冷笑主義
ブラン・ド・ノワール
後編
「レオ、そろそろ限界だ」
「テオドール」
滞在中に観察した結果、どうやらレオナール・ミュラの右腕であるらしいその男が、挨拶もなく雑な動作で部屋に入ってきた。
緩い波のある長い鳶色の髪を雑に後ろで束ね、草むらの親戚みたいな色の外套を雑に羽織り、その辺で拾ったような雑な剣を腰に帯び、ミュラにも雑な口をきく。
「どいつもこいつも腹をすかせてて、まともな話もできやしねぇ」
「もう少し我慢しろ。まだ前回襲ってから日が浅すぎる」
「我慢してるさ。それがもう限界だって言ってるんだ」
互いに大声を出して怒鳴りあう気力すらない二人の男を眺めながら、パルティータは膝上の黒猫を撫でた。
せっかく持参した紅茶で満月を愛でながら上流階級ごっこをしていたというのに、台無しだ。
暑い時に熱い紅茶を飲むのが最高なのに。
「俺だって喉が渇いて気が狂いそうなんだよ」
「──紅茶、お飲みになりますか?」
場を和ませようと言ったのに、視線で刻まれそうなくらい睨まれる。
「このままだと、城にいるまっとうな奴らまで殺っちまいそうだぜ」
椅子を引き寄せ身体を放り出したテオドールが、額に手をやり大きなため息をついた。
「アンタや俺は仮にも傭兵だったし騎士だったから多少の忍耐や無理はきくが、あいつらは単なる農民だぜ? これ以上は酷だし、もう精神力の問題じゃない」
彼はおそらく、この城に住まう吸血鬼たちのことを言っているのだろう。
吸血鬼は他者の血をその偽りの生の糧とする。
己の死を偽るために他を殺し、命を喰らい己のものとする。その身が滅びるまで生への渇望は果てしなく続き、喰らっても喰らっても満たされることはなく、喰うことを止めれば抗い難い飢えが理性を蝕む。
彼らを襲うのは、口寂しさや空腹ではない。彼らの飢えは、本能の根源からの生命の飢えだ。家族も恋人も“餌”として認識されてしまう見境のない飢餓。魂を焼く痛み。
凶暴な生への固執は、多く己自身さえも滅びに導く。自分を失い、何をしているかも分からないまま。
「その女は人間か?」
テオドールの紅の目がパルティータに向けられた。
よろしくない。完全に熱に浮かされている。
「そうだが彼女はやめてお──」
「!」
ミュラが制止する前に男は動いていた。
化け物たる所以の脚力で椅子と床を蹴り、一瞬でメイドの背後に降り立つ。
果敢に男の顔めがけて飛びかかった猫はあっけなく振り払われ、鋭い爪が彼女の首を掴もうとした次瞬、
「テオドール!」
「──!」
ミュラの叫び声が、男の喉奥からの絶叫に重なった。
身体を折り曲げ床に転がり悶絶しているのは、襲った方のテオドールだ。
「…………」
パルティータは椅子に座ったまま、メイド服の裾から取り出した小瓶の中身をトドメと言わんばかりにもう一度テオドールに降りかける。
「降参! 降参!」
飢餓熱が吹き飛んだのか、うめきながら男が手を振った。
その手に黒猫が噛み付く。
「私を襲おうなんて千年早いのです」
「お前それ一体何だ……」
呆然と立ち尽くすミュラが、警戒心をだだ漏れにして彼女の持つ小瓶を指差した。
「塩水です」
「嘘をつけ!」
「ユニヴェール家のメイドはこれくらいできて当然です」
「できる根拠は何なんだ」
「暗黒都市の使者に付いて来いと言われて丸腰で行くようではダメだということです」
「どんだけ仲悪ぃんだよ。……テメェ!」
下からテオドールが無駄口を叩いてくるので、パルティータは踏みつけた。
「貴方は黙っていてください。仲が悪いのではなく、仲が良いわけではないだけです」
「どう違うんだよ」
ぶつくさ言いながら男が起き上がり、未だ手に食いついている猫を剥がしにかかる。
「私のことはどうでもいいのです」
メイドはミュラに向き直った。吸血鬼の首領はまだ半ば呆けていたが、その顔の蒼白は死と驚きのせいだけではないだろう。
「吸血鬼の飢えは吸血鬼の狂気の源です」
