冷笑主義

第1話  暗黒都市の番犬

後編




 吸血鬼とは、種族ではない。
 彼らは元々、人間である。
 尋常でない死に方をした者、溺死した者、法では裁かれぬ罪を犯した者、そして教会から破門され許されぬまま死んだ者。
 彼らは現世に彷徨さまよい、異形の者として永遠の時を背負う。
 生ける屍。
 闇の都市に身を埋め、欲するままに人を襲う。

 彼らにそれを拒絶する術はなく、どんなに拒みたくとも血を求め、どんなにその運命を呪おうとも愛する者のもとへと足が向く。
 しかしその多くは望まれぬ訪問であり──彼らの妻や恋人の通報により、ヴァチカンが極秘に飼う吸血鬼始末人集団“クルースニク”が派遣されるのだ。
 そうして情に耽溺たんできする者たちは葬り去られる。

 もちろん、吸血鬼も集まれば、中にはただの余興で人間を狩る者もいる。反対にクルースニクの中にも、狂信的に魔物を狩る輩もいる。

 光と影。
 ヴァチカンと暗黒都市。
 光が強くなるにつれ影も濃くなり、その対立は激化するばかり。

 光の聖域を守るために存在するのがクルースニクならば、黒の都市を守るために置かれているのがシャルロ・ド・ユニヴェールだといえる。
 数多の同朋の中でも機知と怜悧に飛び抜けて、神をも恐れず、死をも蹴っ飛ばし、柔らかい冷笑のうちに全てその手の中で握り潰す。
 彼にどんな過去があるのかは、あまり知られていない。彼が語らないからだ。しかし、彼が元吸血鬼始末人クルースニクであること、そして現在は暗黒都市の要望を完璧にこなしていることだけは、事実。

 ──闇は全てを覆い隠すが、光は全てを照らし出すことは出来ない。
 それが、彼の口癖である。


◆  ◇  ◆


「あぁ、まだ身体からワインの香りがするぞ」
「自業自得です」
「どこが」
 翌日主は終課の鐘の音と共に起き、何故か黒の外套まで羽織って靴音も規則正しく階下へと降りてきた。
 パルティータは彼の着席に合わせようとテーブルに夕食──ではなく夜の朝食を並べる。
 血液のみが仮初の命の糧である吸血鬼にとってこんな食事は無意味だが、それでも主はこの儀礼を欠かさない。
 が、
「今日は後回しだ。ロートシルト卿の仕事を片付けてしまわねばな」
 ユニヴェールはそのまま優雅に玄関へと向かって行った。
 彼女も釣鐘草のシャンデリアが淡く照らす廊下を彼の後に続く。
「二輪馬車は用意しておきましたが」
「上出来だ」
 彼は振り向き様にぐいっとパルティータの手を引き黒髪の上から額にキスをする。
「どちらへ参られますか?」
「サヴォア邸へ」
 男は一瞬も動きの流れを止めることなく、玄関先に停めてあった馬車へひらりと飛び乗った。
「気をつけて行ってらっしゃいませ」
「お前も行くんだ、パルティータ。御者がいないだろう?」


◆  ◇  ◆


 シャルロ・ド・ユニヴェールの屋敷はそれなりに広い。どこぞの貴族の所有物だったものをユニヴェールが手に入れたらしく(手段は知らない)、今住んでいるのは主たる吸血鬼とパルティータ、そして幽霊の女中と一匹の黒猫だけなので、ほとんどの部屋は使われておらず、掃除もされていなければ、窓を開け放ち空気を換えることもされていない。(これはパルティータの怠慢によるところが大きいが)
 しかしカミーユ・ド・サヴォア卿の屋敷はもっと、仰け反るほどに広かった。……しかも仰け反ったところで全体は見えない。家本体も大きいが敷地も大きい。山査子さんざしの生垣も綺麗に刈られ、夜目にも広大な邸宅隅々まで配慮が行き届いているのが分かる。

「ロートシルト卿は何回かここへ来たな?」
「何故です?」
「クルースニクが数匹いる」
「では?」
 パルティータが邸宅の終わり、鬱蒼とした木立の中で馬を止めながらユニヴェールを見やれば、彼が楽しそうに口元で一本指を揺らす。
「全く問題ない」
 言ったかと思うと男は蝙蝠コウモリのように漆黒をひらめかせて石畳に降り立った。
 鋭利な白皙と鮮紅色の双眸が闇夜に香る。
「では、待っていろ」
「御意」


