冷笑主義:失刻編

【シノンの森に死す】

3/3


 樫の古木の闇の下、虚無は立っていた。
「ネアン!」
 メーヴィスが馬から降りようとして兄に阻まれる。
「離して!」
「ダメだ」
 ところどころほつれた長い髪が、魔物の綺麗な顔の半分を隠している。しかし、デューイが掲げた松明の炎によってその奥が見えた。
 そこに“顔”はなかった。生前は美しかったのだろう肌は腐敗し原型がなく、変色し、ただれた肉片が頭蓋に貼り付いている。本来こちらを見つめる目があるべき場所には、夜よりもくらい闇があるだけ。
 眼球はどこかに落としてきたのだろうか。
 この分だと黒いケープの中身も、どれだけ人間を保っているか怪しい。
「!」
 見るなりアルフレッドが妹の肩を強く引き寄せ、エリックが悲鳴を呑み込む。
 しかし当の魔物はそんな慌てふためく彼らに目もくれず、じっとメーヴィスを見つめていた。
「貴方が、メーヴィス嬢を闇へいざなっているという方ですか」
「そうだよ」
 残された片方の目が、進み出たソテールに向けられた。
「彼女を閉じ込めていた父親は亡くなりました。もう彼女には構わないでくださいと言ったら、手を引いてもらえますか?」
「否」
「何故」
「本当に愛しているからだと言ったら、お前は信じるかね?」
 声なのか風音なのか判然としないかすれ声。
「愛することは自由です」
 ユニヴェールが馬から降りて言った。
「魔物は基本的に人をエサとしてしか見ていないが──、自分と同じ境遇にある者には、時に人以上に人らしい憐れみをかけるといいます。貴方も、権力争いに巻き込まれ幽閉されて無念怨憎のうちに亡くなった貴族なのではありませんか?」
「……私のような思いはさせたくないのだよ」
「彼女を救いたい、と?」
「──お前たちはすぐに白か黒かに分けたがる」
「失礼。安い正義屋の悪いクセです」
 道化のように詫びを入れ、彼はクルリとこちらを向いた。正確にはメーヴィス・フェアフィールドの方を向いていた。
「どうするんだい? メーヴィス嬢。アンタの夢見た白馬の王子様は、腐りかけてもなお世を呪い続ける化け物だったわけだが」
「長きに渡り私の虚ろな心を慰め安息をくれたのは彼だけです」
 彼女には迷いも躊躇いもなかった。
「メーヴィス!」
 エリックが馬から飛び降り彼女の下へ駆け、その手を握った。
「やっと自由になれたんじゃないか! 君はこれから生きるんだろう!」
「父さんはもういない。檻はもうない」
 アルフレッドが確めるようにつぶやく。
「嘘」
 彼女の口から漏れたその一言は、笑っていた。
「兄さんも父さんと同じよ。きっと私を使うわ。この家のために」
「そんなことはない!」
 叫んだのはエリックだった。
「ならば!」
 突然、ユニヴェールが数度手を打った。教師の如く。
「エリック・コーツ。そこまで言うならその言葉を実際に見せてみろ。闇からメーヴィスを護ってみろ。ネアンを倒して彼女を取り戻してみろ」
「……闇を払うのはアンタたちの役目じゃないのか」
「依頼者は死んだ」
 無茶苦茶な言い分だ。
 しかしソテールは口を挟まなかった。
「さぁ早く。その腰の剣は飾りか? 命を賭けるほどの愛ではないのか? それとも、金のために死ぬほど愚かではないということか?」
「アンタ、言っていいことと悪いことが──!」
「それとも、斬れない剣で魔物に立ち向かうのは怖いのか?」
「…………っ」
 エリックが息を止めてユニヴェールを見やる。
「……斬れない剣?」
 デューイが皆の疑問を代弁した。しかしユニヴェールはそれには答えず、
「どうした。さっさとやらねば大事な姫君はさらわれてしまうぞ」
 あごをしゃくって剣を抜けと促す。
「アンタ……」
 何か反論しかけたエリックはしかし、奥歯を噛みしめネアンを睨み腰の剣に手をやり──そのまま動かなくなった。
