冷笑主義
第11話 「Dr.F」
後編
「あー痛ってぇ」
ヨハン・ファウストは立ち上がろうとして毒を吐き、足先をさすった。彼が座っていたのは、数日前彼の父親が座っていた椅子。
父親はソテール・ヴェルトールに付きっ切りのため、彼がユニヴェールの監視役を仰せつかり、燭台の炎と暖炉の炎だけが揺らめく部屋の中、この屋敷の書庫から持ち出した本を延々と読んでいたのだ。
そして時間感覚を取り戻そうと窓へ向かった瞬間、これだ。一時の感情に任せて本棚を蹴っ飛ばした足がまだ痛む。
顔をしかめたままカーテンの端をめくれば、外は冷たい夜。
薄いガラスには自分の顔が映りこみ、指を置いた部分から静かに急激に体温が奪われていく。まるでそれは生命そのものを奪われているかのようで──……。
「冷た」
彼が身震いしてガラスから手を離すと、背後でゴソゴソと音がした。
振り返ってみると、いつの間にか起き上がった吸血鬼が着崩れたガウンを直している。
「──気に入った本はあったかね?」
こちらの視線に気付いたのだろう、男が声をかけてきた。
ヨハンは黙って椅子に置いていた本を取り上げて見せる。
「“哲学者の薔薇の木”──アルノー・ド・ヴィルヌーヴか。……しかし、それが分かるか? 始めから終わりまで核心をひた隠しにした抽象的な錬金術書だろうに」
「分かりゃしねぇけど」
「けど?」
「親父の薬学書読んでるよりはよっぽどマシ」
答えが気に入ったのだろう。吸血鬼がニヤリと口の端を吊り上げる。
「結構。やはり素質があるな。一目見た時からそう思っていた」
「は?」
ヨハンは突っ立ったまま、水差しからグラスに水を注ぐ吸血鬼を凝視した。男は喉を濡らすと、再びこちらに目を向けてくる。
炎よりも鮮やかな、血よりも濃い、紅の双眸。
「本来何かを知ろうとする欲というのは、食欲や肉欲にも劣らない欲なのだよ。ただし、腹をすかせた狼に牧草をやっても意味がない。乾いた大地に油をまいても意味がない。人の美徳でもあり悪徳でもあるこの欲は、適切なエサをやらなければ見る間に失われる。それだけのことだ」
男の手が、水差しの横に置かれていた薬瓶を取る。
ゲオルクが調合していった毒々しい緑色の液体が、男の手の動きに合わせて揺れた。
「第一の知識は生きるため、第二の知識は己の求める智が何であるのかを知るため、第三の知識はその知識を極めるため、第四の知識は──世界を暴くため」
「世界を、暴く?」
ヨハンの復唱に、吸血鬼が目を閉じた。
「人は、蛇の誘惑に負けて知恵の実を食べてしまったがゆえに永遠を奪われ楽園を追われた。しかし代償として“智”を知った。だったら、世界が隠すすべての智を知らねば損だとは思わないかね?」
「……損ってアンタ……」
「神が全知全能だというのなら、人間は何かひとつ知るたびに神の足元へと近付いていることになる。しかし我々が智を積み上げ神に手をかけた瞬間、奴は己の玉座が奪われる焦燥に世界を荒野に戻すだろう。怒りと称し最後の審判と銘打って、我々を滅ぼそうとするのだ」
「だったら──」
「だが私がそうはさせない」
「…………」
吸血鬼の開かれた目が、若者を射抜いていた。ヨハンを射抜き、その背後にいる何者かに突き刺さっていた。
大胆すぎる宣戦布告はしかし確信に満ちていて、恐怖とは別物の怖さが部屋を覆う。
「…………」
ヨハンは圧倒されて何も言えないでいたが、すぐに空気は軽くなった。
吸血鬼が威嚇を解いたのだ。
「だから君たちは安心して学びたまえ。好きなものを、好きなだけ。どこまででも行くがいいさ」
男は景気のいいことを言いながら薬瓶のフタを開け、匂いを嗅いですぐ閉める。そんなことばかりやっていて、結局薬の量は減っていない。
「……よっく分かんねェ〜……」
ヨハンは大きく肩で息をして、ドサッと椅子に身を預けた。
吸血鬼の言いたいことは分かるような気がするが、話がデカすぎてイマイチ要領を得ない。溢れた言葉が頭の上を茫洋と泳いでいる。
すると、ユニヴェールが白けた目でこちらを見てきた。
「……お前はバカか?」
