冷笑主義

第21話  魔女 vs メイド

後編




 長い長い廊下の先に、ソテール・ヴェルトールの後ろ姿が見える。
 彼と肩を並べて歩き去る影は、クレメンティ。
 こちらに一言もなく講堂を出て行った彼らを、フリードは追うのをためらっていた。
 いつもそうだ。
 いつも、この距離は不安定だ。
 ソテールという人は、近付いたかと思うと遠ざかる。フリードの保護者でもあり師でもあるはずの彼は、他の誰よりも近いはずだ。
 それなのに、時々誰よりも遠くなる。
 血の鎖で繋がれているパーテルの吸血鬼の方が、近く感じることがある。

「結局戻ってきましたね」
 扉の前で立ち尽くすフリードを置き去りにはできないのか、壁に寄りかかったカリスがミトラに話しかけている。
「戻ってくるさ。ヴァチカンの内輪揉め程度で済ましておかないと、世が乱れる。世が乱れれば真っ先に痛手を負うのが民だ。それくらい分かっているだろう」
「いっそのこと自分が王様になってしまえばいいのに。今の王たちよりはマシでしょうよ」
 ソテールがヴァチカンを出たら、各国が争奪戦を始めることは想像に難くない。彼がどこに居場所を決めるかで歴史の流れが大きく変わる。
 それこそ、望めば王にさえ。
「ユニヴェールがそれを狙っているようだから、あえて避けているんじゃないか」
「……それを狙っている?」
 カリスが壁から背を離した。ゆったりとした法衣ではなく白い隊衣に身を包んだ神父は、一段と怜悧だ。
「ユニヴェールが、ソテールをどこかの王にしたがっているということですか?」
「…………」
 フリードもソテールから目を外しミトラへ視線を戻した。
「あの吸血鬼が何を考えているのか本当のところは分からんし、それがどこまで本気なのかも分からん」
「ユニヴェールの構成要素に“本気”があるかどうかからの話になりますもんねぇ」
 茶々を入れるカリスをひと睨みして、ミトラは続ける。
「しかしアレは死んで復活してからすぐに王を擁立する行動を起こしている」
「ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世のことですね?」
 誰の足音も消え、三人だけになった廊下。
 潜めた声音も少し大きく反響する。
「そりゃ、あの人(フリードリッヒ)がインノケンティウスに張り合えるくらい強大になったのはユニヴェールの暗躍もあったでしょうが……」
「ユニヴェールは明らかに皇帝の背後にいて、糸の一端を握っていた。だがあの結末がアイツの意図したものなのか、失敗だったのか、分からない」
 どこまでも教皇と対立した皇帝フリードリッヒは、しかし教皇を始め様々な利害を抱える諸派を相手に決定的な勝利を得ることができなかった。そしてイタリアで疲弊し尽くし、息子に反旗を翻され、教皇に皇帝位を剥奪され、対立皇帝を次々と立てられ、途絶えることのない戦いの中で死んだ。
「ユニヴェールがフリードリッヒを使って散々遊んだ結果なのか、フリードリッヒがユニヴェールの過度な期待に応えられなかった結果なのか、ですか?」
 パーテルの化け物の流線型な性格を(かんが)みるに、どちらもありうる。
 だが。
「遊びたいんだったら、王なんていくらでもいるんじゃ……」
 思わず()らしたフリードに、ミトラが深くうなずいてきた。
「そうだ。歴史をかきまわしたいのなら、王なんてわざわざ新しく立てる必要が無い。あんな奴ら元々倫理なんぞ糞食らえの連中だ、例え相手が暗黒都市の番犬であってもその後ろ盾を欲する奴は少なくない。そういう奴らをひっかけて国のひとつふたつ焦土にするなんざ、ユニヴェールの好きそうな遊びだろう」
 採光窓の多いこの廊下は、屋内だというのにとても明るい。
 天から突き刺さる光はガラスのわずかな歪みに揺れ、角が丸くなって降り注ぐ。
「すべて俺の想像に過ぎないが」
 ミトラの言葉が歴史の大河にまたひとつ煤けた塵を落とした。
「ユニヴェールは王たるべき王を探している。その候補のひとりがソテール・ヴェルトールだ」
 フリードリッヒを潰したほどの吸血鬼の要求は、何のために。
「あいつは、自分の手で神の国に勝る完璧な国を創りたいのかもしれない」
 もちろん、神の鼻を明かすために。
 そして人に選ばせるために。
 神が与えた混迷の地、吸血鬼が創り上げた楽園。
「帝国はフリードリッヒを失ってから迷走に迷走を重ねた」
 ホーエンシュタウフェン家が失墜したことに始まる大空位時代(インターレグナム)の到来は、各地に戦火をもたらした。農民までが駆り出され無人になった田畑は荒れ、傭兵を雇う領主の金は底を尽き、破壊された町々に立ち直る気力は無く、棄てられた村を棄てる女子供には行くあても無く。
「ユニヴェールが新たに王を見つけ、しかし奴の望みが叶えられなかった時、世界にはまた同じだけの混乱が訪れるかもしれない」
「ソテールはそれを避けようとしているというわけですか?」
「教皇の下にいる限り、あいつは王にはなれないからな」
 それ以前に、あの吸血鬼が平和と安寧を末永く愛するとは到底思えない。
 すぐに飽きて壊しにかかるに決まっている。
 あるいは、壊すために創るのか。
「…………」
 カリスがソテールの消えた方をぼんやりと見やり、ややあってこちらを振り向いてきた。
 伏せがちなペリドットの双眸はソテールのサファイアよりもユニヴェールのルビーよりも柔らかく、マスカーニが散りばめている真珠よりも硬い。
「何であるにしろ、それはユニヴェールにとっては数ある人生薔薇色計画のひとつに過ぎないでしょう。そもそも彼には目的も悲願も決意もありませんから」
 ため息で窒息しそうになるカリスの空白に、
「それはそうだな。だから疲れるんだ」
 今度はミトラの嘆息が挟まれた。
 野望を抱いて姦計をめぐらせ向かってくる輩の相手をするのは、実は容易い。結局はその野望を潰せばいいだけだからだ。
 明確な目的のない悪戯に翻弄されることほど疲労するものはない。
「なんて不毛な仕事なんでしょうねぇ」
「選んだのはお前だ」
「そんなの分かってますよ。言ってみただけです」
 カリスの言葉に棘は無いが、色も無い。カッサカサだ。
「さしあたってどうしましょうか。我々の隊長はパリス殿になってしまいましたが──ねぇ? フリード」
 神父の最後の呼びかけが、いきなりフリードに向けられた。
「はい。……え?」
「貴方は、我々がどう動くべきだと思いますか?」
「…………」
 フリードはカリスの視線から顔を逸らし、廊下の先を見た。
 どうしたいか、とは訊かれていない。
 どうすべきか、と訊かれているのだ。
「私やミトラは経験があり過ぎる分だけそれに頼ってしまいますから、年少者の意見もバカにしたものではないんですよ」
 軽快な自嘲が混じる笑いでカリスがくつくつと肩を揺らす。
「え、えぇと、まずはパリス隊長のもとで優等生をしていた方がいいかもしれません……よね。でもソテール隊長の動きからは目を離さないようにして……」

