冷笑主義 第19話

La Roseraie(ラ・ロズレ)
─ 薔薇園 ─

前編


 さぁ、薔薇が咲く。
 正義と慈愛が世界を変える。
 腐敗と堕落を剣で裁き、悲嘆と苦渋を科学で救い、呪われた死を(さだめ)で滅ぼす。
 それが我らの決意。それが我らの使命。


◆  ◇  ◆


 年が改まり雪解けの声を聞く頃。固く閉ざされた木々の枝から緑が芽吹く頃。
 まだ昼間だというのにパーテルのユニヴェール邸の前には馬車が止まり、中からふたりの客人が現れた。……いや、正確に言うならば、御者の手を借り馬車から地面へと飛び降りた。
 明るい栗色の髪をクルクルと踊らせ、小さく華奢な身体を真っ黒な別珍の外套に包み、りんごひとつ分ほど高低差のある少女たちは、手をつないで屋敷を見上げる。
 時代に(すす)け、陽光に()せ、彼女たちには視線もくれずひっそりと黙す、吸血鬼の棲家。
 目を見張るほど豪華でもなければ美しくもなく、そして期待していたほど大きくもない。
 しかし息苦しささえ感じるずしりとした重さに気圧され、ふたりが少しの間微動だにせず突っ立っていると、こんなところに長居は無用とばかり、馬車は即刻引き返してしまった。
「……あ」
「……行っちゃった」
 彼女たちの差し当っての問題は、ノッカーに手が届かないことであった。



 パルティータがイチゴのクレープをテーブルに置くと、硬い表情で背筋を伸ばし椅子に腰掛けていた客人たちの目がぱっと輝いた。
 薄い眉にぱっちりした目、まるで大小の人形を並べたような瓜二つの顔をした少女ふたり。
 それが、真昼間から吸血鬼を訪ねて来た無礼極まりないお客の正体だった。
 外をふらついていたルナールが、玄関前に座り込んでいる彼女たちを見つけたのだ。
 親の姿も従者の姿もなく、ただ「ユニヴェール卿に会わせてほしい」の一点張り。
 他所のご令嬢をいつまでも預かるわけにもいかないので、読み()しの本を顔に載せたまま眠っていた主をパルティータが叩き起こし、今に至る。
「ユニヴェールが支度を整えるにはもう少し時間がかかりそうですから、どうぞ召し上がってくださいな」
 パルティータがそう言って促すと、姉の方は──ふたりは遥々ローマ近郊からやってきた姉妹なのだそうだ──クレープに目を落とし、妹の方はティーカップに注がれたシナモン色の液体を興味深げにのぞき込む。
「それは紅茶という飲み物です。今はまだ魔物の街でしか手に入らないんですよ。お嬢様たちのお口に合うようミルクをたっぷり入れて甘くしましたから、試してみてください。少し冷ましてからお持ちしましたが、やけどには気をつけて」
 好奇心旺盛そうな妹は両手でカップを抱えると、躊躇いもせずに勢いよくごくりと飲み込み、明るい顔を向けてくる。
 それに比べれば慎重さの見えていた姉は、しかし用意されたフォークを無視して手づかみでクレープの中からイチゴを取り出し口の中に放り込んでいる。
 ちなみに、このクレープはルナールが暗黒都市へ走って買い求めてきたものだ。
「そういえば、あなたたちお名前は?」
 パルティータは、吸血鬼にさえ化け物呼ばわりされるあの吸血鬼に会いたいという少女たちの無頓着さに呆気に取られ、名前さえ訊いてなかったことに気付いた。
「私はベル・カーリタスと申します。こちらの妹はシェリー・カーリタスです」
 姉が指を拭いて居住まいを正した。食べる時の無邪気さとは打って変わって、なかなか立派な淑女の振る舞いだ。
 すると、
「知らんな」
 無愛想に軋んで食堂の扉が開き、いくらか艶を欠いた主の声音が入ってきた。
 しかし声に続いて入ってきた化け物の本体は、それに比べれば随分颯爽としていた。
 冷ややかな銀の髪はいつもどおり撫で付けられているし、病的な白皙にも明度の高い紅の双眸にも睡魔の影はなく、ただひとつ違いがあるとすれば上着を羽織らずブラウスにベスト姿だということだけ。
「……ユニヴェール様」
「これはこれはこんな辺境へようこそ、小さなご婦人方」
 パルティータの呼びかけは無視して、吸血鬼が紳士よろしく胸に手をあて腰を折る。
 姉妹はお辞儀にはお辞儀で応えるべく椅子から降りようとしたようだったが、
「いや、そのままで結構です」
 男の骨ばった手に制されて座り直す。
「申し訳ありませんが、カーリタスという響きには心当たりがありません。しかしその可愛らしいお名前から察するにお住まいはフランスではありませんか? マドモワゼル」
「そのとおりです、ユニヴェール卿」
 姉のベルがうなずく。
 当たったのが嬉しいのか、無表情なままのユニヴェールがひとつ指を鳴らして近くの椅子を引き寄せ腰かけた。
「ここがどんな化け物の家か知っていてお訪ねになったんですか?」
 起こされたことも支度を手伝わなかったことも不服らしいユニヴェールが、ちらりとパルティータに視線を寄越したかと思うや、身を乗り出しテーブルに肘を付く。
 どうやら吸血鬼は自分の分の紅茶をご所望らしい。
「もちろんです。だからこそ、やって参りました」
 舞台劇のように、一字一句はっきり口を動かしてしゃべるベル嬢。その横では妹のシェリーも手を膝に乗せじっとしている。目線はクレープに釘付けだが。
「だからこそ?」
「ユニヴェール卿は魔物の中で一番偉いのでしょう?」
「肯定はしかねますが、」
 一番偉いのは、女王陛下だ。
 この吸血鬼がその見解を変えることは、おそらく後にも先にもないだろう。
「それで、魔物の中で一番しぶとい化け物に何の御用でしょうか?」
 魔物の中で一番ひねくれている化け物は、所詮子どもの頼み事だとタカを括っていたに違いない。
「お父様を助けてください」
 姉妹が言葉を重ねて言った、それが彼ら(・・)の敗北になるとは知る由もなく。