「ンな顔で改めて訊くなよ!」
「だってな、この私がこんなに分かりやすく話してやっている……」
突然、吸血鬼が口をつぐんだ。
遠くを見るような目をして、怜悧な顔を強張らせる。
「……ど、どうかしたのかよ」
「パルティータ」
ヨハンを無視して男がつぶやく。
「は?」
「パルティータはどうした! ここに呼べ! 早く!」
やおら怒鳴り出しメイド呼び鈴の紐を幾度も引っ張る屋敷の主に、
「メイドさんなら、パリに行ったぜ」
後退りながら教えてやる。
「パリ」
「数日で戻るからユニヴェール様をよろしくって」
「……あの女の血が流れた」
「え?」
「アスカロン!」
「アスカロンはフランベルジェの買い物に付き合って暗黒都市」
メイド呼び鈴を聞いてやってきたのだろう、草色の法衣をひきずった子どもが寝室の扉を開け入ってきた。確かシャムシールとかなんとかそんな。
「ルナールは」
「パルティータに付いていったけど、でも」
スタスタ歩いてきた子どもがカーテンを全開にする。
窓の外に広がる闇夜。
「今は猫か。役立たずどもめ」
舌打ちし、寝台から出てゆく吸血鬼。彼はそのまま扉へ向かう。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
ヨハンは慌てて椅子から立ち上がった。その拍子に椅子が倒れる。
「まさかアンタ今からパリに行くつもりじゃねぇだろうな」
「闇を渡ればすぐだ」
男は足を止め、平然と言ってくる。
「時間の問題じゃねぇよ! 寝てろって言われただろうが!」
「ゲオルクには黙っておけ。口止め料として書庫にある本を好きなだけくれてやる」
「……あんまそそられねぇ……」
「心配することはない。お前には素質がある」
(──何のだよ)
訊く前に、吸血鬼の姿は廊下に消えた。
「良かったね」
小生意気なガキが、彼の横でにっこり笑った。
◆ ◇ ◆
──兄さん、事件です(兄さんなんていないけど)。
「私はどうしたらいいでしょうか!?」
夜に支配され、盗賊の気配さえない森の街道。大きく響く疑問形。
端的に言うと、パルティータは襲われていた。吸血鬼に。
あまり屋敷を空けるとユニヴェールがガミガミうるさいだろうと見越し、飛ばしまくってパリに行ってきた帰り道。
万事滞りなくいっていたはずが、夜道で突然馬車が止まった。御者台をのぞくと、もぬけの殻。馬たちはその場で足を鳴らし、そわそわと身を寄せ合っている。
どう反応したもんかと口を開けていたら、
「……魔物に囲まれたみたいだね」
隣りに座る男がそう言ってきた。
鳶色の髪を高い位置で結び、華やかな騎士服をまとう男。暗黒都市の吸血鬼、ロートシルト伯爵だ。
パリまでの道中、魔物もいれば盗賊もいる。それくらいのことも分からない無謀なお嬢ちゃんではないので、昼の護衛にはルナールを、そして彼を介して夜の護衛をロートシルトに頼んだのだ。彼が二つ返事で引き受けてくれたのは言うまでもない。
「御者は何か気付いて逃げたんだろう。……その方が危ないんだけどな」
ユニヴェールよりも随分と年若いその吸血鬼は、腰の剣を抜いて外へ出てゆく。
「夏の事件があったから、少しは大人しくなっているかと思ったのですが」
パルティータが言うと、
「魔物ってのは、理性よりも本能が先立つ生き物だからね」
肩越しに振り返り、ロートシルトが満面の笑みを向けてきた。純白の手袋をはめた手で、こんこんと己の胸を叩く。
「でも大丈夫。ワタクシめが、姫をお護りいたしますゆえ」
「── って言ってたくせに」
パルティータはロートシルトをねめつけ、うめいた。
夜の中で、ロートシルトのスカーフにつけられたダイヤが煌めく。しかしそれよりも、近付いてくる彼の牙の方が光っていた。長い睫毛の下の両眼はぼんやりと恍惚の熱を帯びていて、舞台役者のような綺麗な顔が、得体の知れない昂揚に酔っている。
「ロートシルト伯!」
彼女は彼に両肩を掴まれ、逃れるに逃れられなくなっていた。吸血鬼の力は、人の比ではない。それが化け物と呼ばれるユニヴェールではなく、ただの一般吸血鬼だとしても。
