冷笑主義

第15話 Murders In Ferrara(マーダーズ イン フェッラーラ)

前編



「ほら、結局こうなってしまった」
 赤い髪の女が走り去った扉を見やり、男は足元を見下ろした。
 悲哀と愛情と冷気と虚無が混ざった薄い伏し目──なのだろうが、生憎(あいにく)彼の双眸は白い包帯で塞がれている。
「貴女にも私は救えなかった」
 彼の透明な視線の先には、ひとりの若いシスターが横たわっていた。
「バズ……」
 汚れのない青い目を彼に向け、かすれた声で彼の名を呼びながら、しかしその倒れ伏した身体の下では、温かい液体が刻々と広がりを増している。
「お分かりになったでしょう? 私の使命は、もう誰にも変えられないのです」
 彼はそう言って、自らの首にかけていた鎖を外した。そしてシスターの傍らに膝をつき、
「私に関わった者には──死の呪いがかかる」
彼女の手にそれを握らせた。
 彼の紋章を模した、薔薇十字の銀細工。
「どんな高貴な者も、どんな聖なる者も、どんな堕ちた者も」
「──……」
 シスターが何か言おうと口を開き、空気を求めた。だが彼女には、声を出せるほどの灯火(ともしび)は残されていなかった。
「神が私に与えた使命の前には誰もが無力です。貴方も、私自身でさえも」
 男は彼女の白い手を取り、口付けた。それを待って彼女の目は閉じられる。
「申し訳ありませんでしたね、シスター」
腕の中の彼女の身体からは力が抜け、静謐な顔からは血の気が引いてゆく。
 音もなく生は去り、すべてが死に覆われてゆく。
Libera me(リベラ メ), Domine(ド ミ ネ), de morte(デ モルテ) aeterna(エテルナ),(主よ、私を解き放ちたまえ、永遠の死から)
 彼はつぶやき、うつむく。
 燭台の炎に照らされた銅製の救世主は、今この時もあらぬ方向に憐みの眼差しを向けているのだろう。
 いつも同じだ。この祈りが届いているのかいないのか、その慈悲が彼に注がれたことは一度もない。そう、一度も。
Libera me, Domine, de morte aeterna,
 それでも彼が聖印を切りかけたその時、背後の扉が大きな音を立てて開かれた。
「シスター!」
 鋭い声に男が振り向けば、身なりのいい若者が息を切らして飛び込んで来るところだった。察するに、どこぞの貴族の令息だ。
──そう、確かに彼の水晶体はイカレていたが、視覚が失われているわけではなかった。
 焼かれていようが白い布が遮っていようが、彼には見えていた。
 若者が男に気付き足を止め、目を見開いて彼とシスターとを見比べたのも見えていた。
「……アンタは!」
 若者が細剣を抜くより(はや)く、男は黒衣を翻した。
「おい!」
 一歩、二歩、三歩、四歩目に闇へと溶け消える。
 霧のように、影のように。
「……おい!」
 質素な聖堂に残されたのは、物言わぬシスターと血の海に沈む薔薇十字。
「…………」
 しばし呆気に取られていた若者だったが、
「……シスター?」
我に返って叫び寄る。
「シスター! シスター!!」



◆  ◇  ◆



「フェッラーラ」
 書斎の椅子に腰掛けデスクの上で足を組んだ吸血鬼が、突然脈絡のない単語を口走った。
「…………」
 絨毯の上に散らばっている書類やら古書やら殴り書きのメモやらを拾い集めていたパルティータが無視していると、
「行きたいとは思わんかね?」
今度は一応文章の形になって訊かれる。
「はぁ」
「小さいが美しい都市だ。ヴェネツィアやフィレンツェには力及ばないが、それゆえの品性がある。媚びず、圧せず、見下ろさず。芸術も知も街も謙虚だ」
 主がそんなことを言い始めたのは、どうやら手にしている手紙のせいらしかった。
 真夜中に暗黒都市からやってきた手紙。
「お仕事ですか?」
「払っている金の分だけはどうやってでも働かそうという魂胆だろうさ。陛下は女王でいらっしゃる」
 吸血鬼がフンと鼻をならして手紙を投げ捨てた。
「…………」
「女は現実的な生き物だ、我々よりもずっとな」
 パルティータは手紙を拾い上げ、
「だから世界は成り立ってきたのです」
目を通す。
 いつもながら、手紙の中身は短い。