◆  ◇  ◆


「……で、何でこうなるんだ?」
「それは俺の方が聞きたい」
 姉妹に案内され馬車に揺られユニヴェールがやって来たのは、ローマにほど近い、常緑の潅木に囲まれた川沿いの古城だった。
 しかしその城門前には、魔物の行く手を阻むべく正義の騎士が突っ立っていた。
 何と形容しようが結局ただの黒でしかない黒髪と、その下には驚きより先に疲労が滲む蒼い目。そして上から下まで人類の視覚に害を与えかねないほど光を反射している白尽くめ。
 無論、誰の期待を裏切ることもせず、ソテール・ヴェルトールである。
「可哀相になー、最近見かけないと思ったら、いつの間にかこんな壊れかけた城の門衛(もんえい)に左遷されていたのか」
 馬車から降り、黒い日傘を天に掲げ、吸血鬼は肩をすくめてみせた。
「デュランダルの隊長殿が直々に見張りとは、カーリタス卿というのはローマにとってそんなに重要な御仁なのか? それともヒマなのか?」
「どちらかと言うと、ヴァチカンは俺を遠ざけて置きたいのさ」
 フンと鼻で笑って真顔で言ってきたそれは冗談なのか本気なのか。
 どちらにしろ、結論から言うと隊長殿はヒマらしい。
「それよりも、どうしてパーテルの吸血鬼殿が昼間っからカーリタス卿の令嬢を引き連れてこんなところに来てるんだ?」
 ソテールの台詞にユニヴェールが振り向けば、馬車の中からふたりの少女が顔をのぞかせていた。
「こっちじゃご令嬢が行方不明だって言うんで大騒ぎだぞ。懸賞金の額がすごいんだまた」
 全然大変そうではない一本調子で言われても困る。
「彼女たちは私の依頼人だよ。わざわざあの化け物屋敷に訪ねてこられた、勇気ある依頼人だ」
 ユニヴェールは砂礫(されき)を鳴らして近づいて行き、馬車の扉を開けひとりづつ手を取って降ろしてやる。
「お父上を魔物から護ってやってくれと頼まれてね」
 彼がソテールの方へ向き直ると、姉妹は両脇にぴったり付いて手を握ってきた。
「俺はお父上に魔物を近づけないように頼まれたんだが」
 敵意さえ見せる少女たちの大きな目に、ソテールが肩でため息をついた。
 子どもが味方だと大いに優位だ。
「お前がカーリタス卿に私を紹介してくれれば問題ないだろう? 自分で言うのも何だが、たぶん今のところ世界で一番役に立つ吸血鬼だ。──そうですよね? マドモワゼル」
 同意を求めると、姉妹はにっこり笑って大きくうなずいてくる。
 このまま真っ直ぐ素直に育てれば、さぞかししとやかな貴婦人に成長することだろう。
 どこぞのメイドと違って。
「吸血鬼を推薦する吸血鬼始末人(クルースニク)がどこ──」
「どこにいるって、お前が歴史の創始者になればいいじゃないか。崇め奉られるぞ」
 なんだか、大昔にもそんなやり取りをしたことがある気がする。なんて進歩のないクルースニクなんだ。
「ところで」
 ユニヴェールは城門の向こうに見える大尖塔を仰ぎながらソテールに訊いた。
「カーリタス卿というのは何者で、なんで魔物に狙われていて、その魔物はどんな奴なんだ?」
「……お前何を訊いてここに来たんだよ……」
 ソテールのあからさまに呆れ果てた視線を手で払いのける。
 ヒマなのは、お互い様なのだ。



 ゲネリス・カーリタス。
 それがこの朽ちかけた古城に滞在している貴族の名だった。
 どうやらフランス、しかもパーテル近郊に居を構えている地方の小貴族で、しかしユニヴェールが知らなかったのも無理はなく、領地持ちではない成り上がりであるらしかった。
 その田舎者がヴァチカンの要人に大事な用があるというので、知人を介してこの城を手配してもらい、謁見までの数日を過ごすことになったのだそうだ。
 砂岩の堆積する細い川に沿って造られているこの城の規模は大きい。いくつもの塔や回廊が川に面して建てられていて、中庭も複数ある。高い城壁や川の水を引いて造られた堀に架かる跳ね橋は、かつて砦としての機能を担っていた証だろう。
 城主も兵士もいなくなった今となっては、雨に打たれ風に晒され全盛期が剥がれ落ちてゆくのをただひたすら耐えるだけの様相だが。

