冷笑主義

第14話 うちに帰ろう
Alle Guten, alle Boesen Folgen ihrer Rosenspur.

前編




 ただ一言言ってくれるだけでいい。
 “おかえり”、と。


 ◆  ◇  ◆


 凍てついた空気が緩み、雪が消え、パーテルにも春が来た。
 痛々しく剥き出しになった大地にはぽつぽつと緑が芽吹き、街道の脇には白や黄色の小さな花々が揺れ始める。鳥がさえずり花をついばみ、空を横切る。
 険しかった人々の顔もほぐれ、柔らかな陽気に寝坊した学生が、バタバタと路地を走り抜けてゆく。

 秋から冬、そして春。
 あのジェノサイドからそれだけの月日が流れた。いっそ清々しいほどの血生臭い記憶は、冬の吹雪に削られ風化した。
 一部の、十字架を背負った者たち以外の記憶は……。



「ヴェルトール隊長」
 静かな女の声に呼ばれて、白のクルースニクは顔を上げた。
 じっと見つめていた小瓶を外套の奥へと滑り込ませて。
「……はい」
 家名を使うなということも、もはや“隊長”ではないだろうということも、口に出す気力はない。裏庭へ続く階段の最下段に腰をおろしていた彼は、ただぼんやりと、こちらにやってくる婦人を視界に映していた。
 パーテル聖騎士団隊長シルヴァン・レネックの奥方、ルイーゼ・レネック。
「そんな日陰にいないで外を歩いていらっしゃればいいのに。身体がなまりますよ」
「──いえ」
 彼女が手にした籠にはローズマリーだのセージだのといったハーブが詰め込まれていて、一歩近付いてくるごと特有の香りが強くなる。
 頭が痛くなるほどの、白い脅迫。魔除けの香草。
 彼は我慢できずにふいと目を逸らし、申し訳程度に言葉を繋いだ。
「私は、道を選ぶことと考えることが同時には出来ない性質タチなんです」
「それは残念。では、考えごとをしながらお手紙を読むことはどうですか?」
 柔和な笑みの下、レネック夫人がついっと羊皮紙を差し出してきた。ぞんざいに丸め、細い布切れで結んだだけの手紙。
 にも関わらず手紙本人は何故か異様に高飛車で、王でなければ開くことなかれという顔をしている。
 ──お前にはふさわしくない。お前には手に取る資格がない。
「どうぞ。貴方宛てです」
 手紙の意志をぶち壊す女のニコニコ笑顔。
「……どうも」
 腕を伸ばすことさえも億劫だった。だが彼女はのほほんと見えてかなり頑固な人間だから、彼が受け取らないといえば受け取るまでここにいるだろう。
 彼は仕方なくそれを受け取った。
 ゴミみたいな布切れをほどき、羊皮紙を開き──
「……これをどこで?」
 低く噛む。
「さっき表で預かりました。貴方に渡して欲しいと頼まれて。それくらいならと思って引き受けてしまいましたが、何か難しいものでしたか?」
「どんな奴でした?」
 問いには答えず問いを重ねる。手紙を睨みつけたまま。
 それでも彼女は気にした風もなくクスクスと肩を揺らした。
「不幸そうな顔をした黒尽くめのお兄さんでしたよ。帯剣していましたが、騎士ではないでしょう。規律に縛られたらすぐに悲鳴を上げそうな人でしたもの。ヤル気のない流れの傭兵か、あるいはどこかの道楽御曹司が流浪の真似事しているのか……」
「…………」
 男は顔を上げ、氷った蒼い双眸を女に向けた。
「…………えーと」
「…………」
「……ユ、ユニヴェール家の化け猫です」
 教師に咎められた生徒のように、ルイーゼ・レネックの声がしぼむ。
 しかし消えることはなかった。彼女は、芽吹きの緑に影を落として続ける。
「冬は去りました。世間も、教会も、ジェノサイドを記した史書は閉じたのです。みんな、もう行儀よく本棚に並べてしまいました。時が流れることの意味を、貴方は誰より知っていらっしゃるでしょう?」
「私たちの史書が閉じられることはありません」
「ページを繰ることは?」
「…………」
 春の日差しは、冬のそれとは違い暖かな色味を帯びている。白と黒の単調な世界から、鮮やかな色彩の広がる世界へと、風が変える。
 何もしなくても時は過ぎ風は過ぎ、景色は移ろう。
 何もしなくても、ただ生きているだけで。
「膨大なページがめくられて、今があります」
 男は女から視線を外した。女は後を続ける。
「あの人がめくり、貴方がめくり、あとどれくらいページは残っているんでしょうね。人間としては少ないことを祈るべきかしら。そういえば、次はどちらがめくる番なのですか?」
「……私です」
 それは明白だった。脳裏に浮かぶのは、小さな小瓶。そして一振りの聖剣。
「そうですか」
 ルイーゼ・レネックが微笑を浮かべて、籠の中から小さな白い花を手に取る。
「では無事その責務が果たされますよう、私からのささやかな励ましです。気の早い樹もあったもので、一番咲きなんですよ。可愛いでしょ」
 男の足元にそっと置かれたのは林檎の花。
 早咲きにもほどがある。
夕餉ゆうげの時間になったらお呼びしますね」
 じっと真正面を見据え続ける男に、栗色の髪踊る背が向けられた。
 草を踏む軽快な音と共に、魔除けの香りが遠のいて行く。
 そしてまた、陽光降り注ぐ裏庭には男ひとりが残される。
 戒律と正義を厳格で織った白い外套に身を包む、吸血鬼始末人ソテール・ヴェルトール。
 彼が受け取った手紙には、戯曲の一節とも思える警告が記されていた。