──あ。

 促されるまま声に出すと、身体の奥に広がっていた霧が怖いくらい晴れてゆくのが分かった。
「パリス隊長とマスカーニ枢機卿がデュランダルを強く使い勝手よくしたがっているだけなのか、それとも他に考えがあるのか、分かりません」
 そびえる山々の谷間から湧く霧、頂を覆い隠す厚い雲、それが天から刺す光槍によって音も無く消散するように、(ひら)けた景色が目の前に現れる。
「隊長の交代で暗黒都市が動くのかも分からないですし、ソテール隊長が神父クレメンティとふたりだけの分室を作った狙いも分かりません」
──そういうことか。
 ようやく分かった。
 ソテール・ヴェルトールがどれだけ遠くに行ってしまったように見えても、いつもカリスやミトラが呑気にしている理由が。こちらが苛立つくらい落ち着いている理由が。
「今は四方八方分からないことだらけなので、状況を見極める必要があると思います」
「そうですね。私もそれに賛成です」
 拍子抜けするほどあっさりとカリスが同意してきた。
「ミトラはいかがですか?」
「異論は無い」
 重要なのは距離ではないのだ。物理的な距離でも、精神的な距離でもない。
 デュランダルがまずすべきこと。それは、ソテール・ヴェルトールを疑わないこと。心配をしないこと。何もかも預けきること。彼の何もかも受け入れること。
 普通の人間であればこんな信頼は重圧以外の何物でもないだろうが、ソテール・ヴェルトールは普通ではない。そして第一、彼の資質を疑ってはいけない。
 その中で、自分がどうしたいかではない。どうあるべきか、だ。
「ではそうしましょう。しばらく静観。なりきり優等生。──いいですね?」
 線の細い白皙に表れる、厳格な教師の微笑。
「はい」
 ともすればソテールへの丸投げ。だがそれがなかなか難しいのだ。この老師ふたりでさえ愚を犯したほどなのだから。
「……なんですか、気持ち悪い」
 顔がにやけるのを抑えられない。
 思い切り笑いたかった。
 今なら、パリスにでもマスカーニにでも、素直な心で挨拶が出来そうな気がする。
 たぶんそれは気がするだけだと思うけれど。
「フリード?」
「いえ、大丈夫です」
「そうですか? では……正義の味方らしく、ローマの見回りにでも行きましょうか」
 区切りをつけようと大きく息をつくカリスに、
「ひとつよろしいですか?」
フリードは制止の声をかけた。
「見回りの前に、ひとつお話しておかなければいけないことがあります。パリス隊長のことで」
 彼の中身が知れたところで自分たちができることに変わりは無いけれど、カリスやミトラを真に信頼するならば、共有する必要がある。
「改まって、何です?」
 神父の目が吸血鬼始末人の色を帯びた。
 が、彼は思い出したように自分の手を見下ろす。
「でもその前に、この手枷を外してくれる人を探してもいいですか?」