『フェッラーラ行きのベリオールが半年弱行方不明。 使者も帰らず。 至急報告求む』

 顔を上げると、闇に映える紅の瞳と目が合う。
 持ち主が柳眉を上げて肩をすくめた。
「──ごもっとも」



 外套をひっかけ階段を駆け下りながら、吸血鬼が大声を上げる。
「シャムシール! シャムシール!」
 パルティータはドレスハットを掴んでその後を追う。
「シャムシール! いないのか! いないならいないと言え!」
「──何? 呼んだ?」
 食堂の扉が開いて、永遠に生意気盛りの少年の顔がぴょこんと飛び出した。
 すると間髪入れずにその眉間目掛けて鋭い爪がびしっと向けられる。
「暗黒都市の黒騎士ベリオールが半年近く職務放棄している。お前のねずみどもにフェッラーラを探させろ、奴の最終任務地はあの都市だ」
「……ども?」
 シャムシールの眉が寄り、吸血鬼が大きく息をついた。
「ねずみさんたちに探してくれるよう頼んでください」
「了解〜♪」
 少年は、役に立ちたいお年頃ではある。



◆  ◇  ◆



 シスターに駆け寄った若者の名は、ルカと言った。ルカ・デ・パリス。
 フェッラーラを中心にこの辺り一帯を治めるエステ家に仕えている、中流貴族の跡取りだ。
 与えられるものを素直に享受して、そこに少しの努力を足していれば、一生をつつがなく終えられるだけの身分にはある。
 だが往々にして人は、その幸福を自ら捨てたがるものだ。

