冷笑主義

第15話 Murders In Ferrara

後編



 パルティータがパリス家の扉を叩くと、かなりの間があってから初老の小間使いが姿を現した。 開けられた扉は細く、刺さる視線はじろじろと冷たい。
 まぁ、真夜中の訪問者が目の据わった若い娘と妖気漂う紳士とあっては、愛想よく迎え入れろという方に無理がある。
「パリスご夫妻はご在宅ですか?」
 さりげなく扉に手をかけて、パルティータは訊いた。
 黒いレースの手袋に包まれたその指を一瞥して、小間使いが答える。
「……旦那様はお仕事に出ていらっしゃいます。奥様はお休みでございます」
 仕事というのは、魔物狩りに違いない。
「後ろ暗い商売ではないのに夜に出かけなくてはならないなんて、お気の毒ですね」
 メイドは、扉の隙間にベルベットの靴を突っ込んだ。
「それが旦那様のお仕事ですから」
「お噂は聞いています。聖騎士に劣らぬご活躍とか」
 どうやら旦那様とやら、魔物を斬ることはできても魔物を感知する能力は飛び抜けて鈍いらしい。
 自宅にトンデモ化け物が訪ねてきているのに、姿を見せないとは。
「ウォルター・ド・ベリオールという名は聞いたことがあるか?」
 ふいに、主のテノールが降って来た。
 この男に関して、上からの命令なくして教会の犬たちが動かないのは当然のことだが、しかし組織に属していない無免許狩人さえやってこないとは、フェッラーラの住民は大層な砂上の城に住んでいるようだ。
「空腹の狼を人間にしたような男なのだが」
「…………」
 一瞬警戒の色が浮かんだ老婆だったが、男の紅は黙秘を許さない。
 その気になれば相手に息をすることさえ忘れさせる、怜悧で柔和な邪眼。
「……はい。時々いらしているようです」
「パリス卿か奥方のご友人か?」
「さぁ……、最近聞くようになった名だとは思いますが」
 主の唇が“ヤッパリナ”と動く。
 と同時、
「エレナ、お客様?」
屋敷の奥から女の声がした。
「あぁ、奥様。え、えぇ……お客様です」
「もしかしてユニヴェール卿かしら?」
 おずおずと見上げてくる老婆に、主は目でうなずく。
「左様です、奥様」
「ならばお通しして頂戴。お待ちしていました」