 柄を握った手は奮え、額には汗。そこへ、
「大丈夫さ」
 なんとも気楽な調子で声をかけるユニヴェール。
「ジェローム・フェアフィールドひとり殺したくらいで斬れなくなるようななまくら剣はそうそうない」
『──!?』
「まだ騎士見習いならば人を斬ったことなどないのだろう? 私が“こんな、剣一本ダメするような殺しはしない”と言ったのを真に受けたな?」
「…………」
 エリックはただ彼を見て荒い息をついている。
「本当ならば人を殺した剣などフェアフィールドの収集品にでも紛れ込ませて楽になりたかったのだろうが、騎士見習い風情が昨日とは別の剣を腰に差しているなど明らかに不自然だ。それじゃあ、“オレが殺しました。剣は隠しました”なんて白状しているようなもんだものな。ところが一匹のクルースニクが“これは剣一本ダメするような殺し方”だと言った。“剣を替えるべきか?”お前は迷った。しかしお前は、自分が剣を抜く機会などありはしないから構わないと結論づけたんだろう? 魔物を相手にするのはクルースニクであって自分じゃない。それに思い直して剣を替えようにも、うるさいクルースニクが約一名つきまとっていたわけだしな」
 ユニヴェールが口角を上げる。
「だがお前の誤算は、アルフレッドが森を抜けるなどとアホなことを言い出したことだ。森に出れば相手は魔物だけでなくなる。野犬もいるだろう、盗賊もいるだろう。剣を抜く機会ばかりじゃないか。今剣を取り替えれば疑われる危険が増すが、殺せぬ剣で命を落とす危険には変えられない。しかしやっぱり邪魔なクルースニクが張り付いている。そして結局お前は、“斬れない剣”と思い込んだ剣を携えここまで来た」
 一気に言い終え、彼の蒼がちらりと馬上のアルフレッドを見た。
「そこの兄上殿であれば、さも当然そうな口実を練り上げて私の目の前で堂々と取り替えられたのかもしれんがな。小心のお前にはできなかった」
「違う! こ、これは……」
 エリックがそう言い淀んだ瞬間、剣が肉を断つ嫌な音がした。
 遅れて血の臭いが鼻をつく。
 次瞬、エリック・コーツが口を開いたまま膝を落とした。
「アルフレッド!」
「兄さん!」
 馬上の騎士が馬から飛び降り、友に斬りかかったのだ。
 落ち葉の上にエリックの鮮血が滴り、凍える大地に染みてゆく。
「父さんを殺したのはお前か!」
 アルフレッドは金髪を乱し鬼気迫る形相で、慟哭どうこくと共に再び薙ぐ。
「止めろ!」
 間に入ったソテールの聖剣を折らんとする、渾身の剣。奥歯を噛んで押し返すが、身体を支えるべき地面がえぐれてゆく。
「これ以上血を流すな! 魔物が寄ってくる!」
 後ろで、エリックが倒れる音がした。
「ここがどこなのか考えろ!」
 ソテールは叫び腰を落として重心をずらし、瞬間大きく脇へ払う。
 鋭くこすれる金属音。アルフレッドの剣がクルクルと夜を飛んでどこかに落ちた。
「…………」
 目を見開き血塗れのエリックを見つめたまま、放心状態で後ろに退がってゆくアルフレッド。
 ソテールは小さく牽制しながら膝を折り、エリックの容態を確めた。
 意識はない。急所は外れているものの、それは“まだ死んでない”だけであって何の慰めにもならない。死はそこに迫っている。
 だがその時、視界の端で黒い霧が横切った。
「──ネアン!」
 虚無の魔物がそのケープにアルフレッドを包んだのだ。
 闇の衣の中、見る間に御曹司の顔が青ざめてゆく。生気を奪われ、目から光が退いてゆく。
 ──闇に喰われている。
「シャルロ!」
 ネアンを斬れ。アルフレッドを助けろ。その意味を込めてソテールは彼の名を呼んだ。
 しかし男は薄ら笑いを浮かべたまま動かない。
「デューイ! エリックを看てろ」
 ソテールが闇に向かって斬り込むと、ネアンは執心なくひらりと退く。
 支えを失ったアルフレッドがドサリと崩れた。
