冷笑主義

第2話  死に際の太陽

後編




 主がいつから吸血鬼になったのか、パルティータは訊いたことがない。
 どれだけの女を虜にし、命を奪ってきたのかも、訊いたことがない。

 また、何ができて何ができないのか。
 本当の弱点は何なのか。
 実は全く知らない。

 十字架も意に介さないだとか、山査子さんざしなんか鼻で笑いながらバキッと折ってしまうだとか、飛んでくる銃弾さえも避けてしまうだとか、仮に当っても滅びないだとか、そういう非常識なところがいくつもあるということだけは知っているのだが……。

 あの含んだ白皙の裏側に、どれだけのカードを隠しているのか。
 暗黒都市の入り口をたったひとりで守っている吸血鬼。
 その重責を責とも思わぬあの男は、今日もその虚無を相手に楽しく生きている。


◆  ◇  ◆


 黄昏も迫り、人気のなくなった街の通り。
 後ろを振り返れば黒い森の屋敷へと続く大きな道が伸びていて、前を見れば町の中心へと続く下り坂。
 家々の壁は最後の陽光で鮮やかな黄金色に染まり、空もまた橙色の絵の具を流し込んだ美しい夕刻ひとつ前。
 切り取った絵画のようなその場所で、ふたりは再びぽつねんと立っていた。
 ルナール。
 そしてパルティータ。

 昨日露店で悲惨な輩に絡まれたふたりだが、ルナールがうまく取り繕った結果、こういう事態になっている。
 つまりは──今日これからここで、悪の成敗が行なわれるのである。
 ルナールがそう指定したのだから仕方ない。
「私とあなたで、どうあのイカレた女に対抗するわけ」
 一本調子でそう問い掛けるパルティータは、いつもどおりのメイド姿であった。武装といえば背負った矢筒と手に持った弓だが、“使えないことはない”というだけの代物であるので、放って敵に当る保障は全くない。というか当らない可能性の方が圧倒的に高い。
「たぶんね、あの人はユニヴェール卿のおっしゃるクルースニクではないんです。ヴァチカンから派遣されてきたクルースニクであの性格をしている人なら、まず第一に卿を成敗するはずなんですよ」
 立派な説明を続けるルナールはといえば相変らずな真っ黒装備で、得物えものは腰に帯びた普通の中剣ひと振りのみ。
 彼は元々ふた振りの剣を使う剣士なので、ヤル気のなさを体現しているわけだ。
「ちまちました僕らをわざわざ雑踏からほじくり返して成敗するんではなく、ね」
「……そもそも成敗される理由がないんだけどね」
 どこからか地鳴りの音が聞こえてくる。
 坂の下方、街の中心部から近づいてくる砂埃が幻であったらどんなによいか。
 やられるつもりなど毛頭ないし、あんなのにやられたら末代までの恥であるが……身体の芯から疲れそうでどうも嫌なのだ。
「私、帰ってユニヴェール様起床の準備をしなくては」
「そんなもの必要ありませんよ。第一ね、彼女と約束したじゃありませんか。昨日見逃してもらう代わりに、今日この時間にここで正々堂々と戦うって。しかもふたりそろって!」
「約束したのはあなたであって私じゃないもの」
「そういうのを屁理屈というんです」
「真実というのよ」
 なんぞとくだらない言葉を並べ立てている間に、ふたりの目の前には驚くべき程の騎馬隊が整列していた。
 もちろん、その中央で凛と背筋を伸ばしているのは、名前を教えてくれないあの女。
 それぞれの白金甲冑が光を乱反射して目が痛い。
「約束を守るとは、闇の者にしては潔いな! ではその心意気に答えて滅びの理由くらい教えてやろう! 我々のおさたる方がもうすぐこの町に巣食う悪鬼を滅ぼしにくる故、先陣を切ってこのわたくしが目障りなゴミを片付けておくのだ!」
 やはり無駄に誇り高い大声で彼女が口上を叫べば、
「ほら当りましたよ! やっぱり彼女はクルースニクではありませんでした」
 ルナールが得意げに声のトーンを上げる。
「そんな大層な理由掲げて……ただそのエライ人に気に入られたいから抜け駆けするんだったりして」
「そんなことはないっ!」
 つぶやいたパルティータに素早く否定の言葉が刺さった。
「…………」
 そうやってムキになるあたりがあやしいのだが、会話をすると余計に疲れるので、パルティータは早々に口を結んだ。
「こいつらは私の私軍。しかし対魔用に特別訓練をさせた者ばかり!」
 もはや人間だと力説しても無駄だろう。
 彼女が槍を虚空で一閃させると、控えた騎馬隊もまた一糸乱れぬ動きで槍を一閃。
 銀色の穂先が黄昏の空のもと一斉に輝いた。
「……ルナール、どうすんの」
「大丈夫です、助っ人がきます」
「助っ人!!」
 哄笑こうしょうは馬上のアマゾネスから。
「それは何か? お前たちの主人がここへ駆けつけてくるとでもいうか? ご愁傷さま! 私はそれも計算に入れてこの時間を承諾したのよ! まだ太陽が世界を照らすこの時間をね! いくら最強と呼ばれようと、吸血鬼なんて結局か弱い生き物なのよ!」
 吸血鬼は、陽光にあたると灰となって滅びてしまう。
 あのユニヴェールでさえ、日中目を覚ましていることなどほとんどないのだ。太陽が世界を照らしている間は、ひつぎの中で深い眠りに落ちている。

