冷笑主義
第10話 ダンピール
前編
サン・ピエトロ大聖堂。
それは教皇ニコラウス五世が改装に着手して以後放り出されたままの、聖なる地。
クルースニク、ソテール・ヴェルトールはその前の広場で、彼の弟子に剣を教えていた。
……とは言っても、弟子は悲しくなるくらい上達してくれないのだが。
「ソテール、休みませんか?」
倒されて足下に転がっている弟子が見上げてきた。
「そうするか」
ソテールは笑って、聖剣を白いロングコートの中に納める。
「申し訳ありません、出来の悪い弟子で」
息を弾ませ顔を上気させながら立ち上がった少年は、綺麗な銀髪に蒼い目。
聖職者だらけの聖域の中で飄々と貴族風を吹かす相貌には若さゆえの愛嬌があって、切れ目のない流れるような動作は本人のおっとりとした性格を反映している。
華やかな社交界の中に放り込んだら女どもにもみくちゃにされる類の若者で、対処方法が分からず笑ってもみくちゃにされ続ける類の子供。
「せっかくかの有名なソテール・ヴェルトールに教えてもらっているのに」
そんな殊勝なことを言いつつ全然悪びれていないあたりがまた、その容姿と相まってソテールにひとりの男を思い出させた。
その男も銀髪で、聖域の只中で貴族っ気をまとい続け、大昔は蒼い目をしていたのだ。
「フリード」
少年の名は、フリード・テレストル。
「お前は剣術と神学とどっちが好きなんだ?」
「……うーん」
少年が眉根を寄せながらゆっくりと歩いてきて、石段に腰掛け足を投げ出しているソテールの横にペタンと座った。
「僕は史学が一番好きですよ」
そう笑ってから、彼は小さく付け加えてくる。
「ダンピール、ダンピールって期待している皆さんには悪いんですけど、僕は刃物に向いてないんです、きっと」
「……ダンピール、ねぇ」
ソテールは怜悧な白皙をふと緩めた。
そして、手持ち無沙汰に剣先で石畳を引っかいているフリードを横目に見下ろす。
──ダンピール。
それは“運命の子”とも呼ばれ、一般に吸血鬼と人間の間に生まれた子供を指す。
彼らは生まれながらの吸血鬼始末人であり、人間離れした強靭な体躯と運動能力を持つうえ、通常の始末人では持ち得ない、吸血鬼を感知する能力まで有している。
そして彼らは、親を滅ぼす運命を持つ。
一閃した剣が聖剣であろうと銀剣であろうと鈍ら剣であろうと、それは親である吸血鬼を滅ぼすことができるのだ。
運命は彼に親を滅ぼさせ、運命は親に滅びを与える。
それは一匹の吸血鬼に対してだけ有効な、しかし違えることのない絶対的な力であり、それゆえに世界でただひとりの究極の吸血鬼始末人となる。
だが彼らは魔物としての側面も受け継いでいるため、突然強烈な喉の乾きに襲われ、人を襲う可能性も秘めている。無意識の中、見境なく、血を欲する魔物に堕ちるのだ。
そんな彼らなど、人間にとっては吸血鬼に等しい。
吸血鬼にとっては居場所を嗅ぎ付けられる厄介なクルースニク、人間にとっては人の皮を被った化け物。
だからこそほとんどのダンピールは成長する前にクルースニクに葬られるか、闇の同族に始末されてしまうのだという。
生を受けた瞬間から多くの鎖に繋がれた彼らを“運命の子”と囁くのは、憐憫か揶揄か──。
「お前がここローマに連れてこられたのはいくつの時だったっけ」
「六歳。母さんが病気で死んですぐです」
「六年……」
通常、ダンピールが六年生きているなどありえない。
だが、その父親を恐れて聖も闇も手を出せない場合は除かれる。
「母さんは僕がヴァチカンに行くことをずっと嫌がってました。父さんを滅ぼすようなことはしてほしくないって。それに、僕は剣よりもペンを握ってた方が良いんだって分かってたみたいです」
この子供は決してズバ抜けて強いわけではない。
卓越した運動能力を誇るソテールにしてみれば、今のフリードは強くないとしか言えないのだ。
それこそダンピールでなければこの聖域に留めておく理由もないほどに。