「ロートシルト伯!」
魔物を蹴散らしに行ったロートシルトだったが、その血を浴び、吸血鬼としての本能を抑えられなくなったらしい。草を踏みふらふらと戻って来たかと思ったら、いきなり襲い掛かられた。
いつ魔物が現れてもいいようにと手にしていたフライパンのおかげで押し倒されることだけは免れたが、女の足で逃げ切れるわけがない。
こうして捕まり、おまけに慌てすぎて馬車から落ちて肩を打った。手の甲を擦り流血した。
「知りませんよ。どうなっても」
彼なりに葛藤があるのか、肩を掴む手に力が入り、うつむいて嫌々と左右に首を振ってくる。彼の長い前髪が、パルティータの頬を撫でた。
「……滅びても、知りませんよ」
そう言ってみたものの、それは彼女自身にも言えることだった。
シャルロ・ド・ユニヴェールは元々セーニの僕だった。彼を破門に処した血こそがセーニだった。だからユニヴェールに血を吸われても吸血鬼にならず、死にもせず、ただなんとなく年を取るのが遅いだけで済んでいる。
だが、ロートシルトは違う。おそらくセーニとは何の関係もない。彼はセーニに破門されたわけではない。つまり、ロートシルトに噛まれて人間でいられる保証はない。生きていられる保証も、ない。
──……かなりピンチだ。
「ロートシルト伯。私はエサではありません。ユニヴェール卿の小間使いです」
足元では黒猫が毛を逆立てて牙を剥いている。だが哀しいかな所詮猫だ。役に立たない。
「これがバレたらただじゃ済みませんよ」
言う間に吸血鬼の濡れた唇が頬に寄せられる。
氷のように、冷たい唇。
パルティータは一歩後退ったが、肩を掴む腕は外れない。しかし今のロートシルトは動物と同じだ。下手に動くと逆上する。
黒リボンのタイが外され立て襟が広げられ、口付けが首筋へと降りてくる。闇に浮いた白い肌を吸われ、優しく舐められる。響く小さな水音に、吸血鬼の微かな、しかし深く熱い息遣いが重なる。
牙が鎖骨に当たる度、パルティータは身を硬くした。
「ロートシルト伯」
名を呼ぶと、応えるように柔らかく噛まれる。
いつの間にか背中に回されていた腕に力が込められる。
何かを求める執拗な愛撫。
肌に牙を立てようとしては舐め、口付けを落とし、抱き締める。
黒髪を梳き、額を彼女の肩につけては荒く息をつく。
ふたりを見下ろしていた月が、息を止めた。
夜風は足を止めた。
世界が翳り、音がなくなる。
美しいといえば美しい、静かな、けれど情熱的な、生と死の交錯。
あとひと押し。吸血鬼が牙を突き立て鮮血が彼女の肌を染めれば、この危うい均衡は崩れるだろう。
時は動き出し、血生臭い惨状が全てを現実に引き戻す。
女が吸血鬼に襲われた。
ありふれた、それだけのことに堕ちるのだ。
「……っ」
背中に鋭い爪が喰い込み、一際強く噛まれパルティータは喉の奥で悲鳴を上げた。
鉄錆びの匂いが鼻腔を突く。
(──やられた)
そう思った時だった。
ふいに吸血鬼の身体が彼女から離れた。
(!)
──違う。離されたのだ。
「ロートシルト」
影に落ちる、聞き慣れたテノール。
しかし今夜の声は、地獄の底よりも深く、真冬の星よりも冷たい。
「何をしている」
月が怖がって雲に隠れた。
夜風が知らぬ存ぜぬと逃げていった。
「私のメイドに血を流させて何をしているかと訊いている」
見開いた目に正気が過よぎった若吸血鬼。
胸倉を掴まれた彼は、視線を上げた瞬間背中から地面に叩きつけられた。
そして衝撃に咳き込む間もなく、首を掴まれギリギリと締められる。
人間の身体を、化け物の力で。
「ユニ……ヴェ……」
「おや、ようやく理性のお戻りかね?」
必死に許しを求めても、闇は蔑み吐き捨てるだけで締める手は緩めない。
喘ぎさえも塞き止められ、切れ長の目尻を涙が伝う。
唇の端から苦鳴が漏れる。
「いいところに帰ってきたようだな。え?」
首をへし折ることさえ厭わない薄笑いの顔で、更に力が加えられた。
頭が熱くなり、骨が軋む。
そして更に力が。
──折れる!
