冷笑主義:失刻編
【シノンの森に死す】
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「ユニヴェール! いないのか!? ユニヴェール! いるのは分かってるんだ開けろ!」
ソテール・ヴェルトールは宿舎中に響き渡る大声で叫びながら、扉をガンガン叩いた。
凍えた朝の空気に息が白い。
「ユニヴェール! 出て来るまで喚き続けるからな、俺は。ユニヴェール!」
さらに扉を叩こうと拳を振り上げたところで、
「うるさい」
扉が小さく開く。部屋の主が顔だけ出した。
寝起きだったのか、普段は乱れひとつない銀髪があちこち跳ねている。
「家名で呼ぶなと何度言えば分かるんだ貴様は」
「仕事だ、行くぞ」
不機嫌極まりない男の声を無視し、ソテールは告げた。すると、
「そうか……頑張れよ」
乾いた激励と共にぱたむと扉が閉められた。
「…………テんメェ」
取り付く島もない。
ソテールはひとつため息をつき、扉に手をつき、
「行き先はシノンだ。俺は昼過ぎに発つ。来たければ来い。来たくないなら来なくていい。今回は──嫌味なカリスがいないから羽を伸ばせるかもな」
扉の向こうの男に向かって言う。
──と、
「!」
次瞬、彼は身を反らせて抜剣した。
刹那、廊下に響く木片の破砕音と澄んだ剣響。
ソテールの聖剣が額の前で防いでいたのは、扉を破り突き出された剣の切っ先。
部屋の主が、うるさい使者を黙らせるための実力行使に出たのだ。
何の警告もなく。
「……あのなぁ」
彼は剣を下ろし自分の黒髪に手を絡め、もう一度嘆息した。
「俺じゃなきゃ死んでるところだ」
「…………」
部屋の中から答えはない。
剣を扉に突き刺したまますでに寝台へもぐり込み寝坊を決め込んでいるのか、それとも単に無視されているのか。
こんなんだから、この男のところには誰も伝言を持ってきたがらないのだ。
「フン」
ソテールは扉の下方を蹴っ飛ばすと、そのまま踵を返した。
「まだフランス貴族気取りか」
あの男がデュランダルに入って一年……いやそれ以上か。ともかくかなりの月日が過ぎた。それなのに彼は未だに浮いていた。剣技は見事なものだし、クルースニクの素質だって申し分ない。けれど彼は執拗なまでに自分と他人とを分けていた。
「ったく」
羽織った白外套が揺れ、誰もいない廊下に彼の靴音だけが時を刻む。
季節は冬の入り口。
彼は宿舎を出ると、まだ僅かに夜が残る灰色の空を見上げた。雲は厚く、重い。
「誰があんな奴デュランダルに入れたんだ?」
◆ ◇ ◆
時は十三世紀の黎明。
それは異例の若さでセーニのロタールがインノケンティウス三世として教皇位に就き、権力を奮い始めていた頃。
後の皇帝フリードリッヒ二世はまだ幼く、少年はドイツの王座を叔父であるシュヴァ−ベン公に譲り渡し、シチリア王の冠だけを戴きながらインノケンティウスの掌中に納まっていた。
しかし一方、王妃との離婚問題に決着のついたフランス王フィリップ二世と、獅子心王リチャード一世の跡を継いだイングランドのジョン王との間で領土問題が表面化。ブルターニュやアンジュー、アキテーヌといったフランスにあるイングランド領をめぐって鋭い火花が散っていた。
「ユニヴェール卿はいらっしゃらないのですか?」
「さぁどうだろうな」
「…………」
ソテールの投げやりな言葉に、案内役だという聖騎士見習いが馬上で眉をひそめた。
「気難しいんだよ、お貴族様は」
吐き捨てるように付け加えてやる。
一方的に告げた昼を過ぎても、出立の門にあの男が現われる気配はなかった。
雲に呑まれる薄ぼやけの太陽を見ながら、クルースニクは大きく深呼吸をする。
「行くか」
「しかし──」
「デューイ」
言いかける若者を制して、彼は首を振った。
若者の名はリカード・デューイ。
国境も何も関係ないはずのクルースニクだが、それでもある程度の配慮はする。今回赴くシノンはフランスの地とは言え実際にはイングランド領であるから、イングランド出身の供が付くのだ。
真っ直ぐな金髪を後ろで結び、鮮やかな碧眼をこちらに向けている若者。見習いの名にふさわしくまだ華奢な体躯だが、その代わり全身から恐いもの知らずの生気が溢れている。
少年といってもおかしくない、中性的な顔立ち。
自分とそれほど歳が離れているわけでもないのに、その危うい華やかさが異質のものに感じられて……あまり直視していられない。
ソテールは目を伏せて言った。