「おい、大丈夫かアルフレッド」
 ソテールが騎士の身体を支え起こそうとした時。
「──さて、フェアフィールド伯爵は何故声をあげなかったのか」
 彼らの生死にはまるで関心のないユニヴェールの声が降り注いだ。
「何故か。その場に息子がいたからだ。剣で殺したのはエリックかもしれないが、同時にこの男も彼を殺していた。共犯だ」
 その台詞は、いつものように芝居がかってはいなかった。
「魔物が現れた、あるいはエリック・コーツに刺された。それならば彼は抗いの声を上げたかもしれない。しかし息子ならば仕方ない──欲しいもののためなら親をも踏みつけ手を伸ばす──フェアフィールドは強くなる、そう思ったのかもしれない」
 地平の彼方まで白く閉ざされた、広大な雪原のような口調。
「一応の説明はつく。しかし証拠はあるか?」
 ソテールが反論を試みると、
「証拠はない」
 彼はきっぱりと言った。そしてふいに鞘ごと自分の剣を手にして、こちらに見せ付けるように剣を抜いてくる。初めて見る、奴の鞘。それはユニヴェール家の紋章、烏揚羽の舞う見事な意匠の代物だった。
 しかしそれを見て、
「あ」
 デューイが声を上げた。彼はしばし呼吸を止め、そして大きく吐き出す。
「ユニヴェール卿……貴方はそこにいたんですね? エリック・コーツとアルフレッド・フェアフィールドが伯爵を殺めた瞬間、貴方はそこにいた。貴方は始めからすべての答えを知っていた」
「…………」
「私は今朝、伯爵のお部屋の前でこれを拾いました」
 彼が取り出したのは、ひとつのスカーフ留めだった。白地に黒い蝶が描かれた、貝細工の小さな飾り。
「昨日就寝するまで貴方は我々と行動を共にしていました。その間に伯爵の部屋へは行っていない。それなのに私は今朝伯爵の部屋の前で、このユニヴェール家の紋章が入ったスカーフ留めを拾いました。つまり、貴方は夜中にあの場へ行ったということです」
 どうやらあの時この若者がかがみ込んでいたのは、気分が悪かったわけではなくスカーフ留めを拾っていたから、らしい。
「…………」
 答えを迫るデューイの視線にも、ユニヴェールは応じない。
 しかしその男の微笑を肯定と受け取ったか、アルフレッドは瞳を見開き、
「メーヴィスをどこの馬の骨とも分からない奴に渡してたまるか! ラングリッジにも、魔物にも、コーツにも!」
絶叫した。
「そうか、メーヴィスの嫁ぎ先はラングリッジ家か」
 ユニヴェールがつぶやくが、アルフレッドは聞いていない。
「父がいなくなれば何もかもうまくいくだろう!?」
「エリックはメーヴィス嬢を──あるいは彼女が持ってくる領土を手に入れられる。お前はフェアフィールドの当主となり、メーヴィスの婚約を破棄できる。そのためにエリックと組んだんだよな。そして死に逝く父親からメーヴィスの婚約相手を聞きだし、先手を打って謀略をめぐらすため、あの場にいたのだろう? ……あの伯爵は自分以外誰も信じなさそうな顔をしていたからな。息子のお前でさえ、大事な妹を奪ってゆく男の名を知らずにいたと見える。それとも、もっと重要なことを聞き出したかったのか? 秘密裏に繋がっている相手の名? 隠し財産の在り処? 秘密協定の内容? まぁ……そんなことは私にとってはどうでもいい」
 そしてユニヴェールは口元に人差し指を当て、悪魔のように笑って囁く。
「当主になってしまえば、エリックをメーヴィス嬢から遠ざけることも容易いものな。お前には、父親のような絶対遵守の道徳などない」
 ヴァチカンの使徒がすべてを見ていた。それが青年騎士を自壊させたのだろうか、アルフレッド・フェアフィールドはがくがくと身体を震わせたまま、ユニヴェールの言葉に従い続ける。
「エリックにメーヴィスをやる約束はした」
「だが守る気はなかった」
「それは──」
 アルフレッドが口を開き反駁はんばくしかけたのを、クルースニクは手で制する。
