冷笑主義

第21話  魔女 vs メイド

前編


 悲劇を喜劇に変えてゆく才能は、すべてを圧倒する。


  ◆  ◇  ◆



 パルティータは食堂を見回した。
 そこにいるのは吸血鬼一匹。おやつの時間を告げる陽光が降り注いでいる。
 こんな時間に起きているのは珍しいが、彼は紅茶片手に報告書らしきものを読みふけっていた。
「ユニヴェール様」
「ん?」
「ルナールを知りませんか?」
「そのへんに落ちてないか?」
「お使いを頼みたいのに、昼からどこにもいません。出掛けるとも聞いていないし」
「間違えてゴミ箱へ捨てたとか」
「……ユニヴェール様」
 まるでこちらの話を聞いていない様子の主に声を尖らせると、
「出掛けたよ!」
 ふいに食堂の隅から甲高い声が上がった。
「シャムシール。いたの?」
「自分に見えたものしか存在しないと思い込むのはよくないと思うね」
 小生意気な台詞を吐きながら、深い草色の法衣に着られたシャムシールがカーテンの陰から顔を出した。
 どうやら陽光を避けて絵本を読んでいたらしい。そこまでして太陽を避けるなら自分の部屋に戻っていればいいものを、人気(ひとけ)のあるところに居たがるあたりがいつまでたっても子供だ。 ……というか、彼はいつになったら精神が大人になるのだろうか。
「出掛けた?」
 その子供に向かって疑問符を投げたのはユニヴェール。
「うん。朝方ね。暗黒都市の奴らが来てルナールに頼みごとして連れてった。ほら、あの……シチリアのアデリーヌみたいなかんじだよ、薄幸のお姫様を助けてくださいって」
「アイツ、何度同じ手に引っかかるんだ!」
 ユニヴェールが手にしていた羊皮紙の束をテーブルに放り投げて天を仰いだ。
「正真正銘のバカだな」
 パルティータにはイマイチ話が見えなかったが、つまり、
「──また自分から面倒ごとに突っ込んでいったということですか?」
「というよりも状況としては簡単にハメられたという方が正しい」
 微妙な訂正をして、ユニヴェールがこちらに背を向け頬杖をつく。
 しばしの無言の後、
「パルティータ」
 声だけで呼ばれる。
「はい」
「お前のところに暗黒都市から何か接触はあったか? 例えば手紙。女王名義かベリオール名義か軍の総隊長名義かは分からんが」
「いいえ。誰からも何も。来るのはロートシルト卿からのくだらない手紙ばかりです」
「……なるほどね。白狼もベリオールも私の進言は無視してくれたわけだ」
 シャムシールがふっと顔を逸らして読書に戻ったところを見ると、つぶやく主はよほど邪悪な顔をしているのだろう。
「冗談に取ったにしては小賢しい真似をする。それほどまでにセーニに関わるのが嫌か?」
 長い爪がコツコツとテーブルを叩き、そしてやおら止まる。
「パルティータ、座れ」
 主の体勢が180度変わり、幾分の不興がのった麗貌に見据えられた。
「……はい」
 抱えていた銀盆を置いて彼女が腰を落ち着けると、吸血鬼は冷めた紅茶に口をつけ、腕組みをする。
「先日、暗黒都市の総隊長からルナールを近衛隊(エクリプス)の隊員にほしいと打診された。ベリオールと同格の扱いだと考えていい」
「はぁ」
「表向きの理由は、近頃ヴァチカンにとっても暗黒都市にとっても厄介な輩がうろついているから、即戦力がほしい」
 厄介な輩──それはおそらくサマエルのことだろう。またの名をセバスチャン・クロワ。あと、クリスチャン・ローゼンクロイツ。
 おそらく彼については主よりも知っている。
 何故“近頃”なのかも。
 だがパルティータはユニヴェールの敷いた道に沿った。
「即戦力が欲しいって、今だって貴方の下にルナールがいるんですから、結局戦力の総計は変わっていないように思いますが」
「重要なのは命令系統だ。私の下にいる限り、ルナールは私の命令に従う。だが近衛隊となれば、私ではなく総隊長の命令を遂行しなければならない」
「それで?」
「私の推測だが、奴らはルナールをエサにもう一匹の化け物を引っ張り出した」
 世の中にはたくさん化け物がいたものである。人材は人間の世界より暗黒都市の方がそろっているというわけだ。
 パルティータの妙な感慨をよそに、
「アイエイエー島の魔女キルケ」
 吸血鬼が、初めて聞くその名を口にした。
「人間を獣に変えることを趣味にしている古い魔女だ。オデュッセイアでオデュッセウス一行が豚に変えられた一節が出てくるだろう? アレだ。 あの女は私とは比べ物にならないほど長い時を生きている」