「どうして駄目なんですか!」
「貴殿には才がないのだと何度も申し上げた。我々は契約で領主に仕える傭兵騎士とは違うのです」
「才があっても情熱のない者ばかりだから敬虔なシスターひとり護れないんじゃないか!」
「貴方の持っているものは情熱ではなく復讐心です」
 陽光降り注ぐ紺碧のアドリア海に面し、強大なヴェネツィア共和国と聖なる教皇領に挟まれた小さなフェッラーラ公国。
 美しく謙虚なこの都市であっても、人ならぬ夜の住人たちに怯えることは他国と変わらず、聖騎士の詰め所というものはあちらこちらに点在している。
 ルカが怒鳴り込んでいるのもそのひとつだ。
 公国の名ともなっている中核都市、フェッラーラの聖騎士宿舎。
吸血鬼始末人(クルースニク)ほどではないにせよ、我々の使命には血統が必要になるのです。貴殿のことはよく存じ上げておりますが、それゆえにお迎えするわけにはいきません」
「血統血統血統! それがすべてか!? アンタも俺も元はただひと握りの土くれだろうが!」
「お引取りください」
「頼むよ、仇を取りたいんだ。金は出来る限り積むから、魔物を裁く術を教えてくれ」
「金銭の問題ではありません」
「アンタは、大事な人が奪われることの憎しみを経験したことがないんだろう!」
「仇だの裁くだの──我々の頂に立つ方(ソテール・ヴェルトール)の忍耐を無視するわけにはいきませんので」
「ちょっ! 待っ!」
 意味不明な理由を残し、ルカの鼻先で門戸は非情に閉ざされる。
 押しても引いても叩いても、もう何の返答もない。
「市民を見殺しにしたくせに! 大金数えて、お前たちは何を護ってるんだ!」
 思いっきり扉を蹴っても、痛いのは自分の足だけだ。
 それでも蹴らずにはいられない。
「お前たちが護ってるのは、名誉と血統だけだろうが!」
 乱れた金髪をさらにかき乱して、彼はよろよろと石畳に後退した。
 道行く者たちに奇異の目で見られていることなど気にしない。
「シスターを返せ! お前たちが殺したも同然だ! 役立たずが!」
 再びふらふら扉に取り付き殴りつける。
「ここを開けろ! この街の聖騎士に良心があるならな!」
 言っていることは一市民の叫びだが、様子はまるで酔っぱらい。傍から見れば、逆恨みしたキ印が聖騎士様方に難癖をつけているようにしか映らない。
 再度抗議すべくルカが拳を振り上げたところで、
「ちょっとアンタ、こっちへ来なさい」
その手首を掴まれた。
「離せ!」
「離さないわよ、落ち着きなさい」
「離せって!」
 振りほどこうと身をよじり、彼は動きを止めた。
「私の話を聞きなさいよ、悪い話じゃないから」
 忍んだ声の主は、女だった。
 焼けるような赤い髪が印象的な、美しい女。お世辞にも上流階級とは言い難い衣装だったが、かといって商工階級の匂いもしない。
 おそらく、親の遺産で細々と生活を送る没落貴族の娘だろう。きっと彼より年上だ──そんなことを考えているうちに、ルカは女に手を引かれるまま路地裏へ入っていた。
 数歩奥へ進んだところで彼女が立ち止まる。
 必然、彼の足も止まる。
 すると、
「私が、貴方の欲しいものを何でもあげるわ」
女が振り向き様に言った。
「もっとも、貴方が今一番欲しいものが何か分かっているから、それを私があげられるから、言っているんだけど」
 女の力強い目に見つめられて、ルカは動けなくなった。
 髪の色より情熱的な眼差しに、拒絶すれば彼女の心は壊れてしまうだろうと悟ったのだ。悟りつつそれを実行することは、彼にはできない。
「貴方がシスターを愛してることは知ってる。よく分かってる。あの人が死んでしまった今でも愛してるんでしょう? そう、生きていた時より愛してると言っても言いすぎではないくらいに。そうでなければあんな無謀な真似はしないわ。聖騎士に楯突くなんて」
「何が目的で──」
「貴方がシスターを愛しているように、私も貴方を愛しているの」
「私は、」
 貴女なんて知らないと言おうとした口に、女の指が添えられる。何も言うな、と。
「そうよ、貴方は私なんか知らない。それでいいのよ、それが正しい。でも私は貴方をよーく知っているの。よーく」
 そこでようやく女がこちらの手を離した。
「安心して頂戴。見返りをもらおうなんて思っていないから。私と貴方じゃ釣り合わないのは承知しているわ。私は貴方を愛しているから貴方の力になりたいだけ。でも貴方は私を愛す必要なんかないし、義務もない」
「…………」
「例え報われなくても愛する人のためになりたい。そういう想いは貴方が一番良く分かっているでしょう?」
「──えぇ」
 ルカが愛した人は、出会った初めから神のものだった。
 たまたま立ち寄り祈りを捧げた教会にいた、純粋で可憐なシスター。
 しかしせっせと通う彼に向けられる微笑みはいつも悲しいほど平等で、かけられる言葉は苦しいほど凡庸だった。
 それでも、あるいはそれが、愛を深くした。届かない、神には敵わないと痛めば痛むほどに。
「ルカ、貴方の欲しいものは何?」
「でもそれは」
「言ってみなさい」
 壁と壁に挟まれた狭い路地。
 そこだけが他と隔絶されているが如く、馬、人、犬、木槌(きづち)、鉄打ち、鐘、……通りに溢れる生活音がやけに遠く感じた。
 振り返ればすぐそこにあるはずなのに、ここにはない。
「ルカ」
 小さく切り取られた空を見上げれば、砂埃にかすむ青に鳥影がひとつ横切る。
「……力。力が欲しい。復讐を遂げられるような力が」
 彼は、枯れた声で言った。
 それを女が繰り返す。
「魔物を滅ぼす力、ね」
「あぁ」
 うなずくと、女が嬉しそうに微笑んだ。
「──あげるわ」