「ひとりで行って困るような問題でもないだろう。それに今はイングランドとフランスが領土でもめている。こんな時にあんなフランス貴族然とした奴がイングランドに足を踏み入れたら、逆に厄介なことになりかねない」
「ですがソテール隊長──」
「しかもあの男はそういう所に限ってひっかきまわしたがるんだ。大人しく宿舎で寝ててくれた方がヴァチカンのためで俺たちのためなんだよ」
「あぁそうかい」
「…………」
無機質なテノールが背後から聞こえた。
「……ユニヴェール卿はお見えになりました…よ……」
デューイの控え目な報告。
「…………」
ソテールは苦虫を大量に噛み潰して振り返った。
そこにいたのは、白い葦毛の馬が微妙に似合っていないひとりの男だった。
フランス貴族かつ新参クルースニクのシャルロ・ド・ユニヴェール。
冷たい銀髪、底のない蒼眸、鋭利な顔貌、雪を織ったような白外套──これだけ冬に同化した寒々しい人間も珍しい。ちなみに歳はソテールよりも一つ下。
どうやら愚痴を言い過ぎて、近付いて来る蹄の音にも気がつかなかったらしい。
「ユニヴェール」
つぶやくと、男がキッと眼を光らせた。
「シャルロ」
言い直すと元に戻る。
「お前、行くのか?」
「隊長殿にはご迷惑かもしれないが、行くことにした」
「それまたどうして。朝は思いっきりご機嫌斜めだったじゃないか」
「面白そうだからさ」
ユニヴェールが外套の中から数枚の羊皮紙を取り出してひらひらと振ってくる。
おそらく今回の依頼人の情報が書かれているのだろう。
……いつの間に集めたのか。
「まっとうじゃない仕事は得意なんだよ」
ソテールの疑問を汲んだかのようにユニヴェールが胸を張る。
「まっとうじゃないのは仕事とは言わないんだ」
「シノンの森の深窓で育てられた麗しの姫君。しかし寂しさのあまりか、彼女は魔物に恋をした。魔物も応えて彼女を闇へと誘う。心囚われた姫君を護るため、父君兄君、そして幼馴染までもが剣を持ち、そして我らデュランダルも馳せ参じる。いざ魔物狩りへ!」
ソテールの反論を黙殺してユニヴェールが依頼の概要を歌い上げた。朝とは打って変わってすこぶる機嫌がよさそうで、舞台に立った進行役の役者の如く空に剣を掲げてとても楽しそうだ。
そしてその横ではデューイがぱちぱちと拍手している。
ソテールはこめかみに手をやった。頭が痛む。めまいがする。心労の予感がする。もうイヤだ。旅立ってもいないが帰りたい。ユニヴェールの機嫌がいい時にはロクなことがない。
「いいか? 遊びに行くんじゃないんだからな?」
とりあえずの釘を刺すと、
「分かってる分かってる」「分かってます分かってます」
暗雲とは裏腹の、なんとも気楽な唱和が返ってきた。
「雪が降りそうですね」
ローマを発って数日、フランスの枯れ森を進みながらデューイがぽつりと言った。
「降ったら面倒だな」
寒空を仰いでユニヴェールがうなずく。
木々の枝が網の目のように広がる空は、相変らずの雪雲で覆われていた。
「ユニヴェール卿は雪がお嫌いですか?」
「嫌いではない。むしろ好きだよ。雪の日は静かでいい」
──ジジくさい奴。
ソテールは前を向いたまま毒づいたが、デューイはいたく感動したようだった。
「そうですよね〜、なんというか……雑音が全部吸い取られて、本当に必要な音だけが残ってるって感じがしますよね〜」
「すべて雪に閉ざされてしまえば、何も聞かずに済むものをな」
「──……」
独り言のようにつぶやかれた零下の声音。ソテールが無言のまま目をやると、察したユニヴェールが大袈裟に肩をすくめてきた。
「うるさい小言にわざとらしい嫌味」
「あぁそうかい」
ソテールは首を前に戻した。
整備された道などなく、踏み慣らされかろうじて道だと分かる程度の道を行く。
地面では馬の蹄に踏まれた小枝がぱきぱきと軽快な音を立て、森を彷徨う風が落ち葉を巻き上げる。見据えた先で枝が揺れたかと思うと、甲高い鳴き声を残して鳥のシルエットが飛び立つ。
そんな風景の向こうに、目指す城はあった。名前すら付けられていない、小さな石の城が。
「よくお出でくださいました。さぁ、こちらへ」
依頼人の名は、ジェローム・フェアフィールドといった。体格が良く、いかめしい軍人の気風をまとったイングランド貴族である。自分に厳しく、他人に厳しく、規律は寸分違わず守ることを美徳とし、極端に言えば──隠蔽の余地があってさえ目を瞑れず家族を断頭台へ送りそうな──気配がある。