「ギリシアの神話にも出てくるアレですか?」
「古に描かれた物語の語るすべてが真実ではなく、またすべてが偽りでもない」
 ユニヴェールが肯定代わりの言葉を紡ぐ。
 パルティータは特に感動も無く明らかになった事実にうなずいた。
「分かりました。つまり、ルナールが半分猫なのはその魔女の呪いによるものだと」
「おそらく」
「でも、たかがルナールにその魔女を引っ張り出すような価値があるとは思えません」
「暗黒都市は、ルナールの本名が“フリードリッヒ・フォン・バーベンベルク”だと言っている」
 そんなことを言われて「あぁそうなんですか!」と膝を打つ奴がいたら見てみたい。
 少なくとも、パルティータの知り合いにそんな名前の人間はいない。
 目で訴えると、ユニヴェールは一息おいて続けてきた。
「手っ取り早く言うと、あのフリードリッヒ2世の孫なんだそうだ」
 なら始めから手っ取り早い方で言えばいい。だが大人なのでその言葉は飲み込む。
「神聖ローマ帝国皇帝の? カステル・デル・モンテを造った、フリードリッヒ2世」
「そのとおり」
 吸血鬼の紅い双眸が遥か古の大地を駆け、パルティータの目もそれを追う。
 ルナールがシチリアのアデリーヌに導かれてあの地に足を踏み入れたのは、あながち偶然でもなかったのか……。
「そのフリードリッヒの右腕がキルケだった。フリードリッヒ自身も鬼才ではあったが、あの魔女と占星術師のマイケル・スコットがあったからこそ、あれだけの繁栄が成されたといっても過言ではない。特に、あの頃のキルケはあいつが皇帝として賞賛されることに心血を注いでいた。それこそあいつ以上に寝食を削り、精神を削り、諸侯を抑え教皇を抑える網を練っていた。……そんな奴の前にフリードリッヒの直系をぶらさげてみろ」
 血の気ない白皙の薄い唇が、片方だけ静かにつり上がる。そして彼は両手を広げて高らかに歌った。
「過去よ鮮やかに甦れ。栄光よ再び。英雄の夢は続く。かの者に変わらぬ畏敬と喝采を!」
 余韻のあるテノールが、時を吸い黒光りする食堂の天井に反響する。
 そしてパルティータが心のこもらない拍手を送る前に、主は真顔に戻った。
「あの魔女が、潰えた夢を取り戻そうと狂気に取り憑かれてもおかしくない」
「──で、ユニヴェール様。その要求に対して貴方は何と?」
「ルナールの主は私ではなくお前だから、お前に話を通せと伝えた」
 確かにそれが筋だが何故か釈然としないのは、その“お前”が眼前の吸血鬼の召使だからだろう。
 なんとなく、面倒臭いことを回されただけのような気がする。
「……暗黒都市はセバスチャン対策だけにキルケを招待したんでしょうか」
「さぁ。そこまでは」
「…………」
 パルティータが黒髪の下から見つめても、主は一切の表情を浮かべなかった。
 すべての生きとし生けるものの背後に平等に佇む死の権化。慈悲の腕か冷酷な鎌か見る者は様々だが、実はそこには何もない。我々に見えているのは己の心に過ぎない。
 彼を前に(おのの)く者は生への執着を抱き、彼を前に安堵する者は絶望を抱いている。
「ルナールにこのことは?」
「話していない。どうカードを切ったものか思案していたら、先に手を打たれた」
「ならば、筋どおり私を通していただくことにしましょうか」
 パルティータは椅子から立ち上がった。
 途端、吸血鬼の目が面白そうに光る。
「どうする」
「暗黒都市へ伺って、事情を説明していただくことにします」
 簡潔に言うと乗り込むのだ。
「──危」
「フランベルジェにお願いして一緒に行ってもらうから大丈夫です」
 口を開きかけた主を制して黙らせた。
 幸い彼女は今日、明日と講義が休みでこの屋敷にいる。城へ連れて行ってもらうくらい、かまわないだろう。
「ルナールを返してもらうか置いてくるかは彼の意思と話の内容次第ですが」
「……自分がただの小娘だということを忘れるなよ」
「私の唱える式文が何の効力も無いことは過去実証済みです」
 胸を張ることではないが、エーデルシュタインの一件で露呈した。
 主が頬杖をつき足を組んだ気障(きざ)な姿勢のまま、優雅な笑みを向けてくる。
「私の手が必要ならばいつでも」
 自分が問題の芽をしっかり刈り取ってこなかったからこうなっているのに、この態度。
 頬を思い切りつねってやりたい衝動を抑えて精一杯微笑みを返す。
「今のところ間に合っています」
「…………」
 メイドの勘気を悟って、吸血鬼の白磁の微笑に亀裂が入った。



