冷笑主義:失刻編 2
【柩からの逃走】
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「お前は影が怖い。そう聞いた。だがそうじゃない。だよな?」
翌朝、ユニヴェールはひとり、あの納屋にいた。
地底人の住む村外れの納屋。
まだ地上には夜の残る時刻だ。稜線が橙色に輝き、空が明けはじめる冷たい暁。
「あいつは丘の上から何を見ていた。お前はあの日何を見た」
「──あの、日」
応えはすぐにあった。
だがユニヴェールは彼の言葉を待たずに自分で続けた。
「化け物がいたろう。影に喰われた化け物が。柩に負けた化け物たちが」
「きょ、教会の、井戸に」
「そしてここにも化け物がいる」
鞘から抜き放った聖剣を、渾身の力を込めて地下への木蓋に突き立てる。
「君、と、同じだ、彼は」
性急な息遣いが下から聞こえる。
「彼、は」
過呼吸で死ぬのではないかと思えるほど、荒く浅い息が繰り返される。
ユニヴェールはそれさえも遮った。
「彼は影を怖れていた。お前は神を怖れている。それでこの物語はお終いだ」
「な、に」
ユニヴェールは剣を引き抜き、白外套を翻した。
そして戸口で立ち止まる。
「何か用か」
彼の歩を止めたのは、村人たちだった。
各々に農具を手にした、男たち。
明らかにぎょっとして、顔を見合わせている。
“帰ったはずじゃないのか”
剣呑な顔にはそう書かれている。
「なんだ、この納屋を燃やしにでも来──」
ユニヴェールが台詞を言い終わる間もなく、側頭部を重い衝撃が貫き視界が暗転した。
「朝早くからすみません。ひとつふたつお訊きしたいことがありまして」
村長の家は、村の中ほどにあった。
こんな村にあっては“立派”と形容される屋敷。裏には綺麗に耕された畑と納屋、そして厩が顔をそろえている。木の柵が見えるところからすると、牧草地も持っているのだろう。
「いえいえ。これから朝食にしようとしたところですが、ご一緒にいかがですか」
業務用の柔和な笑みを浮かべる隊長と対峙して、テーブルの向こうの男は物分りの良さそうな笑顔を作ってきた。
「帰ったんじゃないのか」なんて欠片はひとつも落とさないが、しかしこちらにも物分りの良さを要求している笑顔だ。
「いいえ。そこまで甘えるわけには」
目覚めた朝。ユニヴェールが寝台にいないのを隊長が発見して、こちらも朝食抜きで動くことになった。
あっちが地底人のもとへ行っているという想定でのココだ。
「早速で失礼かとは思いますが……表面上、この村にはこれといって産業になるようなものが見受けられません。しかし村民のみなさんはそれなりにお暮らしのようです。──いえね、私は職業柄あちらこちらに行くのですが、このような村はもっと困窮疲弊しているのが常なものですから。何か独自の産業をお持ちなんですか?」
「そんな滅相も無い。ただ、最近は幸運と天候に恵まれて、このわずかな農地でも我々が暮らすに充分な作物が取れただけのことですよ」
村長が厚い図体を揺らして笑った。
「隣街の自警団の方々の力もあって、夜盗も減っているんですわ」
「収入源は農作物だけですか?」
「林に入って薪を拾うくらいのことはしますが、木こりを日々の仕事にしている奴はいません」
「しかし村は貴方のように馬も牛も持っている家ばかりではないでしょう? 小さな畑しかない家もありましたが」
「それは私には分かりかねますよ。何か秘訣があるんでしょう。直接お聞きくださいよ」
「子供が──小さい子供の姿があまりにも見えないように感じるのですが」
ソテール・ヴェルトールの口調に抑揚は無い。
この人には、テーブルの上で組んだ手の指先、爪の先にまで、聖なる都市の厳かな血が流れている。
「あぁ、それを気にされていたんですか」