「──それでどうして貴様の出番があるんだ? まさかカーリタス卿がヴァチカンに“人手が足りないから門番を貸してくれ”などと頼んだわけでもあるまいに」
 カーリタス一家が眠りについているのは、城内の奥まった場所に建てられた居住区の2階だ。
 つまり、そこへの階段入り口を見張っていれば、“真面目に警備をしていた”と言い訳ができるということになる。
「思うんだが、どうしてお前は昔から変なのに好かれるんだ?」
 階段の見える小広間のど真ん中、テーブルの向かいに座った隊長殿がどうにも納得がいかないという顔でこちらを睨んできた。
 ランタンの灯に下から照らされたその形相は、一般市民なら悲鳴を上げるかもしれない。
「精神年齢が低いから波長が合うのか?」
「何をわけの分からんことを言ってるんだ、貴様」
「カーリタス卿のご令嬢さ」
「……あぁ」
 昼間、ソテールは渋々ながら(くだん)の貴族に紹介してくれた。
 随分白髪の混じった老年の紳士は、細身の身体を無理矢理恰幅よく見せようとしているのが垣間見えてしまう風体だった。成り上がりというと傲慢不遜なイメージがつきまとうが、その男は逆に成り上がりの悲哀を背負っていた。
 苦労に苦労を重ねてこの地位を手に入れました、そういう札が首からぶら下がっているのである。
「お子様たちはなんでお前にあんなに懐くんだ?」
「人徳に決まってる」
 “令嬢をお探ししていた私の部下です”という隊長殿紹介の仕方はともかく、さぁ本人から話を聞こうという時になってベルとシェリー、あの姉妹がユニヴェールからくっついて離れなくなったのだ。
 一緒に城内を探検してほしいとせがんで手を離さない。
 カーリタス卿も年老いてからの我が子に随分甘いらしく、目を細めてうなずいているばかり。
 結局ソテールは持ち場に戻り、ユニヴェールは厨房だの貯蔵庫だの兵舎だの地下牢だの見張り塔だの、元気の良すぎる少女たちに引っ張りまわされることになり、事情を理解するどころではなかった。