  ◆  ◇  ◆



 ソテールの持ち込んだ書状一枚で、形勢は大きく変わったようだった。
 フリードの横にいる手枷(てかせ)付きのカリスもミトラも、じっと息をひそめて成り行きを注視している。
「アンタたちは俺をどうしたいんだ?」
 与えられた席に大人しく納まっている白の聖人は、色の無い講堂に静かな声を落とした。美しい牢獄のような、灰色の空間。
 しかし相手は手元の羊皮紙を凝視していて答えない。
「委員長。質問に答えてもらおうか」
「…………」
 柔らかく詰め寄られて、緋色の聖人が視線を上げた。ほんの少しの沈黙を挟み、疲労に満ちた言葉が噛み締められる。
「君にはぜひ、棺へ戻ってもらいたい」
「却下。今戻ったら永遠に目覚めなさそうだ」
「力づくでも」
「それができるなら、アンタたちはユニヴェールも今すぐに(はりつけ)にできるだろうな」
 ソテール・ヴェルトールを討てるなら、シャルロ・ド・ユニヴェールも討てる。その逆も然り。
 どちらも言うのは簡単だが、成すは難い。なにせ300年近く誰一人として成し遂げた者はいないのだ。
「ソテール、無駄な問答はやめましょう。だって──」
 緋色の御仁たちの手を渡ってゆく一枚を見つめながら、マスカーニが嘆息をする。
「私たちには選択肢がないように思えるわ。……猊下のお言葉ではね」
 赤い封蝋がされたそれをソテールから始めに受け取ったのは彼女だった。説明もなく、ただ「預かりものだ」とだけ告げられて。
「デュランダルを除隊となれば、俺がヴァチカンに留まる理由は無い。というか留まっていても迷惑だろうから、出て行くことにした。それで教皇猊下に挨拶に行った。何百年と世話になった教会の元首に今までの礼を言うのは当然だし、ましてや彼の令息に剣を教えていたんだ、黙って去るのはヴェルトールの美学に反する」
 淡々と語る吸血鬼始末人(クルースニク)。緋色の集団の背後に輝く細窓を映し、蒼い目は平たく笑っている。
「どこで何をするつもりかと聞かれたから、マクシミリアンのところに顔を出そうかと思うと答えた。俺の家はもともとがドイツ近辺の貴族だからな。そうしたらソレを預かった。マスカーニ枢機卿、アンタに渡せってね」
 デュランダルの新しい隊長が“ソレ”に目を落とし、ややあって紙越しの視線をソテールに向ける。
「貴方は、ここにいる誰よりも権力を持っている。違いますか?」
「違うね」
 ソテールが腕を組みふんぞり返って即答した。
「昔から媚びるのが上手いだけだ」
 嘘つけ。
 パリスが不快そうに眉を寄せマスカーニが肩で息をする中、手枷をされたままのカリスがテーブルに置かれた羊皮紙を引き寄せた。
 目を通し、視線はちらりとソテールへ。
 フリードが反射的にそれを追えば、ソテール・ヴェルトールの唇が僅かに動いた名残が見えた。
 すると、
「──ひとつ。俗国に聖なる戦力を奪われることがあってはならない」
 あっけらかんとした大声で、いきなりカリスが読み上げた。
 同時にソテールが立ち上がる。
「すべての裁量はこの委員会に託されている。もちろん、教皇が何を言おうと関係ない。教皇の言葉よりもこの委員会の決定が優先される」
 誰も、彼が席を離れることを咎められなかった。流れの中に隙が無かった。
「つまり、アンタたちにはふたつの選択肢がある。マックスのもとへと旅立つ俺を見送ってくれるか、仕方なくデュランダルに戻すか」
 ひやりとした石造りの床に響く足音。重ねるように外から聖歌の唱和が聞こえてくる。きっと、聖歌隊が気まぐれに庭で練習しているのだろう。
 遮るものなく光が降り注ぐ聖なる庭に、祈りの歌が満ちる。