心理的な要因か、それとも与えられた才の限界なのか……。
けれど彼はズバ抜けて聡かった。
だからよく知っているのだ。
自分に期待されていることが何なのか、そして今の自分がその期待に沿うのは難しいだろうことも。
そういう聡さも含めて、この子供はあの男によく似ている。
だがその男とはひとつだけ違っているものもある。──それも決定的に。
あの男は天性の闘う者だったのだ。剣を持つべくして持ち、自ら戦場へ飛び込み剣を振り回し、常に冥府の川岸に身を置くことを好んだ。
けれど幸か不幸かフリードにはその天性がない。
「それとも、ダンピールってのは奇跡か何かで吸血鬼を滅ぼすんでしょうか」
フリードが肩を落としてため息をつく。
その辺にいる学生たちと大して変わらない調子だが、問題は果てしなく大きい。
ソテールは冷涼な目を青い空に向けた。
「俺はダンピールじゃなくてただのクルースニクだから分からんな」
「……ソテールは、なぜ父と戦うのです?」
悩んでいるというよりは興味津々なだけの目が、こちらを真っ直ぐに見据えてくる。
ソテールはまたもや目を逸らした。
「俺と対等にやりあえるのがあの男しかいない」
「なんでやりあうんです?」
「…………」
ソテールは言葉に詰まって柳眉をしかめた。
本当に父親に似て性質が悪い。
「マスカーニ枢機卿もクレメンティ枢機卿も、人々が闇に怯えず安らかに暮らせる世界にするためですって言うけれど、母さんが死ぬのを待ってて亡くなった途端僕を引き取りに来るような人たちのこと、信じられると思います?」
「……で、結局お前はどうしたいんだ?」
ソテールが訊くと、弟子は口をへの字に曲げた。
「どうしたいんでしょうね」
──数日後。教皇庁の執務室に呼ばれたソテールは、教皇庁総務局長官代理ヴァレンティノ・クレメンティから直々に叱責を頂戴していた。
フリード・テレストルが勝手にフランスへ行ってしまったというのだ。
しかもフランスのパーテルへ。
そう、シャルロ・ド・ユニヴェールの屋敷へ。
『 パーテルへ行ってきます。 F 』
悪意すら感じる一文の書き置きを手に、ソテールはクレメンティに噛み付いた。
「俺はいつからダンピールの保護者になった。俺はデュランダルの保護者だが、フリードはデュランダルの一員ではないだろうが。文句ならまず、あの坊やをココから出しちまった衛兵に言え」
「解雇処分にした」
「そりゃお早いご決断で」
「我々には時間がないのだ!」
薄い眼鏡の奥から、剃刀の目で睨まれる。
「フィレンツェのサヴォナローラは、メディチ家のロレンツォや猊下(インノケンティウス八世)の死期をすぐそこだと予言している。あの男は危険な狂信家だが、現に猊下の病は回復の見込みがない」
ソテールが横に目を移すと、金髪の美女──シエナ・マスカーニ枢機卿が涼しい顔で軽くうなずいてきた。
男が続ける。
「ミラノのアスカニーオ・スフォルツァ枢機卿、ヴェネツィアのチボー枢機卿、ナポリのデッラ・ローヴェレ枢機卿、そしてヴァレンシアのロドリーゴ・ボルジア枢機卿。新しい教皇の座は、この中で一番戦略に長け、財力のある者の手の平へと転がるだろう」
聖職者の発言とは思えないが、クレメンティという男は到底夢など見そうもない顔をしている。
徹底した現実主義。
「今度の法王選定会議は金が物を言うわけか」
ソテールが皮肉交じりに口端で笑ってやると、
「十字軍遠征のおかげで教皇庁の金庫は見事に空だ」
キッパリと言い切られた。
「とはいえ、非公式のデュランダルには非公式なりの財源があるから安心してね」
そう言って口元を派手な扇で隠し、シエナがくすくすと笑う。
それを一瞥で黙らせ、クレメンティが続けた。
「新教皇が立った後も私がこの椅子に座っているかどうかは分からない。デュランダルが再び封印されることも考えられる。全てはインノケンティウス八世のお考えであって、新教皇も同じ考えを持たれるとは限らない」
「教皇が変わる前に終わらせなければならないのよ。分かる?」