 月明かりの路地に重い音を響かせて、闇から闇へ扉は開けられた。



「お招きありがとうございます。手間が省けました」
 ゴシック調の家具で埋め尽くされた部屋に通され、主は開口一番腰を折った。
 そして女主人が勧めた椅子をパルティータに勧め、彼自身はメイドの後ろに立つ。
 蝋燭の炎ひとつない部屋の中、窓から差し込む月の光がその足元に長い影を創った。
「手間? 何の手間ですの?」
 抜けるような白い肌、通った鼻梁、浮かび上がる紅い唇、情熱的に彩る赤い髪。この女にひとつ欠けているものがあるとすればそれは、“格”だけだっただろう。
「フェッラーラ皆殺しの手間です」
 囁く(たわむ)れへの返答は飾り気なく簡潔に。
「まぁ、怖いことをおっしゃりますのね」
 大きく開いた夜着の胸元に手をやり、女が笑う。
 しかし笑い事ではない。この男の言うことは淡白な事実だ。
「それも仕事なもので」
「お仕事。貴方のような方でも誰かに使われているのかしら?」
「私は生前死後併せて常に勤勉です。人の金で生きることを良しとするほど魔物ではありませんので」
「……お強いのね」
「強ければ道半ばで死ぬこともなかったでしょう」
 道。
 己の上官を不撓不屈(ふとうふくつ)のクルースニクに仕上げるという道。
 だがこの男が死んで化け物となったからこそ、その狩人は“最強”のクルースニクと呼ばれるようになった。
 それは果たして運命の皮肉か、ただの結果か。
 クルースニクは前者だと言い、吸血鬼は後者だと言うだろう。
 それが永遠に埋まらぬ両者の溝だ。当人たちが気付いているかはともかくとして。
「でも──」
「今日は私のことをお話に参ったのはありません。友人を連れ戻しに来ました。私よりも、遥かにエライ方のご命令で」
 蝋燭のない燭台、花のない花瓶、薬のない天秤、開かれたままの手紙、小さな銀盆に散りばめられた宝石、何故だろう、夏の夜のすべてが色褪せて見える。
 まるで不出来な虚構を見せられているように。
「ご友人?」
「ウォルター・ド・ベリオール。ご存知ですね?」
「──えぇ」
「連れて帰りたいのですが」
 犬や猫じゃあるまいし。
「それは無理ですわ」
 案の定、女は確信に満ちた顔を主に向けてきた。
 彼女が動くたび、ローズマリーの微かな芳香が部屋に舞う。
「契約は果たされていませんもの」
「…………」
 主が、表情を変えず息をつく。
 だが次の瞬間にはその吐息も跡形なく消えた。
「契約ね。そこまでして何が欲しいのですか」
「何でも持っている貴方には分からないものよ」
「私が持っているのはメイドが一人と居候が一人、部下が三人。その他は、命さえ持っていません」
「大きなお屋敷だって、相当な価値のある美術品だって持っているでしょう? 骨董が趣味だって聞きましたわ」
「あれの価値は創った者の理想と苦悩であって、目に見えている形ではありません。まして人間が積む金の多さでも」
「そう言えるのは、貴方が甘えた生き方をしてきたからよ」
 言われても、主はトーンを変えなかった。
「そうだとしても、甘えることのできた出自は変えられないでしょう」
 互いの劣等感をつつきあったって、結局倍以上に苦い思いをするだけだ。汚点をわざわざ他人にさらけだし、自分で自分を憐れんでいることに気付き、そして自己嫌悪に陥る。
 どちらにとっても利益のない、無駄な応酬。
 それを察したわけでもないだろうが、ふいっと女が窓を臨んだ。
 つまり、こちらに背を向けた。
「ならば、お帰りください。身分の違う者同士が話をしても無駄ですもの。それとも──」
 女の翡翠の目だけが振り返ってくる。
「力で奪ってゆくかしら? 貴方なら簡単でしょうに」
「そうさせてもらっても構いませんが」
 この男に揶揄は通じない。しかし、
「後が面倒です」
パルティータは静かに釘を刺した。
「パーテルの復興にどれだけ出したかご報告しましたよね」
「金を出すと表明しただけで誰かが救われるのか? 出すと言ったからには即座に出すべきだろうが。私を神父と同じところまで堕とさないでくれ」
「神父?」
 女が眉を寄せて月を背負った。
 メイドは、
「神に祈れと説教されても、祈ったところで誰も救われない。神父という肩書きをかざしながら、神を裏切り信徒を裏切り、神より他に守るものを抱えている。──これ以上の詐欺師がいますか?」
翻訳してやり、
「支出は構いませんが、くだらないことに使う必要はないと言っているのです。契約が果たされていないから帰せないというのなら、契約が果たされるまで待てばいいだけの話です」
きっぱりと結んだ。
「…………」
 主の沈黙の中身は分からない。だが見比べ推し量るような女の視線を感じ、メイドは壁に設えられた大きな鏡へと視線を逸らす。
 色の失せた部屋の広がる、鏡。
 夜が夜で色を覆っているだけなのか、それとも映している人間の目が醒めきっているのか、考えるまでもない。
 そして、背後にある部屋の入り口でニヤついているのが誰なのかも。
「これはこれはインフィーネ嬢におきましてはまたまた人間らしからぬご発言。いや──セーニ嬢と申し上げた方がよろしいか?」
「呼びやすい方でどうぞ、ベリオール卿」
 メイドが半身振り向いて目を合わすと、暗黒都市の黒騎士は恭しく胸に手を当ててきた。
 獅子の(たてがみ)を思わせる青を帯びた黒髪、ぞんざいに羽織られた黒革の隊衣、均整のとれたしなやかな体躯。
 メイドには人懐こさを、吸血鬼には不敵さを振りまいて、男の顔が笑っている。
 ヴァチカンの彫刻に劣らぬ端正な顔貌は羨ましい限り。しかし内に留まらぬ攻撃性が凄味となって美を凌駕し、相手の背筋に悪寒を這わせるのはいかがなものか。
 死の虚ろの欠片もない魔都の獣、──ウォルター・ド・ベリオール。
 彼ほど屍累々(るいるい)の戦場が似合う男も他にいるまい。
 逆に言えば、古きよきフェッラーラに立っていてもまるで絵にならない。
「俺のためにわざわざユニヴェール卿がいらしてくださったとは、俺は自分で思ってるより出世してるらしいな、オイ」
 よく通る声が甘いのは、“俺にはご婦人に夢を見せる義務があるから”。本人談。
「貴様が消えたのがフェッラーラで良かったな。パルティータは来た事がなかったようだから」
 主の目は冷たい。
 対してベリオールも敵愾心(てきがいしん)剥き出しでハンッとそっぽを向く。
「渦中に大事なメイドを連れてくるアンタの思考が分かんねぇ」
「失うことを怖がるほどギリギリの線上にいるわけではないのでね。狙われたら護ればいい、さらわれたら連れ戻せばいい、殺されたら奪い返してくればいい」
 昼間に比べれば幾分涼しい夏の夜。
 黒の正装に身を包んだ吸血鬼の肌には熱の欠片ひとつなく、子守唄と紛う静かな声が(とばり)を滑る。
 次瞬、
「──!」
窓際の女が息を呑む間もなく、体勢は変わっていた。
 ベリオールの剣はメイドの喉元へ。
 その切っ先はメイドが掲げた手鏡へ。
 そして床に伸びたテーブルの影は、槍の穂先となって黒騎士の喉元へ。
『…………』
 貫かれた鏡に亀裂が走り、月光を反射しながら割れ落ちる。
 一欠片が騎士の足先に転がって、その顔を映した。
 ほんの少しの驚きを(にじ)ませた、野性。
「貴方も」
 パルティータはベリオールを指差し、
「ユニヴェール様も」
 ユニヴェールに視線を移し、
「ソテール・ヴェルトールも」
もう一度ベリオールに戻す。
「パターンが同じなんです」
 話が続かなくなると力に訴える。挨拶代わりにとりあえず斬る。
 男は、基本的にバカだ。
 パルティータは虚空に伸ばした指をいったん開いて納めると、己の主を見上げた。
 せっかくの指摘にも大した感銘を受けていない様子の主は、なんだか投げやりな目つきでベリオールを眺めている。
「で、ベリオール。貴様は自分の意志でここにいて、当分帰るつもりはないということか?」
「ご足労いただき大変恐縮ですが」
 黒騎士はしれっとした口調で両腕を広げた。
「まぁいいか」
 主もヤル気がない。
「報告しろって言われただけだしな」
 権力者は、こーゆー税金泥棒から取り締まるべきなのだ。
「パルティータ、帰るぞ」
「はい」
 立ち上がると、肩を押されて先に行かされる。
 だから、主は見られていないと思っただろう。
「吸血鬼のお仕事も大変ですわね。ご苦労様でした」
 フランチェスカ・ラニエリ──今はパリス夫人──がそう笑みを浮かべた時、彼が彼女にくれた一瞥を。
 神様が人間の運命を決める時は、きっとあんな顔に違いない。