 ユニヴェールは隠れもせずに悠然と正面から歩いて行った。
 何の気なしに手折った山査子の枝を放り捨て、泰然と踏みつけながらそのまま相手がそろうのを門で待ったのだ。
 無論、クルースニクがばたばたと現れ、彼を無言で包囲する。
 白仮面をつけ、僧衣というよりは騎士服に近い出で立ちで、聖なる十字を刻んだ銀剣を腰に帯び、ヴァチカンの密命をただ果たす──吸血鬼始末人クルースニク
 数は二匹。
 人間が聞いたらさぞかし怒り狂って“ふたり”だと喚くだろうが、しかしここには、“人”と称してやるほど高級なクルースニクは派遣されていないようだった。
 吸血鬼にも色々いるように、クルースニクにも色々いる。
 暗黒都市を脅かす者から、しがない下っ端まで。

 麗しの吸血鬼は鼻先で笑い、地上に立つ者を威圧する屋敷を眺めやった。
 この状況を見るに、サヴォア卿が自分で思っているほど、そしてユニヴェールが予定していたほど、ヴァチカンは彼を重くは扱っていないということだ。
 まったく、つまらない用件を背負い込んだもんである。こんなところで三下をひねり殺したところでヴァチカンへの威嚇にもなりはしない。

「綺麗な晩だ。そう思わんか?」
 ユニヴェールが視線だけを動かして穏かに問い掛ければ、白仮面をつけたクルースニクのひとりが返す。
「月は出ていない」
 まだ若い声だった。
「馬鹿を言え。真に美しきものには光などいらないのだ」
「貴様、吸血鬼だな」
「だったらどうする? え?」
 ユニヴェールは背が高い。故に、銀剣を構えたクルースニクを上から脅迫するように睨みつける結果となった。
「光のまばゆさには限界がある。だがな、闇の深さに限界はない」
 それだけで人を射殺せそうな紅が笑みを含んで瞬いた。
 と同時に、すくんだクルースニクの首から何かがばちっと引き千切られる。
 銀の鎖のロザリオだ。
「くだらない」
淡く微笑んだ吸血鬼は二匹のクルースニクに見えるよう、ロザリオを掲げて屋敷の灯にかざす。
 牙がのぞいた。
「実に……くだらない」
 言葉と共に、その長くしなやかな指の先で聖なる十字は音もなくひしゃげてゆく。
 沈黙が凍った。
「人を襲いに来たのではないよ、話を聞きに来ただけだ。もっとも──それでも私とやりたいというのなら、構わんが」
「…………」
「ただし、貴様らでは相手にならん。別のを連れて来い。私を滅ぼせるくらいのクルースニクをな。特務課デュランダルの隊長殿はお目覚めかね?」
 ユニヴェールが微笑を浮べようとした瞬間、遠くで火の爆ぜる音がした。
 彼は首を少し横によけ、人差し指と中指をぴっと立てる。
「──やられたな。もう一匹潜んでいたとは」
 彼がふっと息を吹きかけた指につままれていたのは──銀の銃弾。
 二匹のクルースニクが息を呑む音が、した。
「ヴァチカンはこんな物騒なものまで持たしているのか。当ったら痛いだろうに。しかし、例の如く一般人は何も知らないのだろう?」
 乱れひとつない相貌が夜空を見上げ、屋敷を仰ぐ。
「生憎、貴様らと遊んでいるほど暇人ではないのでね、失礼」
 最後の言葉が妖しく空気を震わせたその時にはもう、そこに男の姿はなかった。ふたりの吸血鬼始末人が口を開いたまま見合ったその空間には、肌寒い夜風が吹き抜ける。
 折れ曲がったロザリオと銀の銃弾とが石畳に落ち、乾いた音を立てた。
 空虚に笑っていた。
 そしてまた、闇に静寂が戻る。