シエナが扇をぱちりと閉ざし、その紅唇をなぞるようにする。
「これ以上十字軍で教皇庁を荒らされては困るの。新教皇が十字軍推奨派だった時のために、何としてもインノケンティウス三世以来三百年の仇敵を葬った功績を手に入れて、我々が実権を握っておかないと。貴方とダンピールがそろった今はまさに、あの化け物を葬れる好機なのよ」
「じゃあお前らが教皇になればいいだろう」
「まだ若いんだもの、そういうわけにはいかないわ。物事には順序があるのよ」
女の身でありながら枢機卿の地位にいるというのも謎だが、教皇になることさえ“まだ”という。
だが、シャルロ・ド・ユニヴェールを滅ぼすことができれば、その身が天に召されるまで実権を握り続けられることは確実だろう。
例え教皇冠を戴かなくても、その発言力は教皇を凌ぐはずだ。
「ね。そういうことだから、早く坊やを回収に行って頂戴。これ上司命令」
彼女が歩くたび、ダイヤのイヤリングに陽光が反射してまぶしい。
「幸い、今はパーテルの屋敷にお父上はいらっしゃらないようだけど、もし──」
「いない?」
「少し前、パーテルの女聖騎士にあの屋敷を訪ねさせたのよ。そうしたら無愛想なメイドに“数日間暗黒都市に行く予定があるから面倒な用事はダメ”って言われたらしいわ」
「…………」
予定を教えてくれるとは、随分親切なことだ。
「もしその辺の魔物にフリードが殺されでもしたら、大事な戦力を失うことになるでしょう?」
「子供ひとり連れ戻すくらい、他のヒマな奴を行かせればいいだろうが」
「貴方じゃなきゃダメに決まってるでしょう」
「どうして」
ソテールに応対しているのはシエナだったが、彼はクレメンティを見据えた。
シエナはただの説明役だ。
真意は、緋の衣をまとって静かにこちらを見ている若き聖者の中にある。
横から聞こえてきた答えは、やはり女の声だった。大声を出しているわけでもないのに力強く通る、生まれながらの演説者。
「彼はダンピールであって、クルースニクではないのよ。いつどこで魔物に豹変するか分かったものではないわ。あの少年が魔物になった時にどれ程の力を発揮するのかまだ誰も知らないけれど、彼の近くには彼を殺せる人間がいなきゃ困るの。彼の父を思えば、その役を単なる衛兵に任せることはできないわね」
「ユニヴェールの時と同じようにか」
ソテールは声を殺した。
この二人は、あの時代を知らない。ユニヴェールが生きていた時代も、死んだその時のことも。
「ユニヴェールの時は失敗したのだろう? 呪われたユニヴェール家の当主であるあいつを殺すのはお前であるべきだったのに、そうはならなかった」
ヴァレンティノ・クレメンティ。
眼鏡のガラスの向こうの琥珀の双眸は、現在だけを見つめている。
「我々は、同じ過ちを二度はできない」
それからソテールはすぐにフランスへと出立……させられた。件のサヴォナローナが熱狂的な支持を集めているというフィレンツェを縦断し、ミラノを抜けてフランスへと入る。
そして彼がフリードを捕まえたのは、パーテルの町の中だった。
「ソテールごめんなさい」
色鮮やかな露店が並ぶ市場の中をうろうろしていた法衣姿の青年。その首根っこをつまみ上げると、即座にそう言われた。
まるで条件反射だ。
「…………」
怒鳴る機会を失って、ソテールはそのままフリードを地面に落とす。
そして有無を言わさず町の隅へと引きずって行った。
ソテールは目立つのだ。
長身痩躯、細面の端正な顔。
おまけに彼はいつもの銀糸刺繍の入った白コートをまとっている。
ヴァチカン内では普通でも、牧歌的なパーテルでは──いや、一般の地域では──これでもかというくらい目立つ。
右を見、左を見、誰もいないのを確認して、ソテールはフリードに向き直った。
腕組みをして、問う。
「何をするつもりだったんだ? ユニヴェールは不在だそうだぞ」
「父がいないのは知っていました。……ダンピールは、知ろうと思えば吸血鬼がどこにいるか分かるものですから。ただ──」
