冷笑主義

第14話 うちに帰ろう
Laufet,Brueder,eure Bahn, Freudig,wie ein Held zum Siegen.

後編



「“さすがはソテール・ヴェルトール”と言っていいかしら」
 シエナ・マスカーニ。目の前にいるこの女は、何も変わっていなかった。
 やはり寝ていたところを叩き起こされたらしく豪奢な金髪はくしを入れただけ、緋色の枢機卿衣に袖を通してはいるものの、昼間彼女を彩っている金銀鮮やかな装飾品は一切身につけていない。そんな風に外見こそ簡素だが、開き直りかと思うほど落ち着き払った態度はあの時から少しも変わっていない。
 むしろ磨きがかかっている。
「誰も首を取ってこなかったから生きているとは思っていたけれど、こんなに堂々と戻ってくるなんて常人にはできないことよ」
「アンタなら出来そうだけどな」
「そう? お褒め言葉として受け取っておきます。ありがとう」
 シエナが月の映る大窓を背にしてパチンと扇を閉じた。
 かつてこの大窓を背負っていたのは、ヴァレンティノ・クレメンティという男だった。彼は多く、机の上に肘をつき、手を組み、眼鏡の奥から怜悧な視線をこちらに向けていた。
 だがその男はもういない。
 代わりにこの部屋の新たな主となったらしいシエナ・マスカーニは、彼と対照的に背筋を伸ばして立っている。まるで椅子に腰掛けソテールを見上げるのが我慢ならないと言わんばかりに。
「さて、とりあえずまだデュランダルは私の管轄にあるわけだけど」
 彼女の碧眼がこちらに流れる。
「単刀直入に言いましょう。私はデュランダルの歴史に終止符を打つ時が来たと考えています」
「アンタのことだから手際よく代わりを用意してあるんだろう?」
「貴方は、デュランダルの弱点は何だと思う?」
「たかだか数十年生きただけの枢機卿にはぎょし難い集団ではあるな。連中はアンタたちに忠誠を誓ってるわけじゃない」
「それは私たちの手腕の問題であってデュランダルの弱点ではないわ。答えはね、かたよっているということよ」
「なるほどね」
「貴方もカリスもミトラもクロージャーもヘルドも、デュランダルは誰をとっても今の時代に並ぶ者のないクルースニクであることは認めるし、魔物から光の都を護り続けた聖なる騎士であることも認めます。しかし哀しいことではあるけれど、この都を、神の権威を、脅かすものが魔物だけではないことも事実よね?」
 月明かりの夜更けがこれほど華やかなのは、この女の成せる業か。
 形の良い紅唇が開閉するたび、沈んだ空気が散っていく。
「今、切り札としてのデュランダルに求められているのは、ありとあらゆる問題に対処する能力なの。剣だけだけではなくてね。諜報、科学、錬金術、交渉術……」
「窃盗、詐欺、偽装、暗殺」
「けれどデュランダルは、魔物は斬れても人は斬れない。自分たちの認める“正義”でなければ動かない。──ね。致命的でしょう?」
「ユニヴェールが人を止めた時から、デュランダルはあの男のためだけにある」
「その素晴らしい志が時代遅れだと言っているのよ。聖剣ひとつであの吸血鬼をどうにかしようと考えているところも、他に何もできないのに予算を喰うところも。貴方たちを生かすためにどれだけのお金を払っていると思っているの」
「それで、アンタ自慢の私設軍は教皇以下に忠誠を誓って何でも請け負うわけだ」
「何でも請け負う、ではないわ。何にでも対処できる、のよ」
「アンタが受身でいるとは考えられないけどな」
「そうかしら。前任者が果敢に攻めて失脚したのよ? 後輩は先輩から学ばなくてはね」
 デュランダルの代えを用意していることは、別に隠すべきことでもないらしい。
 こちらの探りに余裕でのってくる。
「ヴァレンシア大司教チェーザレ・ボルジアがとても興味を持ってくださっているの」
「アンタの私設軍に?」
「そう。私は“使えるもの”を作るのが好きで、あの坊やは“使えるもの”を使うのが好きだから」
「使えないものを使えるようにする技量はないわけだ」
「では私たちが何をしたら、デュランダルは聖下の椅子を狙う輩を暗殺してくれるのかしら?」
「…………」
「ね。手腕の問題ではないのよ。存在意義の問題。ヴァレンシア大司教が気に入ってくださったら、聖下も私の意見にご賛同くださるでしょう」
「そうなったら、当然デュランダルは元々あるべき姿に戻されるわけか」
 全員、死んでいるのが適当だ。
 三百年生きる人間はいない。
「貴方やカリスやミトラ、創設当初からいた人間は本当によく生き続けてきたとその執念深さには敬意を表します。死ぬより生きる方がずっと大変だもの」
「まぁ大半は地下墓地グロッタで寝てただけだがな」
 言いながら、ようやくカリスの言葉の真意を悟る。
 ──“もはや貴方の足枷は、貴方だけなのですよ”
「……そういう意味か」
 正義のヴェルトールが率い存在価値を与えるべきデュランダルは、1492年の敗北をもって歴史の幕を閉じるのだ。そしてそれぞれの永き生涯にも、終焉が与えられる。故に、デュランダルのためのヴェルトールも役目を終える。
 デュランダルのために生きる必要はない。
 けれどそんなことを思って生きてきた覚えはない。
 しかし──。
「カリスは何て?」
「彼はこれ以上己の生涯を引き延ばしても意味がないと知っているのよ。どれだけ時間を与えられても、自分は愛する者を救うことはできないって。貴方だって気付いているでしょう? あの人は自分の無力を確信しているの。彼を動かしているのは“何もできない”罪悪感よ。少しでも罪悪感から逃れるために戦っている」
「ミトラは」
「自室にこもったまま、誰とも口をきいてないわ」
「よっぽど効いたんだな、セーニが」
「インノケンティウスの血を相手にするには、“疑い”が足りなかったのね」
「人の心理を読んで器用に立ち回るミトラなんて不気味だろうが」
「…………っ」
 素直に想像したのだろう、開いた扇で口元を隠し視線を上げたシエナがぷふっと吹き出す。
「ミトラは過信、カリスは悲観、俺は優柔不断、最悪だ」
「そうね」
 シエナが白い手を椅子の背にかける。
「きっと長すぎたのでしょう。ユニヴェールは去り、インノケンティウスの威光も薄れ、積まれた月日の分だけデュランダルは疲弊した」
「…………」
 音のない夜だった。
 さっきまであんなに早く雲が流れていたのに、風のざわめきひとつ聞こえない。
「──でも」
 無音を嫌ったのか、シエナは沈黙を素早く切って口を開いてくる。
「人為らざる道を決めた時に覚悟はしていたのでしょう? いつか、“もう貴方たちがいなくても歩いて行ける”と言われることを」
「いつだって、半死人の腕なんて借りない方がいい」
「そうね」
 閉じた扇で手の平を打ちながら、彼女が窓を横切る。
「他人の手は借りるものではないわね」
 ……この女もクレメンティと同じなのだ。落ち着き払って余裕を振りまいて、さも私の思い通りに事が進んでいますと言いたげだが、陰を踏む足元には怖れがある。
 今立っている場所、これから立つ場所、そして今まで立っていた場所、失うことが怖くてまだ何もない未来へと防衛線をはっている。
「話はそれだけか?」
「えぇ。私なりに筋を通したつもりです」
「ヴァチカンの良心か」
「はい?」
「いやこっちの話」
 ソテールは手をひらひらさせると、そのまま軽く敬礼する。
「ではこれにて失礼致します」
「ソテール・ヴェルトール」
「まだ何か?」
「貴方は我々の決定に従いますか?」
 ──ほら。ぬかるんだ足元では不安が残る。毅然と問いかけて、地面の固さを確かめている。
「さぁ」
 たまには良心を棄てるのもいい。
 彼は扉が閉まる寸前、肩越しに振り返り意地悪く言った。
「アンタの手駒は“ユニヴェール”と“ヴェルトール”、化け物二匹相手にする力量はあるか?」