「シャムシールもお前にベッタリだったしなぁ」
 遠い目をしてワインを一杯一気に(あお)るソテール。
「人徳に決まってる」
 隊長殿は、自分に隙がないことを御存知ない。
 賢い子どもたちは大人の顔色を読んで行動する。我侭を言える相手か、悪戯を悪戯と見てくれる相手か、品定めしているのだ。そして彼は自然に弾かれている。そういう次元の相手ではないと、子どもは本能で判断している。
 ソテール・ヴェルトールは、一瞥から足音まですべて、誰か個人ではなく世界に生きるあらゆる民のものなのだ。
「フリードだって──」
「死んだ方が楽だったか?」
 ワインの瓶に手を伸ばしながら言うと、
「お前はどうしてそういう過激なことを言うかね」
 今日何度目かのため息をつかれる。
「そりゃ死ななかった方がいいに決まってるさ。あいつも、お前も」
 そうは言うが、この男は何があってもめげないだろうという確信はあった。
 だからこそ、フリードの生死の最終選択を委ねたのだ。
「折り合いが悪いんだよな」
 なんでコイツの人生相談を受けてやらなきゃならないんだと思いつつ、息子が不良になったら大変なのでとりあえず訊いてやる。
「誰と誰が」
「フリードとチェーザレ」
「……あぁ、教皇の息子ね」
「思い浮かべただけで水と油だと思わないか?」
 そういえば、ふたりは同じくらいの年齢だったような気がする。
「フリードの方が拒否反応だな」
「どっちもどっちさ。フリードはお前に似て知識の収集は好きだが、あれは母親の血だな、やっぱり剣は好きになれないらしい。反対に御曹司は俺から剣以外を学ぶつもりはないんだとさ。だからフリードは御曹司を物を知らない剣術バカだと思ってるし、御曹司はそれを負け犬の遠吠えだと言って嘲う。互いに、自分にないものを持ってるのが気に食わないんだよ」
 ソテールの視線はユニヴェールの肩を過ぎ、濃淡の陰影が描き出された中庭へと向けられている。だが実際には、ガラスに映った吸血鬼の背が見えているだけだろう。
「それと、同属嫌悪」
 ユニヴェールが頬杖をついて付け加えると、
「……同属?」
 ソテールがテーブルに突っ伏しながら訊いてくる。この男、ヤル気がない。
「どちらもヴァチカンの中では異端だ」
 チェーザレ・ボルジアは、父の権力によって緋色の衣をまとった。その地位を目指す者が日夜どれだけの心労を重ね、その地位を買うためにどれだけの金が動き、その地位に座るためにどれだけの密談が行われているか、ロクに知りもせずに。
 そしてフリード・テレストルは、半分魔物だ。いつユニヴェールの血が抑えられなくなり魔の本能が目覚めるかしれない、本来ならばヴァチカンが葬るべき者。
 聖人たちの神経を逆撫でする両方が神の膝元で闊歩しているのだから、さぞかし聖都はギスギスした空気に包まれていることだろう。
「フリードは貴様の責任だが、ボルジアを司教座に据えた責任は金に目がくらんだ連中に取らせればいいさ」
「──首長の堕落の皺寄せは、民が負うことになる。結局」
 うめくように言って、ソテールが身体を起こした。
「今回のも、それが関係しているような気がするんだよな」
 そのまま世界を憂う話になるのかと思いきや、いきなり声の調子が変わった。
「何の話だ。話がさっぱり見えん」
 そういえば、昔からソテール・ヴェルトールは政治にあまり興味を示さなかった。もちろん、さびれた村を、痩せた子どもを見るにつけ嘆いたり憤慨したりしていたが、教会の上層や国の官吏たちを弾劾して改革しようという気にはならないらしい。
 真意の程は分からないが。
「近頃ローマでは魔物騒ぎが起きている。カーリタス卿はそれに怯えて教会に護衛を頼んだんだ」
