が現れた。
 二頭の白馬を連れた、三人のクルースニクである。
 三人ともシャルロ・ド・ユニヴェールの拾い子で、今では数いるクルースニクの中でも突出した実力を有する彼の忠実な部下だ。
「あの三馬鹿トリオ!」
 馬を得た二匹の白いクルースニクはひと蹴りで飛び乗り、こちらを振り返ってニヤリと笑う。ご丁寧に全く同じ口端の角度で。
「ヴェルトール! ユニヴェール!」
 神父たちの悲しげな叫びは慣例の見送り文句。
 馬はいななき、咎人はローマの街へと紛れ込んで行く。
 枯れることを知らない永遠の都へと。
「シャムシール〜、フランベルジェ〜〜、アスカロン〜〜〜!」
 衛兵隊長はわなわなと手をふるわせ、腰の剣を抜いた。
 その視線の先には、クルリとまわれ右をしさっさと逃げようとしている三匹のクルースニク。
 彼は切っ先をビシッと向け号令をかけた。
「今度は奴等を追え────!」



 砂塵が風に消え、喧騒も遠くに去った聖堂の前。
 残された司祭は石畳に落ちていた投げナイフを拾い上げた。
 ヴェルトール、ユニヴェール、ふたりのクルースニクが逃走するため衛兵たちに放った武器だ。
 疲れの混じったため息と共にまじまじと見れば、ひとつに刻まれているのは黄金の竜の紋。
 それはクルースニクの頂点に立つ家だけが許される紋章であり、現在の所有者はソテール・ヴェルトール。
 そしてもうひとつには、黒で描かれた烏揚羽(カラスアゲハ)の紋。
 それは代々クルースニクを輩出しているフランスの名門ユニヴェール家の紋章であり、この聖地に集う聖なる者の中でも、不気味な風をまとった一族。
 遠巻きに、神父たちが彼を見ていた。
 いや、見ていたものは彼の手にある畏るべき落し物だったのだろう。
 翼ある竜、黒の蝶。
 第四回十字軍の遠征に失敗してなお権力を手にし続ける男、教皇インノケンティウス三世。
 その座を支えているのは、そのふたつの紋章に他ならなかった。

 教皇は太陽、皇帝は月。
 そんなことを豪語できたのも、あのふたりが教皇の手元にあるからだ。
 欠けてはいけない。紋章だけでもいけない。紋章を身に帯びた、ソテール・ヴェルトール、シャルロ・ド・ユニヴェール、共に歴代最強と呼ばれるふたりがいなくてはならない。
 ある意味それをそろえられる運を引き寄せたインノケンティウスもまた常人ではなかろうが……。

 だがこの時誰が知ろう。
 以後、ふたつの紋章はもう誰にも受け継がれないのだ、と。



◆  ◇  ◆



「で、なんだ?」
「なんだ、とは何だ?」
「我々が脱走した理由」
「あぁ」
 後ろへ後ろへ風に乗り流れてゆく田園風景の中、思い出したようにユニヴェールが訊いてきた。
 ヒマだからとりあえず、といった調子で。
「フランスがな、アスカロンを通じて私的なお願いをしてきたわけだ。王女サマを救ってほしいとのことだ」
「……王女?」
 間を置いて、怪訝そうなユニヴェールの顔がこちらを向いた。
「マルグリート」
 名を告げても、その顔は口を曲げて柳眉を寄せる。
「その女は生まれてすぐ死んだはずだ。魔女だとかなんだとかで、教皇が死刑を命じた記憶がある」
 突っ切られた風が耳元で抗議してくるが、隣りを駆けるユニヴェールの声だけは何故かはっきりと聞こえてきた。
 叫んでいるわけでもないのに、得な声質だ。
 そんなつまらない特技が羨ましいわけでもないが、嫌味のひとつも言いたくなる。
「だから私的なお願いなんだろうが。頭を使えユニヴェール。閉じ込められて腐ったか?」
生憎あいにく、私の頭はそんなつまらないことを考えるためにあるのではないのでね。しかし、とすると、国王フィリップは王女マルグリートを処したと偽ってどこかに匿っていたわけだな? 美しい親心ではないか。──そして、その王女が人間では(ぎょ)しきれぬ誰かに狙われている、と」
「暗黒都市の王、吸血鬼シャルル・ド・アルシュ。ご丁寧にお迎えの日時まで書いた書状を送りつけてきたそうだ」
「ほぅ」
 ユニヴェールの双眸が糸のように細まり、その奥で光る。
 彼の蒼い目は、時々こうした異様な湿った色を帯びることがあった。地獄を流れるステュクス川の黒々とした水面を思わせる、救い難い色。
「一度会ってみたいと思っていた」