村長がわざとらしく態度を崩す。
「珍しいことじゃありませんよ。貧しい村だからただでさえ育ちませんしね、労働力にしたいのは山々ですが、それ以前に口減らしの対象になってしまうんですよ。でも食わせるものがないから殺しちまうなんてのは野蛮な話でね、仕方なく売るんですわ」
「貴族にですか?」
「さぁ、私らは仲買人に売ってるだけですからね。どこに売られているかなんてことは知りませんや」
昨日隊長とふたりで教会へ向かう途中に見た洗濯物を思い出す。
こんな村には不釣合いの、ひらひらしたレースの子供服。
「確かに、珍しいことではありませんね」
始めから、農民の子ではなく貴族の子として育てられていたとしたら。
始めから、偽物になるべく育てられていたとしたら。
それも普通のことなのだろうか。
「食料を食べ尽くす者はいなくなる、大金は手に入る。実に上手い話ですね」
ソテール・ヴェルトールの相槌が、ひどく遠くに聞こえた。
「大丈夫、ですか。目を、開けて、ください」
たどたどしい声と揺さぶられる身体、そして鼻を突く異臭。
まだ痛む頭の横を手で押さえ、ユニヴェールは起き上がった。ぬるつきを感じる指に、流血は免れなかったかと他人事のように思う。
「に、逃げ、た方が」
目を開けても、何も見えない。
それが頭を殴られたせいではなく、単に自分が闇の中にいるからだと気付いたのは、自分を呼ぶ声が地底人のそれだったから。
無論、彼の姿は黒に塗りつぶされてよく見えない。
しかし、その後方天井にわずかな光の亀裂が見える。蓋が壊れたのだろうか。
「ここがお前の住処か」
「逃げ、ない、と」
「これだけが分からなかった。お前に食い物を運んでいたのは誰だ」
訊きながら見回し、
「……アンタか」
彼は深いため息をついた。
光の届かない穴倉の最奥にその女は立っていたのだ。
決して闇に侵蝕されることのない真紅の女。
真珠の散りばめられた黒髪を高く結い、金彩の扇を手に、陶器のように滑らかな美を湛え、まるでその関与を知らせるのが目的だったと言わんばかりに霞んで消える。
牢獄の夜から事あるごとに現れては記憶を呼び覚まして去って行く、煌きの暗黒都市。
──お前はいずれ、血の重みに潰される
「あ、あの、早く」
突然、骸骨に腕を掴まれた。
「何だ?」
違う、地底人だ。
骨と皮だけの、土に塗れた人間の手。弱々しく、振りほどいたらパッキリ折れそうだった。
「納屋、が、壊されて、いま、した」
「…………?」
「火を、点け、る、って」
「…………」
そういえば、腐敗臭や汚物臭に混じって、何だか煙いような……。
ユニヴェールは外套を脱いだ。
そしてそれを地底人の顔へと押し付ける。
「煙を吸うな。それだけ守ればまた上で生きられる」
「しかしあいつがねぇ」
村長が顔をしかめた。
「?」
「噂が広まると仲買人もあまり寄り付かなくなるんですよ。村に化け物がいるなんてね」
「あぁ……」
「母親もいなくなったし放っておけば死ぬかと思ったんですが、これがまた死ななくてね。うちの衆は誰も餌をやってないはずなんですよ。常識的に、化け物以外の何モンでもないと思いませんかね」
「“はず”が付く限り肯定はしかねますが」
「神父のこともそうですけどね、あいつが悪いんですよ。この村の災いは、全部あいつが呼び寄せているんですよ」
デューイは窓から見える牧歌な風景へと目を移した。
これ以上真正面から聞いていたら、昨日のように叫んでしまいそうだった。
生贄の山羊を作るのが権力者の常套手段だと分かっていても。
「いくら陳情しても誰もこんな村の声は聞いちゃくれないんですよ。貴方がただって形式的に寄越されただけでしょう? すでにヴァチカンへお帰りになったと思っていましたから……」
「ッ!」