「魔物騒ぎ? アスカロンからは何も聞いていないぞ」
「あの坊やにとっては報告するまでもない事件なんだろ」
「貴様が駆り出されるような事件が、か?」
「だから昼間も言っただろう? 俺が駆り出されたんじゃなく、俺を目に付かないところに放り出しておきたいんだよ、上の連中は」
 ソテールがランタンの明かりを強め、どこからともなくカードの束を取り出してくる。
「一見、ただの連続殺人事件だ。ローマに呼ばれてたまたま来ていた官吏やら貴族やら、司祭に商人、半月の間にそんな奴等が何人も殺された。金を持ってそうな輩ばかりだが、何も盗られていない。殺された場所は様々で、滞在先や路上や……教会なんてのもあったな」
「連続殺人と決め付ける理由は?」
 何気なく訊けば、
「すべての遺体にこれが残されていた」
 ソテールがカードの束から一枚を取り出し、テーブルに置いた。
 背後の中庭を一陣の突風がうなり声を上げて吹き抜けてゆき、ランタンの炎がかすかに揺れる。
「──正義?」
 端が日焼けしているそのカードには、右手には剣、左手には天秤を掲げ、真正面を向いて闇わだかまる天井へ虚ろな眼差しを投げているひとりの女神が鎮座していた。
「そうだ、正義だ」
 それはここ数十年でよく見かけるようになった“タロット(トライアンフ)”カードのうち、『正義』と称される一枚だった。
「これが遺体の上にあった?」
「この殺人は正義の裁きである、犯人はそう言いたいわけだ」
「殺されたのは、そう言われて皆が納得するような奴等なのか?」
「死人を悪く言いたくはないが、まぁ誰も否定しないだろうな。不正を重ね、金を積み、他人を陥れ、地位と名誉と富を必死で囲ってきたような連中だ」
「その殺人鬼を放しておいたらローマの人口が半分は減るな! ヴァチカンなんぞ大事な大事な教皇を失うことになるだろうよ!」
 キレイになっていいと拍手喝采を送ると、ソテールは視線をカードに落としたままワイングラスに口をつけていた。
「死刑執行人の仮面を被り、執行人の緋色のマントをまとい、剣で殺してカードを残し、最後は霧のように消える。それが殺人鬼について分かっていることのすべてだ。複数人が目撃している」
「念のため聞くが、霧のようにってのは逃げ足が早いことの比喩ではないんだな?」
「霧散するらしい、本当に」
「だから魔物の仕業というわけか」
「あぁ」
「それを聞いたカーリタス卿が怯えているということは、彼もやましいところがありそうだな。正義の裁きを受けるだけの理由があると、彼自身思っている」
「卿はフランスで裁判絡みの官吏を務めていたんだと」
「それはそれは。賄賂の温床に人生を捧げていたのなら、正義の魔物を恐れるのも無理はないな。……ん? 正義の魔物? 何かおかしくないか?」
 正義の魔物はもはや魔物ではない。
 あの、誰彼構わず死を運ぶサマエルも、神を愛するという一点の正義によって“死の天使(・・)”と呼ばれているのだから。
「ヴァチカンはそれを正義だとは認めていないさ。裁きは神と神の代理人が下さなければならない。それを侵した者は例え正義を掲げていようと罪人になる」
「確かに、それが法だ」
 ユニヴェールはソテールのどこまで本気か分からない型どおりの答えに大仰にうなずき、
「だが法は、」
 ソテールの手からカードを奪い、二枚抜き出した。
 『正義』の横に静かに並べる。
「民のものではない」
 一枚は、二本の柱の前に座り、三重冠を頭に載せ、三重十字の杖を掲げ、ふたりの聖職者に対峙する──神の代理人、『教皇』。
 もう一枚は、抜き身の剣を持ち王冠を戴く、裁きの権力者、『剣の王』。