「私はデュランダル隊長のソテール・ヴェルトールです。こちらは同じくデュランダル・クルースニクのシャルロ・ド・ユニヴェール」
主人自ら出迎えてくれることなど珍しいのだが、それこそがこの家の切羽詰っている状態を物語っているのだろう。
「そしてこちらが案内役の聖騎士見習いリカード・デューイです」
フェアフィールド伯が振り向き口を開きかけた機先を制して、デューイにお辞儀をさせる。
タイミングを逸した伯は一瞬デューイとユニヴェールの間で視線をうろつかせたが、彼は結局にこやかなデューイに向かって愛想笑いを浮かべた。
“フランス”は禁句だ。言ってもいけないし言わせてもいけない。
「始めに言っておきますが、ヴァチカンは今回の件をあまり重視していません。私は隊長とは名ばかりでデュランダルの中では年少ですし、シャルロは在籍して長くありません。デュランダルを寄越してくれた……ではなく、白十字団を出すほどでもない。そういう人選だとお考えください」
思いっきり卑下した言い方だが、そう大きな間違いではない。道連れに貶められたユニヴェールは、しかし全くもって興味なさそうな顔をしている。……いわゆる無表情というやつだ。
「教会のお考えなど重要ではありません。解決していただけるか、いただけないか、私にとってはそれだけなのです」
言いながら、フェアフィールド伯が一室の扉を開けた。
「さぁ、こちらへ」
通された部屋は客と会談するための部屋らしかった。横も縦も自分たちの部屋より広い部屋。
ソテールとユニヴェールは思わず顔を見合わせた。
高い天井からは質素だが趣味の良い燭台が吊るされ、ロウソクには火が灯っている。壁には彼が仕留めたのだろう狩りの獲物たちが並び、冷たい石の床には赤い絨毯。暖炉には薪がくべられ、炎が爆ぜながら踊っている。
森に面した(と言っても城の全方位森だが)大窓から外を眺めながらゆったりとまどろんだら、どんなにいい気分だろう。これでもしロワール川かトゥエ川が見えていれば最高だ。詩人になれる。
「なんだかんだ持ち上げられてるが、所詮しがない労働者の身の上なんだな、我々は」
教皇庁の宿舎と比べたか、自分も貴族のクセにユニヴェールがぼそりとつぶやいてきた。
それに応える間もなく、
「これが息子のアルフレッドです。メーヴィスの兄になります」
──メーヴィス。それが件の姫君の御名だった──父親に紹介された若者が、椅子から立ち上がり、軽く会釈してくる。
年の頃はソテールやユニヴェールより少々上をゆく程度。しかし父親の固さは受け継いでいないらしく、柔和な物腰の青年だ。伯爵は枯葉色の髪だから、長いくすんだ金髪も母親からもらったものなのだろう。俗な意見を言えば、父親よりも彼の方がいかにも貴族らしい。
「遠き地よりご足労いただきありがとうございます」
外見を裏切らない、静かな声だった。
「妹君が魔物に魅入られたとお伺いしましたが」
「それは──」
「大事な一人娘なのです」
アルフレッドの言葉を遮ってフェアフィールド伯が視線を落とした。
「憂いなく傷なくいるのが幸せだろうと思い、ずっとこの森の城で育ててきたんですよ。必要以上の人間には会わせないようにして。──あぁ、世話は女中のミランダがしています。この子らの母親は数年前に病で……」
ユニヴェールが手をかざして伯爵の話を止めた。
「姫君はずっとこの城に?」
「いいえ。いつもはもっとトゥエ川に近い城におります。しかし城の者すべてを魔物から守ってくれというのは厚かましいというものでしょう。彼らは別の城へ移らせ、我々はかの城より小さいこの城へ来ました。……余計なことでしたかな?」
「とんでもない。人数は少ない方が、城は小さい方が、我々クルースニクとしてはありがたいですよ。昼間の移動はそれほど危険でもありませんし。魔物に関しては」
人あたりの良い穏かなユニヴェールの微笑み。ところどころに毒。しかし伯爵はそれどころではないようだった。
「そうですか。それなら良かった。とにかく娘をお願いします。先日願ってもない縁談がまとまりましてね。もうあの子の幸せは約束されたも同然だというのに、その当人が魔物に心奪われているなどということが先方に知れたら……」
「間違いなく破談ですね」
ミもフタもないユニヴェール。
フェアフィールド伯の視線が上がり、男に向けられる。
すると、
「あぁ、心配しないでください」
ユニヴェールが眼前でひらひらと手を振った。