 滅びは死ではない。
 滅びは無への一方通行だ。
 神に救われることもなければ、地獄の苦しみもない。
 その言葉は単純に、魂の消滅を意味する。

「終課の鐘を指定したんですが、もう勤務時間は終わってるから駄目だっていわれたんですよね〜」
 悪気もなくルナールが言った。
「……じゃあユニヴェール様来ないじゃない」
「──いえ。大丈夫だって言っていましたよ」
「なんで?」
「さぁ」
 この男はいい。
 昼間は人間の姿だとはいえ、自分の意志で猫になることもできるのだ。(夜は完全に猫でしかいられないようであるが)
 だから、いざとなったらいつもの黒猫に戻ってどさくさに紛れ逃げることだって可能なわけであり……。
 だがパルティータにそのような特技はない。
 おまけに助けも来ないときた。
「大人しく首をねられなさい! わたくしと我々の長、そして人々と神の栄光のために!」
「……嫌」
「私もそれは少し困ると思う」
『…………』
「猫なんかどうなっても構わんが、メイドがいなくなると少々不便だ。なにせ我が屋敷に勤めてくれる人間など、そうはいないからな」
「それはあまりにもひどい言い用です」
 ルナールだけが平然と振り返った。
「僕だって一生懸命なんですよ」
「だが話が違うぞ。お前は今日ここに、女王陛下お達しのクルースニクが来ると私に言っただろう? ……なんだ、その馬鹿は」
「僕も一生懸命だったのですが、それゆえに早まりまして。これがそのクルースニクだと心底信じていたのですが、先ほど違うと宣言されました」
「……わざわざ早起きしたんだがな」
 パルティータが振り返った先にぬっと立っていたのは、彼女の主であった。
 終焉の輝きを投げつける陽光の下、いつものごとく超然とした紳士が突っ立っている。
 微かな笑みを浮かべ、姿勢正しく、折り目正しい黒衣をまとい。
「ユニヴェール様」
 名前を呼べば、彼は片眉を上げてちらりとこちらを見てきた。
「まぁ新しくメイド募集をしなくて済んだだけ良しとするか」
「太陽が」
 パルティータが強引に続けると、吸血鬼はニヤッと牙を見せて笑う。
「死に際の太陽なんぞ恐るるに足りん」
「しかしいつもはお休みになって──」
「用事がないから起きる必要もないだけだ」
 終末を数える鐘の音。そんな靴音を静寂の街に響かせて、彼はパルティータとルナールの横を通り過ぎた。
「吸血鬼とは──元来脆弱な生き物だ。そう、お前が言ったように」
 涼しげな紅の双眸が、アマゾネスを見やる。
「吸血鬼は一度死を経験したゆえに変な情を持っていてな……愚かな愛に身を滅ぼす者、心を悩ます者が多い。どんなに冷酷だと言われた奴でさえ、時に儚き命をその手で守ってしまうことがある。それが己の身を滅ぼすことになっても、だ」
 言葉は優しく綺麗だが、彼の不健康な白い顔には意地の悪い笑み。
「自らを滅ぼすものに自分から飛び込む輩もいる。陽光に焼かれることを、杭で打たれることを、クルースニクの手にかかることを、望む輩もいる」
 馬上の金髪女は槍を構えたまま、じっとその吸血鬼を見据えていた。
 彼の言葉の行き着く先を、待っていた。
「だが──」
 ユニヴェールの歩が止まる。
 パルティータとルナール、そして変人アマゾネスの向き合った調ちょうど真ん中。
 そこで立ち止まって彼は騎馬隊を見まわし──言った。
「私をそんなやつらと一緒にされては困る」
 刹那、彼の歌うようだった口調が一変し、流るるは低く美しい呪詛のような声音。
 ……甘美な毒。
「この私の領内で、貴様らのような輩が好き勝手できると思ったか?」