 長閑(のどか)だ。

 極限の飢餓に露店からパンを奪って逃げる盗人、賊に襲われる旅人、口減らしに子供を埋める親、蒔く種もなく荒れた田畑で立ち尽くす農民、謀略にはまり首を討たれる貴族、金の払えなくなった主を撲殺する傭兵、金を天秤にのせる官吏、売られる娘、名も知らぬ地で名誉の死を遂げ屍の山となる若者。
 その山の頂に、この聖なる庭がある。

「ソテール、貴方はどうしたいの?」
「どちらでも」
 マスカーニの背後へと歩を進めたソテールが、彼女の椅子の背に手をかける。
「ヴェルトールは根っからの臣下気質でね、命令されると弱い。どちらにでも従うさ」
「ならば棺に戻りなさい」
「却下」
 カリスが口元を歪めながら無表情を貫こうと努力している。ミトラからも高揚がだだ漏れている。たぶん、フリード自身の目も輝いている。
 剣呑としている緋色の集団とは反対に。
「さぁ、どうする。どちらを選ぶ」
 白く長い外套を羽織った吸血鬼始末人が、主導権をがっちり握って委員長に迫った。どう見ても、審問にかけられている側とは思えない。
「……マスカーニ枢機卿」
 委員長が発したその呼びかけは、実質彼に何も権限がないことを示していた。
 助けを求められた女枢機卿が、碧眼を伏せて花唇を羽扇で覆う。
「いいわ。デュランダルに戻ることを許可します、ソテール・ヴェルトール。教皇猊下のお言葉に逆らう理由はないもの。ただし──」
「──ひとつ。(いたずら)に罰を与えてはならない」
 マスカーニの言いかけた何かの条件を払いのけて、カリスが勅書の続きを朗読した。
「すでに決着のついている事柄を再び裁くことは、混乱のもとである」
 鮮やかな声色は、これまでテーブルの上に積もった穢れた言葉の残骸を吹き飛ばすように。
「決着の付いている?」
 不用意な一言だった。誰か枢機卿のひとりが口にしたそれは。
 話が一歩前に進んでしまい、マスカーニが提示したがった条件へと戻れなくなった。
「ジェノサイドの一件はすでに“彼”がすべての責任を負った。そうだろう? マスカーニ枢機卿」
 ソテールが白外套を翻し講堂の入り口へ歩いて行き、マスカーニの金髪が揺れる。
 元隊長殿は扉の前で一度こちらを見渡し、呼吸を置いて一気に開いた。
 唐突に空気が流れ、灰色の講堂と一線を画す真紅の絨毯に彩られた廊下が姿を現す。
「──クレメンティ……神父」
 扉の向こうにいた人物に、緋色の数人が腰を浮かせた。
「…………」
 マスカーニは顔色ひとつ変えず、パリスはただ成り行きを見ているようであり。
「アンタたちは、俺を外には出さないだろうとは思っていた」
 2年前、この地を去った若き枢機卿、ヴァレンティノ・クレメンティ。
 あの時とは違う色──暗褐色の法衣に身を包み、あの時と同じく眼鏡の奥から琥珀の鋭利な視線を寄越し、沈黙を保ったまま彼は招き入れられる。
 彼がユニヴェールもろとも暗殺しようとした、ヴェルトールによって。