 執務室を出て廊下を歩く。行政庁の出口へ向かって。
 だが、それから先どこへ行く宛てもなかった。
 良心を棄ててカリスを殺すつもりだったが、それもよく分からなくなった。結局、何をすればいいのか。何をしたいのか、己の望みさえ分からない。
 赤い絨毯をかすめ翻る白い外套が、ただひたすら真っ直ぐ進み続ける彼を追い、素知らぬ顔をしていた空気が薄目で彼を見送る。
 ソテールが行政庁の建物からようやく逃れたところで空を仰ごうとすると、
「…………」
 月明かりの下にカリスが立っているのが見えた。
 相変わらず教師面をして、こちらを見透かす目をして、クルースニクの白をまとってぽつんと立っていた。
「だから言ったでしょう。行ってはいけないと」
 ──何が“だから”だ。
 反論しかけて声が出ないことに気付く。彼の姿を目にした瞬間、言葉が喉元で詰まって出てこない。
 ソテールはその場で立ち止まった。
「貴方は救いようのない優等生だから、マスカーニ枢機卿の決定を聞いたらすぐに決心が揺らぐんですよ。この期に及んでまた、彼女に抗ってデュランダルを護るべきか考え始める。さっきその口で“良心を棄てに来た”と言ったのに、です」
 こんな時まで偉そうに。
「ヴェルトール隊長」
 パーテルでクレメンティの命を優先しておいてよくもしゃあしゃあと呼ぶ。
「長い間ありがとうございました」
 優雅な物腰で敬礼をする神父の手には白い手袋がはめられていた。剣の柄が滑るのを防ぐための手袋。
「色々言いましたけどね、貴方が我々の希望であったことは私の誇りでした」
 連なる過去形。
 そして彼は外套の下から聖剣を抜いた。
「貴方をここに縛り付けたのは我々です。ならば、貴方をここから送り出すのも我々でなければならないとは思いませんか?」
「そういうのを思い込みというんだ」
「本当のところを言うとね、デュランダルを解散すると言ったって、その後我々にどんな死に様が用意されているかはまだ分からないでしょう? 三百年も生きた後で更に老いを重ねるのも嫌ですし、かといって慇懃な儀式で葬られるのも願い下げです。そんな風に死ぬくらいなら、私の死を必要としている人間と勝負して死んだ方がマシではありませんか」
 デュランダルはもう、マスカーニに抗うつもりがない。終わりは受け入れられている。きっと、疲弊のために。
「……我侭だ」
「ユニヴェールの我侭は散々きいてやったくせに、私の我侭はきけないと?」
「そうじゃない」
 ソテールは小さく首を横に振った。
 デュランダルのために生きてきたわけではない。そんな選択をしてきたつもりもない。
 ヴェルトールもデュランダルも煩わしいものでしかなかった。
 それなのに何故、こんなにも必死で涙を堪えなければいけないのか。
 事あるごとに反発してユニヴェールと二人で飛び出し、彼がいなくなってからは一人で彼を追い、デュランダルをデュランダルとして率いたことなど数えるほどしかなく、“隊長”というより“ただ一番強いヒト”であって、“好きに使え”と与えられた白い狩人の群れはまるで自分を自分から遠ざける檻のようにさえ思えた。
 それなのにいざ終止符を打たれるとなると、この有様。
 そこにあることを当たり前と思ってしまった瞬間から後悔は始まり、哀は深まる。避けてすらいた存在なのに、失うと知った途端それは嫌だと叫びだす。
 子供みたいだ。
 自分で世話をしなかったのに、捨てると言われたら泣いて駄々をこねる子供。
 どれだけ自分が悪いと分かっていても、精神が悲鳴を上げて抵抗し始める。理性を押し流さんばかりに。
 なんて我侭な愚か者。
「デュランダルはもういらない。ヴェルトールも、もういらない。もはや我々にも貴方にも戻る場所はない。貴方に残された道は、貴方としてユニヴェールを討つ事だけ。ソテール、──剣を抜きなさい」
「…………」
 最善は何か、虚脱に喰われた頭では答えが出てこない。だが意志はあった。パーテルで刻んだ意志。
 その意志の奥底で誰かが言っている。
 ──初めから戻る場所なんてなかった。
「早く! 貴方がここに戻ってきた決意をやり遂げなさい」
 叱責にも似た神父の語気に、ソテールは剣を取った。
 目にはカリスが地を蹴り剣身を翻したのが映る。
 耳には遥か遠く春雷の響き。