 本来ならばここにやってくるのは頭のネジが恋に緩んだロートシルト卿であったはずなのに、なんと不運な吸血鬼始末人の若者たちであったことか。
 吸血鬼の中のそのまた化け物であるユニヴェールといきなり対峙するとは、本当に運がない。
 山査子は踏みつける、ロザリオは恐れない、おまけにためらいも痛みもなく曲げる、あげく銀の銃弾を宙で掴む。
 ちなみに彼はその胸に杭を打たれても、首を銀の剣でがれてもしつこく甦る。
 つまり──誰も、彼の滅ぼし方を知らない。


「あー、本当にくだらない」
 呆然と佇んでいる白のクルースニクを見下ろしながら、当のユニヴェールは屋敷の屋根の上、煙突に寄りかかって心底つまらなそうに嘆息していた。
 黒衣は風にはためき、
「久しぶりに少しは遊べるかと思ったが──あんなヒヨコ以下ではな。猫がネズミをなぶるのと変わらん。……男の血なんていらんしな……」
 思わず喉が鳴った。
 しかし、享楽で婦女子を襲うことはパルティータから厳しく禁止されている。
 こっそり破ったことはあったが、何故か見つかって(おそらく屋敷で飼っている黒猫が告げ口したに違いない)、散々小言を浴びせられたうえに棺桶に鍵をかけて閉じ込められたのだ。
 あの時はある意味本当に死ぬかと思った。精神的に。
 彼女の首をへし折るのは簡単だが、彼女がいないとあの屋敷が“ゴミ屋敷”と呼ばれるようになるのは目に見えている。
 しかも、へし折ったらへし折ったで、更なる厄介を背負い込むことになりそうな予感もする。
 一日中彼女の幽霊に張り付かれて、一日中小言や恨み言を淡々と言い続けられたら!
 考えただけでもげんなりする。

「仕方ない。仕事するか」
 黒い影は、また消えた。


◆  ◇  ◆


「というわけでロートシルト卿、残念ながら奥様はお亡くなりになっておりました」
 世間的には夜遅く。彼らにしてみればもうすぐ黄昏の時間だという時刻。
 磨かれたテーブルの端にはシャルロ・ド・ユニヴェールが足を組み、背筋を伸ばして座っていた。もう片方の端には哀れに肩を落としたセザール・ド・ロートシルト伯爵。
「現在奥方と称されております方は、いわゆる偽者でして。奥方がサヴォア卿の他に慕っている男がいて──つまり貴方です──、サヴォア卿がそいつを葬ったがために奥方が嘆き悲しみに暮れて衰弱死したなど、公表出来るものではありませんからね。貴方が殺されたのは、誰もが予想できるとおり、ミレーユ・シャルドネ嬢との結婚に邪魔だったせいです」
「ミレーユの墓は……」
「ローマです」
「ローマ……」
 卿の目がうわずった。
 だが、ユニヴェールがぴしゃりと言い置く。
「残念ながら、墓を探しにローマまで行くほど私は閑人ではありません、ロートシルト卿。貴方がどうしても行くというなら止めはしませんが、貴方には危険すぎる道程だと思いますよ」
 魔物がローマへ、ヴァチカンへ近付くことは容易ではない。
 聖なる都には精鋭の吸血鬼始末人がわんさかいるのだ。田舎町にいるような雇われ傭兵と始末人を兼ねたような者ではなく、対魔に特化した、それこそそれだけに運命を捧げるような輩が。
「気を落とさないでくださいませ、ロートシルト卿。奥様は最後まで貴方を愛しておられたのですから、それでよいではありませんか」
 全く心のこもっていないパルティータの慰めも、涙の海に溺れる若者には素晴らしい詩の一節に聞こえたようだった。
 彼はがばっと立ち上がり、腕にパルティータを抱き締める。
「ありがとう! 優しい人、ありがとう! 僕は君の声にどれほど癒されるだろう!」
 ユニヴェールの柳眉の片方が跳ねた。
 パルティータは感情の浮かんでいない黒い目で、感涙にむせぶ吸血鬼の背を軽く叩く。
「君は僕の理想の人だよ、インフィーネ嬢〜!」
「…………」
 ユニヴェールがすっと立ち上がった。
 上品な物腰で柔和な笑みを浮べたまま、つかつかとやってくる。
 そしてがしっとロートシルトの両肩をつかみ、ぐっとパルティータから引き離し、彼を直立の姿勢に戻す。
「ご期待に添えない結果で真に申し訳なく思っております、ロートシルト卿。また何かありましたらどうぞ遠慮なく。他に忙しいことがなければ、次回も快く引き受けさせていただきますから」
 そして彼は、さかんに何か口走る卿の背中をずんずんと押し、
「心の傷を癒すにはおひとりになられた方がよいですね」
 玄関ホールの真ん中まで連れてきて、仰々しく一礼する。
 そしてユニヴェール自身は三歩ほど退がり、壁に取り付けてあるメイド呼び鈴の紐を思いっきり引っ張った。
「それではお休みなさい」
 がこん、と奇妙な音がして、ロートシルト卿の姿が忽然と消えた。
 床が、卿の立っていた床が、ぽっかり口を開けている。
「パルティータ〜! 手紙を書くよ〜〜〜」
「…………」
 尾を引く恋男の言葉が遠くなってゆき、パルティータはいそいそと穴をのぞく。
 ただ直下へと暗闇が広がっているだけで何も見えない。
「……これ、どこへ続いているんです?」
「暗黒都市のド真ん中へ続いている」
 怪傑かいけつの吸血鬼はそう言うと、清々しく奥へと去って行った。



