冷笑主義

第1話  暗黒都市の番犬

前編



 その人物は何やら楽しげな表情で、埃っぽい古書を次々と本棚から引っ張り出したあげく、開いては放り出し、開いては放り出し、していた。
 本人にはそれなりの目的があるのだろうが、傍から見ればただ無目的に散らかしているとしか思えない。
 現にさっきまで整然としていたはずのその部屋の平穏は失われ、足の踏み場もなくなった哀れで無残な姿がさらに悪化してゆくのみ。

 彼女──パルティータ・インフィーネは嘆息をのどの奥に押し留め、銀盆にのせたティーカップをひっくり返さないように注意しながら開いた扉を軽く叩いた。
 と、機械仕掛けの人形の如く瞬時に、部屋の主がこちらを向く。
「あぁ、パルティータ。何か用か? 今は見てのとおり少し忙しい」
「何かお探しですか?」
「有用な本と無用な本とを整理しようと思ってな」
 ──整理。
 彼女はロウソクの炎に浮かびあがるその男の顔をまじまじと見つめた。
 整えられた銀髪に、どこかやり手の弁論家を思わせて他人に警戒感を与える切れ長の双眼。やや病人っ気のある青白い顔色だが、あごは鋭く鼻梁はひとすじ通り、強情な意志が見え隠れする。
 しかし特筆すべきは──その瞳が紅玉ルビーよりも紅いこと、そしてこちらを見て微笑しているその口元で見え隠れする尖った犬歯。
「整理、ですか」
「整理だ」
「……そうおっしゃるんでしたら、私はそれで構いませんが」
 ぶつくさ言いながら、とりあえず彼女はその男へと物理的に近づく道を見出そうとした。
 部屋は、それほど広いものではない。
 かつては執事かなにかの書斎としてでも使われていたのだろうが、いまや単なる書庫である。それも、地下と一階に存在する図書室からさえ溢れ出てきたあぶれ本の住み処だ。
 大層値が張るだろう樫材の重厚なデスクも、唯一それらしい仕事といえば部屋を照らしているロウソクの燭台が置いてあるということだけで、他に仕事をさせてもらえない状況にあった。
 つまり、そこも古書で埋まっていた。
 彼もまた主の整理の犠牲者である。
「ユニヴェール様、お手紙が来ておりますのでお届けしたいのですが」
 彼女は主に近づくことを断念し、扉の場所から動かず告げた。
 すると主はいきなりパタンと手にした書を閉じ、ひたとその紅眼でこちらを見据えてくる。
「パルティータ。私は身内に上の名で呼ばれるのが好きでないと言ったはずだが? シャルロと呼びなさい」
「言いにくいんです」
 主の名はシャルロ・ド・ユニヴェールという。
 世間的には、ユニヴェール卿。つまり、爵位── 子爵の位を持っている。いや、持っていた。
「おまけに私は身内ではありません」
 パルティータはこの屋敷のメイド娘である。食事の支度をしてくれる幽霊の女中おばさんはもうひとりいるが、紅茶運びやら手紙運びやらの細々した世話事から、家令や執事めいた雑務まで、この屋敷の全般を扱っているのは彼女なのだ。
 真っ直ぐに伸びた黒髪と、黒い眼、社交的には“お綺麗な方ですね”と言われることができなくもない顔立ち。まだ少女とも表現できる年頃ではあるが、誰よりも屋敷を知り、自らの行なうことについて主に判断を仰ぐことはあれど多く口出しはさせない。
 柔らかな灰色のメイド服、スタンドカラーをきっちり留めて、好き勝手にやっている。
「手紙か、誰からだと書いてある?」
 ユニヴェールの話がいきなり飛ぶのは今日に始まったことではない。
 彼女は主の言葉に従い、三つ折りにされ、赤のロウで封印してある手紙の隅を見やった。
「“C.R”という署名がありますが」
「C.R、ね」
 口の中でそのイニシャルを繰り返しながら、黒衣を寸分の乱れなく着込んだ男は、芝居がかった仕草で大窓から外を見た。
 外は寝静まった静寂の夜。
 見下ろすことのできる街並みは闇に紛れ、暖かい灯の光ひとつも見つけることはできない。幽鬼や異形が跋扈ばっこする、世界の裏側。

