冷笑主義
第2話 死に際の太陽
前編
「ヴァチカンから、腕利きのクルースニクが一匹やってくるらしい」
小さめバスケットに山の如く積まれた焼き菓子。
ぱりぽりと小気味よい音をさせながらそれを次から次へと消し去っていた男が、一通の手紙を斜め読みして言った。
「暗黒都市の女王陛下から、直々の情報だ。……なんと面倒な……」
「いつやってくると?」
パルティータ・インフィーネ──この屋敷のメイド──は、視線だけを男へと動かし、問う。
彼女は特にすることもないので彼の向かいに座り、肘をついた両手にその顔をやる気なくのせていた。
彼らの前では香ばしい芳香を漂わせる紅茶が湯気をたてており、真夜中のおやつタイムを控えめに主張している。
「──近く、だそうだ」
「教皇の命令でしょうか」
彼女が僅かに首を傾げると、彼女の主である男──シャルロ・ド・ユニヴェールは、薄い唇の片端をくいっと吊り上げて皮肉げな笑みを浮べてくる。
そして彼は長くて細い中指でコツコツとテーブルを叩き、夜に支配された窓の外へ視線をやる。
「……表向きはそうだろうが、実際はおそらく違うな。教皇インノケンティウス……何世だ? 六か? 七か? 八か? それとも九だったか?」
「八世です」
「八か、おしかった。……ともかくあの輩には意志なんぞありはしない」
「教皇を動かす操り人形師がいると? ──心当たりがおありなんですね?」
「ないこともない」
シャルロ・ド・ユニヴェール。
世の中をナメきっている澄ました白皙と、几帳面を絵に描いたように埃ひとつ付いていない黒衣。
闇の中から獲物を射抜く双眸は切れ長で、不気味に輝く瞳は紅。
笑えばのぞく尖った牙は、刃物の如く鋭利に光る。
不安と恐怖が混じる夜の闇。
暗黒の帳が降りたその町の一郭で彼を見た者は、戦慄を携えたまま声を震わすだろう。
──吸血鬼、と。
生ける屍、吸血鬼。
闇に生き、世界の暗黒面を掌握するにふさわしき、不気味な異形。華麗なる死人。
しかしその言葉は決して間違いとはならない。
シャルロ・ド・ユニヴェール。
なにせ彼は本当に、優雅な笑みで魔刻に君臨する悠久の吸血鬼なのである。
「そのクルースニクはあなたを討ちにくるので?」
「さぁ。私のことは大昔から向こうもよく知っているわけだし──今、私を討とうとする理由はないと思うのだよ。きっかけが何もない」
大抵の女ならば骨抜きになる目つきで、主が微かな笑い声を漏らす。
「私がやられれば暗黒都市が黙ってはいないだろう。そうなればヴァチカンと暗黒都市の戦は避けられまい? 光が滅びるか、暗黒がこの世を支配するか、歴史はそれだけに絞られる」
「その選択肢、どちらも同じだと思うんですけど……。結局ヴァチカンは暗黒都市に勝てないとおっしゃりたいわけですね?」
パルティータは黒い瞳に白い光を宿しながら、ぼそりとつぶやいた。
主であるユニヴェールは負けを知らない。彼に並ぶ吸血鬼などいない。
だからこそ案の定、彼は涼しい顔でさらりとうなずいてくる。
「当たり前だろう。まず、私がやられることがないからな」
「…………」
時々、彼の中には『誤算』や『間違い』、『苦悩』や『窮地』といったものなんかこれっぽっちも存在していないのではないかと思う。
彼は過去、常人にはそう降りかからぬ人生の大誤算を経験している。
人間を護る者の最高峰たるクルースニクから、狩られる側である吸血鬼への大転落──人間にとって最大の悲劇ともいえる敗北だ。
どんな理由で、どんな経緯で、彼がその奈落に沈んだのかはあまり知られていない。彼も語らない。
しかし当人がそれを悲劇と思っているかは不明なのだ。
どうも、喜劇とさえ捉えている節がある。
「それで、そのクルースニクのお名前は?」
「分からん」
「……それじゃあその手紙、一体何が書かれているんですか」
「…………」
何にしろ、彼に敵う者がいないのは間違いない。
◆ ◇ ◆
光と芸術に満ち溢れ、華やかな宮廷交戦が繰り広げられる煌びやかなこの時代。
