◆ソテール&ユニヴェール、18歳頃の話です。

冷笑主義:失刻編 2

(ひつぎ)からの逃走】

1/2


 ユニヴェールはひとり、村外れのあばら屋の前に立っていた。
 人が住んでいた家ではなく、ただの納屋。あちらこちら腐り始めていて、周りの土には朽ちた屑が散らばっている。
 誰かがひと蹴りすればたちまち倒壊してしまうようにも思えたが、もはや壊すのも残骸を片付けるのも面倒臭がられているのだろう。
 初夏の日差しと伸び放題に伸びた緑の雑草とに囲まれて、それは己の存在意義についてじっと黙考しているようにも見えた。
 冷静に、厳かに。
「──誰かいるか」
 いると思っているからこそやって来たのに、なんて滑稽な台詞だろう。
「お前をどうこうしに来たんじゃない。話がしたいだけだ」
 足を入れた納屋の中には、まだ農具が置いてあった。からからのワラ束、ぐしゃぐしゃになった紐、欠けた木の(くわ)、お粗末なスコップ、穴のあいた麻袋。
 だが、覚悟していたような息苦しさはない。
 こもった臭いに胸をやられるかと思っていたが、いかんせん隙間だらけのボロ小屋、風通しはすこぶるいいらしい。
「聞こえているんだろう」
 もう一歩踏み込む。
 そして彼の蒼い視線は納屋の隅、陽の当らぬ地面へと落ちた。
 そこには小さな木板の(フタ)があった。開けば、食料を貯蔵しておくための空間があるのだろう至って普通の蓋。
 ただ普通と違うのは、蓋には薄汚れた布が挟んであることだった。
 それに、それらを覆う砂埃の様子を見ると、この蓋が気分よく全開にされたのはもう随分と昔のことのようだった。
 記憶を辿るのも億劫なくらい、昔。
「──お前には何が見えてるんだ?」
 ユニヴェールは純白の隊衣が汚れるのも構わず、地面に座り込んだ。
 白い手袋の指先で砂の上をなぞり、閉ざされた地下への蓋に向かって声をかける。
「どうしてそんなところに隠れ続けている」
 言葉を切って耳を澄ますが、下からは物音ひとつしてこなかった。
 しかし、そこに何かがいることは分かっていた。「存在」の気配はする。それがなんであれ、そこにいる。
 陽の光を一切締め出した、闇の中に。
「私はヴァチカンの小間使いをやっているシャルロ・ド・ユニヴェールという。お前の名は」
 答えの代わりにどこかで鳥が鳴いた。
 ざわざわと草むらを風が渡る。
 乾いた草と乾いた土、そして木の匂いが入り混じる。
「お前は何から身を護っているんだ?」
 彼の足下にいるだろう男は──男だと村人は言っていた──、もう何年もずっとこうして地下の闇に閉じこもっているのだそうだ。
 彼がこの小屋から出て外を歩きまわるのは、月のない夜だけ。
 月の光さえ失われた一夜だけ、人々は彼の引き絞った奇声を聞くのだ。
 村を見下ろす丘の上から、彼は叫ぶ。
 常人には意味を得られぬその激情は、狂喜か憤怒か痛哭(つうこく)か。
「そこは真っ暗だろう? 狭いし、孤独だ」
 小屋の天井は意外と高い。
 外見相応にぞんざいな造りだが、ただ落ちぶれたわけではないとこちらを見下ろしてくる。
 誰からもそっぽを向かれ、しかしそれすらも予定された世界の調和なのだと高慢な表情を変えない。
「それでもそこの方がいいのか?」
 ユニヴェールは天井を睨み返し、再び足元に目をやった。
「何故」
「……怖い」
 か細い答えがあった。
 かろうじて聞き取れるほどの、音。
 棺の中の死人が身じろぎした程度の、音。
「怖い。何が」
 小さなアブが入り込み、納屋の隅でブンブン羽音を立て始めた。
 うるさい。
「光か? 人か? 何もかもか?」
 いささかいい加減すぎると思いつつ、並べ立てるのもバカバカしくなって言い捨てる。
 すると、
「──見つかる」
 怯えに侵蝕された囁きが返ってきた。
 人生のすべてをその怯えにつぎ込んだような弱々しさに、精神の底がぐらりと苛立つ。
「見つかる? 誰に」
「──聞こえる、離れない、どこまでも、いつまでも!」
 焦燥を噛み締める押し殺した叫び。
 ユニヴェールの視線が穴倉への扉から己の白い衣へと移る。
 裾に小さく刻まれた、黒い蝶の紋章。
「……怖くはないさ。どうせ逃げられないんだ」