『吸血鬼には 黄昏に死を待つ聖女の血を
 聖なる狩人には 暁に死を待つ狩人の血を
 滅びの使徒こそ復活の灯火ともしび

 急げ 急げ
 時を逃せば再び神の手に
 二度と戻らぬ』

 何をしろと言っているのか、分からないほど鈍くはない。
 羊皮紙の上を過よぎってゆく不滅の吸血鬼、迷える少年、金髪のデュランダル・クルースニク。
 少年を死に追いやったのはレネックだが、あの男は狩人ではない。騎士だ。
 だとすればこの“狩人”が意味する名前は。
「カリスを殺せばフリードは──」
 言いかけて、ソテールは目を閉じ、耳をふさぎ、身体を折り、息を止めた。言い切ったが最後正気は保てないだろうと、確信した。
「言うな。思うな。喚くな。想像するな」
 若い緑に花の甘さが漂い、目に刺さるほど鮮やかな春の庭。
 階段にうずくまる男はぶつぶつとそれだけを口に繰り返し、地下墓地グロッタを──静寂と祈りに支配されたあの牢獄を──呼び覚まし、冷えた石の棺に己を縛り付ける。
 負荷に耐えかね暴走したがる感情を、鋼の理性で黙らせる。
 口はカラカラに渇き、声は掠れた。
 どこかでユニヴェールが嘲っている。
「喚く前に考えろ。俺は、何を、どこで誤ってきた」
 少しでも気を緩めれば混乱のせきは切れる。息は浅く、震える指先に力を入れる。

 ──どうしてシャルロを失った。どうしてフリードまで失った。

 三百年分、映されては消える記憶の断片を、細かく細かく切り刻む。
 苦渋と後悔で埋め尽くされた人生を、ぎりぎりと睨む。
 しかし多くの悩める人間と同じように、彼もまた、始めから答えを知っていた。知っていたのに見ないフリを続けて、同じ結末を招いたのだ。
 人生を否定する強さも勇気もなかったがために、一度目は友を殺し、二度目は弟子を殺し。
 どこかで、“それでよかったのだ”と思いたがっていた。

 ──愚か者。

 唇を噛んで罵り、男は耳をふさいでいた手を下ろした。
 目を開き、上体を直し、そして立ち上がる。
 ──目の前にあるものを、見ろ。
 ソテール・ヴェルトールの蒼眸に、アレから初めて、色のある景色が広がった。
 野放しに咲き誇る黄色の蒲公英が傾く西陽に照らされて、新芽をつけた若木の枝先では小さな鳥が生を謳歌している。埃っぽい大地の匂いが風に運ばれ、長い白外套がはためく。
 彼は一歩階段を昇り、ふと足元を振り返った。
 ルイーゼ・レネックが置いていった林檎の花が、ぱたぱたと階段の端へと転がってゆく。
「…………」
 花に託された言葉は、“選択”。
 彼はその白い花を拾いあげると、裏庭を後にした。