教会では祈りと賛歌、立ち並ぶ露店では威勢のよい掛け声、広場では陽気な女たちの笑い声と歌声。そして通りを行き交う高貴な馬車。
それを支配する中枢は遥かなるローマ、そこに鎮座するヴァチカン教皇庁である。
俗世の覇権争いは神聖ローマ帝国やフランス王国を基底に各国間で行なわれているのだが、その俗世全てを喰わんとしている闇に抗すことができるのは、ただヴァチカンのみ。
正確にはヴァチカンが極秘に飼っているクルースニク──吸血鬼始末人、のみ。
大いなる太陽が地平に沈み、飾りなき黒が世界を染める夜ともなれば、人々は家に閉じこもり堅く門扉を閉ざす。
栄光に代わって魔が支配する、夜。神と人の謳歌は死に絶え、不可視の恐怖とざわめく異形が酒盃を交わす。
そしてヴァチカンと対をなして闇を統べる中心は、暗黒都市ヴィス・スプランドゥール。“華麗なる悪徳”の名を戴き、巨大な赤い月が架かる魔都。
フランス王国南部、パーテルという町の背後に広がる黒い森のどこかに入り口はあり、見えない都市は広大かつ豪奢に栄華を極めている。
そしてその黒い森の入り口に、静かな睨みをきかせて屋敷は建っているのだ。
通称ユニヴェール邸。
暗黒都市の番犬、妖しく強靭な吸血鬼の屋敷。
そこには主たる吸血鬼がひとり、メイドがひとり、そして黒猫が一匹住んでいる。
「ねぇルナール、あなたは赤と緑とどっちが好き?」
「情熱の赤」
「じゃあ緑にするわ」
「…………」
パルティータは、後ろから不満げな視線を投げつけてくるでっかい黒のかたまりを無視して、それを手にとった。
キャベツ。
「……パルティータ、最初から素直ににんじんが好きかキャベツが好きか聞いてくださいよ」
その言葉を聞いて、パルティータはひたとソレに向き直る。
ソレ──通称ルナール。自称亡国の王子。
腰まで伸ばされた艶やかな黒髪、ユニヴェールにやや及ばないが、高い部類に入る背丈。
ぼーっとしているようでいて隙のない不思議な顔つきと、道化の如く描かれた奇妙なアイライン。
おまけに軽く羽織った足首までのローブも、中に着込んでいる軽装の剣士服も、全てが黒。黒。黒。
ここまで黒でそろえられると、いい加減うっとおしい。
そのうえ、どこぞの魔女にかけられた魔法でもって昼間は人間、夜は黒猫ときたもんで、見かけから中身まで不信極まりない男である。
「じゃあ聞くけど、にんじんとキャベツどっちが好きなわけ?」
「両方嫌い」
「でしょ」
「…………」
してやられたとばかりに天を仰ぐルナールを余所に、パルティータは立ち並ぶ露店をぐるりと見回した。
陽が高い時間帯のパーテルの町は実に華やかである。
どこからともなく香ばしいパンの匂いが漂って、おまけにあぶった鳥や煮込み野菜スープをあちらこちらで売っているのだ。
子どもも大人も声高で、夜を忘れている。
それは昨夜暗闇に身を縮めた分、太陽の加護ある今のうちに手を伸ばし背を伸ばし、動いておこうという無意識か。
主、ユニヴェールは言っていた。
「人は月のもと“生と死”を学び、太陽のもとそれを忘れるのだ」、と。
「でもパルティータ」
ルナールがカゴの中身をのぞき込みながらぼそぼそと言ってくる。
「料理は幽霊のおばちゃんが作ってくれるんでしょう? 貴女が勝手に食材集めちゃっていいんですか? ……こんなテキトーな……」
彼が右手でつまみ出したのは網の中に大小様々種類様々に詰め込まれた“貝”。左手でひっぱり出したのは、大事に包まれたやや黒コゲのカエル。
「いいのよ」
彼女は、名も知れぬ毒々しく真っ赤な果物の品定めをしながら言い切った。
「作るのは私じゃないんだから」
「……カエル食べるのは誰ですか? まぁ猫の僕に“狐”なんて名前を付けるくらいの貴女ですからね、大して驚きませんけど」
「だってあなた本当の名前忘れちゃったんでしょ」
「…………」
答えの代わりに衣擦れの音が返ってきた。
分が悪いと悟ったルナールが背を向けたのだ。
が、彼はすぐに楽しそうな声音でささやいてくる。
「パルティータ、貴女何か悪いことやらかしました?」