「咎めているわけではないさ。そんな裏切りなんて珍しくもない。だが──」
 そう言って彼はアルフレッドから目を逸らし、凍った夜空を見上げた。
「お前のやろうとしていることは、お前の父親がやっていたことと同じように思えるんだが」
「違う」
 騎士が血の滲む声で低くはねつける。
「違う」
 騎乗したままのメーヴィス・フェアフィールドが悲哀の眼差しで兄を見下ろしていた。もう今更、絶望することも失望することもないと言わんばかりの表情で。
「デューイ」
 ユニヴェールが標的を変えた。
「そのスカ−フ留めは私があそこへ行ったという証拠にはなっても、殺しの現場に遭遇した証拠にはならないと思うがね。しかし……危うく私まで有力容疑者になるところだった。そこの次期ご当主が勝手に誤解してぺらぺらしゃべってくれて助かったけどな」
 飄々とうそぶいている彼に、
「……フィリップ王のため、だな?」
 ソテールは感情のすべてを殺して目を細めた。
「フェアフィールド伯爵とアルフレッドがいなくなれば大陸でのイングランドの力は落ちる。仮にメーヴィス嬢が領主となったとしても、あるいは結婚で別の者が領主となったとしても、指揮系統が変わって戦力が落ちる。……だからお前はフェアフィールド卿が殺されるのを黙って見ていただけだったし、さっきもアルフレッドを助けようとしなかった」
「私は何もしていない」
「ユニヴェール」
 譲らない声音で凄むと、男はムスッとした顔でなにやら悪態をつくと、ガックリと肩を落とし疲れたため息をついてきた。
「始めに言ったろう? 私は何もしでかさない。見ているだけだと」
 そこで一度切り、後はまとめて一気に台詞が読まれる。
「そのとおりにしただけじゃないかなんで怒られなきゃならないんだ自分は幸せそうに夢もみないで快適安眠しやがってこっちは寝不足でふらふらだ」
「…………」
 ユニヴェールの八つ当たりで気がついた。
 ──自分は、ユニヴェールが部屋を出て行ったことにすら気がつけないほど熟睡していたのか? そんなのはクルースニク以前の問題、兵士として失格じゃないのか?
「デューイ、そのスカーフ留め、フタを開けられるんだ」
 ソテールの疑問を見透かしたように、ユニヴェールが言う。
 デューイが言われたとおりにフタを開けると、中から少量の白い粉が零れ落ちた。薬だ。
『…………』
「すごいだろ」
 そういえばこの男、やたらと遠くの皿の料理ばかり食べたがった。まさか同僚に薬を盛られるなんて思っていないから、注意もしていなかった。
「…………」
 謝るどころか得意げそうでさえあるユニヴェールの顔に、怒りを越えて涙が頬を伝う。
 ホントに誰だコイツをデュランダルに入れたのは。
「恩には報いるんだよ、私は。この家(ユニヴェール)から私を放ってくれたのはフィリップだ」
 無表情に戻ったユニヴェールが、黒蝶の鞘を足元に捨てた。
「そうかお前をデュランダルに入れたのはあの王様か」
 少しだけ、フランス王に殺意が湧いた。
「フェアフィールドにはすでに血の臭いがしていたんだ。私には分かる。いずれこうなるはずだった。クルースニクが来て魔物を退治してしまったら魔物のせいにできない。昨日が選ばれたのは、ただそれだけのことさ」
「止めても無駄だった。そう言いたいわけか?」
「無駄だった。歪んだ狂気はクルースニクにも斬れない」
 言い置いて、ユニヴェールが声の調子を変えた。醒めた中に、熱が混じる。
「貴様は──地獄の門というものは、鍵がなければ開かないと思っているんだろうな。でも違う。門はいつでも開いている。入るか入らないかは我々が決めることなんだよ。番犬は、己の仲間には吠えない」
「…………」
 ソテールは男の蒼い目を真正面から捕えた。ユニヴェールは平然と見返してくる。

 ──この男は一体何なんだ。