◆  ◇  ◆



「怖い?」
 吸血鬼始末人(クルースニク)の長が、村人の言葉を反唱した。
「影が?」
「だそうですよ。アレの母親の話じゃあね」
「自分の影が怖い……それが納屋の地下に閉じこもっている理由だって?」
「母親が死んでからはどうやって食うもんを調達してるんだか知らんけどね」
 聖なる役人の驚きように満足したのだろう、洗濯帰りを引き止められた女の顔から不満が消えていく。
「人間じゃないって噂もあるけど。だってそうだろう? アレの母親が死んで……2年は経つかね、誰も世話をしてないのに月に一度は出てきて喚いてるんだから、化け物だわ」
「そんな言い方は!」
 デューイが声を上げると、肩に手を置かれて制される。
 振り仰ぐと、デュランダル隊長──ソテール・ヴェルトールがなだめるような笑みを作ってきた。思わずぐっと口を結ぶと、彼はすぐ洗濯女に向き直る。
「その人に母親以外の身寄りは?」
「さぁね。いたとしても引き取るわけァないね。化け物でないとしても気違いだもの」
 女が勝ち誇ったような一瞥をデューイに向けてきた。
 腹立たしいことこのうえない。
「貴方それでも──」
「ありゃァ、化けモンだ」
 しかし青年の真っ当な抗議は、野卑なだみ声に跡形もなく消された。
 3人の話し声を聞きつけたのだろう、昼間だというの酒瓶を片手にした髭の濃い男がこちらに寄ってくる。
 身なりはそれなりだが、皮肉なことにそれこそが彼の胡散臭さを倍増させている。
「母親は“影を怖がる”なんて言ってたが、嘘だぞ。お天道様が顔出してる間は歩けないのさ、焼かれちまうからな。悪魔ってのはそういうモンなんだろ?」
「まぁ、そういうのもいます」
「アイツは人の魂を喰らう悪魔なんだよ。神父だってアイツにやられたんだ」
 彼の言葉で初めて、デューイは自分たちがここに来た理由を知った。
 自警団すら組織できないような辺鄙な村の神父が失踪した──当人には申し訳ないが、やはりそんなことくらいでデュランダルが派遣されるわけがなかったのだ。
 ……まぁ、デューイは騎士見習いだけれども。

 もともと閉鎖的な山間のこの村。
 余所者が馴染むには相当な月日を要すると思われ、実際、新しく派遣されたはずの神父が行方不明だと発覚したのも、隣街の教会から彼に連絡がつかなくなったためだった。
 しかし経緯はどうあれ、長く細々と秩序を守り続けてきた村にしてみれば、怖るべき、あるいは恥ずべき異常事態には違いなかった。
 得体の知れない狂人がひとり。消えた神父がひとり。
 ふたつの状況が重なったことにより、長年村人たちが積もらせてきたその男への疑念と恐怖が臨界に達したのだろう。
 あいつは化け物だ、あの化け物が神父を殺ったのだと言葉は飛び交うが、それを確かめに行けるだけの勇者はなく、その噂は風に乗ってヴァチカンの耳に入り、心の平穏を求めていた枢機卿たちは拍手喝采で問題児たちを送り出した──あれ?