◆  ◇  ◆



 どこをどう通ってきたのかはもう分からない。
 わずかな炎が壁際に揺れる城の廊下はどこもかしこも過剰な装飾が施され、映像として覚えようとするとあまりの情報量に頭が拒否をする。
 しかし影が影を生み、闇が織り重なる道のりは、厳かで神聖でもあった。
 人ひとりいない聖堂に注ぐ白い陽光と、静寂に沈む城を支配する赤い月の夜、余計な情念が排除された空間は波の無い湖面のごとくただ美しい。

「パルティータ・デ・コンティ・ディ・セーニ、と申します」
 道程の余韻を引きずって、彼女は眼前の魔物たちに軽くお辞儀をした。
 部屋の入り口の真正面、大広景の窓を背景に表情無くソファに腰をかけている白い女がひとり、少し離れて悠然と座っている老将がひとり、女の横に立つルナール、じいさんの後方に控えるウォルター・ド・ベリオール。
 フェンリルは、案内してくれただけでさっさと消えてしまった。フランベルジェが同行を許されたのも控えの間まで。この部屋には通してもらえなかった。
「本日は、私の下僕を返していただきに参りました」
 メイドは女と老将の間へ視線を据え、単刀直入に告げた。
「……ほう」
 うなずきながら老将が手で着席を促してくるが、無視をする。立っていれば彼らを見下ろすことができるのだ、わざわざ同じ目線になる必要があるだろうか。
「下僕とはこのルナールのことかね?」
「他に誰が?」
 黒髪の下で彼女は眉を上げた。
「もちろん、これを彼が望んだのならば私は大人しく引き下がります」
 しかし、
「えぇぇぇー! パルティータが了解しているんだからあきらめろっておっしゃいましたよね? 総隊長」
 喰い気味にルナールが声を上げた。
「ユニヴェール卿もパルティータも僕の宮仕えには大賛成だって! 面倒臭いのは嫌だって言ったのに、もう決まったことだって! おっしゃいましたよね!?」
 黒尽くめの猫剣士は老将──つまり近衛隊長の白狼だろう──を精一杯睨みつけているが、身体には一切の動作がないのが絵として面白過ぎる。
 剣士のくせに動きを操られているのかもしれない。
「ルナール」
 パルティータが唇に人差し指を当てると猫が黙った。
 ゆっくりと腕を下ろし、台詞を白狼へと向ける。
「私はまだ許可していません。それどころか打診さえきていません。主は、私に話を通すように言ったそうですが」
「あぁ。それは今しがた聞いた」
 重量感のある好々爺。底から響くような低音は、獣の唸り声を想わせる。深遠な雪の森に滑り潜む、巨大で、凶暴な。
 ……きっと肉球も大きい。
「行き違いがあったようでな。まだ調べがついていないが、誰かがどこかで伝達をさぼったんだろう」
 申し訳ない、そう言って両膝に手をつき、いとも簡単に頭を下げてくる。
「では」
「だが」
 静かな声は重なった。
「──どうぞ」
 続きがあることも、続きの内容も、予想の内だ。
 パルティータは、神父が民衆を見下ろす時の半眼で白狼に道を譲った。
「君たちの言う“ルナール”は、君たちが思っているより暗黒都市にとって重要なんだよ、お嬢さん。この男は、時代に埋もれた古屋敷ではなく私の隊にいなくてはならない」
「貴方の隊に? こちらのお婆様の要求ではなく?」
 パルティータはゆっくりと視線をスライドさせる。
 魔女狩りを推奨している異端審問官たちがこの女を見たら、果たして捕まえて火にかけることができるのか。
 身にまとっているものは決して華美ではなく──むしろ城にあっては質素すぎる──、飾っているのは髪を彩る真珠のみ。それでも女の存在感は白狼に劣らず、白の衣から透けるしなやかな肢体は、絵描きたちがこぞって掲げるどの女神よりも神々しい。
 吸血鬼アダマスの艶かしさも妖しさもこの魔女は備えていないのだから、審問官たちはまず魔女か女神かの議論を始めるだろう。
 バカバカしい。
「パルティータ、こちらは“ルナール”の正式なご主人にあたる、アイエイエー島からお越しいただいた魔女のキルケ殿だ」
 どこかから心の声が筒抜けたのか、ベリオールが慌てて後ろから割り込んでくる。
「我々は敬意を表してドンナ・ファルコーネとお呼びしている」
 いつも菓子を持ってご機嫌取りをしてくる輩に言外に怒られているなんて、屈辱だ。
 パルティータはあごをひいて黒騎士にガンを飛ばし、言った。
「で?」
「…………」
 騎士は何かを言いかけ、飲み込む。
 そして次瞬、パルティータの視界の端で何かが光った。