 シャルロ・ド・ユニヴェール。
 突如としてヴァチカンに現れ、ユニヴェール家の当主となったと宣言し、いつの間にかデュランダルに名を連ねていた男。
 その剣は違えることを知らず一撃必殺、時折……斬り過ぎ。どの現場でも顔色ひとつ変えず、言われたことを淡々とこなす。失敗はなし。
 それだけ功を上げていれば新進気鋭と騒がれてもよさそうなものだったが、枢機卿たちは静かに遠巻き。おまけに彼の姿を見ると身を隠す。そしてため息をつく。
 アイツは何だと尋ねても、皆あたりさわりのないことだけ言って逃げる。

「お前は──」
「隊長!」
 言葉を繋ごうとした瞬間、デューイが声を上げてソテールの後ろを指差した。
 振り返れば森の闇に紛れようとしているメーヴィスの後姿。見回すとネアンはいない。
「確かに話が終わるまで待っててくれるはずがないよな」
 彼は剣を抜き走り出し──、
「そこをどけ、ユニヴェール!」
 澄んだ剣響が森を渡り、ソテールは今度こそ怒鳴った。
 本来共に魔物を追うべきもうひとりのクルースニクが、あろうことかソテールの前に立ちはだかっていた。ふたつの剣身がギリギリと軋む音をたてて互いを拒んでいる。
 刃の向こうのユニヴェールは鋭い目で言ってくる。
「あの女は虚無と共にいる方が幸せだろうよ。どれだけ不幸な結末になろうとも」
 矛盾している。
「神の御許に逝くことだけが幸福ではない」
 荒廃している。
「クルースニクが諦めたら誰が闇から人を救うんだ」
「それが偽善だと言っているんだ。──救う? お前たちにそれができるのか? 目に見える闇を斬ることはできても人の闇を払うことはできないんだよ、誰にも」
 底冷えのする闇の中に響く、ユニヴェールの呪詛。
 そこには憎悪以外の何色もなかった。
「見ただろう? この家の顛末てんまつを。自分を自分だと思う限り、人の狂気は消えない。己に利益をもたらすため、己を満足させるため、己を認めさせるため、己を愛してもらうため、己を危機から救うため、闇はいつでも己と共にある。貴様が貴様である限り、私が私である限り、人が人である限り」
 男が鼻でせせら笑う。
「クルースニクは近付く魔を斬り誘う魔を滅ぼせても、己のために正気を装う人間までは滅ぼせない」
 そう言って、しかし今度は自分の台詞に自分で首を振ってくる。
「──いいや、違うな。人は狂気の上に正気を装っているんじゃない。正気の上に狂気を装っているんだ。狂気が己を突き動かしたと思い込みたがっているだけだ。しかし奴らは知っている。自分が何をしているかくらい、奥底で見ている。だが知らないふりをする。それが他人を壊そうが、自分を死なそうが、すべては己のため、狂気で隠蔽する」
 隠喩でもなく、誌的でもなく、そこにあるものをただ鷲掴んだ言葉。
 どれが感情でどれが理性なのかも分からない。
「人のために流しているはずの涙も、実は己のために流している。個人の卑小さを知りながら、それでは嫌だと嘆いている。神に懺悔し祈り、浄化されたと暗示をかける。積まれてゆく罪を背負うだけの度量がないと知っているからこそ、涙を流して楽になろうとする。だから同じ事を際限なく繰り返す」
 自分の墓を掘り起こされて半分腐った自分の死体を引きずり出されて、これがお前だと突きつけられている。
 そんな気がした。
 しかしそれに屈してはいけないと、身体の奥で誰かが告げていた。
「世界に絶望する者は多い。だが自分に絶望できる者はいない。何故なら、本能は知っているんだ。そこに在ることだけがすべてだと。では何故絶望を錯覚する? それは人が、そこに在るだけでは我慢できないと叫ぶからだ。すべてがそこに在るだけならば、どれだけ静かで美しい世界になると思う? 静寂と秩序に支配された透明な世界。それこそが神の望んだ世界ではないか?」
 この男は狂っているのか?