 光と影が色濃く倒錯し、栄光と暗黒が支配するこの時代。
 神への賛美歌は尽きることなく、壮麗で華美な聖堂が所狭しと建てられて、芸術が花開き、光あるところには崇拝と清浄なる精神が満ちている。

 だが光が増せば影も増す。

 陽光消えし西の空。黄昏とともに支配は変わらん。
 市の雑踏も夫人たちのおしゃべりも引いてゆき、夜の闇が街を喰う。祈りの声も細々と、人は闇を畏れて閉じこもる。

「その名前には心当たりがある」
 ユニヴェールは言うなりクルリとこちらを向き、どこをどう踏んだのか軽業師のような身軽さで本の海を乗り越えて、あっと言う間にパルティータの眼前に立っていた。
「そいつはきっと、セザール・ド・ロートシルト卿に違いない」
 明後日を見やるとぼけた顔と貴族ったらしい上品な物腰が相まって、一級の結婚詐欺師を呈しているユニヴェール。
 それが意味深にパルティータをのぞき、シニカルな笑みを浮べて囁いた。
「彼はいい男だぞ。顔も身分も気概もな。欠点といえば──少々盲目的なところと──これはいささか決定的だが、私と同じ“種類”だということか」
 勝手に批評を下しながらユニヴェールは盆から手紙を取り上げ、素早く目を通す。
「今晩訪ねてくるそうだ。晩課の鐘がさっき鳴っていたからもうすぐ来るだろう。パルティータ、紅茶を用意しておけよ」
 パルティータは半分聞き流していた。
 主はなんと言った?
 “私と同じ種類”と言ったか?
 それは──
「つまり、ロートシルト卿は……」
 念押しのために口を開けば、ユニヴェールが彼の薄い唇に立てた人差し指をあて、言葉を押し留めてきた。代わりに結論を自分で引き継ぐ。
 囁くような、甘美なテノールの声音。
「つまりあの男も私と同じ、すでに一度死した者……吸血鬼だということだ」
 そして微かな笑みを漏らして更に彼女の耳元で言い募る。
「何か不都合があるか? パルティータ」
「いいえ」
 彼女は言葉を切り、ひたと主の紅く煌めく双眸を見据えた。
 穏かな表情のまま、真っ直ぐに言う。
「吸血鬼なんて一匹だけでも扱いに骨が折れるのにもう一匹やってきたんじゃ臨時給金をもらわなければ明日こそ私は過労で倒れるんじゃなかろうかと心配になりましただけです」
 対して主は、幾人もの娘や婦人を虜にしてきた柔らかい眼差しで、ふっと笑った。
 声は優しく言葉は勝ち誇り。
「大丈夫だ。幸い私は良い医者を何人も知っている」


◇  ◆  ◇


 その男は、確かに誰もが認める紳士に違いなかった。彼のために心を虚ろにする女は数知れず、おまけに伯爵という地位まで持っていたのだから、結婚を企む親の数も数知れず。
だったに違いない。
 昔は。
 生前は。
「ユニヴェールはこちらに」
 夜深い中、屋敷の裏手に広がる黒の森奥から、二輪馬車に揺られてやってきたその男。
 パルティータは極めて事務的に一礼し、彼を案内するために背を向けた。

 セザール・ド・ロートシルト卿。
 鳶色とびいろの髪は肩ほどまで伸ばされ、無造作に後ろでまとめられていた。そういう奔放なことができるのもまだ彼が精神も身も若くして時を止めたからだろう。
 背もユニヴェールと同じ程高く、秀麗ながら愛嬌のある顔は人好きがするし、黒の外套を止めてある飾りピンに使われているのはおそらく本物のサファイアとダイヤ。
 衣装に使ってある生地も、ある程度の街へ行かねば手に入らない高級品である。
 申し分ない男だ。吸血鬼でさえなければ。