「俺たちはずっと我慢してきたんだ。いい加減アレをこの村からつまみ出してくれ。でもあれだな、どうせお前たちだってちらっと顔を出して“視察しました”とか言って一日で帰っちまうんだろ」
「理由なんてどうでもいいから、アレを引き取っておくれよ。外に出て喚き始めると一晩中眠れないんだよ」
 つまりは神父の件は二の次というわけだ。
 村人は厄介者を排除したい、ヴァチカンはしばしの平穏がほしい。
 利害の一致だ。
 世の中はそうやって善意を欺き続けている。
「あ、でも」
 女が洗濯物を入れた籠を抱え直した。
「この間の夜は静かだったような気がするねぇ」
「この間?」
 隊長が促すと、女は視線を斜め上に彷徨わせる。
「神父と連絡がつかなくなったって隣街が騒ぎ始めて……それから少し後じゃなかったかね。月のない夜があったのは。月がないのに静かだったんだ、確か」
「死んだんじゃないのか?」
 酔っぱらいはにべもない。
「神父はアイツが化けモンだって見破ったんだ。そして戦った。だが相討ちだった」
「相討ち」
「そうだ、相討ちだ」
 男は自分の発した言葉に確信を抱いたらしかった。
 何やらひとりで大きくうなずく。
「解決したな」
「え?」
「神父が消えた理由も分かったし、化けモンも死んだ。ほれみろ、解決だ」
「はぁ」
「ご苦労さんだったな、お役人殿」
 割って入ってきた時と同様、自分勝手に去って行く。
 酒を(あお)りながら、千鳥足で。
「ホントに死んだんだろうねぇ。それならいいけど」
 女が男の背を見送りながらつぶやいた。



「影が怖いことがそんなにいけないことなんですかね」
 デューイは口を尖らせた。
 長い金髪を結び、大股でブーツを交互に前に出し、神父が住んでいたという村の奥の教会へとずんずん歩く。
「みんなと違うということは、時に悪で時に神なんだよ」
 後ろから聞こえてくる、隊長の割り切った大人の答え。
 自分たちよりもたった数年先に生まれただけなのに、その体躯も精神も皆が憧れるほど完成形に近い白の剣士。
 聖騎士見習いの仲間内でも、この男を崇拝している者は多かった。
 来る者拒まずの気安さと、ほんの一時垣間見せる誰も立ち入れぬ神性と。
 意味深なありがたい言葉をくれる天上の英雄よりも、実際に剣を取って奔走してくれる英雄の方がよほど頼りになるというわけだ。
「吸血鬼始末人は皆に歓声で迎えられ、狂人は存在を排除される。何故だろうな、それを疑問に思う人間は少ない」
「人なんですか?」
「は?」
「影嫌いな化け物呼ばわりされている彼は、人なんですか? 今、“狂人”っておっしゃったので」
 立ち止まって、彼の黒髪の下の蒼い目を捕らえる。
「──あぁ。もしその地底人がまだ生きているのなら、人だろう。今、この村から魔物の気配は感じない。だよな、シャルロ。…………」
 隊長が振り返った。だがそこには誰もいない。
 視界に入るのは、砂埃舞う田舎道と地面をつつき横切るニワトリが2羽。
「……あんのバカ」
「ユニヴェール卿なら、洗濯女から話を聞いている途中でどこかに行かれましたよ」
「どうしてあいつは隊長の俺に一言断ってから行かないんだ。それは俺を隊長と思っていないか隊長を何とも思っていないか何も考えていないかのどれかだからだ。デューイ、どれだ」
「え……どれかって言われても……」
 あの人の性格からすると、たぶん最後のやつだ。
「どうせ流れからすると(くだん)の地底人のところへ行ったんだろう」
「影が怖い男の?」
「そのとおり。あいつは、自分の主張を理解してくれそうな奴のところへ人生相談をしに行ったのさ」
「はぁ」
 この人はあの高飛車クルースニクのことをどこまで分かっていてどこから分かっていないのか。
 本人たちにも掴めていないのかもしれない。
 彼らが断言しあう言葉の裏には、何故かいつも薄灰色の(もろ)さが漂っている。
「とりあえず教会へ行くぞ。途中で奴を拾って行く」
「はい!」
 勢いよく返事をして、ふと村を眺め渡す。
 夏の熱の迫る農村。単調な色で広がる農地と山。どこにでもある風景だ。どこにでも。