 ──いや、おそらく正気だ。
 ユニヴェールの目はソテールから外されていない。ソテールも外さない。
「うるさすぎるのだ。在るだけでは飽き足らない声が。私を見ろ私を認めろと叫ぶ声が。己のためにと世界を覆う正気の狂気の叫び声が、我々の首を締めるんだよ」
 交差する剣に更なる力がこめられ、互いの刃が欠けた。
 腕が悲鳴を上げ始める。
「人の魔にあてられ世界の影に逃げ込もうとする者を連れ戻す。それが救いか?」
 この男は、タナトスに憑かれている。あるいはそれそのものだ。
 狂気ではなく正気のままに、己の喉を裂きかねない。
 しかし──、
「そうだ、それが救いだ」
 人には、自分以外の者のために流す涙もあるのだと、言いたかった。
 父が死に、母が死に、その時ソテール自身が流した涙のように。
 自分以外の者を自分よりも大切に思うことがあるのだと。
 あの人の代わりになれるものならば、代わってもいい。神に背いてもいい、番犬に喰われてもいい、それでも冥界から連れ戻したいと思うことがあるのだと。
 己を捨ててもいい。けれど捨ててさえ何も変わらない。還らない。
 だからこそ、悲しみの青は深い。
「シャルロ」
 ソテールは一呼吸置いて、大きく剣を払った。ユニヴェールが一歩飛び退く。
 彼はユニヴェールに平面を見せるようにして、切っ先を夜空に向けた。
「俺からはお前の見ている側は見えない。だがこれは俺の剣だから、およその見当はつく」
「…………」
 クルースニクの名門ユニヴェール家。それがどんな家なのか、詳しくは知らない。誰も教えてくれないし、調べようにも記述がなかった。名門の門扉は堅く閉ざされていた。
 しかしそれゆえに、シャルロ・ド・ユニヴェールにとってはそれだけが、あの家だけが彼のすべて、彼の世界だったのではないか──?
「お前に、俺が今見ている面が見えるか?」
「見えない」
「そういうことだよ」
「どういうことだよ」
 不機嫌を隠そうともしないユニヴェールの顔。乱れた銀髪がかかっていた。らしくもない。
「お前の言ってることは正しいかもしれない。だがそれが世界のすべてじゃない」
 ソテールの父親が死んだのは、遠征先。案内役が持ち帰った言葉は一言、“生きろ”だった。ヴェルトールにしては凡庸なクルースニクだったと聞いている。だが少なくとも生に対する執着はあったのだ。
「俺は何度でも連れ戻す。何度でも、だ」
 そのためのクルースニクだ。人と魔物の領域を監視し、人が人の世界で生きるよう境界を守る。そこから先は彼らの仕事ではないのだ。この縛られた人の世でどう生きるかは、彼らの手の上にはない。それだけの荷は背負えない。
 それでも、
「世界は広い。人の数も多い。頼むから、見捨てないでくれ」
 この黒いクルースニクをこのままにしておいてはいけないと思った。
 得体の知れない“ユニヴェール”は、確実にこの男を蝕み殺してゆく。
 狂気と正気の狭間に彼を突き落としたまま、息の根を止めにかかってくる。
「俺に時間をくれ」
「どのくらい」
「このくらい」
 夕闇の森でユニヴェールがやったように、親指と人差し指で空間を区切る。
 曖昧だが、確実にそこにある長さ。確実に終わりのある約束。
 ひとりひとりが手にしている、世界の尺度。
 ユニヴェールの蒼眸が刃の光を消した。
「──勝手にしろ」
 彼は言い捨てて、剣を下ろす。
「……勝手にするさ」
 ソテールも剣を納めた。
 と、
「デューイ」
 ユニヴェールが幾分和らいだ声でため息をついた。
「剣を下ろせ。隊長殿とやる気もなければ、女を斬る趣味もない」
「──へ?」
「え? 女?」
 万一の時にはと剣を構えていたのだろうデューイの間抜けた声。
 ソテールも思わず聖騎士見習いを振り返る。
「女だろうが」
 なにを今更という顔つきのユニヴェール。
「女……?」
「い、いいいえええ」
 ソテールの視線を受けて、ブンブンブンと首を振るデューイ。
「ななな何を根拠にそんなこと!」
「──勘だよ、勘」
「お前は野生動物か」
 ソテールが半眼で言うと、
「文明の利器に頼ってばかりでかつての感覚を失った人間の方が下等な生き物さ」
 大真面目な顔で返される。
 やはり、この男の思考回路がよく分からない。
「それより隊長殿、この間にもメーヴィスは遠くへ逃げて行ってしまうんじゃないかい」
「気付いた奴が一番に行けよ」
「なんだか疲れた。後から行く」
「…………」
 確かにクルースニクはある程度魔物の気配が分かるから、追跡は不可能ではない。闇に紛れてしまうまでは。
「……お前、片がついてから来ようとしてるだろう」
「まさかそんな」
 しらじらしく言いながら、奴はもう樫の根元に身体を投げ出している。
「……分かった。行けばいいんだろう行けば!」
 ソテールは喚いて馬に飛び乗った。

 ──“隊長”ってなんだ?