 咄嗟に灰色のメイド服を翻し、すりこぎを取り出し、首を薙ごうとする剣身を受け止める。
 剣を振るう男の顔が「ごめんなさい〜〜〜」と言っている。
 しかし問答無用。
 空を鋭く裂いてさらに振り下ろされる白刃を交わすと、彼女は男を思いっきり殴りつけた。
「!?」
 重い衝撃音と殴られた本人のわずかな悲鳴がして、ルナールだった塊がどさりと絨毯の上に落ちる。
「ルナールの剣を受けてもなんともないなんて、すごいすりこぎ」
 最近の暗黒都市の通販はお値段以上だ。
 彼女が軽い感動に浸っていると、
「これが正式な主人ということだ」
 魔女キルケが初めて口を開いた。
 斜めに脚を組み、ひたとこちらを正視してくる。
「お前は逃げ出した猫を拾っただけに過ぎない」
 まるで異端審問官が判決を下す時のような、決定的かつ無意味な宣言。
「猫にしたり、意思に反することを強制させたり? それが主人だとおっしゃる」
 パルティータの冷笑の下、深い紅の絨毯の上でルナールが動き身を起こした。
 しばしうつむいていた男の長い黒髪がかき上げられ、珍しく嫌悪の露わになった目が魔女を射る。
「たかが一教皇の末裔の出る幕ではないということだ。お前の生まれる遥か昔から道は敷かれているんだよ」
「今は亡き神聖ローマ帝国へ向かって?」
 ルナールからうめき声が漏れる。
 不気味な化粧のある顔が何かを耐え、口端を噛む。
「いいえ。残念ながらその道は一方通行ですね」
 パルティータが自問自答して、ルナールが再び剣を取る。
 流れるように鮮やかな立ち上がり様の一閃。
 だが銀色が閃く前に、躊躇なく蹴りを入れる。
 容赦なく顔面を捉えたブーツを下ろすと、あわせてまた男が崩れる音がした。
「過去は過去。道の先は新たな帝国」
 魔女の眼差しが昏倒した剣士へと落とされる。
「この子には自信がない。そして臆病。一歩踏み出すのにも常に警戒している。あまりにも偉大な祖父と、それに対する劣等感に潰された父親を見て育ったから」
 優しいのか渇いているのか分からない口調。
「しかし力はある。祖父に並び超えることができる」
 内包する微熱に語尾が強くなってゆく。
「民だって、私利私欲に走りロクな政治もできず、戦争ばかり、負けてばかり、日和見(ひよりみ)な為政者のもとで四苦八苦するよりも、強力な主が君臨している安定した国の方が良いに決まっているだろう」
「そんなに民が可愛いのなら、ご自分で国を創ればよろしいのでは?」
「私は民の暮らしに興味は無い」
 魔女の目は曇った硝子で真意を読み取ることはできないが、やはりこの女はユニヴェールの歌うところの“過去よ鮮やかに甦れ。栄光よ再び”を漂わせている。
 これで人違いだったら大笑いだ。
 暗黒都市の勘違い、キルケの大嘘。
 中枢まで巻き込んでおいて、ルナールはホーエンシュタウフェンの血とは全く関係ありませんでしただったら、世紀の大喜劇。
 一体、誰が誰に何を謝ることになるのか。
 パルティータが妄想で大笑いしている間にも、魔女の言葉は続く。
「ただ、この子は上に立ったが最後、弱い者たちのことを考えずにはいられないだろうね」
「税さえ納めていない方が、まっとうな民に対して上から目線とはご立派なことで」
 ちなみにユニヴェール家はきちんとフランスへ上納している。
「お前には、彼が皇帝となることを阻む権利は無い」
「…………」
 この、足蹴にされて転がっている男が、皇帝。
 まじまじと見下ろしてから、パルティータは魔女へ目を戻した。
 シチリアの風とエーゲ海の潮をまとった古き魔物。伝承の時代から世界に住まう、化石。
「しかし私も彼と労働契約を交わしているので、筋は通していただかないと今後の悪しき例になってしまいます」
 取り出した契約書をひらひらと振る。
 もちろんそんなきちんとした間柄ではないので、テキトーに作った偽物だ。公文書偽造。
 無言で手を差し出してくるキルケ。
 見せる前に改めて面々を見渡すと、さすが白狼は深く背を預けて泰然自若、ベリオールの顔には皮肉な好奇がのっている。
「大儀の前にあっては意味も無い」
 受け取った紙を眺めていた女の声には嫌味すらなく、さも当然とばかりに白い指がびりびりと音を立てて契約書を破り捨てた。
 真っ二つになった紙がはらりと絨毯に落ちる。
 引き裂かれた黒蝶の紋章。
「……?」
 白狼がわずかに身を乗り出し目に留めた、紙の下部に刻まれ同じく引き裂かれた紋章は、烏。
「これは──」
 老将の顔が上げられ疑問が音になる瞬間、パルティータの目の奥が(わら)った瞬間、それは幽鬼のように現れた。