 シャルル・ド・アルシュ。
 それは数年前からフランスを中心として散発的な事件を起こしている吸血鬼の名だった。
 銀色の髪、紅の目。氷雪の如く怜悧な老紳士。冥界の混沌を織った黒衣をまとい、獲物に印をつけてはエサとする。
 印をつけて予告することにより厳重になった警備を潜り抜けることを楽しみとしている節があり、それでも現場に残るのは喉を裂かれた蒼ざめた死、のみ。
 予告をされた者が生き延びた例は、まだない。
 首を落とそうが杭を打とうが、古典的な手法では滅ぼすことができない、不滅の吸血鬼。
 もちろん教会からもクルースニクが派遣されたが、帰還する者はいなかった。
 だが事件がフランスの国境を越えることはなかったため、上層部ものらりくらりと傍観に徹しており、「うちの精鋭は忙しい」の一言でユニヴェールもソテールも動かされることはなかったのだ。

「会ってみたかった」
「…………」
 ぽつりと繰り返して前を見据える相棒の目に、過去が映った気がした。
 凝視していたこちらの視線に気付いたのだろう、ユニヴェールがフッと笑ってくる。
「名前が一文字違いだものな」
 過去は、気のせいだった。



◆  ◇  ◆



 後に尊厳王オーギュストと崇められるフランス国王フィリップ二世。
 好敵手(ライバル)として並び称されたイングランドのリチャード一世が没して十数年、その後継ジョン王から広大な領土を奪い返した覇王。
 王領を広げ、官僚の整備も行なった、内政にも長けた傑物けつぶつ
 だがそんな偉大な男も、ただの父親であった。

「どこでどのような策が弄されたのかは知らぬが、我が姫を魔女などと予言し教皇に吹き込むとは!」
 美術品としてではなく戦いにおける要塞として造られたのだろう、南フランス、アヴィニヨンのほど近くに建つ名も無き堅牢な城。
 武骨な石廊を渡りながら、ソテールは国王をなだめた。
「今の教皇の権力は絶大です。少しでも気に入られれば地位も名誉も保証される。そういう時代ですよ。嘘を並べてもその隙間に入ろうとする輩は多いものです」
 しかし王は腕組みをして笑いながら嘆息。
「教皇の力がここまで大きくなったのも、お前たちがアイツの肩を持つからなんだがな」
 壮年をやや過ぎたかげりはあるものの、かつての名将たる威風は衰えていない。豪快なイングランド元国王リチャード一世に比べ、この王はいささか細かく、策略家の性質を備えていた。だからこそ、フランスは教皇に首を押さえられながらもその介入を必要最小限に留められていると言える。
「私は教皇の手下であると同時、陛下の手下でもありますがね」
 後ろでユニヴェールがケラケラと笑いながら口を挟んできた。
「陛下の横で道理の分かったフリをしている男は、正真正銘教皇に魂を売り渡した輩ですよ」
 だがソテールは無視した。
「陛下。お守りすべきはマルグリート王女と聞きましたが」
「左様。魔女と予言され、火刑を命ぜられた我が娘だ」
「予言された子供!」
 国王の苦渋を一掃、ユニヴェールが声高に言った。
「予言はあながち嘘ではありませんよ。ただ、白か黒かの大きな間違いがあるのですがね。予言された者の半分は優秀なクルースニクであるのに、魔の烙印を押されて殺される。だからローマはいつまでたっても暗黒都市を滅ぼせない。私のフランベルジェも、魔女裁判にかけられて危うく殺されるところでした。今となっては優秀なクルースニクであることを疑う者はいませんが」
 投げかけられた日暮れの陽射しが三人それぞれの長い影を創る。
 黄金の光が世界の輪郭を輝かせ、目に映るすべてをシルエットに変えていく。
 肌寒い風が抜け、木々が葉ずれの音を立てた。
「ソテールも──」
 ユニヴェールが細い指を顔の横でクルクルと回す。
 彼の影も律儀にそれを真似る。
「私も、一歩間違えばすでにこの世にいなかったかもしれませんね」
 橙色に染まった小さな街を見下ろす石廊に、沈黙が落ちた。