「……特になにも。今まで模範的な人生を送ってきたつもりだけど」
「本当ですか〜?」
ルナールが心弾ませる時は、いつでも凶事がやってくる時である。
パルティータは眉を寄せて彼の視線の先を見やった。
「……そういうあなたは何もしていないわけ?」
「特に何も」
「じゃあアレは私たちとは無関係なんじゃない?」
「思いっきりこっちを見てるような気がしますよ?」
「気のせいということにします」
彼女は断言。
しかし世間はそれを許さなかった。
世知辛い。
「そこのふたりっ! 背の高い黒男!……お前よお前! 気味悪い化粧したお前! そう、お前のこと」
雑踏にはた迷惑な大声が響く。
ルナールがやるせなくなって自らを指差したのか、ソレは満足げにうなずいていた。
「女! お前もよ! 灰色のメイド! 黒髪の不健康そうなお前だってば! 逃げても駄目、止まりなさい!」
無視して(ルナールを囮にして)人波に紛れ込もうとしていたパルティータだが、さすがにそこまで名指しされたのでは紛れることも叶わずに渋々立ち止まる。
「ルナール、何なの、あれは」
「僕に聞きますか?」
人々はざざっと遠巻きに。
ぽつねんと残されたふたりに相対しているのは、ひとりの女騎士だった。
白馬に乗った、騎士。
──いや、違う。
「私にはただの変人に見えるわ。空想と現実の境目がわからなくなっちゃった人よ」
「賛成です」
一言でいうならばその女は、“女兵士”。
くるくる綺麗に巻かれた金髪に、馬の尻尾のようなふさふさがついた兜。
白地に金糸縫いの豪奢な騎士服を上から護っているのは、白金の鎧。
そして彼女は左手に磨き込まれた槍を持ち、右手をびしっとこちらへと突きつけている。
パルティータが逃亡を計ったのは、クルースニク関係者だけが身に帯びることを許された紋章が、その兜の前面に刻まれているから……という理由もないわけではない。
──交差する剣を背負った十字架……その紋章。
「あの女がユニヴェール様のおっしゃっていたクルースニクだったらどうしましょう」
平らな視線で見つめたまま、パルティータは言う。
するとルナールから疑問符が返ってきた。
「どういうことですか?」
「女王陛下からお手紙がきてね、腕利きのクルースニクが一匹くるって」
「へぇ」
男の目がきらりと輝いた。
「お前たちからは邪悪な匂いがします!」
ふたりのヒソヒソ話を無視して、朗々たる声で女が宣言してくる。
その背後には騎馬兵らしき者たちが総勢十数名控えていた。
「闇に住まう悪魔ども! このわたくしが成敗します!」
「……アンタ誰ですか?」
ただでさえ細い目を更に細くして、ルナールがつぶやいた。
「お前たちのような輩に名乗る名前はないっ!」
女が胸を張り馬上で槍を一閃させると、やじ馬からは「おぉ〜〜!」というどよめきと、まばらな拍手が起こる。
──アホらしい……。
パルティータが愛想のない顔を背けて、嘆息すると、斜め頭上からまたもや楽しそうな声が降ってきた。
「確かに、真っ黒な僕と陰気な灰色の貴女。どう見てもアヤシイですよね〜。目を付けられてもおかしくありませんよね〜」
「……だけどね、私もあなたも一応人間でしょ」
「吸血鬼に血を吸われても吸血鬼にならない女と、夜になると黒猫になってしまう男。人間だと証明するのは難しいですよ」
この男には、証明する気なんぞない。
不気味な道化師顔が、にこにことこちらを見下ろしていた。
「賭けてもいいです。あの女はクルースニクではありません」
「……で?」
「僕に任せてください。あれを追い払い、かつ余興も楽しめるはずですから」
「…………」
止める理由はない。
不幸はルナールが好きだ。ということは、とりあえずルナールが主体的に動いていれば、不幸はまずルナールに降りかかるに違いない。
「……好きにすれば」
この一言が、彼女でさえ戦慄する事象を目の当たりにすることとなろうとは、誰が今知ろう。
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