彼女の主ユニヴェールは、彼女の前では吸血鬼らしい食事をほとんどしない。
朝に夕にテーブルに皿を並べ、ワインを注ぎ、焼き菓子をつまみ、どこでも紅茶を飲んでいるほどの紅茶中毒者だが、それらは本来あの化け物にとって何の意味もないことだ。
しかし彼は毎日その単なる娯楽を繰り返し、狩りをする姿は見せない。
食べることとはつまり生き延びること。
おそらくあの男は、皿に盛られた死骸の山を日々平らげていく人間よりも、その意味を痛切に知っている。
己のために他を殺すという究極の利己主義と、死してなお生にしがみつくあさましい欲。
その黒々とうねる、だが存在し続ける限り逃れることができない原初の狂気の形を、理解している。
それを見せたくないのか、それに支配されている姿を見せたくないのかは、定かではないが。
「貴方も必死で抑えているけれど、限界が近い。違いますか?」
ミュラを見据えてパルティータが言うと、
「…………」
ミュラが何か言いかけて空気を吐き出した。
「貴方は自分が何を護るべきか答えを探している。でも、このままではその答えが見つかる前に全滅するでしょう」
満月は非情だ。
太陽よりも公平に光を注ぐと見せかけて、その実夜陰に紛れるはずだった秘密をあぶり出す。
猫を引き剥がしたテオドールの視線、虚空の一点を凝視するミュラの視線。
「ユニヴェールは元々人間です。貴方たちと同じように。しかも、吸血鬼始末人でした」
「吸血鬼始末人……」
「あの人が吸血鬼始末人として仕えていたのは教皇インノケンティウス三世。あの人の家が仕え、あの人に爵位を与えたのはフランスの尊厳王フィリップ二世」
白の聖衣に身を包み玉座の傍らに傅いていた男は、今や神の名すら聞こえ届かぬ死の権化。
「彼は人の精神の揺らぎが分からぬ魔物ではありません」
むしろ、それを利用して歴史の流れを操る術に長けている。弱みも痛みも知り尽くしている。そのうえで、彼は人にさらに強靭たることを要求しているのだ。例えその精神から血を流しても、差し伸べられた神の手を振りほどき、閉ざされた前に進めと。
「頭を押さえつけてまで服従しろとは言わないでしょう」
この吸血鬼たちは、まだ神に赦しを請うている。信じている。だからこそ、暗黒都市に与することを拒んでいる。しかしどれだけ祈っても拒んでも、吸血鬼として生きていくためには人を殺し血を得なければならない。そしてそれは、人の世には決して受け入れられない。
おそらく、ミュラが、テオドールが、この城の吸血鬼たちが閉じ込められているのは、こうした摂理の檻だ。
「ところで」
テオドールへの復讐を果たし、テーブルの上に跳び乗ってくる黒猫。
ユニヴェール家のメイドは、猫の背越しに白い吸血鬼へ問う。
「貴方たちは何者ですか?」
もう、彼の退路はない。
「そのブラン・ド・ノワールとやら、この街には現れたのか?」
「えぇ……」
女の首筋に舌を這わせながら問うと、熱っぽい返事がある。
「白い吸血鬼」
つぶやけば、
「貴方は、知っているの?」
甘えた声音が女の紅唇から漏れる。
「──名前だけは」
抱き寄せた女の背後から窓の外のアングスの街を見下ろしながら、ユニヴェールは女王に返したのと同じ台詞を口にした。
そして、女の唇を塞ぐ。
始めは表面だけ。
強弱をつけて口付けながら、徐々に唇を開かせる。
同時に長い指で露わになっている鎖骨をなぞってやると、白い肌が蒸気してゆく。
灯のない部屋に濡れた音が響き、性急な息継ぎが交換される。
「レオナール・ミュラ。あれは元々騎士だったのか?」
「……そうよ。……グラー卿の雇った傭兵騎士」
恐怖は人為らざる冷貌を前にして麻痺する。
この時だけは、例えこの後自分が亡骸になっているとしても、この時だけはこの化け物のすべては彼女のものだ。
しかしできることなら、この化け物の永遠の女になりたい。