 理不尽だと、不条理だと、言うことは容易い。
 だがすでにそうやって動いている歯車のどこを壊せばいいのか、分からない。あるいは分かっているが気付かないふりをしているのかもしれなかった。
 歯車を壊すのでは駄目だ、機械そのものを壊さねば……、と。
 教皇に楯突つくなど生易しい。
 革命など所詮は箱庭の惨事。
 いっそノアの箱舟の如く──。

「国王陛下」
 沈んだ静寂が落ちていた石廊に、突如抑揚の無い女の声が響いた。
「お部屋のお支度が整いました」
 メイドだった。
 さすが国王付きなだけあり、美しい金髪に大きい目をした可愛らしい顔立ち。
 しかし彼女はメイドと称するには、決定的な何かが足りなかった。
「それでは」
 女は客人に微笑みもせずきびすを返す。
 その姿が奥に消えてから、国王が苦笑を浮かべながら言った。
「愛想がなくてすまないね。あれが我が娘──マルグリートだ」



◆  ◇  ◆



 ヨタカの連続した鳴き声、時折挟まれるフクロウの鳴き声、それ以外何も聞こえぬ森の夜。
 雲は薄く、月は白々と輝く。
 その闇を斬り響くのは、軽快な剣の音。

 長い間使われなかった古城の一室には火が入り、ふたりのクルースニクが余興と称して剣の打ち合いをしていた。
 上に、下に、突いては引き、払っては踏み込む。
 三歩下がっては打ち込み、右へ左へ、強く、弱く。
 合図の一手でひらりと入れ替わる。
 ひるがえる白い外套、違いは袖口に描かれた、裾を縁取り刺繍されている紋章のみ。
 ひとつは黄金の竜。
 ひとつは漆黒のカラスアゲハ。

『…………』

 一際高い金属音が響き、ふたりは間合いを取った。
 見計らったように声がかかる。
「お見事です」
 テーブルの向こうでこちらを眺めていたメイド──違う、王女だった。
 全くもって心動かされていない様子でぱちぱちと手を叩いている。
「光栄です」
 横ではユニヴェールが慇懃いんぎんに礼をしていた。
 とりあえずソテールもそれに習う。
 が、そんなことをしていたせいで相棒の口をふさぐのが遅れた。
「剣を握ったことはおありで?」
「いいえ」
「おや、そうですか。他の姫君たちとは違うお育ちのようでしたから、てっきり」
「メイドはやりますが衛兵も剣士もやりませんの」
「それは──」
「その方がいいですよ、姫」
 ソテールはユニヴェールの機先を制した。
「メイドは人々のためになりますが、余計なことやらかして大目玉喰らったり地下室に放り込まれている剣士や領主は百害あって一利なしですからね」
 失礼なことを言いまくる前に黙らせておいた方がいい。
「…………」
 だが見やればユニヴェールはどこ吹く風で欠伸あくび
 ところがその左手は外套の上から鞘を押さえる形にあてられている。
 すぐにでも、抜けるように。
「吸血鬼シャルル・ド・アルシュとは私も聞いたことがありますが、何故私なんでしょうね」
 相変らず危機感のない間延びした調子でマルグリートが首を傾げた。
 茶器を持つ手は華奢で白く、さすがに王女の格好をしていれば王女らしい。
 棒読みな台詞に目をつぶれば。
「エサにするとしても、もっとお美しくて有名な方がたくさんいらっしゃるのに」
 ソテールが察するに、彼女の言葉は謙遜でない。
 地だ。
 彼も帯剣した左腰に手をあてたまま、
 「人間よりも吸血鬼の方が慧眼けいがんだと言うことでしょう」
 笑う。
「……魔女だからだろうが」
 ぼそっとつぶやいた隣人の足を笑顔のままダンッと踏みつける。
 そして次瞬、笑みを消した。
「ユニヴェール!」
 ソテールは鋭く叫んで紅絨毯を蹴り、王女の背後に降り立つ。
「任せろ」
 低い声が応え、白い影が舞った。
 銀剣が一閃二閃軌跡を描き、部屋の隅の影から現れた食屍鬼(グール)の首を刎ねる。
「手下を連れてきたか」
 ソテールが自らの影に剣を突き刺せば、絨毯には赤黒い染みが広がった。
 部屋に漂う腐った血臭。
 慣れているとはいえ気持ちの良いもんじゃない。
 異形の襲来に表情ひとつ変えなかった王女も、ムスッと顔をしかめている。
 しかし火がある限り、月がある限り、影が失われることはなく、暗黒都市の魔は底なしに湧きあがってくるだろう。
「伏せろ!」
 格子のはまった窓。
 ユニヴェールの警告と同時、前触れなくガラスが割れた。
「……外に」
 砕けた窓に長身を寄せて下を見下ろし、ユニヴェールが舌打ち。
 その間にも彼の影からは獣の爪が伸び、魔物の腕が伸び、銀剣は閃く。
 ソテールは王女の背を押し部屋の中央へと移動した。
 後ろから振りかぶられる大鎌をひと払い、返す刃で絨毯の上にはカタカタと笑い声を上げる骸骨が崩れ落ちる。
「なるほど。総動員だな」
 格子越しに見える窓の外の黒い森。
 月の光に照らし出された遥か彼方の山の上まで、無数の鬼火が煌めいていた。
 先刻までの静寂を引き千切る、不気味な咆哮。
 どっとあがる奇声に、槍の穂を合わせる音、下草をかきわける骸骨兵士たちが大地を踏み鳴らす足音。
「王女ひとりに山狩りか」
 ソテールがつぶやくと、
「墓場がひっくり返ったみたいだな」
 ユニヴェールがニヤニヤ笑ってこちらを見る。
「どうだ、怖気おじけづいたか? 隊長殿」
「いーや。腕が鳴るね」
 暗黒都市の王、シャルル・ド・アルシュ。
 向こうが真正面から挑んできたのだ、ここで叩きのめしてやることほど楽しいことはない。
 怖いものなどなかった。
 教会も、魔も、死も、未来さえも。
 本気で剣を取ることなどなかった。
 ふたりいれば。
「お前は外、俺は中」
了解ダコール
 ユニヴェールが大仰な仕草で剣を掲げ、月光注ぐ窓に向かって構えた。
 人間相手ならばともかく、魔に格子など意味は無い。