 アレッサンドロ6世は、トルコからローマを、デッラ・ローヴェレから地位を護ることに尽力を注いでいる。
 強大な都市国家であるミラノがスペインと組んで刃を向けてくるのを防ぎ、逆に自らの味方とするため、娘のルクレツィア・ボルジアをミラノ公の甥の許へと嫁がせ、ヴァチカン宮殿で華々しい式を催した。
 パレードはローマ市民の祝福と管楽器の力強い響きに湧き、絢爛な衣装に身を包んだ彼女の兄弟や夫の馬が通る道は皆が天に向かって投げる花びらで美しく彩られていた。
 目も(くら)むような財と光輝く幸福とが墓場の上を笑って過ぎていったんだぜ──そう揶揄(やゆ)したのはローマにいて実際に眺めていたアスカロンだ。
 教皇の息子、ヴァレンシア大司教であったチェーザレ・ボルジアが異例の大抜擢で枢機卿に任命されたのはそれから間もなくのこと。
 まさに権勢ほしいままだ。
 しかし一方でローマでは、ローマ貴族であるオルシーニやコロンナが、抑え込もうとする教皇の言いなりになってたまるかと紛争を激化させ、それに混じって各地から流れ込んだ傭兵崩れが無法の限りを尽くし、捕らえられた者の運命は金が左右し、貧しい者だけが処刑台へと引き立てられていた。
 隣と張り合う露天商の呼び声に、なけなしの賃金を奪われた市民の悲鳴と賊の勝ち(どき)が重なり、突き飛ばされた振り売り屋の怒号と散乱する果物に群がる人々の歓声が入り混じる。
 そして時には、たった一個のパンのために民の命が奪われた。
 教皇の最も近くにありながら、ローマはそのくらい荒れていたのだ。
 あげくフランスのシャルルは愛しい妃に勇ましい姿を見せようと、ナポリ王国の継承権を主張し、戦争へと突き進み始めている。
 もちろん、ボルジアを憎むデッラ・ロヴェーレ枢機卿が一枚噛んでいることは否定できない。
 他方、芸術の都フィレンツェは、狂信者サヴォナローラによる宗教政治に染まっている。
 メディチ家との対立は日を追って深まるばかり。
 民も二分され吸血鬼の愛する街は緊迫の真っ只中にあった。