「で、真相はどうなのですか?」
 パルティータは訊いた。
 にんじんジュースを書斎のデスクに置きながら、長椅子のクッションに長身を投げ出す主を見やる。
「真相?」
「帰りの馬車の中でもお楽しみだとか言って教えてくれませんでしたが。嘘ですよね、奥様が亡くなったなんて」
「ぴんぴんしてたぞ」
「奥様も共謀してロートシルト卿を殺したんですね?」
「普通の頭ならそう考えるだろうがな。あの坊ちゃんの頭の中には濃霧が発生しているんだろうさ。どう考えたってロートシルトとサヴォアじゃ、金も地位も約束された未来も格が違いすぎる。サヴォア卿にしても、美女として有名だったミレーユ嬢を収集したかったんだろう。あの屋敷はメイドに扮した愛人だらけって噂もあるようだからな。奥方は金を選んだが、卿はあのとおり夢見がちで思い込むと一直線だから、邪魔になった。だから奥方は彼のもとから身を隠し、サヴォア卿はうるさいハエを叩いた。首筋に牙をあててやったらペラペラ白状してね、あのご婦人は」
 ユニヴェールの口元が皮肉げにつりあがる。
「愛を取るか金を取るか、それが問題だ」
 遠くで朝課の鐘が鳴った。
 光と闇、異形と人間、支配の交代が始まる。
「──それにしてもくだらないことに労力を使ったもんだな、私は。パルティータ、お前のマズイ血を飲ませろ」
「嫌ですよ。この間大仕事した時に飲んだばかりでしょう。私の身体だってそう簡単に血液量産できるわけではないのです」
「それさえ出来ればお前は暗黒都市の女王にもなり代われるんだがな」
「結構です」
「吸血鬼に襲われても死なない、吸血鬼にならない。……長年生きてきたがお前が初めてだ」
「何事にも始まりはあるものです」
「あのまずさは致命的だが」
「放っといてください」
「…………」
 感情全開な若吸血鬼の相手をして疲れたのか、いつもなら延々と続く嫌味は途切れ、代わりに無防備な寝息が聞こえてきた。
 存在そのものが舞台に立つ役者のような、南フランスの麗人。
 暗黒都市の絶対なる番犬。シャルロ・ド・ユニヴェール。

 パルティータは小さくため息をつき、くすんだ紅の厚いカーテンを隙間なく締めきった。そしてろうそくの炎を吹き消す。
 外は暁を待ち始めているというのに、室内には完璧な闇の帳が降ろされた。
 と、夢うつつなテノールが再び聞こえてくる。
「そういえば、サヴォア卿のところから金貨をごっそり黙ってもらってきた」
「泥棒」
「──ロートシルト卿を相手にした特別手当をやろうか」
「…………」
 見れば、暗闇の向こうで紅が冷ややかに笑んでいる。
 パルティータはこの世のものとは思えぬほど華やかな笑みを返し、雲雀のように軽やかな声で言った。
「お疲れ様でございました。肩でもお揉みしましょうか?」



THE END


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