デューイは音を立てて椅子を蹴倒し、窓辺に駆け寄った。
「ヴェルトール隊長、アレ!」
「これ以上他人の助けを待っていても無駄だと、我々の手で裁くことにしたんですよ」
村の一郭から不穏な煙が上がっていた。
間違っても、朝食の用意をしている煙ではない。
風を燻し、草を焼き、木板が爆ぜる。
悪意が地上の底辺で燃えている。
「人ってのは煙でも死ぬらしいですからね。これで生きていたら、もう私らには手に負えない。正真正銘の化け物ですな。村を棄てて逃げるしかあり──」
「デューイ!」
「はい!」
隊長は、わざわざ扉を蹴破って飛び出して行った。
ささやかな憂さ晴らしだ。
いい気味。
村人たちが遠巻きにするそこには、納屋の残骸が積まれていた。
そして赤い火炎に包まれている。
焼かれた空気が陽炎となって揺らめく。
敗戦で燃やされた城の如く、己の使命を全うできずに生を失う悲哀を叫びながら、納屋は力尽きて崩れていく。
天高く煙を上げ、非難の訴えを届けようと足掻いている。
「何をやっている」
隊長の問いに答える者はいない。
「この辺りに、クルースニクがもう一匹いなかったか? 俺と同じような格好をした男だ」
風向きが変わり、押し寄せた熱波に顔が焼かれる。
目が痛み、涙が次から次へとあふれ出る。
それでもクルースニクの長は微動だにせず、黙りこくる村人たちを見据えていた。
黒髪を逆立て、長い外套をはためかせ。
「デューイ。こいつらが逃げないように見張っとけ」
「隊長は」
しゃべると喉に炎熱が入り込む。
咳き出さないよう下腹に力を入れた。
「下にシャルロがいる」
「え?」
「あいつ元々魔物めいてるからな。時々引っかかるんだよ、クルースニクの勘に。……早く出してやんないと燻製になる」
「……不味そうですね」
「あぁ」
熱くないわけがないだろうに、白の男は燃え盛る炎の中に脚を突っ込み、盛大に木々を蹴飛ばした。
バランスを崩した炎の山がなだれ落ち、赤々と火の粉が降り注ぎ、村人たちがわらわらと緩慢な動きで散らばる。
その間にもクルースニクは青いローマングラスの瞳を緋に染めて、片腕で口元と鼻を押さえ、残された片腕でかつては柱であり壁であり屋根であった骨々を殴り捨てる。
地下への道があったであろう場所を探り、白い手袋を焼く。
この人の涙なんて、きっともう拝めないだろう。
容赦ない煙にやられた、ただの生理現象だとしても。
「シャルロ! いるのは分かってるからな! 生きてるか? 死んでるか?」
火片の飛沫が夏草を焼き始めるのも厭わずに、下段に組まれた太い柱を掴み、力任せに持ち上げる。
静かな火葬さえ妨げられた納屋の遺骸が、怒りの咆哮を上げて崩壊する。
今度こそ、村人たちは悲鳴を上げてデューイの方へと走ってきた。
「シャルロ!」
積もる煤と噴き出す炎、露わになった黒い地面に、地下への入り口が現れる。
煙が入るようにするためだろう、叩き割られた木蓋。
「いい加減返事しろ!」
ソテールが蓋に手を伸ばそうとした瞬間、
「──!」
銀色の刃が下から木蓋を突き破り、その指先をかすめた。
「……お前ねぇ。そういう返事の仕方はないんじゃないの」
男はぶつくさ文句を言いながら、それでも自分の聖剣で蓋を壊してやり、中を覗きこんでいる。
「先に、こっちだ」
咳の合間に、掠れたユニヴェールの声がする。
「お前、これじゃ煙で死ぬ前に窒息するぞ」
呆れた台詞と共に地上のクルースニクが地下からひっぱりあげたのは、ユニヴェールの白い外套だった。
いや、正確には白い外套に包まれた地底人だ。
灰燼さえ寄せ付けない白の中から、汚れた毛糸に近いぼさぼさの髪と土気色に痩せ衰えた腕が見えている。
村人たちも察したらしく、にわかに周りがざわついた。
聞こえる声、聞こえない声、低く静かにさざめき飛び交う。