◆  ◇  ◆



「そういえば、フェッラーラは妙な加減になっているようですよ」
「妙な加減?」
「えぇ。一般人がバッタバッタと魔物退治をしているようで。それが聖騎士や白十字以上の力だっていうんだから、奴らの面目も丸潰れですわ。魔物と見れば片っ端から斬って捨ててるらしいですからね」
 御者台の上で、フードを被った骸骨がカタカタ笑う。
「旦那もお気をつけなさいよ、首と胴が離れないようにね」
 馬の蹄が規則正しく悪路を打つ音、軋んだ車輪の回る音が夜の森に響く。
「…………」
 いつもなら軽口には軽口を重ねる主が、白い手袋の指先を唇に()わせ沈黙していた。
「その英雄殿が現れたのはいつからですか?」
 見かねてパルティータが訊くと、
「ベリオールの薄らバカが音信不通になった時期と同じだろう」
主がハンッと足を組み替え、外套の中からくしゃくしゃになった紙をぴっと取り出した。
「あの男の最後の任務地がフェッラーラ。シャムシールのねずみが報告してきたのもフェッラーラ。そこでヴェルトールの真似事をしている一般人。つながりがないわけがなかろう」
 パルティータが受け取った紙は、シャムシールお手製の地図だ。上の方にフェッラーラと書かれ、あとは大小様々いくつもの四角が並べてある。そしてその中のひとつに赤くグリグリと印がしてあった。
 つまり、“フェッラーラ”ということ以外よく分からないシロモノだ。
「じゃあ旦那は、ベリオール卿が魔物狩りの片棒を担いでるとお思いで?」
「そうは言っていない」
 主が強く否定する。
「では狩られておしまいになったとか」
「その程度で“黒騎士”が名乗れるか。問題はただひとつ、あの男が何故帰ってこないかだけだ」
「…………」
 おしゃべりな御者が黙ったのは、喉の骨まで出かかった単語を躊躇(ためら)ったからだ。
 暗黒都市の住人が二の足を踏む言葉。特に、女王の番犬の前では。
 パルティータは意地悪くはっきり代弁してやった。
「“反逆”ということでは?」
「──Non. あいつが本気で覇道を目指すとしても、今ではない。惚れているフランベルジェは全然なびかないし、お前を誘拐した時、私に釘を刺されたばかりだ」
 根拠と言えるほどの根拠ではないように思えたが、斜に構えた主の白皙には曇りがない。
「あぁ見えてあれだって私と同じくらい生きているんだ、虚栄心に振り回されるほど幼い男ではないよ」
「何だかんだ言って買ってるんですね、ベリオール卿を」
「そこそこな。だがあの程度では話にならん。まだまだだ」
「……何がです」
「フランベルジェはやれん」
 真面目な顔のまま、男は腕組みをして息巻く。
「フランベルジェが欲しいなら、私の出す条件すべてに合格しなくてはならない」
「お父さんじゃあるまいし」
 パルティータがぼそりとつぶやくと、ユニヴェールが目を閉じる。
「騎士はダメだ。あんな雇われ浪人、クビを切られたらお先真っ暗だろう。かといって──役人もダメだな、前途に大した希望がない。貴族もいかん、あんな軟弱な奴等」
「じゃあ、何ならいいんですか?」
「まぁ最低でも、今すぐ暗黒都市をひっくり返して玉座を奪える奴か、クルースニクを皆殺しに出来るくらいの奴でないとな」
(そんなの貴方しかいません)
思いながら、パルティータは言った。
「そうですね」
 本音と建前をさくさく使い分けることこそ、賢いメイドの第一条件なのだ。
「ところで旦那……フェッラーラのどこへ行きますか?」
 夜風にのる暗黒都市の馬車は疾い。
 もう目的の街が近付いてきたのか、御者が振り返ってきた。
 パルティータが主を見やると、薄目を開けた男の視線はメイドの手元から御者へ流れる。
 彼女は持っていた紙切れを枯骨(ここつ)に手渡した。
 そしてしばし。
「えーと、旦那、これは」
 考えて見ればどこから声を出しているのか、困り果てた御者のうめき。
「……そこに書いてある場所へ行け」
「書いてある場所?」
「その赤印の屋敷だ」
「屋敷?」
「御者のくせに地図も読めんのか貴様は!」
 重なる疑問符に、吸血鬼がキレた。
 しかし御者は呑気にカラカラと笑う。
「旦那ァ〜、無茶言っちゃいけませんよ。これは地図なんかじゃありませんぜ。アトランティスの象形文字ですな」
「──!! アトランティスには象形文字があったのか!?」
 ユニヴェールが勢いよく腰を浮かし、車輪が傾く。
 御者台の髑髏が器用に“呆れため息”をついた。
「旦那ァ、冗談ですよ」
「…………冗談」
「ユニヴェール様」
 声をかけると、首のあたりで軋み音をたてながら、蝋人形のような顔がこちらを向く。
「私が危ないのでお座りあそばしてください」
「…………」
「で、旦那。どこへ行きます?」
「…………」