 ◆  ◇  ◆



 春になったとはいえ、夜はまだ冷える。
 扉を閉ざした家々の中では、冬の余りの薪が暖炉に放り込まれ、細々とした炎が踊る。帰る家のない者たちは、路地裏にボロ布を巻いた身を寄せ合い、黒い森で梟が不吉に鳴くのを聞く。
 その者たちの中には、化け物屋敷の煙突から上がる煙が、藍色の夜空を灰色に塗り潰しながら流れてゆくのを見た者もあっただろう。
 そして思うのだ。
 魔物でも寒さや冷たさを感じるのか、と。


「シャムシール、あったかいハーブティーを淹れたけど、飲む?」
 ティーカップとポットを銀盆に乗せてきたメイドは、食堂の小さな住人に訊いた。
「誰も世話してないのに庭一面に生えてるから全部タダなの」
 すると、
「魔物にハーブティーって何考えてんの!!」
 いつもの指定席(暖炉前)で何やら羊皮紙を広げていた少年が、キッと振り向きキィキィと叫んでくる。
 もともと虫の居所が悪かったのか、それともよほど腹に据えかねたのか、丸い大きな目が釣り上がっていた。
「僕らだってねぇ、そこらじゅうにゴロゴロしてるゴミみたいな魔物じゃないんだから魔除け草で逃げ出したり弱くなったりしないけどね、匂いは嫌いなの! パルティータだってニシンの匂い嫌いでしょ! それと同じなの! それを飲むかだって? 飲むわけないじゃない! 外道! 悪魔!」
「だって、ユニヴェール様はフツーに飲んで──」
「あの人は年寄りだから味覚がバカになってるんだよ!」
「シャムシール。私はいつだって記憶をフル活用してすべての感覚を手にしているさ」
 いつの間にか、食堂の扉の前に屋敷の主が立っていた。
 人を喰った顔をして──実際に喰っているのだから比喩ではない──、いつもより装飾の多い礼服で身を包み、黒の外套を手にしている銀髪紅眸の吸血鬼。
 胸元につけている大粒の赤い石は、ルビーではなくダイヤモンドだ。誰かからもらったらしい。
「あ、いたの」
「下僕のくせに“いたの”じゃない」
 大袈裟に眉を上げるユニヴェールに、少年はぷいと横を向く。そして“もう何を言われても聞こえません”とばかりに羊皮紙へと身を屈め、ぐりぐり何かを描き始めた。
「……育て方を間違えた」
 半眼でうめく吸血鬼。
 しかし彼は、テーブルの上に茶器がそろっているのを目にしつつ、席につこうとはしない。
「ユニヴェール様、どこかへお出かけですか?」
 パルティータが聞けば、しかめ面から一転、男のまわりにパァァと花が咲いた。
 不幸になってしまえと呪いたくなる類の上機嫌だ。
「あぁ、言ってなかったか? 今夜はシュタインベルガー侯爵主催の晩餐会にお招き預かっているんだよ」
「言われてません」
「今言ったからいいだろう。よし」
 身勝手な自己完結だ。
「この日のために各国から美しい娘を狩り集めてきたらしい。わざわざ私のためだと! そんなわけでどうせこの服は用済みになるだろうから、生地屋と仕立て屋を呼んでおいた。明後日か明々後日か……まぁそのうち来るだろう」
「それはそれは用意のよろしいことで」
「そうでなければ紳士とは言えないのだよ」
「紳士はお召し物を血だらけにはしないと思いますが」
 主に外套を着せながら言えば、
「吸血鬼にそれを言うのは酷だ」
「…………」
 ミもフタもない答えが返って来る。
 パルティータは、ぱっぱとスカーフを結び直し宝石の位置を直し外套を払い、主の格好をひととおり整えると、
「では楽しい一日を。はい、いってらっしゃいませ」
「!?」
 半ば追い出すようにして主を食堂から閉め出した。
 いつまでも付き合っていたら、せっかくのハーブティーが冷める。
 扉の向こうで何やら喚いているが、どうせ“玄関まで送れ”とかそんなことだ。
 彼女は椅子に腰掛けポットを手に取った。そしてふと暖炉の前の少年に目をやる。
「シャムシール、さっきから何してるの? 絵、描いてるの?」
「放っといて! 悪魔!」
「…………」



◆  ◇  ◆



 愛馬を駆って数日。
 ソテール・ヴェルトールはヴァチカンの入り口に降り立った。巡らされた城壁は、大きすぎる満月の蒼白い光とそれゆえに濃さを増した影に二分されてそびえていた。
 その姿は幻想的であり、しかし一方でひどく冷たく現実的でもある。
 光があるところには影があり、輝きが増せば増すほど闇も深くなる。そしてそのふたつの間には、いつだって絶対の境界線がある。