「お待ちしていました、ロートシルト卿」
 明らかに歳はユニヴェールの方が上に見えるが、これも爵位の違いというものである。彼女の主は恭しく胸に手をあて、直立のままに客人を迎え入れた。
 暖炉には火が入れられ、テーブルの上には煌々(こうこう)とロウソクが灯されている。
 ユニヴェールは自分の向かいになるように彼を座らせ、通りがかりに燭台を隅へ寄せて自らもきびきびと席についた。
 彼は長い足をさっと組んだかと思うや否や、かしこまっている若い吸血鬼に問う。
「で、率直にお聞きしますが、私に御用とは何でしょうか?」
「ユニヴェール卿は、誰かを愛したことがございますか?」
 パルティータは空のワイングラスを運んできたところだったが──いきなり若い輩に真摯な顔でそう問い返された主の顔を見るにつけ、吹き出しそうになるのを必死にこらえなければならなかった。
 ユニヴェールは鳩が豆鉄砲を顔面に喰らったような顔で固まっていたのである。
 いつも余裕面をして優雅に立ち回っているあの男が!
 震える肩をどうにかなだめながら主の前にグラスを置いた時、彼はジロリとこちらを睨んでくることは忘れなかったが、それが何になろう。
「──なきにしもあらずというところです」
 取り繕った苦笑を浮べてユニヴェールが言う。
 それを聞くか聞かないかのうちにロートシルト卿は半分腰を浮かし、身を乗り出して声を大きくした。
「ならば私の心内がよく分かっていただけるはずなのです! 私の妻になる人はある晩見知らぬ男に連れ去られ、あげくおそらく同じ手の内の者に私は殺されてしまったのです! そして私はこのような吸血鬼という忌むべき存在と成り果ててしまいました。しかし先日よからぬ噂を耳に致しまして──それが、私の妻がある男と結婚したという噂でした。もちろん約束を交わしたとはいえ法律上はまだ私の妻ではなかったわけで……憤慨しつつも仕方ないことだと思いました。けれどもその相手というのを聞いて私は愕然としましたよ。その男は妻を私から奪い、私を殺させた、そう私が確信している男だったんですから!」
 すごい勢いで一気にまくしたてるロートシルト卿。
 熱くなった空気をさますように、ユニヴェールが冷ややかに口を挟む。
「それで?」
「私は妻を、ミレーユ・シャルドネを取り返したいのです。それから、私が何故殺されなければならなかったのか、真実を知りたいのです!」
 ──正確には、妻になる予定だった人、ね。
 パルティータはロートシルト卿のグラスに赤ワインを注ぎながら胸中で訂正する。
「貴方の妻になる方──ミレーユ・シャルドネ嬢と貴方は、その事件の時同じ場所にいたので?」
「いいえ。妻は妻の屋敷に、私は私の屋敷におりました。しかし後で知ったところによれば、妻がさらわれたのと私が殺されたのはほぼ同じ時のようです」
「…………」
 ユニヴェールがあごに手をあて黙考した。
 そしてふと言う。
「貴方の取り返したいとは、どういう意味ですか?」
「ヴィス・スプランドゥールに連れて帰ります」
「あの街に人間は入れませんよ」
「同族として、です」
「…………」
 ただでさえ人に嫌悪感を与えかねない主の目が、さらに細まった。
 ヴィス・スプランドゥール。
 それは街の名である。
 神の輝きを受けた光溢れる都市が、神の代理人たる教皇が君臨するヴァチカンであるならば、そこはまさに闇を支配する暗黒の頂点都市。
 幽鬼、死鬼、吸血鬼、人狼、魔女、魔術師、夢魔、死人使い、獣使い、魂喰い(ソウルイーター)、呪師、狂戦士バーサーカー、数え切れぬ異形が集まり群れをなす都市。
 針葉樹で覆われた黒い森の奥深くに入り口は潜み、表からは決して見えない。
 だが陽が落ちれば夜陰に紛れて馬車を駆り、暗黒都市の住人たちは森を抜ける。恐怖と戦慄を携えて、神に加護された街々にまでやってくるのだ。
 そして人を襲い、仲間を増やし、死をばらまき、凍れる黎明と共に戻ってゆく。

 ただの人間がその街へ入れば命はない。
 ウサギが自分から狼の群れへ飛び込んでいくようなものである。
 しかし彼らは同族には寛容だ。

「ミレーユ・シャルドネ嬢も吸血鬼にする、と?」
「愛あればこそ、です。我々は半永久です。特にあの都市にいれば永久だと言っても過言ではないでしょう。私は彼女と離れていることなどできない」
「……そうですか」
 若いとは素晴らしいことである。
 パルティータはユニヴェールの数歩横で控えたまま、主の反応を面白がっていた。
 主が若くないというわけではない。ロートシルト卿よりは上であるものの、彼は若くして死に若くして吸血鬼となった。だが、吸血鬼としての年月は遥かに長いのだ。