 メイドと化け物たちの間に立つ、細身の若い男。
 くせのある髪、手には抜き身の剣。生気のない肌、光のない双眸、口元からのぞく尖った犬歯、鋭利に伸びた爪。
 着古し過ぎた外套含め、全体に褪せた青銅色がかった──どうみても魔物。しかも自我のない方の吸血鬼。

 高貴なる魔物たちがそのすべてを認識する前に、吸血鬼が跳んで魔女に斬りかかった。
 目を見開いたままのキルケが寸でのところで避け、喉元めがけて突き立てられる切っ先を我に返り飛び出したベリオールが払う。
 うす暗い幻想の中で、生々しく脳に刺さる高い剣響。
 乱雑に振るわれた爪が騎士の顔をえぐり、その腕を追ってイブリースが黒い弧を描く。

「ルナール!」
 注目が逸れた隙にパルティータは足下の黒尽くめを蹴っ飛ばした。
「動ける?」
 ぴくりと動いた男が次には飛び起き、こちらを見てうなずいた。
 やはり、あまりの想定外には魔女も術を維持できなくなるらしい。
「控えの間にフランベルジェがいるから、早くここを出なさい!」
 白狼が動く前に!
「早く!」
 急かすと、喧騒を見、虚空を見、彼は弾かれたように駆け出す。

 ルナールが逃れたその残影を白狼が斬り、「フリードリッヒ!」キルケの叱責は拒絶する扉にぶつかり割れる。
 そしてほぼ同時にベリオールが青い吸血鬼の胴を斜めに断ち斬った。
 化け物は、断末魔の悲鳴さえあげずに灰となり、ソファに散る。
 まるで、太陽に焼けた吸血鬼の如く。