「お前は、俺に何をさせたい」
 ソテールが明後日の方を向き、視線だけこちらに下ろしてくる。
「そんな怖い顔するな。貴様が私と遊んでいるうちに、貴様が守るべき民がひとりもいなくなっているかもな、って笑い話だ」
「じゃあお前が早く墓に戻ればいいだろ。今すぐヴァチカンへ行って棺に入ってフタ閉めて土に埋まれ」
 姿勢を崩さず一息に言われる。
「なんでそうなるんだ。貴様が一度にふたつのことをできない不器用男だからいけないんだろうが!」
「できないんじゃなくてやらないだけだ」
「革命なんて起こそうとしたこともないくせに、よく言う」
 ハンっと笑い飛ばすと、隊長殿がワインボトルを抱き込み説教態勢に入ってきた。
「第三者が握った剣にどれだけの重さがあるんだ。それぞれの叫ぶ“面”しか見えていない、その面で囲われた内側に同化できない俺が掲げた剣には、正義はついてこない」
「民が自ら立ち上がれ──確かに聞こえはいいな。だが、ヴェルトールの逃げじゃないのか? 貴様らも民の一人だ」
「普通の民じゃない」
「あぁ、分かってる。救い様のない堅物だってことは」
「どっちが堅物なんだ! お前は自分の意見を絶対に下げなかっただろうが」
「私の意見が間違っていたことがあったか!」
「あった!」
「いつ!」
「知るかよ!」
「隊長。根拠を示せないのに私の不名誉を断言しないでいただきたい」
「300年も前のことをちまちまと覚えてられるか」
「ドクター・ファウストに記憶力も治してもらった方がいいんじゃないですかねー」
「お前はあいつに血を全部抜いてもらえ」
「そんなことしたら死ぬだろうが!」
「もう死んでるだろうが!」

 ……夜は長い。



「大丈夫ですよ」
 炎の揺れる燭台を窓際のテーブルに置いた侍従の声が、慰めるように響いた。
 青味がかった闇の落ちる城の大寝室で、落ち着きなく歩き回っている主に向けられたものだ。
「ロバンは貴方を殺しはしないでしょう」
「何故そう言い切れる?」
「理由はありませんが」
 主の尖った詰問にも、侍従はさらりと言いのけた。
 期待はしていなかったのだろう、特に咎めることもなく、カーリタス卿は額を押さえてゆっくりと寝台へ戻る。
 彼を貴族たらしめていた衣装を脱いでしまえば、どこにでもいそうな老人だ。
「もう私だけなんだよ、あの事件に関わってまだ生きているのは」
「幸いなことではありませんか」
 どこへ流れてゆくのかも定かではない黒々とした川の流れを見送って、
「それに──」
 侍従が窓から目を離した。
「関係する方々も、殺されたわけではないとお聞きしましたよ」
「だが普通に死んだわけでもない。病死に事故死に獄死だぞ」
「普通……とは何でしょうね」
 侍従の純粋な黒の上着に白いブラウスが映える。
 その柔らかな口調と真っ直ぐ背筋の伸びた姿勢は、彼の方がこの城の主ではないかと錯覚させるほどだ。
「普通とは、移ろう時と共に老い、迎えに来た天使と共に神の御許へ行くことだよ」
「なるほど」
「──なぁ、クロワ」
「大丈夫ですよ。今夜はデュランダルがふたり、階下で見張りをしています。ロバンの入り込む隙はありません。明日は猊下にお会いしたらすぐにフランスへ戻りましょう」
 侍従が寝台に入った主の呼びかけを遮り、灯を消した。
 彼の両眼を覆う白い布が、差し込む月光に浮かび上がる。
「そうだな、……そうしよう」
 娘が行方不明になったことで随分気をやつれさせたのだろう、横になった男はすぐにまぶたを閉じたようだった。
「何も心配することはございません。何も」
 冷たい石が敷き詰められ薄い絨毯が無造作に敷かれただけの床を、落ちた声が包む。
 夢の中の足下が美しい紅の花弁で溢れるよう、祈りを込めて。