 紅の目が意志を持って見開かれ、白金の騎士達をじわりじわりと射抜いてゆく。
「太陽さえ私を滅ぼせぬのだ。クルースニクも私を滅ぼせぬ。貴様らにも滅ぼせぬ。それでも死にたければかかってくるがいいさ。──だが、容赦はしないぞ。誰かひとりがその槍を私に突きつけたなら、全員この場で死んでもらう」
 騎士たちの額から頬へと、幾筋もの汗がつたった。
「地獄を見てみるか? 調度いいかもしれんぞ? 人間は一度地獄を見なければ大きくなれんのだ」
 麗しき黒の吸血鬼が、黄昏のその時を支配している。
 何十もの騎馬兵が、たったひとりの男に圧倒されていた。
「声が出ないだろう? 今お前たちの頭には私の声だけしか響いていないだろう? 手も足も、自らの意志では動かせまい? 今お前たちの身体を支配しているのは私であって、お前たちではない。──分かるな?」
 光溢れる静かな戦場。
 そして、漆黒の翼を広げる如くユニヴェールがばっと両手を広げ、声高に令を発する。
「我がしもべたち! 槍を空へ掲げよ!」
 瞬時、迷い微塵なく、乱れひとつなく、騎馬隊がその穂先を突き出し頭上へと構えた。
 美しく冷酷な刃物の光が、無数の金色に輝く。
 その者達の目は死んでいない。自らのしていることを自覚している、焦燥の目がそこに並んでいる。
 しかし彼らはユニヴェールの言葉に逆らえないのだ。どうしようもなく彼らの身体は、吸血鬼の言葉のとおりに動く。
「…………」
 背筋に寒気の走る、壮観な眺めではあった。
 闇よりの魔から人の世を護るために組織されたはずの精鋭が、抵抗ひとつできず魔に喰われているのである。
 一刃交えることも叶わず、負けている。
 たったひとりの吸血鬼に。
 陽光のもとに立つ、吸血鬼に。
「良い子だ」
 ユニヴェールが穏かに手をおろし、片手をあごにやる。
「判断はお前に任せよう、女」
 唇を噛みしめ、物凄い怒りの形相で彼を睨んでいる女騎士。
「お前は私の支配下から外してあるはずだ。……お前が戦いを望めば、可愛い部下たちは互いに槍を奮って皆殺し。お前が撤退を望めば、不問に処す」
「……撤退だと!」
「私は、お前ら全員にここで死んでもらってもいっこうに構わんよ。冷たく、暗く、孤独に満ちた凍れる大地の底へ──行ってみるか?」
 シャルロ・ド・ユニヴェール、その死せる鋭敏な顔つきに、更なる影がさす。
「聖なる死を被ったからと言って、神が光へ導いてくれると思ったら大間違いだぞ。神は見ているだけで動きはせん。その命の炎が消えた時、貴様らは灯火ともしびなき闇に放り出され、そして初めて気が付くのだよ。万物の起源は闇であり、神ではないのだとな」
 饒舌な役者であった。あらかじめ、台本が書かれていたような。
「どうする。選べ」
「…………」
 女が、じっと虚空を見つめた。
 猪突猛進の馬鹿女のようだが、これだけの騎士団を率いるからには、相当の身分であるか腕なのであろう。何しろ、女である身では騎士という地位を得ることすらほとんどあり得ないことなのだから。
「……我が名はヴィスタロッサ。この借りは必ず返します、暗黒都市の影なる王──シャルロ・ド・ユニヴェール」
 彼女はそう言うと、馬を数歩退かせた。
 と同時に騎馬隊の掲げていた槍が降ろされる。
 吸血鬼の支配が解けたのだ。
「暗黒都市がいつまでも優雅にしていられると思わないことね。ヴァチカンは幾重にも網をめぐらせて──」
 表情のない紅の瞳を一瞥し、彼女は馬の腹を蹴った。
 言葉は途中で途切れ、舞い上がる砂塵とひづめの音にかき消される。