『…………』
 沈黙の意味はそれぞれが違う。
 扉を背に佇むパルティータの横で、真っ先に動いたのは白狼だった。彼は剣を鞘へ戻すと、自らの席に戻り腰を下ろした。
 魔女は口を引き結んで灰の山を弄び、ベリオールは魔女の真後ろで呆けた顔を繕いもせずこちらを凝視している。
 誰も言葉を発しなかったのは、全員がそれ(・・)の来訪を感じていたからだ。
 些末をすべて包み込む夜の城が、薄くまぶたを開く。抱え切れない傲慢な闇に気圧されて。
「──失礼」
 ほどなくして扉が軽く叩かれ、こちらの返事も聞かずに男がひとり入ってきた。
「私のメイドがこちらにお邪魔していると聞いたもので、迎えに参りました」
 パルティータは振り返りもせず、正面の大窓を見やったまま。
「そこにおるよ」
 硝子に映っているのは(くら)く華麗なる暗黒都市、そしてしらじらしい笑みを浮かべた主の姿。
 黒衣が城と同化している。
「人間風情がこの都市に入ってはいけないと言い聞かせてはあるのですがねぇ」
 ゆっくりとこちらへ近付いてきながら、白狼に向けられた紅は楽しげな光を宿し、しかし彼で留まることなく魔女の傍らの死灰へ流される。
「ご迷惑をおかけしたようで」
「──いや……」
 老将の言葉が後続を失い空転した。
 それを見て紳士よろしく微笑んだ吸血鬼の手が、パルティータの肩に置かれる。やんわりと空気が動き、馴染みのない香りが過ぎた。誰か、他人の香水。
 メイドは主の次の言葉を待たずして言った。
「ルナールを返していただきありがとうございました。あれでもユニヴェール家には必要な番猫なんですよ」
 ビバ・既成事実。
 そして彼女はまわれ右。
 器用に動きについてきた主の手に押され、退出を促される。
「キルケ」
 あぁそうだ、というわざとらしい前置きと共に背後で主が魔女を振り返った。
「貴女の帝国は、ずっと昔に終わったんですよ」
 それは、ゆるやかな情がのせられた白皙が言ったのだろう。虚無の深淵が世界を欺くために手にした仮面。表層は柔らかく穏やかだが、眼底は冷たい空洞。だがそれは人間の絶望とは異なるもの。
「そうだ、お前が殺したんだったね、ユニヴェール」
 無表情を装う魔女の呪詛は、扉の軋む音を隔てて聞こえた。



 長い長い廊下は、幾多の過去を刻んでいる。
 腹に謀略を抱え歩いて行く魔の貴族たち、凱旋した騎士たちの血に塗れた喧騒、叫びながら引きずられてゆく罪人、強い者への羨望と嫉妬、弱い者の卑屈と劣等……。
 人間たちが宮廷で繰り広げる寸劇よりも濃く激しく容赦の無い喰い合いは、重い(おり)となって淀んで積もる。窒息するほどにうず高く濃密な、時の記憶。
 ユニヴェール家のメイドはそのど真ん中を帰る。
 その後ろを番犬が歩む。
 暗夜の海を織った黒衣は灯を受けて濃紺に波立ち、底辺の追憶が足下で転がった。
 かつて交わされた声を踏み、歓喜を踏み、誰かの足跡を踏み、涙を踏み、風を起こす一歩一歩が何かを辿る。
 一人と一匹は一言も交わすことなく、視線を交わすこともなく、境界へと帰る。