 ──あぁ、嵐が来る。



◆  ◇  ◆



「さぁ選べ。好きなヤツを好きなだけ!」
 ユニヴェールが両腕を広げた。
「バルツァー卿のご厚意だ。この間の宴で私の服がダメになったのを気の毒に感じてくれたらしくてな、ぜひ新しいものをあつらえさせてくれと! そこで私は“部下が三人、居候が一人、小間使いが一人我が家で待っているのでお土産を持って早く帰らねば”と言ったわけだ。そうしたらお優しい卿は彼らにもぜひ贈り物をしたいとおっしゃられてな!」
 そういうわけで、ユニヴェール邸の食堂は色とりどりの布地で溢れ返っていた。まるで生地屋を丸ごと一軒買い取ったかの如く。
「…………」
「…………」
 呼び出されたメイドとシャムシールはぽかんと口を開けた。
「シャムシールはフランベルジェの分も選んでやること。どうしても休みが取れなかったそうだ」
「……はーい」
 少年が唖然としたまま手近な青い色の薄布を引っ張ると、
「お目が高い! これは秘境も秘境、ここらの人間は存在すら知らない、昔々空が落ちて出来た“青の湖(ブルー・ホール)”の水を織った代物でございます」
 原色の羽帽子で飾った商人が、声高に歌い上げる。
 ユニヴェール家が懇意にしているパリの仕立て屋から派遣されてきた男。
「……そ、そう」
「ちなみに私の今度の外套はコレだ」
 朗々と語る商人の横でユニヴェールが一枚の真っ黒い布をひらひらさせると、
「こちらは縦にセイレーンの歌声を、横にオルフェウスの竪音を織り、タナトス()の血で染め上げ、冥府のステュクス(憎悪)河にて濯いだ一品でございます」
 羽帽子がすかさず恭しく胸に手をやる。
「どうだ、すごそうだろ」
「どうせすぐ使い物にならなくするんですから、どんな糸で織ったって、どこの川で濯いだって同じですよ」
 パルティータはきっぱり告げた。
「浪漫がないだろうが、浪漫が」
「浪漫で私の給料は払えません」
「だがこれは全部バルツァーが払う」
「……もうすぐ暑くなりますから、もっと薄手で肌触りのいい生地が何枚か欲しいですよね。正装だけではなくて変装用のものも入り用ではありませんか? 医者に化けたり画家に化けたりジプシーに化けたりするのでしょう? アスカロンの分はどうします? 嫌がらせで辛気臭いのにしますか? それとも労をねぎらって派手なのにしますか?」
 他人の財布は使うに限る。
 けれどつまらないものを手元に置いておく必要はない。ユニヴェール家が買うに“ふわしいもの”、“ふさわしくないもの”を選別しなくてはならない。
 彼女はせっせと生地の山を崩し、合否を見定め──
「…………」
 色の渦に埋もれた中に、不自然な黒い紗の塊を見つけた。
 しっかりと何かを包み隠した黒い布。あからさまに“曰くつきの何か”、“買わせたい品”的な雰囲気を醸し出している。
 とりあえず、彼女は迷うことなく中身を引っ張り出した。
「──まぁ」
 烏貝の黒を割って現れたのは、魔物の目を射る白だった。
 冬の銀世界を切り取ったかのような、まばゆい白だ。あるいは、クルースニクのまとう白。
 勢いよく広げて角度を変えると、それは薄く金色に輝いた。
「これは?」
 部屋の奥にいたユニヴェールが目を細め、腕組みをして訊く。
 問われた商人は目深な帽子の下からちらりとこちらを見、すぐに主に向き直った。
「そのお品は、大天使ミカエルの持つ剣の光を織ったものにございます。我らのような魔物は触れられませぬ故、申し訳ありませんがお嬢様自らお戻しいただきたく」
「魔物が触られぬとあれば、誰が織ったのだ」
「まだ陛下──地獄の王(ルシファー)が天上におられました時に織らせたものだそうです。王がお下りになった後、これもまた天上から地獄へ蹴り落とされたとか。拾い上げた王自ら封じられ、長く玉座の傍らに」
「それは畏れ多い」
「貴方なら触れることもできようと、お預かりして参りました」
「尚畏れ多いではないか。小間使いが触れてしまったのに買わぬなどと言えば、末代まで祟られるぞ!」
「お代はバルツァー卿が」
 不遜な口調でおどけるユニヴェールを抑えパルティータが言うと、吸血鬼がからかいを含んだ視線を向けてきた。
「──ほう。欲しいのか?」
「はい」
 彼女はきっぱりとうなずいた。
 天上天下、地獄の財までも足蹴にしていなければ王ではない。足蹴にするには、その財を持っていなくてはならない。
 メイドのものは主のもの。主のものはメイドのもの。
「…………」
 パルティータはじっと、紅を見据えた。
 意志は込めず、ひとまず紅を見つめ続ける。宝石屋で紅玉を凝視するのと同じだ。あるいは露店で木苺の品定めをするのと。
 どちらにしろ、相手は生きていない。けれど、人を引きずり込んで離さない。
「──では、買おう」
 吸血鬼の双眸が横滑りして商人を一瞥、お許しが下りた。
「かしこまりまして」
 すぐさま羽帽子が大袈裟な手振りでペンを取り、羊皮紙の買い上げリストにさらさらと書き加えた。
 が、彼はふと動きを止め、ぎょろついた義眼で吸血鬼を見やる。探るような、試すような、上目遣いで。
「……お嬢様は人間と聞き及んでおります故、大天使の白布をお手にすることができることには驚きません。しかし陛下はお嬢様ではなく卿にこれをとおっしゃっていまして──」
「……フン」
 ユニヴェールが鼻の先で笑った。
 商人の言葉はつまり、“お前が触ってみろ”というわけだ。地獄の王が知りたがっている、ユニヴェールは大天使の光であっても本当に触れることができるのか、と。
「では、貴重な品を買わせていただいた礼として、これを陛下に献上しよう」
 ユニヴェールが暖炉の上から黒塗りの箱を取り上げ、テーブルの上に置いた。かぱっとフタを開けて商人の方へ押しやる。
「…………」
「羽ペンと赤インクだよ、見て分からんか」
「これが何だと──」
「貴様らが恐れる天使長殿は、まだ天上にお帰りになっていないかもしれないぞ。片翼の鳥がどれほど飛べるものか私は知らんが、いや、半年もあればさすがに巣に帰るか。ってでもな」
「…………」
 商人が、伸ばした手をぎくりと止めた。
 目の前に置かれた物の正体を悟り、固まる。
「私が直接地獄の王に謁見を申し出てこれを献上した方がいいかな?」
 ユニヴェールが意地悪く犬歯を見せて笑った。
「いえ──」
 商人がうつむいたまま、震える指先でフタを閉めた。ペンとインクが視界から消えると、彼は深く息を吐き出す。本人は極力抑えているつもりなのだろうが、努力は報われていない。
「帰ると言えば、ヴィスタロッサから聞きました。ソテール・ヴェルトールはヴァチカンへお戻りになったそうです」
 パルティータは大天使の白布を横にどけながら言った。
 するとユニヴェールが呆れ顔で眉間に手をやる。
「やっとか! 初めからあの男にはあそこしか戻る場所などないというのに、いつまでもぐだぐだぐだぐだと……。考えすぎで溶けないのが不思議だ!」
「そういうものですか」
「何故あの男の名が“救世主(ソテール)”というか知っているか?」
「知ってたら何をくれます?」
「何も」
「じゃあ知りません」
 思いっきりげんなり顔をしてきた主だったが、
「知りませんので教えてください」
 下手に出ると復活する。
「とっくに気付いていた奴がいたのさ。人にとって真に必要なのは見守るイエスではない、闘い続けるヴェルトールだ、と」
 ユニヴェールがパルティータから白布を取り上げて、燭台の炎を透かした。
 紅の瞳にかすんだ揺らめきが映る。
「イエスにすがったところで、神に祈ったところで、彼らがこの世の何を変えられるわけではない。地上の者は地上の者にしか救えないのだよ。ゆえに、ヴェルトールは彼らの代わりに闘い続けなければならない。イエスが、神が、救ってくださったと人々が安らぎを得るために」
 断定は多いが、鋭くはない。真綿の如く、海底の如く。
 高らかな哄笑の合間に混じるこの神父の口調は、彼がクルースニクだった時代の名残なのだろうか。あるいは、これもまた彼の本質なのだろうか。
「気の毒な話だ。ヴェルトールがいくら成果をあげてもその功績は神や神の御子に盗られ、“あなた方の罪を代わりに引き受けます”と犠牲の大義名分で楽になることもできない」
 吸血鬼は左にパルティータの白布を広げ置き、右手で己の黒布を投げ広げた。
 テーブルの上に重なりあっていた鮮やかな色彩は、白と黒、二色に呑まれて覆われる。
「いいか、地上を彷徨さまよう愚か者たちが帰るべきなのは、己のために血を流し涙を流し心を引き裂いてくれる者のところなのだよ」
 テーブルの向こう岸で、シャムシールがうなずいている。
「決して、安穏と己を受け入れてくれる者のところではない」
 それは分かっている。分かっているからまだここにいる。