ソテールが地底人をずりずり引きずり葬送の篝火から遠ざけていると、後を追うようにユニヴェールが顔を出した。
多少灰をかぶってはいるものの、顔も表情も村人たちの労力を嘲笑うかのように綺麗なままだ。
彼は軽い身のこなしで地下から出てくると、他の誰にも目をくれず、真っ直ぐ自らの上司の背後に立った。
冴えた銀髪のひと握りを錆びた血に染めて、白いベスト姿で得意気に。
「ソテール」
「?」
彼の上司が振り返る。
「シャルロお前、その頭──」
「仕事は終わった。神父を見つけた」
狼狽に立ち上がりかけた上司を遮って、彼の指は地底人へ向けられていた。
◆ ◇ ◆
かくして事は事件となり、その瞬間に幕は降りた。
再び地上に戻った神父の証言により捜索された井戸からは、大量の石に埋もれた二人分の遺体が見つかった。
片方は小柄な男で、もう片方はすでに半ば地へ還りかけていて大きさも性別も分からないという。
しかし男は件の地底人、もうひとりはおそらく彼の母親だろう。
恐怖の源と直接対決の出来ない小心者たちの凶刃はまず、周囲の弱い者へと向けられるものだ。
「ジークは──あの地下室の本当の住人のことです──彼は、比喩や哲学的名意味ではなく、事実として影を怖がっていました」
隣街の修道院。鐘の音が響く度に祈りの集う聖堂。
数日間修道士たちがつきっきりで世話をしてくれたという神父は、なかなか元気そうな姿をしていた。
もともと痩せ型なのか全体的な骨っぽさから病の気は感じられず、こざっぱりとした法衣に身を包んだ様子は、いかにも敬虔な修行者だ。
「私は彼のために遣わされたようなものですから、ほぼ毎日彼のもとへ通っていました。先日の貴方のように、始めは私が話すばかりでしたが」
祭壇を仰ぐようにして長椅子に腰掛ける神父の横には、銀髪のクルースニクが猫背気味に脚を組んで座っていた。
デューイは側廊の柱に背を預けて立ち、ソテール・ヴェルトールはその後ろの壁に寄りかかっている。
「けれどそのうち彼も私に興味を持ってくれたようで、月のない夜には、丘へ出かける前に教会へ寄ってくれるようになりました」
「あの夜も──ふた月前の新月の夜も、彼は教会へやってきた。そしてアンタの代わりに死んだ」
まだ頭に白い包帯をぐるぐる巻いたクルースニクの視線は、どこに落ちているのか分からない。
「村人たちは教会にやってきた彼を、街から戻ってきた私だと思い込んだのです。頭から麻袋をかぶせて殴つけ、井戸へ──」
「アンタはそれを見ていた」
「月のない夜は壁廊から外を見て、彼の訪れを待つのが私の日課でした」
神父の目が上へと向けられる。
祈りの空間をぐるりと囲んで見下ろす、採光窓下の階上回廊。
「止めに入ればアンタも殺されただろうな。だが何故村人が去った後で助けなかった?」
「助けようとしているところを見つかるわけにはいかなかったんです。彼らに私が生きていることを知られてはいけなかった……!」
神父が膝の上で拳を握り締めた。
そして大きく息を吸い、続ける。
「彼に成りすましてあの地下室にもぐりこんだものの、それからどうするかは全く考えていませんでした。食べ物も、逃げ道も。一度安全な場所に身を置いてしまうと、怖くて外には出られなくなりました。一歩でも出れば見つかるような気がして。君のことも、ヴァチカンの役人と言われてさえそれを信じられませんでした」
だから直近の新月には地底人の奇声が聞かれなかったのだ。
本物は井戸の中。偽物は死を怖れ。
「だが食べ物はあの女がどこからともなく持ってきた」
黙ってうなずく神父に、初めてユニヴェールが目を向けた。
「あれが何者か、アンタは知っていたのか?」
返されたのは否定。
「魔物の中で最大の権力を持っている女だ」