ロートシルトは逃れようと背を反らせ、声にならない絶叫を上げた。
森に潜む魔物たちを凍らせる、断末魔。
「ユニヴェール」
だがそれは彼女の声に遮られ、“断末魔”となることをかろうじて免れた。
「様」
「…………」
闇が手を緩め、パルティータを振り返ったのだ。
「もういいでしょう」
「…………」
ユニヴェールの顔には同意のカケラもなく未だ鋭利な怒気だけをのせていたが、それでも彼はロートシルトを投げ捨て解放した。
「下衆が」
吐き捨て立ち上がり、腰から長剣を抜く。
その飢えた切っ先は、半ば放心状態でぐったりしている若吸血鬼の喉元へ。
「今度やったら首と胴を斬り離して焼いてやる」
何度も不規則に息をついているロートシルトが、どうにか小さくうなずいた。
若吸血鬼の紅の瞳にはすでにいつもの光が戻っていたが、あまりのことに声も出せないようだ。
ユニヴェールの逆鱗に触れて命長らえるなど、奇跡としか言えない。
── 一方。
「パルティータ」
いよいよ主の矛先が自分に向けられて、彼女は身構えた。
見上げれば、据わり切った吸血鬼の目。スカーフを留めたルビーと相まって、闇の中に禍々しい。
「先の契約書の中に、私が死んでいいというまで死んではいけないという条項があったのを知っているかね」
「……し、知りません」
あんな小さな文字、読むだけで疲れる。給料さえ支払われればいいのだ、希望の額だけ。
「あったのだよ」
そんな無茶苦茶な。
「パルティータ。魔物と人とは同じではない」
「分かってます」
「分かっていない」
「…………」
「吸血鬼が血を求めるのは、お前たちが飢えて腹を満たすのとはワケが違う。我々にとって血とは食べ物ではないのだよ、死した我々にとって血は命そのものだ」
そろそろと月が顔を見せる。
天上から降る白い光に、主の顔に落ちた陰影が濃くなる。
「ロートシルトとて、渇きや飢えでお前を襲ったりはしない。少なくともそれくらいの理性は持っていると私は思っている。だがね、生命の渇きには抗えないのだよ」
主の背後で、若吸血鬼がみじろぎした。
男は構わず続ける。
「それは生きている者には生きているからこそ到底分からない渇きでね。私でさえ抑え付けるまでに随分な時間がかかった」
「……はい」
「吸血鬼とは、そういう死に物だ」
人でありながら、人でない。
人であったと覚えていながら、戻れない。
「覚えておきます」
「──で、だ。お前は何用があってパリなんぞへ行ったんだ?」
主の口調が幾分軽くなった。
「…………」
しかしパルティータは無言。そのままごそごそとメイド服を探り、金のペンダントを取り出した。
ずいっと主に突きつける。
「……?」
一瞥し、吸血鬼はワケが分からないといった表情で眉を上げてきた。
「先日洗ったユニヴェール様の外套から出てきました」
言った瞬間ユニヴェールの顔がわずかに歪み、仰け反った。
心当たりがあるに違いない。
「これはウチのものではありません。どこでお買い上げになりましたか?」
「それは──」
「そのご様子だと入っていたことに気がついておられなかったようですね。暗黒都市でロートシルト伯爵に調べていただきました。この初秋パリでは──吸血鬼騒ぎが頻発していたとか」
「…………」
「私が邪推するところによれば、これは貴方の犠牲になった娘さんがお持ちになっていたものです。吸血鬼に襲われた娘が吸血鬼に心酔するのはよくあること。そのお嬢さんも貴方に心奪われ、命尽きる前に形見にと忍ばせたのでしょう」
「──」
反論でもしようとしたのかユニヴェールの口が僅かに開かれ、しかし何も発せられないまま閉じられる。
「私の見る限りこの粗悪な金、とても上流階級の令嬢が身に付けているものとは思えません。おそらくお相手は街人か農家の娘。──となれば話は別です。いかに粗悪な金と言えども、そのような家にあっては家宝にも等しい価値を持つもの。あり余るほど財を囲っておいて、貧しい者からなけなしを頂戴するのはいかがなものかと思います」
機械的に並べ立てると、主が呆れた顔をした。
「それで、その娘はパリにいたと踏んで返しに来たわけか」
「ご両親にとっては形見にもなるかと思いまして」
「持ち主は見つかったかね?」
「はい」
「返してこなかったのか?」