◆  ◇  ◆



 力の差は歴然としていた。
 ユニヴェールを相手にする時とは違う、聖歌のようなソテールの剣。
 一瞬たりとも止まることなく光の線を残して虚空に円を描き、前へ前へと歩を進める。
 カリスの剣はただその軌道を変えるためだけに振られ、聖剣と聖剣が奏でる剣戟けんげきは高く遠く、しかしやがて強まる風音にかき消されてゆく。
 美しさにそぐわぬ重い衝撃に、一撃一撃カリスの息が上がる。
 一方のヴェルトールは無表情を保ったまま、瞬きすらしない。
 暗くだだっ広い庭の中で、白と白との衝突は優美な螺旋を描いて激しさを増す。
 強風で千切れた枝葉が黒い雲へと舞い上がり、空気がさらに冷たくなった。

 雨が近い。
 いつの間にか月は、闇に隠されていた。

「──!」
 カリスの切っ先が僅か己の胸元をかすり、ソテールは刃を返して一歩退く。
 だが読み誤った。
「甘い」
 己を守る必要のない神父が、強引に踏み込み薙いでくる。
 聖剣が外套を切り裂き、次瞬、硝子の割れる音がした。
 見下ろせば、石畳に散らばる透明な破片。
 風にさらわれる灰。

 ──フリード!