飲み込めず神父が眉を寄せるが、手負いのクルースニクはそれ以上説明する気はないらしかった。
「村人がアンタを殺そうとした理由は」
「……知っていますか。この村は子どもを生産しているんです」
「あぁ、そうらしい」
「やむを得ず手放しているのではありません。最初から商売の一環として産み、育てているんです」
「金になるんだそうだ」
「私はそれを止めさせようとしました。見て見ぬふりをされているからあんな村ぐるみの商売が成り立っているのであって、誰かが正式に通告すれば上も見逃し続けるわけにもいかなくなるでしょうから」
「あの村からそれを取り上げたら何も残らないんだ、奴らにしてみればアンタの行動はそれこそ村全体の生死に関わりかねない。そして、地底……ジークを見殺しにしたアンタだって、奴らに見つかれば命は無かった」
仕方のない結末だったとでも言いたいのだろうか、ユニヴェールが立ち上がった。
「奴等の神もアンタの神も、赦してくれるだろうさ」
台詞を吐いた本人は見ようともしていなかったが、横切って行く彼の下で神父の顔が険しく歪んだ。
板張りの床を睨み、口を引き結ぶ。
「そういえば──」
ユニヴェールが靴音を止めた。
「アンタがあの日何を見たのかは分かった。じゃあ、アイツは、月のない夜に丘の上から何を見ていたんだ?」
「…………」
熱を帯びた双眸は、執拗に答えを欲していた。
しかし神父は更に苦しげな表情で首を振る。
「……私には、分かりませんでした。彼は話してくれませんでした」
「そうか」
問うた口調の強さとは裏腹に、クルースニクはあっさりと引き下がった。
聖堂に再び響き始めた靴音も軽快。
「けれど彼は!」
時を置かず、急いた神父の声が彼の背に追いすがった。
デューイの眼前で、ユニヴェールが肩越しにわずか首を向ける。
飾り尖塔から一直線に差し込んだ陽光がその顔をかすめ、憂いに褪せた眼差しを浮かび上がらせた。
空気中を漂う小さな埃がちらちらと輝き、彩る。
「彼はきっと、本能的に怖れていたんでしょう。貴方が怖れるものを。私たちが、怖れなければならないものを」
神父が自分の両手の平を見下ろす。
「もしかしたら、彼には視えていたのかもしれません。私たちが引き連れているどす黒い弱さと甘えの塊が。黒い、黒い、月のない夜でなければ隠せないほど……」
「影の──柩の囁きは優しいんだよ。それにいつも正当化されている。どんなに馬鹿げた理屈でも、あたかも正しいような言葉を紡ぐ」
琥珀色に包まれた石の空間に佇む乾いた白い薔薇は、唇の片端を吊り上げた。
「地底人め。他人の影には殺られたが、自分の影からはまんまと逃げ果せたな」
一番外側の花弁からぱらぱらと剥がれ落ちていきそうな、生彩の抜け殻。
彼が立ち止まることはもうなかった。
「逃走か、闘争か。選び難い。しかし迷っているうちに足をとられる」
誰にともなくつぶやきながら、表情の無い顔でこちらを見下ろし続ける祭壇をはるか後方に背負い、一歩一歩溶暗させて行く。
終始沈黙を守ったソテール・ヴェルトールも壁から背を離し、デューイは呼ばれてその退出に従う。
両耳を押さえて長椅子に座り込む神父をひとり残して。
「君から柩が離れないように、私からは神が離れない。──咎める声が離れない」
クルースニクが消えて行ったのとは反対の側廊から、静かな足音と衣擦れの音がやってくる。
まだらな陰を踏んで、強烈に艶やかな紅が近付いてくる。
「耐えられないのなら逃げればいい。お前の神がお前を赦すと信じられないのなら、我々がその声からお前を守ってやるよ」
神父の閉ざされた聴覚の中で神と女の声が交互に響き入り混じり、体内を廻る血液までもを侵してゆく。 「良心を持つ者だけが苦しむなんて、おかしいと思わないか。神の声に苦しむ者ほど救われなければいけないのに」 気付けば、女の紅唇が耳元に寄せられていた。