 パルティータが見上げれば、空はようやく薄紫。まだ色の薄い月が彼方に昇ったところであった。


◆  ◇  ◆


「ルナール。よくも私を騙したな」
「とんでもなーい」
「確信犯だろうが。お前ははじめからあの女がクルースニクでないと踏んでいた。だが、私には間違いなくクルースニクだと伝えた」
「手違いです」
 バターでソテーされた様々な貝をつつきながら、ふたりは飽きもせずに同じ議論を繰り返していた。
 パルティータはそんな得体の知れないものを食べる気になどなれないので、壁際に立って控えているのである。
「私はな、女王陛下以外の者に使われたことはないのだよ」
「使ってなんかいませんってば」
 この吸血鬼を手にするならば、相当の覚悟が必要とされるに違いない。
 飼い主を喰い殺しかねない猛獣なのである。
 一見すると美しく、優しく、穏かに見えるが──こんなにも吸血鬼の弱点を凌駕した吸血鬼など、もはや吸血鬼と呼んでいいものではない。
 ではなにか?
 ──単なる化け物だ。実際には首輪も鎖もない、野放しの化け物。
「猫の丸焼きにしてやる」
「ごめんです!!」
 ぐいっと襟首を掴もうとしたユニヴェールの手をすり抜けて、ぼむっと上がる白煙。完全な夜になり、ルナールが黒猫へ変わったのだ。
 しなやかで綺麗ではあるけれどいかんせんどこかお高くとまっている猫が、椅子の上にちょこんと現れる。
 彼はユニヴェールを馬鹿にするように一声鳴くと食堂を突っ切り、廊下の奥へと消えていった。
「……拾ってやった時はもっと可愛げがあったんだが」
「反抗期でしょうか」
「…………」
 パルティータの言葉に返答はなく、ユニヴェールがナイフとフォークを置いた。
 そして立ち上がり、テーブルの上の小さな燭台を手に取る。
聖なるかな(サンクトゥス)聖なるかな(サンクトゥス)聖なるかな(サンクトゥス)
 口の中で唱えながら、窓に寄る。
 外は、もうほとんど夜だった。
「人は闇を恐れ、闇は人を羨む。だが人は闇に憧れ、闇は人を嫌うのだ」
 完璧な美を誇るその男の顔が、炎に照らし出された。
 光と影に彩られ、冷然とした笑みをのせた吸血鬼。
 理不尽が集まって形を為した化け物。
「答えは出ず、答えはなく、──そして戦いはどちらかが滅びるまで続く。避けられず、終わらない」
「私は闇を恐れもせず、闇に憧れてもいません」
 銀盆を抱えたままパルティータがきっぱりと断言すると、主が面白そうな顔をしてこちらを見た。
「ではお前は何を恐れて何に憧れる?」
「私は貧乏を恐れて、お金持ちに憧れるのです」
「…………。私はこの町で永遠に人間どもの挑戦を受け続けるだろうな。闇を葬らん、暗黒都市を滅ぼさんとする者達の挑戦を」
 主は自分の話を続けてきた。
「もし、……もし私を超えるクルースニクが現れる時が未来に存在するのなら、その時こそが闇の終わり、私の真の死、永遠の終わり」
「滅びたいのでしたら、今すぐにでも滅ぼして差し上げますが」
 満面の笑みで彼女が言うと、ユニヴェールが盛大に吹き出した。
「笑止千万!」
 くるりと身体ごとこちらを向いて、大仰に手を広げる。
「何ゆえ私が滅びたいなどと思わねばならんのだ! クルースニクをいびるのは人生で一番楽しい事なのだぞ!」
「…………」
 おそらくシャルロ・ド・ユニヴェールという男は、本気でそう思っている。
 この男に精神的な裏はない。
 あるのは、物理的に間違っている存在の謎だけなのだ。
「そういえばユニヴェール様。女王陛下のお手紙、一番の用件は何だったんですか?」
「一番の用件?」
「クルースニクのことなんか、どうせ最後の一行くらいだったのでしょう?」
 徹底的に聞き出してやろうと彼女が構えた瞬間、あっけらかんとした返事がやってきた。
「あぁ、それか。求婚だ、求婚」
「キューコンというと、花の……?」
「違う。結婚を求めるキューコンだ」
「誰が! 誰に!」
「私がそんな面倒くさいことするわけなかろうに。陛下が私に、だ」
「宮廷のメイドともなればお給料随分と上がりますよね。待遇も良くなりますよね?」
 パルティータが銀盆を放り出して両手を組めば、ユニヴェールがニヤニヤ薄く笑んでくる。
「飛躍のし過ぎだぞ」
「……まさか断るつもりで!?」
 語尾が裏返る。
 だが、なおさら平然として吸血鬼は椅子に座り、颯爽と足を組んできた。
「私が城に入ったら、誰がここを護るのだ? ──そもそもひとりの女に縛られるのは嫌いな性質でね、私は」
「あぁなんてこと!」
「明日にでも断りの手紙を差し上げるつもりだよ」

 太陽の光さえも彼を滅ぼすには至らない。
 万物の父であり、神の権化であるべき太陽でさえ、法則外の魔物には手出しができないのだ。
 シャルロ・ド・ユニヴェール。
 世界の守護者たる神徒たちの、最初にして最後。そして最大不落の砦。
 だが……。
 さすがの吸血鬼も、まだ知らない。

 手紙を盗み読みしたルナールがさっさと「承諾」の返事を送ったことなど、まだ知る由もない……。



THE END


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