 その夜。
「愚かだとお思いですか?」
「愚か? ──あぁ、“契約”のことか」
 質素な宿屋の窓辺にはりついていた主が、月下の眺望から目を逸らした。
「別にそうは思わんよ」
 ベリオールに比べれば線が細く、陰影の濃い吸血鬼の微笑。
 化け物は夜風に乱れた銀髪をかきあげて、頬杖をつく。
「何度同じ歴史を繰り返そうが、再び同じ道を辿るのが人というもの。過去の歴史を過ちと思うか正義と思うか、その相違がある限り平和と安寧は永遠に訪れない。どちらが正しいかを語れるのは当事者だけだとしても──“契約”に関しては、そうだな、いい度胸だ」
「……人と魔物が関わると、ロクなことがない?」
「そのとおり」
 主の答えから一呼吸置いて、パルティータは訊いた。
「ユニヴェール様は、魔物と人の契約を破談にしたご経験はおありですか?」
「?」
 主が頬杖を崩し、こちらに顔を向けてきた。
 逆光になって表情はよく見えない。
「人間Aと魔物Bが契約を結んでいたとして、人間Aが不幸になるのが目に見えていて、それを救うため立ち上がり見事契約を断ち切った……ようなことは」
「ない」
 ただ事実を告げる声音。
「契約は、両者の同意さえあれば白紙にできる。だが契約にまつわる“ロクでもないこと”は、結んだ時点で呪いのようにつきまとう。言ってみれば──境界線を越えたことに対する代償のようなものだな。こればかりはソテールにも私にも、神にも女王にも、手の出しようが無い」
 言い置いて吸血鬼は鼻先で笑う。
「そもそも魔物が契約破棄に同意すること自体がほとんどあり得ないがね」
「…………」
 主が再び窓の外へ目をやったのを見、パルティータは毛布をひっぱりあげた。
 そして目を閉じる。
 フェッラーラへの僥倖(ぎょうこう)は、息抜きも兼ねさせてやるというありがたいお言葉によって、主の行動時間に関係なく休むことが許されているのだ。
 それなのに何故宿が同室なのかは謎なのだが、どうせなら窓を閉めて欲しい。
 吹き寄せられる涼風で喉を痛めてしまいかねない。
「読みどおりここに居たのだからそれでいいだろうが。あのバカが帰ってこない理由は人間と“契約”を交わしたからで、使者が滅ぼされた理由は白十字より頼もしい狩人が出現したからだ。それ以上のことを知る必要はない」
 こちらの願いも知らずぶつくさ独り言を漏らしている主は、暗黒都市からの返事を待っているところだ。
 蝙蝠に持って行かせた伝言の返事を。
「“契約”の末路なんぞ皆同じだ。見届けるまでもない」
 コツコツという規則正しい音は、長い爪が窓枠を叩いている音だろう。
 そして小さな嘆息としばしの沈黙。
 やがて、暗いまどろみの中、右耳から左耳へと主の声が抜けていった。
「報告だけでいいと言ったのはそっちだろうが! 連れ戻せだ? 狩人を始末しろだ?」
 多少の心配りはあるのか、抑えた喚き声。
「つまらんのだよ! そういう地味な仕事は!!」