『何者』
 彼が真っ直ぐ門に向かって馬を引いてゆくと、不寝番が二人、左右対称の動きで槍を交差させてきた。
「名を名乗られよ」
 教育されたとおりの台詞を吐いた後、不審者の顔を確認した片方の番人が、口を開け色を失った。すぐにもう一人も事態に気が付き、突きつけた穂先をどうすべきか、槍と不審者とを何度も何度も見比べている。退くべきか、さらに突き出すか。
 そんな番人の苦悩を他所に、彼は極めて事務的に告げた。
「ソテール・ヴェルトール、今戻った」



 月が明るい夜には、雲が流れてゆく様がよく見える。
 ヴァチカンの人間が私人として祈りを捧げるためのその部屋は、雲が月の前を横切るたび暗くなり、過ぎれば再び月光に浮かび上がる。
 まるで嵐が迫る夏の日のように。
 そしてそんな静かな部屋の中、長椅子に据わり、じっと正面の十字架を見つめている男がいた。
 しなやかな金髪、夜の薄影に染められた白い法衣。……この男はいつだってそうだ。剣を携え任務に赴く時以外はいつも、法衣を着ている。クルースニクであるよりも、神父であることの方が本来なのだと言いたげに。
「こんな遅くまで起きてていいんですかね、神父カリス」
 ソテールが背後から声をかけると、ゆっくり一拍置いてから、
「……今頃皆叩き起こされているでしょうから、明朝の礼拝は遅れて始まりますよ。賭けてもいい」
 返事があった。
 波のない湖面の声音。
 昔は逆にこの穏やかな口調で早く寝ろとしつこく怒られたものだ。
 ソテールの幼年時代にはすでにクルースニクだったこの男だが、それでもまだ見習いに近く、ソテールの世話係などという面倒な役目も負っていた。
 そしてあの頃は、この神経質な優男が、三百年も暗黒都市と戦う道を選ぶとは考えもしなかった。
「じゃあ、何を賭ける?」
「ヴァチカンの良心でも」
「持ってもいないものを賭けるのは詐欺だ」
「貴方が帰ってきたじゃありませんか」
「帰ってきたわけじゃない」
「貴方がココ以外どこに帰るって言うんです」
 カリスは座ったまま、ソテールの方を見ようとさえしなかった。
 彼が目を開けているのか閉じているのかさえソテールには分からず、けれどカリスはおそらく、ソテールの左手が腰に帯びた聖剣のつばにかかっていることを知っている。
「俺は、アンタの言う良心を捨てに来たんだ」
 アンタを殺してフリードを取り戻しに来たんだ。
「ヴェルトールの貴方が?」
「あぁ」
 ──ヴェルトール。
 それは決して染まらない光であり、決して破られることのない教会の盾であり、決して折れることのない正義の剣であり、最後の切り札デュランダルの長であり、ヴァチカンの要であり、神と人々のため存在する者であり──。
 護りたいものは何も護れなかった者。
「その言葉、神の御許みもとのお父上が聞いたら卒倒するでしょうね」
「あの人は、どこで育て方を間違ったのか自分を責めるだけだろう」
「どこで道を誤ったのか、自分の道だけ睨みつける貴方と同じようにね」
「…………」
 月がかげった。一瞬にして、部屋は暗闇に包まれる。空気も、冷えた気がした。
「気に病むことはありません。仕方ないんですよ、それが我々の望む“ヴェルトール”なんですから。我々はヴェルトールが正しいことを望み、それゆえの葛藤にも打ちつことを望み、教皇に愛想を尽かしてもヴェルトールだけは信じられるよう望み、つまり、神が我々に期待していることすべてを貴方たちが成し遂げてくれることを望んでいるのです」
 カリスの一言一句、抑揚もなければ熱もない。しかし無機質ではない。
 乾いた大地に降る霧雨のような、静けさ。
「自分たちにはできないが、ここにひとり、神の期待に応えている人間がいる。彼がいる限り、人は神に見放されることはない。彼がいる限り、神への申し開きが出来る。彼がいれば、彼がいれば、彼がいれば。それがヴェルトールです」
「シャルロが殺された時、俺はオーベールを殺せなかった。フリードを殺したレネックも殺せなかった」
「ヴェルトールは憎しみに耐えなければならない」
「俺は何をしてでもフリードをヴァチカンに置いておくべきだった」
「ヴェルトールは個人の幸福より万民の幸福を優先させなければならない」
 それに、とカリスが付け加えた。
「どちらにしろ結末は同じだったはずです」