 翌日、太陽が燦々(さんさん)と降り注ぐ中、ユニヴェールはローマの片隅を歩いていた。
 カーリタス卿一行はヴァチカンへ向かい、ソテールが供をすることになり、吸血鬼はようやくお守りから解放されたというわけだ。
 ローマとヴァチカンで何が違うのかとも思うが、世界はヴァチカンは魔物を阻む聖なる境界に囲まれていると信じているらしい。
 馴染みの画商の店に立ち寄り、骨董屋に顔を出し、馬車でも捕まえてゆっくりパーテルへ帰ろうかと思案していた時──。
「お兄さん、お兄さん」
 彼は嫌な声に呼び止められた。
「……何してんだ、貴様」
 振り返れば、至近距離で満面の笑みをたたえ手を振っているデュランダルの隊長。
「声をかけるな、目立つだろうが!」
「光栄に思えよ」
「仕事をしろ、この税金泥棒」
「してきたさ。だからここにいるんだ」
「はぁ?」
「カーリタス卿はフランスへの帰路につかれた。そしていくつか判明した」
 ソテール・ヴェルトールが口の端を上げて、純白の外套の中から一枚の紙片を取り出す。
「正義のカード?」
「過去にひとつ、このカードが殺人現場に残された事件があった」
 そんなものは記憶にないと言い返そうとする間にも隊長殿は続けてくる。
「パーテルのロバン事件だ」
「……あぁ」
 それは、今から30年強程前の事件になる。
 ひとりの男が、パーテルの教会に礼拝に来ていた大人子どもを無差別に襲った。死者は13名。
 殺された者たちはいつまでたっても死んだことを理解せず教会に居つき、それを不憫に思ったらしいメイドがユニヴェールに暗黒都市への就職斡旋を頼んできた。
 今では13人全員手に職を持ち女王の都で魔物としての品行方正な生活を送っている。
 だが──。
「ロバン事件を起こしたサイド・ロバンは現行犯で捕まったが、自分は神の代行者だと言ってこの正義のカードを遺体の上にばらまいていたそうだ」
「初耳だ」
 黒尽くめの男と白尽くめの男が互いに探るような目つきで会話している様は、誰の目にも異様だったに違いない。
「そして、カーリタス卿はサイド・ロバンの裁判に関わった官吏のひとりだ。とはいえ、関係者は彼以外すでに誰も生きていないけどな」
「……どうやって調べた?」
「フリードが調べた」
「貴様人の息子をそんなくだらないことに……」
 ため息をつきかけて、改めてソテールの顔を見直す。
「ということは、ローマで騒ぎを起こしているのは魔物化したサイド・ロバンで、遺体に残されていた正義のタロットの意味を知っていたカーリタスは、この事件の犯人がサイド・ロバンだと悟った。だから、奴の裁判に関わった自分が復讐の標的にされるのではと恐れていた。そんなところか?」
「おそらくそうなるんだが、ひっかかるところがある」
 ソテールが眉をひそめてきた。
「サイド・ロバンがどんな刑を言い渡されたのか調べがつかなかった」
「13人殺したんだから死刑だろ」
「そうだとは思うが……もう一点、ローマで目撃されている犯人は死刑執行人のマスクを付けていた。サイド・ロバンと直接結びつかない」
「そうか? 奴は自分のことを神の代行者だと言っていたんだろ? 私は神の代行者として悪人を処刑しますと意思表示するための分かりやすい衣装じゃないか」
「まぁ」
「他にうまい着地点があるか?」
 ユニヴェールが隊長殿に向けて指を振ると、
「お前、あの姉妹から父親を守るように依頼されたんだよな?」
 全く違う角度から返される。
「……あぁ」
「サイド・ロバンが狙っているなら、ローマにいようがフランスにいようが危険度は変わらないと思わないか?」
「……だから?」
「俺はヴァチカンから魔物をどうにかしろとテキトーな命令を受けている」
「……だから?」
 薄々、会った時の隊長殿の笑みの理由を悟る。
「俺の仕事を手伝いたいと思わないか?」
「思うか!」



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