「もういい、もういいんです。黙ってください。静かにしてください!」
神父は両手で耳を塞いだまま、椅子からずり落ちて床に膝を付いた。
◆ ◇ ◆
金髪の聖騎士見習いは、その幼さゆえかなかなか怒りが収まらないようだった。
修道院の前で馬の用意を待つ間も、道に転がる石を片っ端から蹴飛ばして息巻いている。
「どうして彼が死ななきゃいけないんですか! どうして村人は処罰を受けないんですか!」
「処罰を決めるのは領主だ。あの村が貴族向けの子供生産を生業にしているのは公然の秘密であって、その産業のおかげであんな貧相な村からでも他並みに税が取れてるんだから、潰すわけがないだろう。他の貴族にも恩を売れるしな」
石段に腰を落ち着けていたユニヴェールは、とりあえず親切に教えてやった。
「対して狂人ひとりの命、神父ひとりの信用。天秤に載せるまでもない」
「みんなの上に立つ人がそんな考え方でいいんですか! ちょっと、帰るのよしましょう! 村人が絶対にふたりを殺したんだっていう証拠を見つけに行きましょう!」
地団駄を踏むデューイの叫びが頭の傷に響く。
「痛い痛い痛い」
鈍い疼きを抱えてうめくと、
「人生とは、痛みとの戦いだ」
片手を包帯でぐるぐる巻きにしたソテール・ヴェルトールが、壁に寄りかかったまま遠い目をしてため息をついてくる。
「何おじいさんみたいなこと言ってるんですか!! その領主とやらが何も言い逃れできないくらいの証拠を探しましょうよ!!」
「無駄だ」
暗黒都市のあの女は、影から逃げ続ける地底人をどうにか堕としてやろうと遊んでいたのだろう。
しかし地底人は影からだけでなく彼女からも逃げ切った。
皮肉だが、村人と神父の手によって彼の勝利は確定した。
そして、己の遊びの邪魔をした輩をそのまま赦しておくほど、彼女は神のように無能でも寛大でもない。
「無駄って、どーゆーことですか! それでも神にお仕えする人間なんですか!」
デューイの甲高い憤慨を振り払い、ユニヴェールは後ろの友人を仰いだ。
「ソテール。正義とはなんだ」
彼は逡巡もせず即答してきた。
「愛する人間、尊敬する人間に胸を張って報告できる行動のことだ」
「自分では胸を張って言えても、相手がそれは違うと首を振ったら?」
「自分を曲げるか相手を泣かせるか、選ばなければいけない」
「どっちが正しい」
訊けば、ソテールが片眉を上げてニヤッと笑ってくる。
「お前が選ばなかった方だ」
ユニヴェールは往来へと顔を戻し、肩をすくめた。
「……なるほどね」
もし仮に自分が地底人と同じ目を持っていたのなら、何が視えただろう。
視えてしまった光景に、果たして耐えられただろうか。 自分は、どんな道を選んだだろうか。 それでも、喰われずに抗い続けられただろうか。
そして、このオメデタイ吸血鬼始末人は何と弁明して世界の側を守っただろうか。
考え込んでいると、
「シャルロ、デューイ。言い出せなかったんだが」
奥歯に物が挟まったような低い調子でソテールが言った。
『?』
「出掛けに、20日間くらい帰ってくるなって言われたんだよな。むしろもう帰ってくるなくらいの勢いで」
『…………』
「どこか行きたい場所あるか?」
「ヴェネツィア!」
「コルドバ!」
ふたりでそれぞれの希望を伝えると、何故か隊長殿は壁に背をつけたままズリズリと座り込んだ。
そしてさめざめと目元に手をやる。
「お前たちね。そうじゃないだろ。ここは、帰ってくるなって言われたことに対して何か言うべきだろ、怒るべきだろ。俺はもう疲れた。温泉に行きたい」
THE END
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