「例えば、俺がフリードを連れてヴァチカンを出てクルースニクであることも放棄したらどうだった」
 もし、闘うことを止めたら。
「すべて世はユニヴェールの気分次第」
 これもまたさらりと言われる。
「クレメンティ枢機卿の計画は破れ、ヴァチカンは暗黒都市との約束を破らざるを得ず、必然暗黒都市の計画も破れ──」
 言葉を切ったカリスが、この夜始めてこちらを振り返った。
 教師の色をした橄欖石かんらんせの双眸に射られる。
「それからどうなると思います?」
「……すべてが白紙に戻ってめでたしめでたし」
「ソテール」
 カリスの柳眉が逆立った。慌てて言い直す。
「シャルロ抜きの暗黒都市が“約束を破られた”面子メンツを保つために乗り込んできて、キングもエースもないヴァチカンが応戦して、双方息切れしてきたところにシャルロが高笑いと共に現れて天下平定」
「あの男、玉座なんて三日で飽きるでしょうね」
「一日」
「創り上げたら壊さずにはいられない」
「昔からそういう癖があった」
「貴方は、そういう未来より今を取ったんですよ」
「どうして。誰のために」
「神に祈っている人々と──、人でも化け物でもない我々のために」
「それは、違う」
「違いません」
「何でアンタが俺のことを断言するんだ」
「知りませんでしたか? 貴方は貴方が思っているより単純なんですよ」
「…………」
「そして、貴方が思っているより貴方は強い」
「少なくとも、死んでる奴より強いつもりではある」
「貴方は何が起ころうと、世界が求める完璧な“ヴェルトール”であり続けました。貴方が自分をどう思おうと、少なくとも神の、世界の期待は裏切らなかった」
 皮肉なのか称賛なのか、カリスの無表情からは読み取れない。
 完璧であり続けたのではなく“そうでしかいられなかったのだ”という訂正は、どうせ聞き流されるだろうから体力の節約に黙っておく。
「貴方は我々と人々の──希望でした」
「…………」
 ユニヴェールが身をもって知らしめたのが現世うつしよの絶望ならば、ヴェルトールは。
「だったら、」
 ソテールが言いかけた時、
「ソテール・ヴェルトール隊長」
 部屋の入り口に影が伸びた。軽く息を切らせた衛兵だ。
「シエナ・マスカーニ枢機卿がお会いになるそうです。ただちに行政庁へお越しください」
 その言葉が終わるや否や、
「行ってはいけない」
 カリスが鋭く制してくる。
 ソテールは、衛兵に向けた顔をゆっくり戻した。
「……何故」
「貴方は確かに今まで世界の望んだ“ヴェルトール”でした。しかし貴方が今すべきことは、私を殺し、ユニヴェールへの負い目を払い、あの男が神に先んじてこの世を更地にするのを止めること。そう。良心を棄てても、どんな方法を取ってでも、です。下される命のままマスカーニ枢機卿の寝言など聞いていると、また後悔しますよ」
「アイツに負い目があるからいつまでたっても滅ぼせないって言いたいのか?」
「違いますか?」
「違う」
 即答したのは中身のない意地だ。
 実際には、それもあるだろうと分かっている。
 遠い昔、フランスの枯れ森で、ソテールはシャルロ・ド・ユニヴェールに“世界を見捨てないでくれ、時間をくれ”と頼んだ。それは、いつか虚無と狂気の“ユニヴェール”からお前を引っ張り上げてやるという約束のつもりだった。
 だが、約束は果たせなかった。
 相棒は彼の手が届くより先に、己の血に呑まれて世界に殺された。
「棄てなさい、良心を。もう、人々の信心を護ってやる必要も、我々デュランダルに存在意義を与える必要もありません。貴方の使命は、反逆者を狩り我らの父の前にひざまずかせることただひとつ」
「…………」
 嘘だ。
 カリスは嘘を付いている。
 透明な夜を真っ直ぐに貫いてくる目と語気と言葉。すべてに少しずつズレがある。台詞に込められた意志はひとつでも、彼の意志そのものはひとつではない。
 別の願いを、隠している。
 ソテールは返事をせずにきびすを返した。
「もはや貴方の足枷あしかせは、貴方だけなんですよ」
 背後でつぶやかれた一言に、振り返ることはできなかった。神父がどんな顔をしているのか、怖かった。



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