 男は蒼眼を見開き、動きを変えた。
 強く、容赦なく、前へ。
 ただ一閃で神父の外套が鮮血に染まり、彼の金髪が不自然に泳ぎその身体が傾くより速く剣を前へ突き──
「ソテール! やめてください!」
「!?」
 ヴェルトールの血が、その反応を可能にした。
 剣は止まった。
 一拍後、カリスが浅い呼吸で地に膝をつく。
 ソテールはゆっくりぎこちない動きで振り返った。
「お前……」
 そこには、眉を寄せ今にも泣き出しそうな少年の姿があった。
「カリスを殺さないでください」
 曇りのない銀髪、すがるような蒼眸。
「おい……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、僕がいけないんです」
「フリード、どうやって……」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 何故か少年は顔をこわばらせて謝り続ける。
 彼の名はフリード・テレストル。
 シャルロ・ド・ユニヴェールのダンピールであり、ソテール・ヴェルトールの弟子。人々のあらゆる感情を一身に受ける要素を備えた、子供。
「どこへ行けばいいのか分からなくて、いつでも帰って来られたのに、いつまでもそのままでいて、僕がさっさとすればよかったんです」
「いや、というかお前……」
 ソテールはフリードに言いかけてちらりとカリスを見やる。
 神父は──荒い息の下こちらを見上げ、まだ教師面して笑っていた。やはりヴェルトールは甘すぎるのだ、こんなんではこの神父、このまま放置してもあと一、二世紀は死にそうにない。
「ごめんなさい、ソテール。ごめんなさい、カリス」
「フリード」
 ソテールは小声で謝り続けている少年へと顔を戻した。
「はい」
 こんな時でも律儀に返してくるのが可笑しくて、ついため息に笑いが混じる。
「落ち着いて話せ。いつでも帰って来られたってどういう意味だ?」
 あまりに予想外の出来事に、嬉しさを飛び越えて恐ろしいほど冷静になってしまう。
「それは、ええと──」
「バカかお前、そりゃ“死んでない”ってことだろうが」
 突如として、線の細いフリードの声が枯れかけたオッサンの声に変わった。
 ソテールは声の出所をギリッとねめつけ、だが主を知るや即座に背を正す。
「ファウスト先生……、何故ここに」
 嵐を引き連れて、痩せぎすのボロキレ男がそこにいた。
 相変わらずのボサボサ頭を風に吹きさらし、白衣とは言い難いせた布をひっかけている怪しい錬金術師ゲオルク・ファウスト。
 ソテールに疑問符を投げられた彼はしかしそれを無視。未だ地に転がっているカリスに近付いた。
「ミトラを診てくれとぴーぴー喚くからわざわざ来てやったのに、なんで呼びつけた本人がこんなザマになってんだ、えぇ? カリス」
「いえ、まぁ……これには複雑な事情が」
 カリスが珍しく口ごもって錬金術師から目を逸らす。そしてこちらを見た。
「そ、それよりも、ソテールが貴方の言葉の意味を知りたがっていますよ。首をねたのに、死んでいないとはどういうことです?」
「お優しいお父上が、坊主の魂が神様の手に渡る前に連れ戻してきたのさ。坊主の首が取られちまう前にアイツ(ユニヴェール)の身体が無くなってて良かったな」
 ファウストが手刀で自分の首を斬ってみせる。
「あの化け物ならお迎えに来た天使の一人や二人や三人や四人……百人単位で束になって来たって塵にするのは朝飯前だろ。だから坊主は正確には死んでない。首が取れても死んでない。たぶんな。俺はまだ死んだことがないから正しくは分からんが」
 錬金術師の投げやりな視線をちらりと受けて、
「灰があって、僕の意志があれば、いつでも帰って来られたんです」
 フリードが途切れ途切れにうなずいた。
「ユニヴェールにそう言われたのか?」
 ソテールが訊けば、こくんともう一度首を縦に振る。
「探して選べって」
「……何を」
「帰る、所を」
「あぁ……」
 ソテールは、大きな吐息と共に苦笑いを浮かべた。
 カリスを見、己を見、ヴァチカンを見渡す。
 やがて来る嵐に怯える、狭い狭い聖なる箱庭。神の代理人が慈愛をうたう、祈りの墓場。その中にひとり身を硬くして立っている白い少年。
「毎度難しい注文付けるよな、お前の父親は」
 言って、ソテールは暗雲を仰いだ。
 ──至らない。
 本当にそう思う。
 後悔をただ繰り返しただけの人生だったと言っても過言ではない。それなのにまだ、至らない。
「信用したデュランダルは自分を殺そうとしてたわ、親父は独論で突き放すわ、師匠は自分のことで精一杯、まるで頼りないわ、そりゃお前、誰だってどこへ帰ればいいやら途方に暮れるわな。どれ選んだって末路が不幸なのは目に見えてる」
 ファウストが腕組みをして嘆息する。
「違っ、頼りないわけじゃ!」
 間髪入れずに否定してくれるのが嬉しいような悲しいような。