「?」
「……ソテール、貴方は父をよく知っているんですよね?」
澄んだ青色が見上げてきた。
ソテールはあごに手をやり、わずかに胸を張る。
「知ってるさ。少なくともヴァチカンにいるボンクラどもよりは遥かにな」
「どういう人でした?」
「俺と同じだけ強い」
「…………」
「お前以上に聡い」
「……完璧な人ですね」
「そんなことはない」
彼は瞬時に否定した。
「アイツは莫迦だ」
◆ ◇ ◆
「お前は莫迦か!」
「莫迦で結構」
あからさまに不機嫌な声で、ユニヴェールは吐き捨てた。
「だが貴様らの方が莫迦だと自覚してから言ってくれ。私に何度同じ事を言わせれば気が済むのかね? いい加減それくらいのことは記憶してほしいものだよ」
「口が過ぎるぞユニヴェール!」
「お前の我侭ばかり通ると思うな!」
魔貴族たちが集う暗黒都市の会議は、紛糾していた。
計画に対し、シャルロ・ド・ユニヴェールが首を縦に振らないからだ。
「ヴァチカンではなくまずお前から滅ぼしてやろうか!」
「滅ぼせるものならば滅ぼしてみろ」
「貴様ッ!」
「──座ってください、バルツァー卿。ユニヴェール卿も、少しは我々の話に耳をお貸しください」
議長を務めていた顔の半分を仮面で覆った女が──どこかの城の由緒正しい幽霊だと聞いた──大袈裟にため息をついた。
ユニヴェールが“分かった”とさえ言えば、会議は終わる。
だが黒衣の麗人は頑として拒んだ。
「話は聞いている。だが何度同じ話を聞いても答えは同じだとも言っている」
聞こえよがしの嘆息が一斉に漏れる。
「ヴァチカンはソテール・ヴェルトールを目覚めさせ、噂によればダンピールまでを……」
議長の黒い瞳がユニヴェールをちらりと見、戻る。
「手に入れ、クルースニクとしての教育を行っているとか。向こうが整う前に仕掛けなければ、大損害も免れません。今回ばかりは先手を取らなければならないのです」
言外に、それはアンタのせいだというのが含まれているのはユニヴェールも分かっている。
ダンピールなどヴァチカンに取られる前に葬り去ってしまえばよかったのだ、と。
「その先陣の中に貴方がいなければ全く意味がないのはご存知でしょう? ダンピールは未知数としても、ソテールと戦うだけで我が軍にどれだけの被害が出るとお思いです? 貴方がはじめからソテールとぶつかるだけで、どれだけ有利になるとお思いです?」
「そんなものベリオールにやらせておけ」
「ユニヴェール卿!」
「──貴様らはどうしてそう勘違いをする」
とうとう声を荒げた議長を鼻で笑い、吸血鬼はコツコツとテーブルを叩いた。
「私は門番に雇われているだけであって、貴様らの戦力ではないのだよ。向かってくるものは潰すが、何の面白味もない計画の先陣を切るなど願い下げだ」
魔の証、霜の降りた紅の双眸が会議に冷気を吹き込んだ。
「私は貴様らの敵ではないが、──味方でもない」
言い置いて、彼は優雅に席を立った。
そしてクルリときびすを返す。
「…………」
留める言葉を持つ者は、いなかった。
軽い靴音が遠ざかってゆくのを、皆息を潜めて聞いていた。
憤慨も恐怖も怒りも畏怖も、全てを含んだ空気は重く重く貴族たちにのしかかる。
言葉を発することはおろか、誰一人立ち上がることも出来なかった。
<よい>
それを軽く払いのけたのは、囁くような女の声。
若いのか、年老いているのかも定かではない、どこから響いているのかさえ分からない声だった。
それでも貴族たちは声の主が誰であるか知っている。
一斉に頭を下げた。
<事が始まればあの男も出て来ざるを得まい>
声は皆の頭上を、浅く広大な大河の如く流れてゆく。
<あの男は天性の闘者え? 死する前からあの腕には剣しか抱けなかったものを、今更背など向けられるはずがなかろうて>
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