「だが、俺がそのまま戻ったんではマスカーニ枢機卿もパリス隊長もやりづらいだろう。そこでその場合の対応を猊下に提案したら、快諾くださった」
 ソテールが静かに扉を閉めて、こちらに向き直る。
 意外にも、その顔は普通の人間の顔をしていた。生気の通う、地平の人間。いと高き聖者のように無表情でなく、未来を視るユニヴェールのように底無しでなく。
「デュランダルそのものが非公式な特務課だが、さらに輪をかけて非公式な分課を作ることにした。上司はこちらのヴァレンティノ・クレメンティ司教。部下は俺」
「左遷されていた間の仕事が評価されて一階級上がれることになりました」
 クレメンティが慇懃な笑みで胸に手を当て一礼。そこにソテールが重ねた。
「パリス隊長。そっちのことに口を挟むつもりはないから安心しろ」
「お気遣いありがとうございます」
 パリスがにっこりと顔を歪める。
 その横でマスカーニがぴしりと扇を閉じた。
「分課の愛称は?」
「オートクレール」
「あら、ぴったりね」
 ローランの携えた愛剣がデュランダル。その親友オリヴィエが携えた愛剣がオートクレール。
 その名の由来は“高潔”。
 その名剣を手にしたクレメンティがしらっとした顔で口を開いた。
 かつての上司が、かつての部下に向かって。
「話を戻しますが、ジェノサイドの件はすべて──もちろん内部の諸事情すべて──私が責を負って方がついたことです。今更カリスやミトラを罰するのはいささか筋違いかと思いますが」
「…………」
 最高責任者は答えない。答えはすでに明白だからだ。気配を察してそれを代弁したのは委員長。
「猊下もそのようにお考えのようだから、仕方ないだろう」
 外から聞こえてくる歌は終わらない。
 我々を愛する讃歌なのか、我々を縛る呪いなのか、透き通ったコーラスは講堂の石畳に零れて砕ける。
「これ以上この審問会で語り合うべきことはなくなった。そうだな?」
 席を見渡し、ソテールが念を押す。
「……そのようだ」
 同意が絞り出され、席上がざわめく。
 静かに円を描いて広がっていったそのさざ波は、思うように事が運ばなかったことへの苛立ちというより、緊張から解放されることへの喜びだ。
「じゃあ解散」
 ソテール・ヴェルトールは素っ気無く言い放って、二度大きく手を叩いた。
 そして彼はフリードたちに一言一瞥もなく、身を返して出口へと足を運ぶ。
「肩が凝りましたね」「猊下の思し召しに逆らうわけにはいかんでしょう」
 雑談を交え腰を上げる緋色の枢機卿たちに紛れてゆく白。
「ソテール」
 その男を呼び止めたのは、シエナ・マスカーニだった。
「いつまでもその格好はどうかしら。パリスに失礼じゃなくて?」
 白く長い隊衣はデュランダル隊長の証。今ならば、ルカ・デ・パリスにのみ許された姿のはずである。
 だがオートクレールの隊長にして唯一の隊員は、鼻で笑った。
「生憎、これしか似合わないんだよ」