「おまけにじっくり悩んでりゃ師匠が人殺しになっちまうってんだから、ホント苦労するよな、バカな親とバカな師匠を持った賢い子供は」
「……ごもっとも」
 カリスの血が付いた聖剣が腕に重い。だが、三百年分の後悔を呵々(かか)と笑い飛ばすファウストのおかげで、幾分軽くなった気もする。
「“ユニヴェール”も“ヴェルトール”も俺たちの幻想だ。ずっと昔、光に長けた者と闇に長けた者ふたりが存在した時、彼らを前にして世界はまだ訪れてもいない未来を想像した」
 ファウストが、あごをつまんで歪な笑みを浮かべ、言った。
「“あぁなるかもしれない”“こうなるかもしれない”、そう危惧しては闇への怖れを増大させ、一方で“そうなっても彼に護ってもらえる”“彼ならば世界を救ってくれる”と光に対する希望を膨らませ、想像は予見となり、予見は暗示となり、暗示は──ユニヴェールには呪詛、ヴェルトールには鎖となった」
 雷の地響きが近付いてくる。遠くの空で閃光が雲を疾る。
「虚構なんだよ、全部。人間は常にまだそこにない明日に怯えている。だから歴史が生まれる。ありもしない未来を見て、ある者は護りに出て、ある者は攻めに出て、そうやって余計な先駆を積み重ねてるうちに歴史が出来る。歴史は過去から続いてると思ってるだろうが、残念いつだって未来から始まってるもんだ」
 風の中の雨の匂いが濃くなった。
「そして人は、明日が怖くて仕方ないから神に祈る。神に安息を求める。そして地位も金も家族も愛も超えた居場所を確認する。すべてを失ってもそこにいられる居場所を」
 持てる者は、失う未来を怖れる。
 持たない者は、置き去りにされる未来を怖れる。
 そのどちらも平等に帰ることができる場所、それが神のふところ
「その場所すら失われることが恐ろしいから、罪を吐き神を愛す。幻想に赦され安堵を得る」
 怖れの上に祈りがあり、祈りの上に救いがあり、救いの上に天があり、天の上に地上がある。虚構の石で築かれた、バビロン。
「暗黒都市の高貴な御方を差し置いて、何故ユニヴェールが闇の王と言われるか分かるか?」
「王?」
「あいつが反逆者たちの帰る場所だからだ」
「…………」
「帰る場所がある奴は、神様に頼らなくとも生きていける。あいつがあそこにいる限り、魔物たちが神に赦しを乞うことはない」
「それをアイツは──」
「知ってる」
「だろうな」
 ソテールは何度目かのため息をついた。
「シャルロはいつも知ったような口をきいていた。俺は大半否定してきた。でも時々それが全部正しいように思えてしゃくに障るんだよ。アイツは常に俺の前にいる」
「ユニヴェールの言うことがすべて正しいわけじゃないだろうさ。その証拠にアイツは死んだことを敗北だと言い続けてる。砂が金に変わらなかった時、それは何かが間違っていた以外に原因は無い」
「それが何だって──」
「生者は過去を変えることができる。死者の分も含めて、だ」
「…………」
 ソテールが言葉を継げずにいると、痛みに慣れるためじっとしていたカリスが傷を押さえて身体を起こした。
 それを見、ファウストが本業に戻る。
「カリス、ミトラは宿舎か?」
「──えぇ」
「俺は千年先まで予約で埋まってるほど忙しいんだ、こんなところで説教してる暇はない。勝手に診てくるからな」
「あの人、身体は元気で部屋にいますが、本人はどこかへ行ったきりです。探して連れ戻してやってください」
「戻る場所はあるのか」
「今の我々は、背骨が折れた骸骨のようなものですから」
「ただの骨だな」
「えぇ、ただの骨です。だから土に戻るんです」
「…………」
 ファウストの渦巻き眼鏡がソテールに向けられた。
「…………」
 ソテールは逸らさず見返した。

 やっと分かったのだ。
 カリスの付いていた嘘が何なのか。
“──我々デュランダルに存在価値を与える必要もありません”
 彼はそう言った。
 ずるずると生き長らえた理由、今ここにいる理由、振り回した剣が正義だという理由。
 自分が握り締めている理由以外、必要ない。与えてくれなくていい。自分がすがりついている理由でさえ、認められなくていい。
 独立宣言とも取れる、ご立派な心がけだ。
 だがしかし彼には、──否、彼にもミトラにもデュランダルにも、彼らには、戻る場所がないのだ。唯一絶対、自分をここまで生かしてきた理由が折れたなら、戻る場所がない。
 デュランダルから白十字まで、魂を斬り裂く剣を手にした者は皆、神に赦しを乞う死者の列に加わるつもりはないのだから。
 もし、フランベルジェを取り戻すことが本当に不可能なのだと感じれば。もし、セーニが本当に反逆者なのだと信じれば。
 それを嘆く場所も、その傷を癒す場所も、それ以外の理由を探す場所も、ない。
 理由なしで存在できる場所が、ない。
 闇がなければ必要とされない蝋燭の炎のように。飼い主の興味が失せれば放り出される道化のように。
 だからこそ、積もる歳月に疲れ果てた。