「ご両親とも、貴方に持っていてほしいとおっしゃったものですから」
パルティータが言うと、吸血鬼は遠くを見た。
「そうか」
ロートシルトがその家を見つけておいてくれたのだ。ペンダントの持ち主は、パリの片隅にある小さな仕立て屋の娘だった。
医者から見離された、不治の病の。
そしてそこに現れたのが、パルティータの目から逃れるためはるばるパリまでエサを探しにきていたユニヴェールだったというわけだ。
しかし吸血鬼はどう気まぐれたか、人に治せぬなら私が試してやろうと言い、毎夜怪しげな薬を持ってきては試行錯誤したらしい。だが結局、吸血鬼の中の化け物にもなす術はなく──彼は彼女の望むとおり、優しく殺したのだ。
娘の両親はパルティータに言った。
感謝している、と。
「……苦情、文句、その他ご意見ご要望はこちらまで」
ユニヴェールが両手の人差し指を足元の黒猫へと向けた。
指差された猫はあからさまにぎょっとした顔つきで飛び上がると、何か悪態をつきながら一目散に馬車へと駆けてゆく。
「……差し引きゼロでどうでしょう」
パルティータは猫を追っていた視線を主へ戻した。
見下ろしてくる男はしばらくの無言。
「……のった」
ようやくつぶやかれた言葉と共に片手を取られ、何かと問う間もなく怪我をした甲に口付けが落とされる。
しかしそれは単なる儀礼だとでも言いたげに、男はすぐさま唇を離すと踵を返した。そのまま黒衣を揺らして馬車の方へと歩いて行く。
「…………」
その後を、渦巻く木枯らしが木の葉を舞い上げながらついて行く。
彼の靴音が遠ざかるにつれ空気は安堵の息を深くし、そして彼の勘気が暗闇に溶け消えた頃、すべては元に戻った。何事もない、いつもの夜に。
森の奥からは、フクロウの鳴き声も聞こえる。
「……立てます? ロートシルト伯爵」
パルティータは横でへばっている若吸血鬼に手を差し出してやった。
「ううう……パルティータ!」
その途端、彼は両目をウルウルさせてしがみついてくる。
「怖い思いをさせてゴメンよ〜〜〜! ほんっっとに悪気はなかったんだよ〜〜!」
襲ってきた時の白い艶然さはどこへ消えたのか、喚く喚く喚く。
「分かってますから。私にも落ち度がありましたし」
パルティータは彼の肩をぽんぽん叩いて言った。
「さぁ、お屋敷へ戻りましょう」
すると、
「あああ、やっぱり君は優しいねぇぇぇ〜〜!」
ロートシルトがしゃくりあげながら感極まり、腕に力をこめてくる。
前方の闇。馬車の横で、ユニヴェールの影が剣を抜くのが見えた。
◆ ◇ ◆
──パーテルのユニヴェール邸。
「知りたいという欲は人間の美徳で──悪徳だ」
食堂のテーブルに片肘をついて、ユニヴェールは嘆息した。
眼前に置かれたグラスに気分の落ち込む苔色の液体を注ぎ、さっさと奥へと消えてゆくメイドを眺めながら、独りごちる。
「知らんでもいいことを知ろうとするから、ロクでもないことになる。パリに行くほどのことか?」
「心配だったんじゃないですか? 貴方の倒れた原因……過労だの睡眠不足だのの理由が分からなかったんですから」
何を警戒しているのかかなり離れたところに座っているルナールが、ワインの入ったグラスを弄びながら応じてくる。
「あのペンダントがその原因かもしれないからって、吸血鬼と一緒にお出かけか?」
「現に原因だったじゃないですか」
「……セーニのことだ、このまま私が滅んだら財務省がいなくなるとでも思ったんだろうさ」
ゲオルクに言われなくとも、血が足りないのは分かっていた。だからパリまで行っていた。
パーテル近郊だとすぐパルティータにバレるからだ。
そうしているうちに死を背負った娘に会った。
神が欲しがっているものを横からかっさらってやろうと思い、治療法はないかと頭をひねっているうちに錬金術に深入りしすぎた。オスマン帝国にまで文献を探しにいくほど。
だが人間は脆すぎた。
完滅させられかけたこの身体。さすがに調子が悪いから命を補うべくパリに行ったのに、逆に沼にはまって悪化させた。
ただ、それだけのことだ。
「ファウスト先生から聞きましたよ。その娘さん、マリーさんに似てたんですって? まだ引きずってるんですか」
「……あの医者一度殺しておくか」
ルナールの失言にユニヴェールがバキバキと手を鳴らすと、