◆  ◇  ◆



 案の定というべきか、意外にと言うべきか、暗黒都市の中心、女王の居城の警備は厳重だった。
「そもそも人間は城どころか暗黒都市に入ってはいけない決まりです。我々の仲間になりたいのならば例外ですが……それもセーニでは」
 渋る門番は普通の人間っぽい外見をしている。
 黒い制服に美しいフォルムの槍、黒紫の羽飾りのついた制帽がお洒落だ。
「城壁の門番は快く入れてくれたのに、城の門番はケチねぇ」
 フランベルジェが大げさに顔をしかめる。
「城壁の門番の対応が間違っているんです」
 律儀に首を振ってくる門番だが、もちろん暗黒都市の入り口でもフランベルジェとパルティータは快く通してもらったわけではなく、魔女が問答に飽きて全員凍らせたのだ。
 ……たぶんまだ、城壁には氷の彫刻が並んでいる。
 しかしさすがに城の前で氷像祭りをやるわけにもいかない。
「上に取り次げば分かるって言っているでしょう? 白狼のおじさまかベリオール卿に伝えなさい。ユニヴェールのところのメイドがわざわざ出向きましたって」
「ですからそういう場合はきちんと手続きを踏んでいただいて、ユニヴェール卿の方から……」
「貴方は私の言うことは聞けなくてユニヴェール様の言うことなら聞くの? なぜ?」
 氷の魔女は甲高く喚くようなことはしない。
 いつもと変わらぬ凪のトーンでゆっくりと詰め寄るのだ。
 真綿で首を絞められるとはまさにこのことで、事実彼女の講義では遅刻もなければ課題の提出忘れもないらしい。
 大声で怒鳴られるより、静かに軽蔑される方が怖い──
「礼を欠いたのは暗黒都市。非礼を受けたのはユニヴェール様のメイド。それはユニヴェール様に非礼をはたらいたも同然。……ねぇ、私は貴方の判断は必要としていないわ。判断をするのは暗黒都市そのものよ」
 穏やかなフランベルジェの口上を聞きながら、パルティータは両手を腰にあて何度も首を縦に振ってうなずいた。
 まったくもってそのとおり。
「しかし──」
 なおも淀む門番の返事に、フランベルジェとパルティータの両方が目に不穏を灯したその時、
「氷の魔女。珍しいな。こんなところで立ち往生か?」
 衛兵の背後、堀に架けられた橋を渡り、大柄な男が出て来た。
 赤に黄色に青に緑、極彩色の裏地が目を引く黒外套を肩にひっかけ、疲労なんだか眠気なんだか、とにかくやたらくたびれているおっさんだ。
 完全に裏地負けしている。
 だが、
「え? あ、フェンリル公!」
 衛兵はそのおっさんに対して間の抜けた叫び声で道を譲った。
「これは──フェンリル公。お久しぶりです」
 フランベルジェまでもが一瞬呆けた顔をしてすぐに腰を折る。
「…………」
 ふたりが口にした名前にはもちろん心当たりがあったが、パルティータは口を閉ざしたまま軽く会釈をした。
 暗黒都市の序列はよく分からない。分からないことに対しては、無闇に声を上げるべきではない。
「失礼ながら、お目覚めとは存じませんでした」
「そりゃ知らんだろうさ。起きてからこれが初めてだからな、城から出るのは」
 フランベルジェの詫びに、大男が嘆息まじりに肩をすくめた。
 褪せて灰色がかった黒の髪はぼさぼさと肩口まで、覇気のない双眸は魔物にしては珍しい藍色。
「ハティ様やスコール様もご一緒ですか?」
「あいつらはまだ檻の中だ」