「貴女が戻ると言おうが戻らないと言おうが、私はこの魔物を斬りますよ」
 見上げてくるメーヴィス・フェアフィールドの目には非難の光がありありと浮かんでいた。
「依頼者は死んだではありませんか」
あのバカ(ユニヴェール)の言うことを真に受けないでください」
 雪雲に覆われている空には月も星もなく、あたりは真っ暗闇だった。
 夜目は効く。
 だが、林立する木々の向こうに何が潜んでいるのか。気配を探るしか術はない。それは思うより神経が疲れることだった。のどかに長話を決め込むわけにはいかない。
 血が流れすぎたのだ。その臭いにつられて、魔物が集まってきてしまう。
「魔物と人とは相容れない。互いに不可侵でいなければならないのです。その境界を越えるからこそ悲劇が生まれる」
 ソテールは馬から降りた。
 剣を抜く。
「──闇の中で闇と戦うかね?」
 カツカツと、音が聞こえた。髑髏どくろの奥歯が笑った音。
 それを無視して彼は続ける。
「お前は彼女を喰わなかった。それがすべてだ」
 そうだ。それがすべてなのだ。
 彼は彼女が幼い頃からずっと一緒にいた。彼女が実兄や幼馴染よりも信頼を置くほど、ずっと。つまりこの魔物は、それだけの猶予があってなお、彼女を喰わなかったのだ。
「人は人のまま闇の領域へ行くことはできない。お前は吸血鬼ではないから彼女を魔物に変える術を持たない。しかし彼女の命を喰らえば彼女は永遠に自分のものとなる。けれどそれは同時、世界から彼女が消える──無になることを意味する」
 本当に愛しているからこそ、無にはできない。
「お前は、生きたメーヴィス・フェアフィールドの傍にいたかった」
 夜は冷たい。
「──言われなくても分かっているよ」
 世界が凍る。
 すべてが凍ってしまえば、何も聞こえずに済む。
 あきらめも、望みも、嘆きも、祈りも、呪詛も、叫びも、すべて。
「お別れだ、メーヴィス。これ以上いるとお前を殺してしまいかねない。それには耐えられないんだよ、私は。魔は死を運ぶもの、人は生きるものだ」
 けれどすべてが凍ってしまったならば、貴女の声も聞こえない。
「……逃げるのね」
 メーヴィスの言葉に咎めの色はなかった。
「魔物は卑怯だからね」
 ネアンが喉の奥で笑う。
「生きなさい。そうすれば、いつかまた逢える」
「──ネアン」
 メーヴィスの声と同時、それを振り切るようにソテールは大きく踏み込み闇を一閃した。
 夜に咲く大輪の花のように白い外套が翻り、一瞬の後、その足元にひび割れた髑髏が転がった。
 ── 己を捨てて愛しい人が生き長らえるのなら。
「ネアン」
 令嬢が駆け寄りひざまづくと、それは急激に風化を始めた。さらさらと砂になって風にのり、彼の形見はどこかへ消えてゆく。森に還ってゆく。光のない、闇の中へ。
「ネアン」
 ソテールは、砂を握り締めて肩を震わせる彼女に背を向けた。
「私が彼を救う方法はなかったのでしょうか」
 メーヴィスがぽつりとつぶやいた。
「貴女は、彼を救いました」
 月がなくて良かったと、思った。

 あの男はだいぶ遅れてやってきた。デューイたちを連れて。



「ったく、なんだってまたあんなところに戻らなきゃならないんだ」
 魔物の大群に追いかけられながら決死の思いでシノンの森を抜け、一番近くの街に到着した翌日。
「しょうがないだろ。まさか伯爵の遺体そのままってわけにもいかないだろうし」
 ソテールから報告を受けた英国軍(といってもこの街の警備兵数人だ)が、ジェローム・フェアフィールドの遺体を回収することになった。これが一般市民であったり、底辺の貴族であったりすると放っておかれるのだが、相手は死んでも伯爵だ。
「私は貴様みたいに頑丈にできてないから、疲れるんだよ」
 ふたりは、その英国軍の護衛をするように言われた。少しでも早くというので、今日出発だ。ちなみに、デューイは留守番。女疑惑は保留のままだ。