 そしてソテールも王女を背後にかばい、部屋の扉に向かって聖剣を構えた。
 ガシャガシャと、鎧に兜、篭手こて、槍、剣。触れ合う鉄の音を響かせて、暗黒都市が石階段を駆けてくる。
 散々仲間を灰にした、憎き二匹のクルースニク。
 その首を取ろうと息巻いて。
「──来るぞ」
 外側から軍団の体当たりを喰らい、木製の扉が悲鳴をあげてしなった。
 遅れてユニヴェールが身をひるがえし、王女の影を薙ぐ。
 闇をつんざく断末魔と、扉が砕ける音はほぼ同時。
 窓からは黒い魔の影が無数の虫のように、扉からは錆びた防具で着飾った骸骨・食屍鬼の群れがなだれ込んできた。
 二つの白い始末人は、一太刀で数匹を薙いでゆく。
 軽いステップとは裏腹に一撃必殺。
 彼らに“防御”のひと振りはない。
 ソテールの頬に一線、鈍い痛みが走り血が流れてゆく。だが、相手の斬撃もろともひたすらに斬る。
 腐敗した肉を断ち、骨を砕く衝撃が腕を伝った。
 粉々になった白片が散り、墓場の湿った空気が肺の奥まで入り込んでくる。
「何故──」
 ソテールは骸骨兵士を蹴り飛ばしながら、背後で王女の声を聞いた。
「何故、魔物はあの人を目指しているのです?」
 手が、止まった。
「──っ!」
 敵の錆びた長剣ロングソードで思いっきり胴を叩かれ、我に返る。
 再び剣を振るえど、思考は止まったままだった。
(何故だ?)
 本来ならば──、魔物は王女に向かってくるはずだ。
 王女、それを守るソテールを流れの終着点として目指して来るはずなのだ。
 その量を少しでも減らしてゆくのがユニヴェールの役目ではないか。

 だが現実はどうだ。
 何故か本流はユニヴェールへと向かい、ソテールが削っている。
 兵士たちはソテール、王女を障壁とみなし、彼らの空虚な眼窩がんかは窓辺で剣を振り回しているクルースニクを見ているのだ!