「何があったか知らんが──」
 ファウストが鼻の頭を掻いた。
「俺は単なる医者だ」
 そう吐き捨ててくるりと身体を反転させ、酔っぱらい同然の足取りで奥の方へ去っていく。
「嵐が来るぞー!」
 声を出したいから叫ぶ、そんな喚き声を響かせて。終いには、音が外れて壊れた歌を歌いながら。
 その姿を見送り深く深く一呼吸、剣を置くとソテールは少年に向き直った。
 こちらの手の辺りを見つめている顔は、ジェノサイド以前と変わらない。
 身の置き場がなくて不安の翳が落ちる子供の顔。光でも闇でもないが故に、生き方も在り方も自分で作り出さなければいけないという茨の道に立ち尽くし、助けを求めることも手本を定めることもできないでいる孤独な異人の顔。
「フリード」
「はい」
 肩を抱いて引き寄せる。薄い背中を軽く叩く。
「──おかえり」
「…………」
 返事はなかった。
「? どうした」
 ソテールは眉を上げ、少年の蒼眸をのぞき込む。どうしても、執拗にあの男を思い出させる蒼い色。
 ずっとやや下を見つめていたそれが、意を決したように上を向いた。
「困りませんか、僕が帰ってきて」
「──」
 男は文字通り、絶句した。
 対して少年は一気に言い募る。
「心配事も面倒事も増えるでしょう? クルースニクにするなら周りを説得しなきゃいけないし、普通の子供として扱うとしても尚更反対にあいそうだし、僕が魔物にならないように見張ってなきゃならないし、もしかしたらそれで僕を殺さなきゃならないかもしれないし、それに──」
「フリード。ただ今戻りましたと言え」
 ソテールが凄んでも、少年は頑なに首を振る。
「迷惑はかけたくないんです」
「…………」
「今までうまくいっていたものが、僕のせいで壊れるのは嫌なんです」
 誤解だ。
 うまくいっていたものなんて、ひとつもない。
 ソテールは一言一言ゆっくり告げた。
「例えば、お前が神様に地獄へ落とされるようなことをしたとしても、世界中の人間がお前を殺せと喚いても、俺はお前に俺のところへ戻って来いって言うからな」
 あの頃は伝えきれなかった。
 あの男には戻る場所がなかった。
 自分には、それだけの度量がなかった。
「でも!」
「デュランダルの隊長は俺だ。俺はお前をデュランダルに入れようと思っているし、そうしたらお前は無条件で俺のところへ戻ってこなきゃならない。分かるか?」
「……はい」
「約束できるか?」
「はい」
 いい返事だった。
 翳が完全にぬぐえたわけではない。それでも、少年が笑った。それだけで充分だった。
「ソテール隊長、フリード・テレストル、ただ今戻りました」
 男は少年の銀髪に手を置いて応える。
「おかえり」



 風吹き荒ぶ中、聖剣を地面に突き刺し行政庁を凝視するソテールの背後で、カリスとフリードがなんとも彼ららしい淡々としたやり取りをしている。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。これくらいでは、死にたくとも死ねません」
「つかまってください」
 どうにか立ち上がろうとするカリスに差し出される、少年の手。
 一瞬躊躇った神父は、それでも素直にその手を借りた。
「我らが隊長殿ではなく一枢機卿の命を優先させた……。主を間違えるなんてね、デュランダルとしてあるまじきことですね」
「いいえ、いいんです。ここから過去を見ているからそうなるだけですよ、きっと」
 何が最善だったのかは、未来にならなければ分からない。
 最善たろうとして最悪に陥ることもある。災い転じることもある。
「カリス」
 ソテールはフリードに寄りかかるようにして立ち上がった神父を横目に一瞥、行政庁を見据えたまま、訊く。
「はい?」
「まだしぶとく生きるつもりはあるか?」
「……必要ならば」
「必要かどうかじゃない、俺に付き合う気はあるかって訊いてるんだ」
「土に戻るなとおっしゃる?」
「帰って来いと言っている」
 少し長い間があって、「帰りましょう。みんなで、みんなのウチに」という返事がある。
 ソテールは口端を上げて首だけ振り返った。
「ヴァレンシア大司教ってのは使える奴か? 洒落が分かるようでないと困るんだが」
「教皇の甥ということになっていますが、ご子息であるのは周知の事実です。枢機卿たちへの影響力はなくとも、教皇への影響力は大きいでしょう。それに、少なくともここにいる堅物どもよりはよっぽど洒落が利くと思いますよ。良くも悪くも非常にお若い」
「なるほどね」
 再び彼が真正面を向くと、
「何かするつもりですね?」
 カリスのいぶかる声。
「ちょっと、穏便なご相談にね」
 ソテールはくるくる聖剣を振り回してみせる。
 神父が眉根を寄せた。
「心配です。私も行きます」
「僕も行きます」
 脊椎反射の如く手を挙げたのはフリード。
「…………」
 ソテールは両手を腰にやり、二人を睨んだ。
「遠足ではありません」