「まだ殺すなよ」
横から抗議が入る。
未だに病人監視役から解放されないヨハン・ファウストだ。
すでに我が物顔で屋敷を闊歩している彼は、血は争えない風体。ベストのボタンすら無用の長物。羽織っているだけ。父親そっくり。
「俺にはまだアイツから教えてもらなきゃなんないことがあるんだからさ」
「ほう? ヤル気になったのかね?」
ユニヴェールは目の奥を暗く輝かせ、身を乗り出した。
「アンタがメイドさん連れて帰ってくる間に、書庫の本は全部読んだよ。錬金術関係を全部」
「全部、か」
だから言ったのだ。素質がある、と。
「極めてみる気はあるか?」
「…………」
即答してこないヨハンから視線を外し、吸血鬼は深々と椅子にもたれかかった。
「大いなる先人ニコラ・フラメルは言った。“物質は一つである”とな。その“ただひとつ”が様々な形を取り様々に分化し結合して、ありとあらゆる物体が生まれる。人も鳥も花も樹も水も火も石も土も元々は同じもの。すべては神が“光あれ”と言ったあの原始にあった唯一の物質に、還元されるのだと」
万物は過ぎ去り変化し風化し滅び行く。だがそれは果てのない転変の一瞬であり、本当は何一つ死んではいない、消滅してはいない。
灰塵に帰しては甦る──そう、キリストが死を克服するため一度その身を死なせ、そして救世主として復活したことと同様に──全ては地に堕ち変化を続けながら、唯一完全なるものへと還ることを望んでいる。
堕ちたものを練成によって完全ならしめる、その結果出来るものこそが賢者の石。
「大いなる秘法の錬金術師たちは、始祖の楽園追放、ルシフェルの堕天、どちらもこの世界の失墜を意味しているという。万物は変化に変化を重ね第一の物質から遠ざかり、哀しいかな、原初の純性・尊厳を失ってしまっているのだ、とな」
ユニヴェールは、テーブルの上に置いてあったペンダントを手に取った。
「彼らの使命は、黄金を造り出すことではない。人間を失墜以前へ還すことだ」
細い鎖をたぐり、骨ばった長い指に絡ませる。
「大いなる錬金術師は自分自身を練成して、失墜から完全なるものへと還る。それにより彼は“智”“力”“不死”を得る。それはすなわち神と同義。彼はイエスに代わり失墜した世界に救いをもたらす者となる」
彫られたマリア像が、時を刻むように揺れる。
「では何故教会はこんなにも崇高な思想を異端とした? そうだ──奴らの耳からは蛇の声が離れなかったのだ。イヴをそそのかし、知恵の実を食べてしまえと言ったあの誘惑の言葉が」
「“──汝ら、神の如くならん”」
ヨハンがつぶやく。
「ソテールを生かしているのが賢者の石からとれた万病薬だとしても、まだ神に肩を並べた錬金術師はいない。世界は相変らず騒がしく、雑多な色が塗られたままだからな」
男は再度若者を視界に捕えた。
「──やってみるかね? お前には素質がある」
「アンタはやらないのか?」
「私に未来はない。死人にはできない」
ユニヴェールは自嘲気味に嘆息した。
ゲオルク・ファウストの言うとおりだ。生きた屍は生者ではない。生き返った甦ったと思うのは錯覚で、幻想だ。
「だがそれ以前に私は、“ただ一つのものが広がる完全な世界”なんてつまらなそうなものは大嫌いでね」
断言すると、彼は声を落として囁いた。
「知っているか? 知識というものは自分の意志を通すのに必要なだけではない。他人の意志を砕くにも必要なのだよ。そしてそれが、一番甘美な使い道だ」
「錬金術を極めて神を目指して、アンタと戦えって言うのか?」
ヨハンが上目遣いにこちらを睨んでくる。
「そう聞こえたかね?」
「……アンタは蛇だ」
「選択権は人間にあった。そしてファウスト、お前にもある」
若者の言葉を、男は笑い流した。
「……悪魔」
「私は吸血鬼だよ」
真っ直ぐに射る紅と伏せられた黒、ふたつの視線が静かに接点へと近付いてゆく。
「どうするね、ファウスト先生」
微笑をたたえるユニヴェールの指からペンダントがすり抜け、落ちた。
鈍い金が小さな音をたてて絨毯に転がる。
「俺は──」
顔を上げたヨハンの顔。そこには不敵な微笑がのっていた。
THE END
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