 夜は長い。人生も長い。歴史はもっと長い。
 過ちと惰眠は飽きることを知らずに繰り返される。
 一抹の夢と後悔を目の裏に残して。




 窓から差し込む朝陽にパルティータが起きると、横の寝台では吸血鬼が規則正しい寝息を立てていた。
 部屋が散らかっていないところを見ると、伝言を受け取ってすぐに寝たらしい。
 吸血鬼が夜寝るものか?
 ……たぶん、他にすることがなかったのだろう。
「…………」
 寝ている化け物相手に白眼視してみたところで、虚しいだけだ。
 パルティータは自分の寝台を整えてから顔を洗い、髪を梳いた。そして魔女のような黒一色の夜着から、いつもの灰色メイド服へと着替える。
 クロスタイを留めたところで、扉を叩く音に気が付いた。
 寝ぼけた主が出て行ったら血を見る惨事になりかねない。彼女が慌てて顔を出すと、宿の人間に客が来ていると告げられた。
「客?」
 フランチェスカが何か文句を付けに来たのだろうかと眉をひそめ、とりあえず主を振り返ってみるが、寝台の男はこちらに背を向け枕に顔を埋めたまま起きる気配はない。
 仕方なくひとりで降りて行くと、食堂の隅で背筋を正し座っている若い優男を指差された。
 一目で察しがつく。
──ルカ・デ・パリス。
 金で縁取られた柔らかい紺の上着に白いブラウスといった上品な出で立ちで、どこからどうみても“貴族!”だ。
 しかしその格好に腰の黒い剣は不釣合いではないだろうか。
「あの人がユニヴェール卿を指名したの?」
 訊いても、宿のおじさんは肩をすくめただけだった。
 この街でさえ、ユニヴェールの名を知らない者はいない。今の教皇の名を知らない者はあっても、魔の代名詞を知らない者はいない。
 だが誰も語りたがらない。
 烏揚羽(カラスアゲハ)の紋章が、畏怖と背徳をもって忌避されるのと同様に。
「いいわ、行って」
 パルティータはおじさんを追い払うと、つかつかとパリスに近付いて行った。
 まだ人通り少ない道をぼんやり見つめていた男も、自分に向かってくる人間に気付いたのだろう、目が合った。というより睨まれた。しかし籠で育った碧眼など痛くもかゆくもない。
 彼女は歩きながら並べ立てた。
「おはようございます、パリス卿。こんな朝早くからご足労いただき恐縮です。私はユニヴェールの小間使い、パルティータ・インフィーネと申します。主にお取次ぎ致しますので、ご用件をどうぞ」
 相手に立たせる間も名乗らせる間も与えず、最後の一言で彼の前に立つ。
 そして息を吸わせるより前に言っておく。
「ただし、貴方にあの方を討つのは無理です」


 例えそうだとしても会わせてください、狩人はそう言った。
 そして今、彼は主と対峙している。
 パルティータが口にしたのは、例えではなかったのだけれども。


「イブリース」
 安っぽい木製の椅子で足を組むユニヴェールが、硝子の花瓶の白い花を手折りながらつぶやいた。
「…………」
「お前が腰にしている黒い剣の銘だ。先々代のベリオール卿が反逆の天使イブリースから貰い受けた剣だから、という安直な理由の命名らしいが、あの家には似つかわしいと思わんかね」
 じっと吸血鬼を直視していたパリス卿が、そこにあるのを確かめるように剣の柄へと手をやった。
「イブリースは神以外の者を主と認めなかったがゆえに天を追放された。ベリオール家は凶暴な野心に溢れた家系ではあるが、その実誰よりも忠実だ。陛下と己以外は決して主と認めず、いつか反旗を翻す時までは最も信頼すべき臣であり続ける。滅びを(いと)わず盾となれる」
 部屋のカーテンは清々しく開け放たれ、フェッラーラの街並みを輝かす太陽の光は、もちろん吸血鬼にも注がれている。
「その剣はよく斬れるぞ。人も魔物も天使も神も。ティルヴィング、レーヴァテイン、コンキスタドール、ダーインスレイヴ……世に魔剣と伝わる剣は多いが、それは中でも扱い易い。命を喰われるわけでもなし、血に濡れなければ鞘に戻らぬとごねるわけでもなし」
 しかし吸血鬼が淡々と白けた口調なのは、朝のせいではない。
「どうやってベリオールから借り受けた?」
「…………」
「別に貴様の口から聞く必要もないがね。ベリオールを締め上げるか、貴様の奥方にお尋ねするか──」
「そうはさせません」
 全身でそう言い切ったパリス。
「もう二度と、魔物に大事な人を殺させたりはしない」
「それは結構な決意だ。一定の評価に値する」
 気だるげな紅の双眸は彼の方を向きもせず、テーブルの上でばらばら死体となった花を映している。
「貴方の評価など求めていません」
「だが貴様は明らかな間違いを犯している」
 寝起きで機嫌の悪い吸血鬼は黙殺が得意だ。
「今までの断片をつなぎ合わせると、だ。契約を交わしたのは女とベリオール。おそらく女がイブリースを借り受け貴様に渡した。貴様はその剣で魔物を斬り、己の弱さを払拭しようとしている。過去の傷に報いようとしている。そう、過去に意味を持たせようとしている。女を使い、他人の剣で」
 吸血鬼は読んだだろうか、狩人の口がかすかに動いたのを。
“シスター”
「生者がいかにその死に意味を与えようと、死者には死んだ事実以外何も残ってはいない。意味を求めることも、意味を与えることも、すべては己が前に進むための口実にすぎないのだよ」
 街もすっかり目覚めたのだろう。階下からはざわついた人の声が聞こえ、窓の下では馬車の車輪がからからと石畳を叩いて行く。
 窓の上からはばさばさと鳩の羽音が聞こえる。
 死の影が為りを潜め、生が当たり前としてそこにある朝。
「貴様がシスターの死を意味あるものにしようと人々を魔物から護っても、人が死なない日はない。夜が訪れるのはフェッラーラだけではなかろう」
 ユニヴェールの凛然とした目がパリスを見据えた。
 そして完璧な発音で宣告する。
無駄なのだ(イヌーテレ)
「…………」
 北から南へと風が吹きぬけ、古びた芸術の匂いが過ぎて行く。
 混じって、新しい煉瓦の匂いも。
 エステ城の北側では、建築家ビアージョ・ロッセッティの指揮の下、街の拡張が行われているのだという。古き時代と新しき時代の誇りを結ぶ試み。それは想像以上に難しいことだ。
 偉大な古は、多々未来を潰す。
 この、安宿の二階に陣取る教権絶頂期の化石のように。
「無駄だが──正しくはある」
 その化石は続けていた。
 血の気の薄い麗貌に、深い陰影を落として。
(たお)れようと斃れようと無駄を繰り返し、やがてある日人々は我々に正義の鉄槌を下すことができるかもしれん。我々を根絶やしにして、魔物に怯えぬ日が来るかもしれん」
 願望か、単なる可能性か。
「それが今だとしたら?」
 パリスが剣を抜いた。
「……それはない」
 応えた吸血鬼の声は、若者には背後から聞こえていたはずだ。
──聞こえていたのなら。
「結局のところ、貴様が見据えるべきなのは私ではなかったのだよ」
 イブリースは構えられることさえなく重い響きで床に転がり、同時、ルカ・デ・パリスだった人間がぐらりと傾いた。
 息を吸うはずだった半開きの口端からは鮮血が溢れ、白いブラウスの胸元は見る間に赤く染まる。
 膝が折れ、首が折れる。
 開かれたままの目、倒れ迫る床板が映った瞳に光はない。
 糸の切れた操り人形とも言うべきソレはそのまま地の力に引かれて崩れ──……だが寸前、吸血鬼の紅く濡れた爪がその襟首を捕えた。
 神の御前の死体となる前に。
 安らかな眠りを与えられる前に。
「朝か。腹が減ったな」
 吸血鬼が窓の向こう、遠方を見た。
「……パルティータ」
「はい」
「食事にする。出かけていなさい」
「はい」
 パリスの白蝶貝のボタンから赤い雫が伝い落ち、荒い板目に染み入っている。
 時を置いてやってきた血臭が、胸を焼く。
「後で、迎えをやる」
「──はい」