「頑丈って、変わらないだろうが。背も! 体格も! まぁ、お前は顔が白すぎて病人みたいだけどな」
「あー。また馬鹿どものお守りか」
 ふたりがいるのはこの街の自警団の詰め所前。階段に並んで座っている。
 目の前の路上では、冬の弱い光の中、鳩が子どもと戯れていた。……子どもが鳩の群れに襲われていると言った方が正しいか。どちらにしろ、微笑ましい。
「インノケンティウスとフィリップ。お前の主はどっちなんだ?」
 鳩と子どもの攻防を眺めながら、何気なく尋ねる。
「どっちでもないさ。私はどちらにも忠誠なんぞ誓っていない。どちらも私を信用していない。私の主は私だけだよ」
「なら、お前は何のためにデュランダルにいるわけ」
 ソテールは揚げ菓子の入った袋をユニヴェールに差し出す。
「……目的なんかないさ。じゃあ訊くが貴様はどうなんだ?」
「世のため人のためさ」
「バカだな」
 砂糖まみれのひとカケラを口に放り込んで、ユニヴェールが言った。
「そうか?」
「…………」
 いつの間にか、目の前の戦いにカラスまでもが参戦していた。三者が奪いあっているのはソテールが持っているのと同じ揚げ菓子。だが袋が違っていた。ソテールはおばちゃんからもらったものの上に、持参のおやつ袋をかぶせている。
 あいつらは学習する。あの袋の中に美味いものがあることを知っている。だから隠さなければ襲われるのだ。
 喧騒の円の外では犬が吠えている。それでも飛び込んでいく気にはならないらしい。
 意気地なし。
 ──そうだ。
「シャルロ。お前に目的をやる。俺を不撓ふとう不屈、伝説的なクルースニクにしろ。デュランダルの奴らが、一番年下だからって下っ端扱いできないくらいの」
「一生バカのお守りしろって?」
 蒼眼が上目遣いにこちらを見、呆れている。
「できないのか?」
 目を細めて返すと、ユニヴェールは予想どおりムッとした表情を見せた。
「できるさ」
「じゃあやってみろよ」
「──分かった。やればいいんだろ、やれば」
 言い放った男は、不敵な笑みで両手をわきわきさせていた。
「…………あの」
 ちょっと怖い。
 ソテールが前言撤回しようかと口を開いた瞬間、背後から声がかかった。
「ヴェルトール隊長、ユニヴェール卿、今回の指揮官であるバグウェル殿がお呼びです」
「…………」
「…………」
 仕方ない。
 ふたりは顔を見合わせ、腰をあげた。
 雑然とした辺境の街。そのざわめきを静めて立つ、ふたつの白外套。羨望の眼差しを送る人々を背にして、それは異口同音に言った。
『はいはい。行けばいいんだろ、行けば』



 ジェローム・フェアフィールドの死は、現地で任務にあたっていたクルースニクの報告により、魔物によるものとされた。死者を出した責任として、当該クルースニク二名はインノケンティウス三世令によって十日間の謹慎処分となった。同行した聖騎士見習いについては不問。

 また、遺されたイングランドの領地ではアルフレッド・フェアフィールドが当主の座に就いたが、妹メーヴィス・フェアフィールドは先代の意志に従ってラングリッジ伯爵と結婚した。
 一命を取り留めたエリック・コーツについての詳細は不明だが、故ジェーロム伯の私生児であり、アルフレッドが当主となってから小さな領土を与えられたミランダ・フェアフィールドの下で騎士に叙されたという噂もある。



THE END



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BGM by  L.van.Beethoven[交響曲第五番 運命 第一楽章]  Janne Da Arc[月光花]
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