◆  ◇  ◆



「僕は、これからずっとあの魔女につきまとわれるんでしょうか」
 どんよりと厚い雲を背負ったルナールが、テーブルの上にあごを乗せた。
 フランベルジェの迅速な行動もあり無事パーテルへ帰還できた彼だが、ずっとこの調子である。
「あれはフリードリッヒの右腕だったからな、執着して突き進む可能性はある」
 自分で淹れた紅茶を口に含み、渋くて眉間をつねるユニヴェール。
 何百年経ってもうまくいかないのは、もう才能がないとしか言いようが無い。
「なんだって今更」
「たかだか二百年前のことだ、あの魔女にとっては昨日のことも同然だろうよ。誰かが息を吹きかければ埃は飛ぶ、枯れた想い出は甦る」
 テーブルの中央に飾られた薔薇の葉が、高度を上げた朝陽に色濃く輝いた。ルナールが緩慢に窓のカーテンを見やる。
「たまにはいいだろう」
 ユニヴェールは彼が立ち上がろうとするのを制した。
 耳を澄ませば公衆浴場の呼び込み人の声がかすかに聞こえ、目をこらせば教会へ向かう人影が坂の下に広がる町並みの中で見え隠れする。
 二度と朝を見ることのない同族たちを思えば、贅沢な眺望だ。
「僕は──」
 再びへたれた格好に戻ったルナールが不貞腐れ気味にため息をつく。
「本当に、そのフリードリッヒ・フォン……なんとか」
「バーベンベルク」
「それなんでしょうか」
「知らんよ。暗黒都市とキルケが口裏あわせて共謀しているとも思えんが」
 ルナールは、猫の状態でシャムシールが拾ってきただけなのだから、その出自など知る由も無い。
「僕は皇帝なんかなりたくありません」
「父親はなりたくて仕方なかったものをな。もったいない」
「嫌ですよ。暗黒都市やあの魔女や卿の干渉に付き合うなんて、どう考えても毎日胃痛三昧じゃあないですか」
「お前は自分を過小評価しすぎるんだ」
 パーテルのこの屋敷に帰り着いてから間を置かず暗黒都市から寄越された抗議文を読みながら、ルナールに一瞥をやる。
 すると、下僕は上目遣いにこちらを見返しながら、口の端でふと笑ってきた。
 稀に見る、皮肉げな表情。
「三百年も同じ屋根の下にいるとね、たぶん似てくるんですよ」
 何が、と訊く前に続けられる。
「卿は自分が世界を動かそうとは思っていない。流れの中に杭を打ったり石を投げたり埋めたりするのが楽しいんでしょ」
 そのとおり。
 未来の最前線に立つことはない、それが死者の美徳だ。
「僕もそっちの方が楽しいんです」
「何を言ってる!」
 ユニヴェールは読んでいた紙束を丸めてルナールの頭を引っ叩いた。
「お前みたいな弱腰の奴に世界中が(ひざまず)いている図を思い浮かべてみろ! それだけでものすごく面白いだろうが! お前はそれを放棄するのか!?」
 ちらりと想像するだけで笑えるなんて、こんな素晴らしいことがあるだろうか。
「えーーー」
「えー、じゃない」
 言い置いて吸血鬼は立ち上がり、紙束を暖炉に放り捨てた。
 火は入っていないが、転がしておけば誰かが燃やしてくれるに違いない。
 真面目に読まなくたって次に城へ上がればキャンキャン喚かれるのだ、不快は一度でいい。
「そういえば、パルティータはどうしている?」
「寝てます。熱が出たって」
 ルナールがちらりと上階を仰ぐ。
「剣を向けたのは殴られた2発で許してくれましたけど、またキルケに操られたらと思うと不用意に近づけないんですよねぇ。あの魔女、僕を遠隔操作できるんでしょうか」
「それは……心配あるまい。知らぬ間に保護者が付いたようだし」
 暖炉の上に置かれているサンタ・マリア号の模型を弄りながら吸血鬼が言うと、
「……彼は一体何者なんでしょう?」
 首を傾げてつぶやくルナール。
 やはりこの男は考えが浅くて素直だ。
「やはりあそこに何かいたな? あの場で何があった」
 しまったという顔をしても遅い。
 “彼”と呼ばれる何者かがあの部屋にはいたのだ。そして灰になった。
 しかし自分で発した言葉とは裏腹に、保護者というわけではないとも悟っていた。
 今までだって危ないことはあった。それなのにその何者かがパルティータを救った痕跡はない。つまり何度も何度も激安セールできる代物ではないということだ。
「…………」
 むうと口を曲げてしゃべろうとしないルナールは、おそらくメイド自身が話していないものを自分が先に話すわけにはいかないという腹なのだろう。
「ルナール」
「…………」
 脅しつけても、ぶんぶんと首を振る。
「──まぁいい」
 上着を脱ぎタイを外し、ブラウスとベストの気楽な格好で食堂を出て行こうとすると、鼻をひくつかせたルナールが頬をふくらませてきた。
「僕らが大変なことになっていたのに、卿はどこぞのご令嬢と遊んでたんですか?」
 吸血鬼に向かって、今更。
「腹が減っては戦はできぬと言うだろう」
「戦争だったんですか」
「戦争だな」
 不機嫌な口調で恨みがましい空気を送りつけてくるルナールに、ユニヴェールは意地の悪い笑みを向けた。
「私に対するキルケの怨みは海より深い。次はどんな手を使ってくるか楽しみだな」
「アンタ一体何やらかしたんですか! しかもそれで僕が困るのって何か変ですよ!」
 まっとうな遺憾の意の表明に、吸血鬼は胸元で聖印を切った。
「神の思し召しだよ、ルナール」
「そんなもの信じてないくせに!」
 亡国の皇子がじたばたするせいで、薔薇の花弁が一枚落ちた。