 シャルロ・ド・ユニヴェールという吸血鬼に数度血を舐められたことのあるパルティータ。だが思い返せば、“食事”を提供したことはなかった。
 それどころか、彼女が小間使いとして仕えるようになってから一度も、あの男はあの男本来の食事をしている姿を見せたことがなかった。
 いつでも、人払いをする。
 それか、どこかで済ませてくる。
 そしてふらりと帰ってくると食堂の席で背伸びをし、味のしない焼き菓子に手を伸ばすとワインで流し込む。
 何事もなかったかのように。それが当たり前だというように。

 他人の血をもって己の死を欺き生を偽る。
 それが吸血鬼の当たり前。

 己が生きるために他を殺し、命を飲み干す。しかし喰えど喰えど生き続ける限り渇望は訪れ、また殺し、喰う。殺し、喰い、(かて)となし、それゆえにまた殺し、喰う。
 己が滅びるまで延々と繰り返すその行為は、人間の名残だ。
 食べる対象が動植物から人間に代わっただけで、ただそれだけのことが“禁忌”と顔を背けられただけで、行為そのものに大した違いはない。

 人は、飢饉が起これば草の根、麦の一粒、鼠の一匹、虫の羽一枚まで口にして、そのひとつも逃さぬようにと目はぎょろつき、時に隣人を手に掛けてまで奪おうとする。
 雨が降れば口を天に向かって開け、柔らかくなった木の皮を剥ぐ。
 食べ物が溢れれば宴を催し贅を尽くし、より美しい色を、より(かぐわ)しい香りを、より美味なるものをと芸術にまで昇華し、腹に抱えきれないほどの命を貪り喰う。
 己の生をつなぐ死骸の山を一心不乱に平らげる。

 これほどおぞましく浅ましい欲が、これほど逞しく抗いようのない欲が、あるだろうか。
 良心も正義も道徳も及ぶことのできない、血で汚れきった欲が。
 己のために他の死も良しとする欲が。
 そして人は、それを無防備に(さら)している。恥じることも、隠すこともせず、楽しんですらいる。

 “生者がいかにその死に意味を与えようと、死者には死んだ事実以外何も残ってはいない”

 それが真理ならば、“感謝”は己を救うもの以外の何物でもない。
 少なくとも、あの吸血鬼はそう信じているのだろう。
 とことん社会不適合者だ。

 あの男が己の“食”を見せまいとしているのは、その風景があまりにも凄惨すぎるからであり、そしてあの化け物が人間よりも“生き延びる”ということの意味を──そう、目的ではなく意味を──その身に刻んでいるからなのだろう。
 流される血の行き着く先は究極の利己主義。
 そこまでしてしがみつきたいかという己の声と、そこまでしてしがみつきたいという己の声と、呪詛の如く脳裏を揺さぶる本能と欲だけは、如何に化け物の中の化け物であろうと支配下に置くことはできないのだ。
 彼もまた、生まれた時から敗北していたのだから。
 まだ、存在し続けようとしているのだから。