 国境も民族も、ユニヴェールの名声など遠く及ばぬほど広く語り継がれる伝説の怪物が、北欧神話の巨狼フェンリルだ。
 暗黒都市において“フェンリル”と呼ばれるものは、これ以外にないだろう。
 神をも喰らうこの凶暴な獣は、偉大なる魔都にあってさえも自由を許されず、都市の最下層──ユニヴェールの三使徒が眠っていたのよりも更に奥底──に繋がれているという噂だった。
 世界中で破壊を尽くした巨大な怪物たち──同じく巨狼のハティ、スコール、巨蛇ヒュドラー、ヨルムンガンド、アジ・ダハーカ……正式には何が何匹繋がれているのかは知らないが、とにかく兵力として使うことすら危険過ぎる者たちが封じられている檻。

 しかし人の世界では、絵画の中で、口承の中で、文字の中で、彼らの咆哮は平らな物語と成り果てている。
 陽光の届かぬ足下に()かれた牙が光っているとは、誰も夢にも思っていない。

「俺が起こされたのは死の天使に対する単なる威嚇だ。それだけのために三匹もまとめて起こしたんじゃ逆に手に負えないだろ」
「確かにそうですわね」
 悪びれもせずフランベルジェがうなずき、
「俺は三匹の中では一番年長で聞き分けがいいからな」
自画自賛でつぶやいた男が、「そういえば」と言葉をつないだ。
「ユニヴェールは生きてるか?」
「はい、もちろんです」
「なら良かった」
「それが何か?」
「いや、別に」
 古い紙くずを思わせる低い声で言い、
「あいつは(もろ)いからな」
 男がニンマリと煙草を(くわ)える。
 どう見ても嘘つきの顔だ。
「ユニヴェール卿を脆いとおっしゃるのは、貴方くらいですわ」
「殺しても殺しても滅びないのはしぶといが、殺されている時点で脆い。ま、元が人間だから仕方ないか」
 男の(さび)れた風貌からは世に悪名高い狼を想像するのは難しいが、ユニヴェールにまとわりつく死の匂いなんてものじゃない、この男は滅びの匂いを引きずっている。それも、自分以外の者にもたらす暴力的な滅びだ。
 強制的な終わり。
 だからこそ、この男自身からは何の悲哀も感じない。
「…………」
 パルティータが無言のまま男を観察していると、フランベルジェが一歩前へ進み出た。
「……フェンリル公。お会いしてすぐこんなことを言って申し訳ないのですが、お願いしたいことがありますの」
 まさかこの魔女──
「白狼のおじさまかベリオール卿に会ってお話したいだけなのに、この門番が城内に入れてくれないんですわ。あちらも私たちが訪ねてきた用件を分かっているはずなのに。白狼のおじさまかベリオール卿を引っ張り出してくださいません?」
 フェンリル狼までをパシリに使おうとするとは……さすがユニヴェールの三使徒。
「そりゃ、ぺーぺーの衛兵がセーニを通すわけにはいかねぇだろよ」
「あら。分かります?」
 虚を()かれたのかフランベルジェが眉を上げた。
「俺たちは鼻が利くからな。それに現状は白狼から聞いた」
 男が目を細めて紫煙を吐いた。
「おじさまは何とおしゃっていましたの?」
「“ユニヴェールが腹黒いセーニに騙されていいようにコキ使われている”」
「そうしておくのが無難なところですわね、あの方たちにとっては」
 涼やかに笑う氷の魔女と暗黒都市の間にある崖が、霧間にうっすらと姿を現した。
 彼女が暗黒都市の面々に対して美しく丁寧な言葉を向けているのは、それが主の仕えている相手だからに過ぎない。
 ここは暗黒都市。
 偽りも裏切りも嘲りも陥穽(かんせい)も非難の対象ではない。
「それで、その豪胆な聖女がコレか」
 魔女の嫌味を流した男のウォール・アイが、突然パルティータに向けられた。目端が鋭く尖った狼の目。
「パルティータ・デ・コンティ・ディ・セーニと申します」