 ふと気が付けば、風向きが変わっていた。雷鳴は遠退き、空気から湿り気が失せていく。
 聖都を暗闇に沈めた灰色の雲が流れ、その切れ間から藍色の夜空が広がり始める。
 それでも、箱庭に立つクルースニクの白は際立っていた。神にも、魔王にも、不可侵な白。

「ひとつだけ訊いていいですか?」
 宿舎に帰ろうと歩いていると、フリードが思い出したように声を上げてくる。
「何だ?」
「僕らはソテールのところへ帰ればいいんですよね。じゃあ、ソテールはどこへ帰るんですか?」
「デュランダル」
 月が雲間から姿を現した。藍と青と蒼、再び、夜の中に光と影の境界が引かれる。
 しかし地上と空との境目には、僅かに白が滲み始めていた。
 その小さな光は、やがて鮮やかな金色の朝焼けとなって空を染めるのだろう。
「では、父上は?」
 フリードの問いに、ソテールはニヤリと笑った。
「墓」

 嵐が去り、夜明けが来る。



◆  ◇  ◆



「今戻った」
「お帰りなさいませ」
「お帰りー」
 夜が白み始め、暗黒都市から戻ったユニヴェールが玄関へ足を踏み入れると、灰色メイドはともかくシャムシールまでがかしこまって待っていた。
「なんだシャムシール、お前が出迎えなんて気持ち悪い」
「見てもらいたいものがあるんだけどー」
 だぶだぶ法衣に身を包んだ少年が丸めた羊皮紙を突き出してくる。
「どーれ。“吸血鬼物語”?」
 メイドに外套を預けながら羊皮紙を開くと、そんな文字が躍っていた。
 いつまでたっても子供っぽい、丸まった字。
「そう! ユニヴェール様の版画の中にあったでしょ? 吸血鬼とお姫様と騎士の物語。あれにね、僕なりに詩をつけてみましたー」
「あーあーあー、あったな、そういえば。五十年くらい前にナントカ侯爵がくれたヤツだ」
「ワインにしますか? 紅茶にしますか? おいしいおやつがありますけど」
「紅茶」
 スカーフを緩め食堂へ入り椅子に身を投げる。
 そして読み上げた。
「『吸血鬼には 黄昏に死を待つ聖女の血を
 聖なる狩人には 暁に死を待つ狩人の血を
 滅びの使徒こそ復活の灯火

 急げ 急げ
 時を逃せば再び神の手に
 二度と戻らぬ』」
「どう? どう?」
 身を乗り出してくるシャムシール。
 吸血鬼は鋭い爪で一点を差した。
「狩人というとクルースニクを連想するぞ、騎士よりも。これは姫を護る騎士のことを言ってるんだろう? 吸血鬼を蘇らせるには姫を殺せ、ダンピールを蘇らせるためには騎士を殺せって話だ」
「そりゃそうなんだけどさ、“騎士”だといかにもじゃない。直接過ぎなの」
「お前の芸術魂がそう言うのならそれでも構わんが」
「それってどうでもいいってこと?」
「あとはなー、“聖女”だな」
「なんでそれがいけないの」
「姫は確かに敬虔な信徒らしいが、我々吸血鬼の側からすればそんな奴はどうってことない。困るのはパルティータのような“聖女”なんだよ、神への愛ではなく、血なのだ。つまり、この姫は我々からすれば“聖女”ではない」
「理屈っぽい」
「“乙女”でどうだ。どこかで乙女の血だか涙だかも吸血鬼を蘇らせると聞いたことがある」
「……果てしなく嘘くさいけど、その方が美味しそうだね」
「詩に深みが出る」
 ユニヴェールがあごをつまんでうなずくと、
「ねぇねぇ」
 シャムシールが寄ってきた。
「パルティータも“乙女”?」
「はぁ!?」
 ぎょっと仰け反ったユニヴェールは、体勢を立て直し咳払いをする。
「お子様はそんなこと知らんでよろしい」
「知ってるの? 知らないの? 知らないなら訊いてみてよ、芸術の参考にするから」
「そんなことお前に教えてみろ。今度こそ殺され──」
 背後に気配を感じ、ザッと振り返る吸血鬼。と、お子様。
 音もなく、にこやかなメイドが立っていた。両手の丸盆に大きなおやつを載せて。
「ユニヴェール様、ケーキとパイ、どちらがよろしいですか?」
 どう考えても軽く八人分はありそうなデカイおやつ。
 美味しそうというより、飛んできたら嫌だ、という気配がする。
「……まずはその皿をテーブルに置いたらどうかね。重いだろう」
「どちらになさいますか?」
「だ・か・ら」
 視界の端で黒い塊がテーブルの下へ滑り込んだ。
「あ、コラ、シャムシール! 逃げるか!」
「ユニヴェール様」
「……はい」



THE END


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Alle Guten, alle Boesen Folgen ihrer Rosenspur.
<すべての善なる者も、悪なる者も、自然が開いた茨の道をたどって行く>
Laufet,Brueder,eure Bahn, Freudig,wie ein Held zum Siegen.
<歩め、兄弟たちよ、汝らの道を、凱旋の英雄のごとき歓びをもって>
                        ──
Symphony No.9 Prest Final Choras 歓喜に寄す より
                                       ※ウムラウトは+e表記してあります。

BGM by Ludeig van Beethoven [Symphony No.9 Prest Final Choras]
Delain [I'll Reach You]
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