◆  ◇  ◆



 その夜。
「アンタの旦那は死んだそうだ」
 ベリオールは、長椅子に身を横たえ爪を磨いている女に向かって言った。
 彼の腰にはイブリースが戻っている。
 昼間ふらりとやってきた吸血鬼が、とある予言と共に返してくれたのだ。
「アンタ、ユニヴェールも退治しろって旦那にけしかけたな?」
「……あの吸血鬼が私と貴方を脅しに来たって言っただけよ」
 ランタンの炎に揺れる女の顔に失意はない。
「貴方の剣を返すのが惜しかったんでしょう」
「ただ純粋に魔物が許せなかったのかもしれねぇよな。アンタを護りたかったのかも」
「そうかもしれないわね」
 女は、同意したくせに盛大なため息をつく。
 そしてこちらをギッと睨んできた。
「でもそうだとしても。全然嬉しくないわ。私の求めているものじゃないもの」
 彼女は、拳を作ると自分の膝を叩く。
「あの人が一生懸命私にくれようとしていたのは、愛じゃなくて良心なのよ。愛は全部あのシスターが持っていっちゃったの。分かってたんだけど」
「ならどうして俺と契約を結んだ?」
「信じたくないじゃない、始めから負けてるだなんて、そんなこと。相手は死んだんだし、一緒にいれば振り向いてくれるかもしれないでしょう?」
 白い腕がテーブルに伸ばされ、小さな瓶を取る。
「私はあの人を繋ぎ止める力が欲しかった。それさえあればあの人はイイヒトだから、私を放っておけるわけがなかったんだもの」
 彼女が瓶の蓋を開けると、霧のようなローズマリーの香りが部屋中に広がった。
 ハンガリー王妃エリザベートも愛用していたという、若返りの香水だ。
「もうそろそろ、愛が得られないことを認めなきゃいけなかったのよね。でも神様は平等よ。愛は得られなくても、代わりのものを用意してくれていたもの」
「?」
「財産。愛がなくとも私がパリス夫人だということは確かでしょう。貴族の未亡人として優雅に暮らさせていただくことにするわ」
 ぺたぺたと香りの水を肌にすりこみながら、女が空虚に朗笑する。
「そういえば、私は貴方に剣を貸してもらったけど、貴方が欲しいものはまだあげてないわよね。何が欲しいの?」
「あぁ、今はまだいい。すぐにもらえるらしいんでね」
 黒騎士はぴらぴらと手を振り、
「すぐにもらえる?」
フランチェスカは怪訝な顔をする。
 ベリオールは彼女の疑問をかき消すように、
「そうだそうだ。コレ、旦那の形見だってさ」
胸元から銀鎖のペンダントをつまみ出した。
 ランタンの炎の前で揺れる、十字架に薔薇が絡みついた紋章。
「コレ、ルカのものじゃないわ。ルカがシスター殺しの犯人だって思い込んでた奴の落し物よ。肌身離さず持ち歩いて、自分の復讐心を鼓舞してたみたいね」
 女は受け取ろうとせず、指で光の角度を変えて遊ぶだけ。
「その男、アンタも見たのか?」
「えぇ。顔は見なかったけど、死神みたいな黒いマントを着てて気持ち悪かったわ」
「そうかい」
「それがどうかしたの?」
「別に」