「あの城に人間風情が足を踏み込むからこうなるんだ、愚か者が」
 熱のせいかやや渋面で眠っているメイドは可愛げのない人形のようで、胸の上下を確認しなければ死んでいるようにも見えた。
「あんな空気は毒以外の何物でもない」
 ユニヴェールはひとりごちながら、額にのせている布を変えてやろうと手を伸ばし──
「しかしフェンリル公に連れて行っていただいた時にはあの城はとても澄んでいました」
 いきなり聞こえてきた声にぎょっと手を引く。
「パルティータ、起きたなら起きたと言え」
「いちいち報告する輩を見たことがありません」
 ああ言えばこう言う。
 出かかった嘆息を抑えて彼は改めて布を取り、テーブルの上に置かれた水桶に浸した。
 白い手にまとわりつく液体はひやりと心地よいが、おそらくそれは記憶の錯覚に過ぎない。
「フェンリルは全部蹴散らすからな、無意識に。逆に私はああいうどろどろしたものの仲間だから、あいつらも喜んで寄ってくる。あれは時間に濃縮された感情のようなものだ、ただの人間には耐えられまい」
「じゃあこの有様は結局貴方のせいですか」
 そうとも言う。
 だが分が悪くなるので彼は問いを重ねた。
「インノケンティウスの威光は魔物どもに通用したか?」
「…………」
 ビロードのカーテンの隙間から、光が差している。
 暗がりの部屋を裂くまばゆい一条。
 メイドの長い沈黙に吸血鬼が顔を上げると、
「私の父は、フォリア・デ・コンティ・ディ・セーニと言う名でした」
 若干ニヤついた顔でパルティータが身体を起こしていた。
「セーニの血は父方、母方も曰くつきか」
 布の水気を切り、彼は再びメイドの傍らへと戻る。
 しかしよく考えれば、ヴァチカンへ嫁がされる女にそれなりの地位がないわけがなかった。
 パルティータの止まった歳から考えて、40年程前に何かあったか……。
 司教冠をのせていた教皇はニコラウス5世かカリストゥス3世。コンスタンティノープルが失われて東ローマ帝国が滅亡し、オスマン帝国の侵攻が着々と進んでいた時代。
 カリストゥス3世は現教皇アレッサンドロ6世であるロドリーゴ・ボルジアの伯父であり、彼を枢機卿へ取り立てた張本人だ。
 ……だから何だ。
「手がかりが少なくはないか?」
 言うと、空々しい笑みが返された。
「どうせ時間はあり余っていて暇でしょう」
 それが若い頃のインノケンティウスそっくりで、わずかに眩暈がする。
 パルティータといいルナールといい、自分が殺めてきた者たちの末裔がまだ世界に残り、目の前で一端な口をきいているこの事実。
「確かに。女の嘘と真実を一枚づつ剥いでいくのも男の楽しみのひとつだな」
 吸血鬼は呟いて、メイドのあごを捕らえ唇を重ねた。
 半ば本能的に血の味を求めて深く。

 仮初の命と人の仮面、卵のように割って出てくるのは永遠の空白か、それとも黄色のひよこか。
 そして割るのは聖女か皇子か正義屋か。
 だがそれは、決して閉幕(カーテンフォール)ではない。
 舞台は幕間さえなく続く。かつて“ユニヴェール”が死してなお変質したように──。

 唇を離すと、メイドの半分に眼差しを注がれる。
 既視感のある昏黒(こんこく)の双眸にはすべてを見透かされているようで、冷たい身体が生ぬるく弛緩してゆく。

 神も人も魔も、単なる役者に過ぎない。
 罪と咎で塗り固められた下衆に対する世界の復讐が先か、暗澹(あんたん)たる絶叫の渦に世界が疲れ果てるのが先か。
 命題が書かれている台本を黒く塗り潰して、少しだけ台詞を忘れるのも悪くない。

 彼は、もう一度メイドの濡れた紅唇を()んだ。
 吐息のひとつも逃さないように。


◆  ◇  ◆



「王」
 吸血鬼の足音と共にユニヴェール家の廊下に囁かれた一言は、観客の誰にも聞こえていない。



THE END


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