「先方のお名前を伺うなんてことはしませんし、せっかくの縁談に横槍を入れる気もありません。私は名前通りフランス出身ですが、些細な政治取り引きには興味がありませんので」
彼が言い切ると、フェアフィールド伯はあからさまに安堵の表情をみせた。
そして息をつき、改めて顔を上げてくる。
「──娘にお会いになりますか?」
「ぜひ」
ソテールがうなずくと、伯爵は息子に目をやる。
「ではご案内します」
アルフレッドが足音を立てずに動いた。
彼がクルースニクふたりの脇を抜け滑らかな仕草で扉を開けると、
「わっ」
その瞬間、扉の向こうで声が上がる。
「……エリック」
驚き半分呆れ半分なアルフレッドの声。
「ごめんごめん。オレも今扉を開けようとしてたんだ」
「ノックぐらいしてくれよ」
ため息をつきながら、兄上が半身退いて新たな役者を紹介してくれた。
「こちらはエリック・コーツ。メーヴィスと私の幼馴染で、父君が我が家の騎士団に所属しています」
「オレはまだ騎士見習いですけどね」
ひょろりと立っていた若者が、頭をかく。
「君は──」
「お三方の馬は厩へ連れて行きました。手入れも良くて気立ても良い、立派な馬をお持ちですね」
それは、ソテールたちが城に着いた時、真っ先に飛んできて馬を預かってくれた男だった。
鳶色の髪に感情露わな双眸。高貴な方々よりも親しみやすい風貌は一歩間違うとお調子者で終わってしまいかねないが、それなりに好感が持てる。
けれど欠点をあげるなら、身分からなのか性格からなのか、押しに弱そうな感があった。駆け引きには向いていないタイプだ。
「呼ばれてもいないのに来たのか」
背後から聞こえたフェアフィールド伯の厳しい声に、ソテール、ユニヴェール、デューイはそちらに首を向ける。
「父上。彼はいつだってメーヴィスのことを一番に気遣ってくれているんです」
反論するアルフレッド。首を戻す三人。
「一番に? では、父の私は、兄のお前は、何だと言うんだね」
またもや首を後ろに向ける三人。
「身内以外では一番に、とでも直せばご満足ですか」
戻す三人。
「そういう問題ではない」
ソテールは飽きて振り向かなかった。
「早く客人をお連れしなさい」
「…………」
アルフレッドはしばし感情の見えない眼差しで父親を見ていたが、やがてその目は一度閉じられ、そして再び開かれた時、焦点はすでにソテールたちへと移っていた。
「こちらへどうぞ。エリック、この人たちをメーヴィスの所へ案内するけれど、君も来るかい」
「……え……いや、……あぁ、いいのかな」
「構うもんか」
エリック・コーツは部屋の中のフェアフィールド伯を気にしているようだったが、アルフレッドに背中を押され扉の前から離れて歩き始めた。
彼らから少しだけ遅れてソテールたちも石廊を歩いて行く。
「な、面白い家だろう」
肩越しにユニヴェールの囁き声がした。
「面白い?」
「貴様には見えないか。この足元にある底無し沼の姿が」
ばさっと外套が翻る音がした。
おそらく、ユニヴェールが大仰に両手を広げたのだろう。
デューイが「ひぇ!」とたたらを踏む音が聞こえた。
「城のあちこちで光っている黒い刃が」
「…………」
ソテールは足を止めてユニヴェールを振り返った。
その男は広げていた手を戻して腕を組み、首もとの白いスカーフをいじりながら薄く笑っている。
「魔物退治だけで終わればいいがな」
「お前が騒動を起こすんじゃないだろうな」
「そんなことはしないさ」
ユニヴェールが大人しく首を振る。
「私も貴様もデューイも、単なる傍観者に過ぎないよ」
白い手袋に覆われた男の指が、自身の薄い唇をなぞった。
「さて何が起こるか──」
「…………」
「どうかしましたか?」
廊下の先でアルフレッドが呼んでいる。
「何もするなよ」
「何もしない」
降参したようにユニヴェールが両手を挙げる。
「…………」
神妙そうな顔を作って、しかしそれでも飄々と笑みを消せないでいる男。睨むように一瞥し、ソテールは身体を反転させた。
「──すまないアルフレッド。大したことじゃない」
彼が硬い靴音を立てて歩みを進めるその後ろ。
「何が起こるか天より他に知る者もなく……? 違う。奴らは知ったかぶっているだけでホントは何も知らない。だから、何一つ止められない。子どもじみた方法でしか世界を変えられない」
ユニヴェールがひとり上機嫌で歌っていた。
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