◆  ◇  ◆



 次の夜。
「で、アンタが俺に予言したとおり、フランチェスカ・ラニエリはその日のうちに死んだ。語弊なく言えば、殺された」
 パーテルへ戻る馬車の中、黒騎士が葉巻に火を点け長々と煙を吐いた。
 そして隣の吸血鬼へもう一本を差し出す。
「さすが大貴族ユニヴェール家のご当主、貴族の機微は熟知していらっしゃったというわけだ」
「奴等の考えることは今も昔もそう変わらんということさ。格式高い家に身分違いの血は邪魔なだけだろうが。気に入らない未亡人の暗殺なんぞ日常の内だ」
 珍しく受け取った主は、ベリオールの葉巻から火をもらう。
「パリス卿は随分強引に結婚したというから、親族はさぞかし不満を募らせていたことだろう」
「神も法もあったもんじゃねぇな」
 ……長身の男が二人並んで乗っていると、いくら四人乗りの馬車でも狭苦しい。暑苦しい。
 おまけにその距離感が微妙で、言葉を交わしながらも左右別々の小窓に手をかけ紫煙を(くゆ)らせている。うら若い人間の乙女を向かいに座らせているというのに、だ。
「そういえば、ベリオール卿は剣を貸した変わりに何をもらったんですか?」
 さりげなく窓を開けるパルティータ。
 黒騎士は気にした風もなく、片目を開けて芝居がかった笑みを浮かべてくる。
「魔物が頂戴するものなんてひとつしかない」
「命、ですか」
「正確にはあの女の赤い髪、だけどな」
「髪?」
「そうさ。今の陛下がお生まれになった時、ウチの親父はお祝いに憎悪や嫉妬の炎よりも美しい赤い髪を贈ろうとしたんだな。だけどあのバカ親父、酔っぱらい過ぎて持ってく途中で落としやがった」
「落とし……」
「長い間行方知れずになってたんだが、この間たまたま俺がフェッラーラであの髪を見付けた。本来女王陛下のものである髪を人間が授かってるなんて陛下の名誉に関わるからな、殺しに来た。騎士らしくまっとうな取引で、だ」
 どうやらこのウォルター・ド・ベリオール。死人ではなく生粋の魔物らしい。
「それで陛下に連絡もできなかったわけか」
 吸血鬼が白い眼差しを横に送る。
 黒騎士は渋面。
「自分への贈り物を失くしたあげく、それが人間の手に渡ってたと知れてみろ。向こう百年間は毎日いびられる」
「失くした時に探さなかったんですか?」
「さぁ。探しただろ、たぶんな。でも見つからなかったのさ」
「それを今頃また探した?」
「探したんじゃない。たまたま目に留まったんだ、たまたまな。放っておくわけにもいかなかったからこういう事態になった。魔物なんてそんなもんだろう。行き当たりばったりで殺すし、気まぐれで生かす。人間ほど“理由”に固執しない。そんなもの無くたって世界はまわるんだからな」
 少しの間、(わだち)を削る音、草と石を踏む音だけが馬車を揺らした。
 人間の使う拓けた街道とは別の、森深くを突っ切る魔物道。
 月の光は生い茂る枝葉に遮られ、ヨタカの声が林冠(りんかん)に反響し、目に見えない生き物たちの気配があちこちで動く。
 自然と神経が研ぎ澄まされる冴えた夜。何者の思惑もなく、ただ弱肉強食の世界が広がる深い森。
「おい、番犬」
 ベリオールが口を開いたのは、パルティータが彼差し入れのベリータルトにそろそろと手を伸ばした時だった。
「…………」
 呼び方が気に食わなかったのか、吸血鬼は窓に寄りかかり視線を外にやったまま、葉巻に口をつける。
 だがベリオールはそんな沈黙などお構いナシに、
「アンタがフランチェスカが死ぬと予言できたのは、コレのせいもあるよな?」
どこからともなく華奢な銀細工のペンダントを取り出した。
 明かりもないのに白々と光る、薔薇十字の紋章。
 黒騎士は催眠術の如くゆらゆら揺らしながら、吸血鬼の横顔をのぞき込む。
「アンタが“フランチェスカに返せ”って言ってたパリスの遺品だ」
「…………」
 顔はあくまでも外に向けたまま、ユニヴェールの切れ長がベリオールへと流れる。
 そして彼は薄い唇を裂いた。低く、短く。
「クリスチャン・ローゼンクロイツ」
 その名前に、藍青の獣も笑みを裂く。
「……やっぱりな……」
「?」
 パルティータが3個目のタルトを口に放り込み眉を寄せると、ベリオールが意味深な薄笑いでずいっと顔を寄せてきた。
「ローゼンクロイツってのは、暗黒都市にとっても得体の知れない魔物の仮の名よ」
 誰かに聞かれることを忌避するような、抑えた囁き。
 だが明らかに楽しげだ。
「そいつに関わった者は、人だろうが魔だろうが死の呪いがかかる。ま、簡単に言や死神ってことだな。パリス然り、奴の慕ったシスター然り、フランチェスカ然り、そいつに出会えば例外なく死ぬ。……あのソロモン王72柱の悪魔が今やもう72人そろわないのも、奴が滅びを運んだからだって噂だ。悪魔でもそいつには敵わない」
 暗闇の中で光る獣の目が、細く笑う。
「そいつが一昔前まで“クリスチャン・ローゼンクロイツ”を名乗っていて、遥か昔から死人の傍には必ずこの紋章がちらついてたってわけだ。お分かりですか? 聖女(シスター)
「一昔前ってことは、今は違う名前なんですか?」
「あぁ。違うらしいってのが正確だけどな。えー、確かものすごく執事っぽい……」
「ここ数十年の名前はセバスチャン・クロワ。貴様は始めから奴が関わっていると知っていたな?」
 そうそうそう、と犬歯を見せたベリオールに、ユニヴェールのひんやりとした視線が飛ぶ。
 騎士は肩をすくめ、頭の後ろで両手を組み、定位置に戻った。そして口をとがらせる。
「そりゃなぁ。契約を交わす前にパリスのことは調べたし、あの若旦那、四六時中コレに誓ったり呪ったりしてたからな。知らないでいろって方が無理だろ。薔薇十字といえばローゼンクロイツ、ローゼンクロイツといえば正体不明の魔物」
「だからそいつに関わりたくて女のところに入り浸っていた。お得意の暗殺技を使わずにローゼンクロイツの出現を待ち続けていた。そうだな?」
「髪の件は真実さ。黒騎士嘘つかな〜い。ただ、それもある」
 葉巻を噛む魔物の顔に凶気が()ぎった。
 むせかえるような血の匂いを錯覚するほど、湿り気を帯びた笑み。
「一度会ってる人間のところにアイツがもう一度現れる保証なんかねぇのは分かってるが、……会ってみたいだろ? 会ったら滅びる魔物だ。この目でどんな奴か拝みたいし、試したい」
「あいつに会って生き延びられるかどうか、か?」
「もちろん」
 この男は、突き進む眼しか持っていない。
 己の欲求を怖れその声に惑う心など持っていない。
「暗黒都市はあいつを“死の天使サマエル”だと見てる。しかし、だ。それが正解だったところで状況は何も変わらないよな? あいつは意識的に相手を殺してるのか? それとも存在そのものが相手を殺すのか? あいつを殺すことは可能なのか? あいつを殺せば運命から逃れるられるのか? あらゆる疑問の答えを俺の目で確かめるには、俺があいつに会うしかない。だろ?」
──死の天使サマエル。
 それは、ようとして実体の掴めない天使の名、死の代名詞だ。
 一説には、人間の魂を清め天へと導く役を追う死を司る天使であるとされ、しかし彼はモーセに死を与える任務にしくじり、その杖で打ち据えられ両目の光を失っただけでなく天界をも追放されたのだとある。
 だが他方ではエデンの園に葡萄の木を植えアダムに葡萄酒の味を覚えさせ神の怒りを買った堕天使だと言われ、また一方ではイヴをそそのかした蛇であるとも言われている。
 冥府の神だと言う者、ローマの守護天使であると言う者……善悪さえ意見は一致しない。
 それぞれの主張者が強情なのではなく、本当に分からないのだ。
 彼に会った者は、彼が死の天使だと知らないまま死んでしまうのだから。
 人も魔も関係なく、自身が歩くとおりに死と滅びを振りまいてゆく存在、それがサマエル。
「ヴァチカンが掴んでいたのは4点」
 ユニヴェールが前を向いたまま紫煙を吐いた。
「サマエルは名も姿も気ままに変えているらしいこと。奴に会った輩はそれが死の天使だと気付かず死んで行くことが多い故、証言が取りにくく全容を把握できないこと。数少ない報告から、装っているのか本気なのか、敬虔に神を愛しているようだということ。──錬金術だの魔術だの占星術だの……あらゆる知識をもって常に世を救い人々を救おうとしているらしい。その端から人間も魔物も容赦なく殺してるんだから、忙しいことこのうえなさそうだがな」
「……もう1点は?」
 指を折っていたパルティータは上目遣いに訊いた。
 すると、主が口端を上げ微苦笑を浮かべる。
「ソテール・ヴェルトールもシャルロ・ド・ユニヴェールも、捕まえることはおろかその背を見ることさえできなかったという事実」
 自分たちに対する嘲りと、霞んで蘇る追憶の情がない交ぜになった、嘆息。
「追い詰めることもできなかったのか」
 ベリオールが笑いを噛み殺す仕草をすれば、
「私たちが上の命令どおりの仕事をしたのは全体の半分くらいだけだ」
吸血鬼は澄まして言う。
(もっと)も、ソテールの見解では三割、ベルディーニ枢機卿によれば一割以下だったそうだがね」
 たいした隊長と副隊長である。世紀の税金泥棒だ。
 しかしそんな役立たずを雇っていたのはパルティータの血縁者であり、となると彼女は声高に非難できる立場にない。例え糾弾しても、性悪魔物が二匹いてねちねちつっこまれないわけがない。
 パルティータがパイを食べる手を止めてまでして安全な攻撃口を探っていると、
「なぁ」
ベリオールが吸血鬼の肩に腕を乗せていた。
「アンタはサマエルに会って生きのびる自信はあるか? ユニヴェール卿」
 奥底で燐火(りんか)の揺れる目、含みのある問いだった。
 だが、
「興味は無い」
返す主の口調は味気なく単色。彼の方を見ようともしない。
「問題はそいつが私に喧嘩を売る気があるかどうか、それだけだ」
「…………」
 ベリオールが口を開きかけ、だが言葉は押し殺した吐息に変わる。