◆  ◇  ◆



 アブは、幾度か壁に行く手を阻まれながらも、結局はその壁を伝って外へ脱出して行った。
 しかし閉じこもり男との会話は途切れたまま。
 小さな虫が人生の困難を乗り越える間ずっと、まるでそれをじっと見守っているかのように、ユニヴェールも男も沈黙を貫いた。
 そして労わるべきものを失くして、
「貴様から離れないものは何なんだ? 何から逃れたいんだ?」
 彼はまた地底の奇人に訊いた。
 もうそろそろあの鈍感なクルースニクもユニヴェールの不在に気付いた頃だろう。
 眉を吊り上げて首根っこを掴みに来るか、諦めて自身の仕事を続けるか、どちらの姿も目に浮かぶ。
 しかし何せすべての道が見通せるこの村。どちらにしろあの男もユニヴェールが辿ってきた道を歩いてくるのだろう。
「その闇に隠れていれば少しは安らぐのか?」
 わずかの農地では今のところ天候に恵まれた緑が芽吹き、帽子を被った男がヤル気なさそうに草をむしる。
「我々が安穏と闊歩している白日の中には何が見える」
 畑の傍らで縫い物をしている女の横では、白い布にくるまれた赤子が木の枝につるされ窮屈な夢を見ている。
 通り過ぎた家の中からはゴリゴリと石引の音が聞こえ、見渡せば細々といくつも上がる煙。
 そのうち家人を昼食に呼ぶ声が聞こえるはずだ。
「貴様を追うものと、私を追うものは同じだろうか」
 野性味を残した番犬がうろつき、しかし鶏は我が物顔で地面をついばみ、そのまわりを雀たちが取り巻く。数えるほどの豚はぐらついた木の柵の中。白い蝶はふらふらと放浪し、耳元で聞こえる翅音(はおと)の主は姿も見えず。
 路傍を彩る干からびた雑草の中には、細かに揺れる黄色の花。
「私は、(ひつぎ)を引きずりながら歩いている」
 枯れ枝を背負った老翁とすれ違い、家の前に細綱を張ってひらひらした小さな服を干している女を横目に見る。
 若草育つなだらかな丘の上には、数頭の牛を追う閑そうな黒い点。
「いずれ私が引きずり込まれるだろう柩だ」
 家々が途切れたところにこの納屋はあり、丘のふもとあたりに教会がある。
「それは影のようにどこまででも付いて来る」
「──離れ……ない」
 ふいにうめき声が入り、ユニヴェールは息を止めた。
 それ以上言葉が紡がれないのを確認し、
「そうだ、離れない」
 嘆息する。
「柩は、早く私を中に入れたくて仕方がないんだよ」
 悪魔は美しい声で囁くと言う。
 すべて壊してしまえば身を縛る一切から逃れられる、蔓延する不条理から解放される、あるいは──柩に眠ってしまえば自由になれる。
 排斥したがる光からも、手招きする闇からも、決別できる。
 覗き込む柩の中は雑音のない深淵で、待っているのは永遠の平穏と孤独。
 しかしこちらの焦燥や葛藤とは裏腹に、柩は日々、ただ淡々と同じ微笑を繰り返す。
 いつか、ユニヴェールがその甘い誘いに乗る日まで。
「私はきっと、逃げられない。お前のように徹底的に逃げようとする勇気もないのだから」
 白いクルースニクは自嘲気味に言い棄てて、立ち上がった。
 しかし、地底の声がその動きを止める。
「……(ゆる)…しを…」
「……何だって? 赦し?」
 あからさまに尖った声音になったのを自覚する。
 けれど仕方ない。
──赦し?
 己には到底できない方法で世界に反逆する者としてある種の畏敬まで抱いたというのに、結局そんな軟弱なものを欲していたのか? この地底人は。
「赦しがどうした?」
 突き放す口調を変えることはできなかった。
 しかしその時突然、
「お前がどうした」
 全く別の声が挟まれた。
 ユニヴェールがびくっと肩を震わせて入り口を見やると、その反応に軽く驚いた顔のソテール・ヴェルトール。
 ユニヴェールは意味もなく頭にきて柳眉を吊り上げた。
「びっくりするからいきなり話しかけるな!」
「なっ。それじゃあいつまでたっても会話ができないだろうが」
 ソテールが売り言葉に買い言葉で返してくる。
「ノックをしろ、ノックを」
「納屋にノックして入る奴がいるか」
「貴様が人類の先駆けになればいいだろう。崇め奉られるぞ」
「そんな地味な先駆者は嫌だね」
「ヴァチカンが最高の教育を施してもこの程度か。お前には世界に対する奉仕精神がないのか。地味だから嫌だとか、目立たなきゃ嫌だとか、そんな程度の低い……」
「その言葉そっくりそのままお前に返してやってもいいが」
「じゃあそれをそのまま返し──」
「ヴェルトール隊長! ユニヴェール卿!」
『…………』
 デューイの叱責に、ふたり同時に口をつぐむ。
 ユニヴェールは咳払いをひとつして、指をこめかみに当てた。
「村人どもから話は聞いたのか?」
「これから教会に行くところだ。お前も行くだろ?」
「先に行って来れば良かったのに。面倒臭い」
 半ば不貞腐れて口を曲げると、
「だってこの納屋は教会への通り道だったからな。それより何より」
 ソテールがユニヴェールの足元へちらりと目を落とし、そしてすぐ戻して両手を広げてくる。
「お前は他人と長話をしない方がいいんだ」