 ソテールは月の光が部屋に入り込んでいることを確認し、
 瞬時一点集中、
「──光あれ(フィアット・ルクス)
 唱えた。
「早いな」
 ユニヴェールが不機嫌に言ってくるが、無視。
 ソテールの力ある言葉に呼応し、夜に浮かぶ氷輪の光は無数の刃となって暗黒都市の死せる軍団を貫いた。
 闇にとって光は滅びと同義。
 意志ある光の槍は冷たく容赦なく。
 美しい驟雨しゅううは冒涜された死を根こそぎ浄化する。
 部屋は、森は、一瞬にして静まりかえり、尾を引く奇声をひと吠え、軍団は灰と消えた。
 一拍遅れて鎧、篭手、剣、彼らの鉄屑が次々重い音を立てて崩れ落ちる。
 死の饗宴繰り広げられていた墓場が、鶏の一声、一条の朝陽によって元の姿へと戻る如く。
 圧倒的な力でもって、闇は月の前にねじ伏せられたのだ。
「──光」
 王女の吐息もまた気圧されていた。
 剣ではなく、魔を浄化する才でもなく、光そのものを武器とする。
 それこそがソテール・ヴェルトールがクルースニクの頂点──黄金の竜を背負う証だった。
 ローマにおいてただ一人、彼だけが出来る技。ユニヴェールでさえも、不可能な奇跡。
 それが“真なるクルースニク”。
「伝家の宝刀、そう何度も抜けるものではなかろう? 雑魚ざこ相手に何やってる」
 ユニヴェールが不満げに剣の切っ先をこちらに突きつけてくる。
「キレたか? ソテール・ヴェルトール隊長」
 ヴェルトール、ヴェルトール、ヴェルトール。
 “ユニヴェール”がフランスの切り札ならば、“ヴェルトール”はローマのエースだ。
 元々はドイツの家系だったというが、詳細は不明。
 唯一“光”を操ることのできる家系として、今はカトリック教会の中に埋め込まれた家名である。
 不気味な名門ユニヴェール家がどれだけ手を伸ばしても、ヴェルトールの名が持つ“光の才”にだけは届かない。
 ゆえに、クルースニクの頂点は必ずヴェルトールなのだ。本来個人に与えられるべき黄金の竜は、ヴェルトールの家紋も同然。
 そしてその実態は教会生まれの教会育ち。
 現に、ソテールもローマで生まれローマで育った。
 物心ついた時すでにクルースニクとして剣術を仕込まれていたし、接してくる大人は異様に丁寧な言葉遣いの神父か枢機卿。
 ……それがどうして、いい年して地下室に放り込まれるような人間になったかと言えば、
「そういうのはだな、シャルルという老いぼれが現れた瞬間有無を言わさず消し飛ばすって具合に使うんだ、馬鹿」
 ユニヴェール家の後継者としてローマに乗り込んできた、この男が原因かもしれない。
「お前は、気付かなかったのか?」
 ソテールが突き放すと、
「何に」
 ユニヴェールは何が言いたいのかサッパリ分からないという調子で肩をすくめてくる。
「あいつらは、お前を狙ってただろうが」
「……は?」
 銀髪の下で、蒼眼が開かれる。
 だがそれが演技だと、ソテールには分かっていた。
 そういう時のユニヴェールの目には表情がないのだ。一切が殺されている。
「お前、何を知ってる」
「何も」
「──嘘はいかんな」
 二人の会話に突然割り込んだ声は、ユニヴェールのすぐ後ろからした。
 彼は驚愕あらわに飛び退すさる。
「シャルル・ド・アルシュ」
 ソテールが念押しのように言うと、相手もまた確認するようにうなずいた。
「お目にかかれて光栄だ。黄金の竜、ソテール・ヴェルトール」
 窓辺に、初老の吸血鬼が立っていた。



◆  ◇  ◆



「仮にも彼は君の上司だろう。嘘はいけない」
 老紳士は諭すようにユニヴェールへ向き直る。
 黒衣に身を包み、柔和な笑みを浮かべているその男、若い頃は両手に花だったろうと思われるなかなかの人物だった。対峙しているだけで分かるのだ、器が大きい。
 シャルル・ド・アルシュ。暗黒都市の王。
 そう呼ばれるだけのことはあった。いや──そう呼ぶ以外なかった。
 強大な権力を今なお振るい続けることのできる、教皇インノケンティウス三世。
 彼と同じ“隔絶”を感じる。
 地に生きる人々と一線を画す、違い。それは過度の神性か過度の堕性か。
 何にしろ、違う。