 彼女が唇に微笑を作りながら挨拶をすると、男は自身の胸に軽く手を当てご丁寧に名乗ってきた。
「俺の名はヴァナルガンド・フェンリル。人間に分かりやすく言うと……北欧神話(エッダ)の狼。これで分かるか?」
「じゅうぶんです」
「よかった。だが──」
 フェンリルのおっさんは、あごに手をあて鼻の奥でうなった。
「俺にはオマエが普通の人間に見える」
「えぇ。いたって普通の人間です」
 初対面で化け物に見えてたまるか。
 パルティータはいつものとおり殺風景な顔で答えた。
「インノケンティウスの血を引いているだけで、私自身に魔物を倒す力があるわけではなく、神の声が聞こえるわけでもなく、特別なことは何もありません」
「だが普通の人間は魔物の都には来られない」
「私の人生の信条のひとつは“他力本願”です」
「……そりゃあ素晴らしい」
 赤い月に織られる影が、狼の薄笑いに色濃く落ちる。
 パルティータは大男を見上げ、言った。
「しかし暗黒都市は私の下僕を私の許しなく誘拐したうえ、私の主がこの件に関して全く役に立ちそうもないので、いよいよ自分の力で事を動かさねばと思った次第です」
「猊下御自らねぇ。だが、何も出来ない箱入り娘がどうにかできますかねぇ」
 おっさんという生き物はすぐ調子に乗る。
 ノリノリで臣下口調だ。
「かよわい私が無策で魔物の巣窟に足を踏み入れるとお思いですか?」
「かわよい小娘の策が、(よわい)数百を超える名立たる魔物たちに通用するとお思いで?」
「後を追う者が先達を超えられなければ世は前に進みません」
「……なるほどね」
 目の前で起こっている出来事を拒否しても意味がない、呆然とするのは時間の無駄。まずは事実を分析して策を練ること、そして動くこと。要は頭の使い方と腹の括り方の問題だ。
「そしてここを通してもらえないと物理的に前に進めません」
「確かに」
 大きくうなずいたフェンリルが、ぽんっと両手を打った。
「よし分かった」
 咥えた煙草の灰が弾みで落ちる。
「おじさんが連れて行ってやろう。俺の判断なら門番も納得するさ。なぁ、するよな?」
「はい、もちろん」
 敬礼と共に背筋をしゃきっとさせる衛兵。役立たずが。
『ありがとうございます〜』
 パルティータとフランベルジェが声をあわせると、
「あいつら、どんな顔するか楽しみだな」
 燃え落ちた虹の橋の臭いをひきずる男が、小さく口笛を吹いて外套を肩にひっかけ直した。
 そしてふと思いついたように真顔に戻る。
「しかし確認しとくが、中はオマエを嫌ってる連中ばっかりだぜ?」
「貴方がいるから大丈夫でしょう」
 まさか首と胴体が分かれてしまった物体を部屋に置いて“連れて行った”と主張するほどひねくれた御仁ではあるまい。
「それとも、私に敵意を持つ者たちは貴方の手に負えませんか?」
 パルティータは揶揄したつもりだったが、相手は普通の疑問として真正面から受け取ったらしい。
「それはない、それはない。俺はこの城の中身全員殺すのも容易いからな」
 本物の怪物の瞳には、狂気の一粒も映らない。
 人間の狂気の果てなんてものは、彼らの日常の切れ端にもならないのだ。
「じゃあ、猊下に対して闇討ちするような奴がいたらぶった斬ることにするか」

 毒々しい赤の月を遮る夜の城。
 それを背景に軽やかな笑い声を立てる古の狼。
 漂う湿り気とわずかな死臭、魔都を抜ける墓場の風にコウモリが舞う。

「そうしましょう」
 パルティータは爽やかに同意した。



Menu   Next

Home




BGM by Within Temptation [Our Solemn Hour]  Nightwish [Beauty Of The Beast]
Copyright(C)2010 Fuji-Kaori all rights reserved.