◆  ◇  ◆



 教会は、それそのものに埃のかぶったような代物だった。
 それほど古いわけでもないのだが、長年使われていなかったらしく、そして派遣された神父も必要最低限の空間しか使わなかったらしく、人の気配というものがおそろしく希薄なのだ。
 水のない聖水盤、パンのない聖餐台(せいさんだい)、本のない聖書台。聖堂の中央、身廊(しんろう)の天井は一際高く、それゆえにわだかまる闇は深い。
 建物の周囲は黒々とした針葉樹が守り、裏手には丈の長い草に覆われた井戸。
 相談しに行って悩み事が解決されそうな雰囲気は皆無だった。
 そんな死に体な教会をひととおり検分した後は、宛もなくぶらぶらと村の周囲を歩き回り、ようやく陽が傾きかけた頃、3人は村を後にした。
 隣街まで戻ると大きな修道院があり、ヴァチカンから派遣された彼らを手厚く世話をしてくれることになっていたのだ。


「シャルロ、どう思う?」
「どうって? 神父がいなくなった理由をどんな風にでっち上げればいいかってことか?」
「……違う」
 大皿に並べられた姫(マス)の燻製をキレイに切り分けながら、ソテールがうなだれた。
 失望を向けられた当のユニヴェールは優雅に冷たい豆のスープを口に運んでいる。
「あの村は辺境も辺境だ。家なんて数えるほどしかないし、山間のせいで充分な農地もない。放牧地もない。お前だって見ただろう? あの閑散とした様を」
「ロクな産業もないのに、村人にはそれほど疲弊がなかった。そういうことか?」
「少なくとも、衣類に継ぎをした女はいなかった。昼間から酒を浴びてる奴もいたしな」
 葡萄酒を傾け、ロブスターのパイにチーズをふりかけ、思案顔のソテール・ヴェルトール。
 ユニヴェールもスプーンを休めてうなずいている。
「それでも昼飯が食えてるようだったものな」
「それにだ、子供がいなかった」
 ふたりの会話を聞きながら、デューイはひたすらソテールのナイフの後を追っていた。
 シノンの時もそうだったが、このふたりが行く先では、聖騎士の宿舎で出されるものより随分豪華で凝っている料理が並べられる。
 今回も、クルースニク、しかも精鋭デュランダルの隊長、副隊長両名が訪れるというので、修道院側も大騒ぎで彼らに見合う夕食を用意したのだろう。
 しかし大皿に乗っている色とりどりの芸術品を見せられても、下流出のデューイにはそれをどうすべきなのか分からない。
 最も無難なのは、横に座る隊長の食べるとおりに食べていくことなのだ。
「赤ん坊は見たが……そういえば、鵞鳥(ガチョウ)を追い回すような年頃の子供は見なかったな。まぁ……あの村では大した教育もできまい。どこか他の街へ出しているんだろう」
 シャルロ・ド・ユニヴェールは、その華美な出自のせいで時々ズレている。
「あの村人たちに教育だの何だのにかける金があると思ってるのか」
 対して隊長は幼い頃からクルースニクに混じって各所を巡っているので、出自は(たか)くとも見識は幅広い。
「あ、そうか。じゃあ、労働に出しているのか」
「それにしたって子供全員か? 少しくらい畑仕事や水汲みなんかのために残しておくもんだと思うけどな」
 修道士たちが集う食堂とは別にあつらえられた一室。
 お決まりのように天高く、細長い採光窓も高い位置。
 夜の星空を楽しむことができるはずもなく、四隅の灯火が物騒な会話の交差する晩餐を照らしている。
「じゃあ、子供を売ってるんだろ」
「売る?」
 ソテールが、鳥のローストに突き刺したナイフを止めた。
「貴族に売るのさ。着飾るのに忙しい奥方たちは子供を育てることなんかに興味はないからな。よく子供を死なせる。だから、夫や姑の手前“死んだ”とは言い出せなくなるとそれらしい子供を買うんだよ。そして死んだ子供の役をやらせる。やがて偽物は本物になる」
「……乳母がいるのにか?」
「貴様、言っておくが乳母なんて雇ってるのは一部の上流だけだからな。しかし乳母だって同じことをするさ。高貴な生まれなんて言ってもな、貴様みたいに真綿にくるまれて、ひきもきらず話しかけられて蝶よ華よと育てられる奴は珍しいんだよ。大抵は固い布でぐるぐる巻きにされて放って置かれる。思い出したように様子を見られるだけさ。乳母も母親も“死んだら代わりを見つければいい”くらいにしか思っていないんだからな」