「…………」
「君は──」
「黙れ」
 吸血鬼の言葉を遮って、ユニヴェールが剣を掲げた。
「ユニヴェール」
 ソテールが王女を背後に隠しながら声をかければ、相棒は左手で軽く制してくる。
 そして、彼は跳んだ。
 同時、アルシュがどこからともなく抜剣する。
 華麗に紡がれる金属音。
 リズミカルにくぐもった足音を響かせる、絨毯。その下の石畳。
 白と黒、ふたりの貴人はさながら国王の前での決闘の如く、月に輝く刃を打つ。
 だがその一打一閃が殺刃なのは一目瞭然。

 互いの口元には微笑、双眸は氷。
 音を立てる外套、空を斬る一撃。
 踏みにじられる灰は、めまぐるしい流れに翻弄されながら、舞う。
 手傷で終わらせる気などどちらにもない。
 生きるか死ぬか。それだけだ。

 そしてもうひとつ。王女マルグリートなど、吸血鬼アルシュの眼中にない。

「──アルシュ」
 ユニヴェールが牽制の払いを入れ、大きく後ろに跳んだ。
 降り立ったのはソテールの横。
「手を。……手の甲を、見せろ」
 息ひとつ乱していないユニヴェールが、不可解な要求を老吸血鬼に告げた。
 強い語気の割にはめた目で。
「早く」
「よかろう」
 夜の窓を背にしたアルシュが余裕の微笑を浮かべ、腕を上げた。
 白い手袋をはめた手をゆっくりとこちらに返し、甲を見せる。
「──!」
 息が、詰まった。
 ソテールは目を疑うとはこういうことなのかと生まれて初めて認識した。
 目を疑った。
 吸血鬼シャルル・ド・アルシュの白い手袋に黒く染め抜かれていたのは、羽を広げたカラスアゲハ。
 それは世にふたつとない、ユニヴェール家の紋章だった。
「……ユニヴェール」
 ソテールが相棒を見やれば、月光に浮かぶ彼の表層には軽薄な笑み。
 面白がっている。
「シャルロ・ド・ユニヴェール」
「はい?」
 アルシュに──否、かの紋章を身に帯びている限り、この吸血鬼はシャルル・ド・ユニヴェールと称されるべきなのだろう──正真正銘一文字違いの男に呼ばれ、クルースニク・ユニヴェールがおどけて片眉を上げた。
 対して老吸血鬼の声音には熱がこもり、紅の双眸には悲哀、慈愛、憎悪、羨望、嫉妬、複雑な色が入り混じる。
 まともそうな顔に狂気の赤味が差す瞬間ほど、気味の悪い時はない。
 この吸血鬼の紅にもまた、地獄の川が流れていた。大河ステュクスから別れる嘆きのアケローン、忘却のレテ、そして火の川(プレゲドン)氷の川(コーキュートス)。生者と死者とを隔てる厚い暗雲を抱くくらく壮大な水の流れ。
「お前は、天性至高のクルースニク」
 確かに、ソテールの相棒は歴代のユニヴェール当主の中でも群を抜いた才があるとされていた。剣の技量は努力の末の結果としても、聖剣のひと振りで名のある魔物を葬りされるのは、剣術の腕を磨いたからではない。クルースニクとして生まれ持った力だ。
「そしてお前は──重ねられた血により欠点のなくなった最強のダンピール。親だけではない、あらゆる闇をその剣ひとつで“滅ぼせる”」
 ……ダンピール。
「シャルロ・ド・ユニヴェール。我が呪われた一族の最高傑作!」
 蒼ざめた月の明かりしかない部屋に、無言の風が吹き込んだ。
 風さえも音を立てることをためらったのだ。
「こうしてフランスを騒がせていれば、いつかお前がやってくるだろうと思っていた。一目見ておきたくてね」
 暗黒都市の王。
 そう囁かれる男が笑った。
 ソテールの背に悪寒が走った。
 だが、
「それはそれはご慧眼をお持ちで。私としたことが浅薄にも罠に落ちたというわけですね」
 当のユニヴェールは冷ややかに呵々(かか)と笑う。
「いつだって今を生きる者は、先人の知恵に敵うはずもない、と」
 彼の背負った白い外套もまた冷たく。
「ま、そういうものでしょうねぇ? 父上」



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アルシュ:arche(仏)→ノアの箱舟 英語でいう「アーク(ark)」
※フィリップ2世の王女が魔女呼ばわりされた事実はありませんので。あしからず。



校正時BGM Thomas Bergersen[Dreammaker] The Matrix Revolutions[Navras]
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