 陽が昇り昼が来る、陽が落ち夜が来る、それが世の必然であるように、パーテルにこの麗人がいることは上書きできない記憶となっている。
 赤い月の下、広がる魔都を従えて、必要とあらば天使も神も歴史をも手に掛ける。
 ヴァチカンも暗黒都市も、この男を滅ぼそうと謀略を巡らせながら、しかしこの男の不在を想像できないでいることは誰も指摘しない事実だ。ユニヴェールを滅ぼした後、己に都合のよい力関係をどう築くか、かつてそこまで視野に入れていた者はいない。
 暗黒都市とヴァチカン、互いに喰えない者同士、一枚二枚の切り札では相手を従えることなどできないことは明白だろうに。
 おそらく、当たり前すぎるのだ。そこに滅びない吸血鬼がいるという不自然が。
 しかしベリオールはユニヴェールの金言を知っている。

──“
Memento mori

 死を想え。
 だからこの黒騎士は分かったのだ。
“問題はそいつが私に喧嘩を売る気があるかどうか、それだけだ”
 吸血鬼がその言葉にどれほどの重さをのせたのか。

「でも──、ホントに死の天使がフェッラーラにいたんですか?」
 パルティータは吸血鬼に気圧され退いた黒騎士を横目、彼の持つパリスの遺品を指差した。
「そんなもの珍しくもないでしょう」
「薔薇十字の紋章がか?」
 訊き直してきたのは主の方だ。
「紋章も、セバスチャン・クロワという名前も」
「…………」
 隣人から顔を背けていた黒騎士の双眸がそろりとこちらを向き、吸血鬼も紅を(くら)くする。
 メイドは、最後のタルトをいとおしげに眺めながら言った。
「ヴァチカンにいた頃の私の執事も、そういう名前でそういう紋章を首から下げていました」



THE END



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