 シャルロ・ド・ユニヴェールはその出自のせいでやけに貴族の機微に詳しい。
 対して隊長は、自分の立つ花園についてはほんの上辺しか知らない。ヴァチカンの使命として民の生きる荒野の厳しさは見せられていても、その足下に何が埋まっているのかは、巧みに隠されている。
「子供を死なせた親を相手に代わりの子供を売る。けっこういい商売だろ。特にあんな風に農・工・商、どれをとっても貧弱な集団には飛びつきたくなる話さ」
 銀髪のクルースニクが蒼い目を細く引き伸ばす。
「このシャルロ・ド・ユニヴェールだって、本当に本当のシャルロかどうか疑わしい世の中だ」
「……お前は黙って他人の皮を被るような性質じゃないな」
「冗談に決まってるだろう、堅物。だが──」
 ユニヴェールが赤い葡萄酒で唇を濡らし、芳香を確認したのか、ひと間あって喉へと流し込む。
「隊長殿も私も含めて、子供たちは皆、それを断固否定する術を持ってはいない」
「自分が本物か、偽物か?」
「誰かの代わりでいる以上、永遠にその誰かは超えられない」
「でも、自分は自分でしょう」
 我慢できなくなって、デューイは思わず口を挟んでしまった。
 意外に大きくなってしまった声に、自分でもびっくりして目を伏せる。
 それでも隊長、副隊長、ふたりの視線が注がれているのは痛いほど感じた。
「少年。それが真理だ」
 ユニヴェールの朗々とした調子におそるおそる顔を上げると、彼の持つナイフの先がギラリとこちらに向けられていた。
「だが世間一般ではそう言えることを“強い”と評するんだよ」
 怖いわけではないのに、蛇に睨まれた蛙のように動けない。
「神を信じる者は多いが、己を信じられる者は少ない。他人の仮面を付けていた方が楽なことも多い」
 しかしいつの間にか蒼い目は虚空の一点を凝視して、演説は独り言へと落ちていく。
「自分は自分だと言い切れるなら、家も血も名前も振り切れるほどの強ささえあるなら、柩の息の根を止めることもできよう。だが家も血も名前も振り切るほどの強さは何によって成される。向上心か? 信仰心か? 経験か?」
「シャルロ」
「そんなものを蓄積している時間はない。柩は影の如く足元から離れず、強さを得る前に足首を掴まれる。剣では断てない。愛でも断てない。血統でも──この血統こそが柩の元凶なのだから……いや、そう言って己の弱さを隠しているだけか」
「シャルロ」
 ようやく呼ばれたことに気付いたのか、呆けた蒼眸が上司を映す。
「そういえば、お前が会いに行った地底人も影がどうのって言ってたぞ」
 ソテール・ヴェルトールがユニヴェールの吐いた毒の一切を無視した。
「影?」
 ユニヴェールもあっけらかんと聞き返している。
 デューイは少しだけホッとして、自ら説明役を買って出た。
「彼は影が怖いんだそうです。だから昼間や月夜には出歩かないって、彼の母親が村人たちにそう話していたようです。でも村の人は彼が悪魔だから太陽の下は歩けないんだって言っていました。証拠もないのにひどいですよね。神父さんは彼が悪魔だってことを暴いたから返り討ちにあったんだって……。本人はあんなですから世話は母親がしていたそうですが、彼女も数年前に亡くなり」
「その後は誰が世話していたんだ?」
「そこが不思議で、化け物呼ばわりされている理由のひとつでもあるんですが、村人が知る限りでは誰も世話をしていないんだそうです」
「月のない夜にひと月分の食料をかき集めてくるという選択肢もなきにしもあらずだが……」
「バカか」
 隊長の一案をユニヴェールがばっさり斬って捨てる。
「この間の月のない夜は静かだったらしいですしね。良心のある人がみんなには内緒でお世話をしていたんじゃないですか」
 また夢物語をと笑われるかと思ったが、
「影、影、影……静かな新月」
 放埓(ほうらつ)貴族はもう人の話を聞いていない。
「なんだ、お前知らなかったのか? あの地底人と話したんだろ?」
「影? だから離れない? いや、違う」
「…………」
 隊長の半眼が、つつつとデューイに寄ってきた。
「こいつ、何度自分の世界にはまれば気が済むんだろうな」
「……さぁ」
「まったく」
 隊長は小さく嘆息すると再びナイフを動かし始めた。
 そして、お前も食べろ、こんな奴放っておけと促される。