 ユニヴェールという吸血鬼は“伝説の名剣収集”やら“伝説の錬金術本収集”やらロクでもないことに無駄な情熱を傾けることがしばしばあるが、こと色沙汰に関しては技量はあれど熱心に語るのを見たことがない。
 夫を亡くして悲嘆に狂った未亡人やら、死の床についている良家の娘やらをたぶらかしては、彼女たちを安らかにする代わりに(ユニヴェールは取り引きだと言っている)血をいただいてくる。
 が、冷酷なもので、彼としてはただエサを捕獲するために優しさを振りまいているだけなのだ。恋も愛も、片鱗すらない。

「あなたはクルースニクと──吸血鬼を狩る者たちとかなりやりあえる御方だと聞き及びました。妻は高貴な身分になっていますから、警護も厳しいかと思うのです。私はまだ吸血鬼としても浅く、無謀に向かって行ったら返り討ちにあうだけでしょう。ですから!」
「かなりやりあえる?」
 薄く笑ったユニヴェール。鋭い牙が姿をみせる。
「何のために私がこの屋敷にいると思っているのです? 何のために黒き都市への門を守るこの屋敷にいると思っているのです? 私に関して述べれば、吸血鬼始末人クルースニクなど問題ではありません」
 過信は時として致命傷となる。
 だがこの吸血鬼は事実を言っているだけだ。
 誰もを魅了してやまないこの端麗で嫌味な吸血鬼は、問答無用に強い。それこそ陽光など歯牙にもかけぬほど、強い。
 逆境こそ彼の悦びであり、優越こそ彼最大の自己資産なのだ。
 そのためには物理的科学的法則を無視することさえいとわないのだから、強くて当たり前ではある。
「まぁ……未来のことは彼女を連れてきてから決めていただきましょうか、ふたりで話し合ってね」
 ユニヴェールがワイングラスを手に取り、素っ気なく話を終わりにした。
 他人の重大事など、自らの退屈を紛らわすものでしかないのだ、この華麗なる吸血鬼にとっては。
 しかし彼はすぐに指をぴっと顔の横に立て、あぁそうだとロートシルト卿を見やった。
「貴方の奥様を連れ去ったと、貴方が確信を抱いている人物のお名前をお訊きしていませんでした」
「サヴォア卿。……カミーユ・ド・サヴォア卿です」
 はっきりとしたロートシルト卿の答えは、ユニヴェールを充分満足させたようだった。
 彼の頭の中の人物名鑑に名前があったのだろう。
 彼は足を組み替えて断言する。
「サヴォア卿ね。分かりました、ロートシルト卿。明日の夜遅くにはそのお悩み解決しておいて差し上げましょう」
「本当ですか!」
「約束は守ります。少々遅く……晩課の鐘と朝課の鐘、その間ほどに来ていただければ結構です」
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
 ロートシルト卿の喜びようといったら、とんでもなかった。
「なんとお礼を申し上げてよいか! 私がずっと悩んできたことがこんなにすぐに解決するなんて! すばらしい! 嘘みたいです! 何故もっと早くに来なかったのか! 化け物吸血鬼の屋敷だからやめておけと言われたって、もっと早くお訪ねするんでしたよ!」
 賛辞(?)の雨嵐の中、無責任なユニヴェールは早々に席を立ち、くだらない図書整理に帰ってしまった。が、この感極まったロートシルト卿はなかなか帰ろうとしなかった。
 主よりも爵位が高いのだから邪険にするわけにもゆかず、パルティータは根気よく話を聞き続け、これがまた若さのためかワインが入って彼は驚くほど饒舌であった。
 普段は寡黙で口を開けば嫌味と皮肉しか出てこないような吸血鬼を相手にしているパルティータにとって、それは大変な重労働であった。
 他人の惚気のろけ話を聞いて心底楽しい人間がどこにいよう。

 それゆえに、朝課の鐘が鳴り世界に朝というモノが来て、若い伯爵が黒き森へと帰った時。彼女は随分と機嫌が斜め向きになっていた。
「パルティータ! 寝酒にワイン!」
 階上の寝室から降った無邪気な声。
 彼女は返事もせずに倉へ降り、両手に持てるだけワインの瓶を掴んだ。
 そしてずかずか階段を昇る。
「お待たせしました」
 言うと同時に有無を言わさず全てを部屋に放り込み、悲惨な大音響と罵声は扉で封じる。
「労働条件は自ら戦い改善しなくてはならないのです」



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