◆  ◇  ◆



 赤い髪の女──フランチェスカ・ラニエリは、フェッラーラの裏界隈、廃れた通りの小さな屋敷に住んでいた。
 夜だというのに灯も点せない家々が連なる、忘れ去られた街の一郭。
 泥棒避けにもならない門と、オリーブの木が数本、それだけが飾りの朽ちかけた屋敷だ。

「何? 本気で言ってるの?」
 彼女は、髪を上げ首飾りをはずしながら目を上げた。
 蝋燭一本だけの明かりの部屋には、ローズマリーの薬めいた芳香が漂っている。
「本気さ。フランチェスカ、結婚しよう」
 鏡に映っている背後の若者が、真っ直ぐな目で繰り返してきた。
「ずっと考えてたんだ」
「……そんなことしたら貴方が困るでしょう?」
 彼女は振り返り、紅唇からため息を漏らした。
 先祖代々フェッラーラ領主エステ家に仕える良血のパリス家と、貴族の名を冠するのも滑稽な有様のラニエリ家。
 結婚は個人の問題ではないのだ。そんな婚約は反対されるどころではない。
「困らないよ。貴方のおかげで」
 彼が腰の剣を軽く叩く。
 フェッラーラに現れるどんな魔物をも切り裂く、魔法の剣。
 中流貴族の若者を聖騎士さえ足元に及ばぬ狩人へとのし上げたのは、この漆黒の剣だ。
 それは、あの日あの路地で彼女が彼にあげたもの。
「今、僕のやることに口を出せる奴はいないんだから」
「でも」
「僕が貴方のために出来ることはそれくらいしかないんだ」
「……あぁ」
 力のこもった真剣な眼差しのルカとは対照的に、フランチェスカは力なく笑った。
 彼の言っている意味はつまり、“形を整えることはできるけど、そこまで”。
 結婚はできるけど、愛すことはできない。
「もしかして、お金で我慢してくれって意味に取った?」
 鏡台の椅子に腰を落とした彼女の前に、ルカが回りこんできた。
 膝をつき、顔を寄せ、大きな声を出してくる。
「そうじゃない。少しでも貴女に良い暮らしをしてもらいたいんだよ。貴女は僕の恩人だし、僕の味方だし、──僕を……僕を愛してくれているし」
「でも貴方はあのシスターしか愛せない。違う?」
 眉を上げ悪戯半分で返すと、正義の騎士は針で打たれたような顔をする。
 どこまでも正直な若者だ。
「いいのよ答えなくて。ごめんなさい、困らせて」
 フランチェスカはルカの頬に手をやった。
 肌に感じる温かさは、こちらに伝わってこない。きっと彼女の体温も、彼には伝わっていないのだろう。
「言ってみただけよ、貴方は本当に可愛いから」
「……フランチェスカ」
 憂いを帯びたルカの碧眼が、苦しそうに歪む。
 そういうところが愛しくて憎らしいのだ。
 彼女は言った。
「パリス卿。お申し込み、慎んでお受けいたしますわ」
 そして彼の顔が安堵する前に、唇を合わせる。
 彼の目が丸くなる前に、身を引く。

 路地のどこかで酒瓶の割れる音がして、野犬が吠えた。
 それが、彼女の日常だった。



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