 たくさんいるのだろう修道士たちの話し声はおろか気配さえ感じない静かな部屋。
 規則正しく積み上げられた岩石によって隔絶された聖なる空間。
 作法に手間取ることもなく食を進める白い男。
 スープを睨みながらぶつぶつ呟き続ける白い男。
 その存在によって変えられてゆく他の存在。
 安定の悪いテーブルにかけられた麻布は絹のクロスの如く、鈍く光る錫の皿はまるで洗練された銀食器の如く。
 ほのかに漂う葡萄酒の芳香が、唯一デューイを安心させてくれる日常の匂い。
 彼がようやくグラスに手を伸ばしたその時、
「なぁ、ソテール」
 耳障りな独り思案がふと消えた。
 代わりに、
「辛気臭い話はおいておいて、シャトランジ(チェス)やろう、シャトランジ」
 (かげ)の抜け落ちた白皙が飄々と笑っていた。
 ……気持ち悪い。
 指名された隊長もそう思ったのか、若干椅子を引き気味に。
「嫌だ」
「なんで」
「負けるから」
「何言ってる、だからやるんだろうが」
 ユニヴェールの軽い一言に、ソテールがガタッと立ち上がる。
 そして相方に指を突きつけ一息に言い切った。
「お前ね、分かってないね。いいか。お前は傍若無人で何やらかすか分からないし、デューイはシノンの件で上から目をつけられてるからこれ以上おかしなことに巻き込むと将来に響くし、隊長は気苦労が耐えないんだよ。心労で寝込みそうだぞ。それなのに何で負け試合をして更に不快な思いをしなきゃならないんだよ」
「…………」
 一瞬ぽかんと口を開けたユニヴェールが、ムッと眉を寄せた。
 そして悪魔の微笑が標的を変える。
「じゃあいいや、デューイ、やろう」
「じゃあいいやって何ですか。妥協で僕ですか」
 騎士見習いは勇気を振り絞った。
 しかし銀髪のクルースニクはどこまでも涼々としていた。
「妥協じゃない、譲歩だ」
「どう違うんですか!」
「妥協は双方が折り合いをつける。譲歩は心の(ひろ)い方が主張を折る」
「……心の、寛い方?」
 嫌味で疑問形にしたのだが、思いっきり“お前はそんなことも分からないバカなのか”という顔が返ってくる。
「…………」
 返す言葉を失くしていると、
「シャルロ、遊んでる場合か」
 隊長が助け舟を出してくれた。
 しかし悪魔のクルースニクは動じない。
 彼はまだ料理の残る皿を勝手に片付け始めながら言った。
「我々は神父の居場所を突き止めればいい。そうだろう?」



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