怜悧な唇から愛を囁かれ、人間を引き裂いたその手で抱かれ続けたい、化け物の中の化け物が快楽に眉をひそめる様を何度でも見たい。
その願望は容易く欲望となり、女たちは男の望むすべて与えようとする。
「でも、彼の故郷は……すぐ近くなんだけど……異端の村だったのよ。貴方なら分かるでしょう? カタリ派だったの」
女がこちらを向き、ユニヴェールの首に手を回した。
「少し前、領主のグラー卿と教会は、村ごと焼き討ちにしたわ。大人も子どもも、全員処刑されたの」
「“──すべて殺せ。主こそが彼らをよく知り給う”」
過去、飽きるほど唱えられたそれを口にして、彼は感謝を込めて女の金髪を梳き、額に口付ける。
「グラー卿に反旗を翻して、最後まで村を護ったのがレオナール・ミュラよ」
だがいくら強いとはいえ、ひとり+村人では、領主の軍勢や教会の援軍と戦うことはできない。それは戦闘とも呼べぬほど一方的な聖戦だったはずだ。
「吸血鬼になってしまうなんて、やっぱり彼も異端だったのね。……神はお分かりだった」
神は知り給う。救済に値する者か否か。
「異端の騎士か」
「……そうよ」
女が顔を近付け彼の言葉を奪おうとしてくる。
ユニヴェールが応えて深く唇を合わせてやると、女の腰が物欲しそうに揺れ、身体がしなった。耐え切れない吐息が零れる。
濃紺の空に架かる満月が絡むふたつの肢体を無言で照らし、部屋の中に影を伸ばす。
だが──。
「…………」
吸血鬼の紅が女から再び外界へと向けられた。
眼下の通りには、蠢くいくつもの黒とそれを囲む白があった。
「カタリ派、ですか」
「あぁ、俺の村にはそう呼ばれる奴も確かにいた」
レオナール・ミュラ、テオドール、そしてこの城内の人々。彼らは皆、アヴァルという鄙びた村の出身だった。特産も何もないその村は、先日彼らが襲ったアングス近郊に存在しており、グラー卿の治める地域の一部だったそうだ。
だが今はもうない。ほんの少し前に消されのだ。
「カタリ派という人々は、すでにいないものだと思っていました」
「思想はそう簡単に根絶やしにできるものじゃないさ。今この城にいる普通の人間は、他から逃れてきた隠れカタリだ」
──カタリ派。それを語るには五百年ほど遡る必要がある。
同じ神を敬いながら、その思想がカトリックとは異なる派閥。あまりに教義が相容れないため、カトリック批判を含んでいたため、カトリック教会から“異端”の烙印を押された集団。
それがカタリ派だ。
一神教のカトリックに対し、カタリ派は善神・悪神の二神論を説く。
霊的存在は善神が統べるもの、物質的存在は悪神が統べるもの。
よってこの世は悪神が創造した汚れた地であり、本来純粋な存在だったはずの我々は、悪神によって低劣な肉体という箱に閉じ込められ、この俗世に繋がれてしまった。
だからこそ、聖なるキリストは肉体を持った人間であるはずがなく、彼は我々を導くために現れた霊的な神の御使いであり、彼の教えに従い厳粛な禁欲生活と清貧で魂を浄化すれば、我々の魂は死によって肉体を離れられた時、天への救済を受けることができる。
堕落と腐敗の代名詞でもあったカトリック教会の聖職者とは全く反対の高潔な禁欲を貫くカタリ派の宗徳者(聖職者)たちは、人々に衝撃を与え、賛美を受けた。
それらの教義はカトリックにとって許されざるものであり、聖職者の在り方を真っ向から批判するものであり、しかも南フランスで拡大したこの一派はやがて教皇の権威、王の権威に従わなくなっていった。
カトリックはカタリ派を禁止し、1209年、カタリ派とカタリ派を保護する領主を打ち倒すための十字軍が編成され、幾度の物理的な破壊──異端の皆殺し──によって、カタリ派は歴史から姿を消すこととなる。
「アヴァルの村人全員がカタリ派だったわけではないが……皆殺しだった」
ミュラの声は低く、込み上げてくる吐き気を抑えているようでもある。
「けれど貴方たちは、カタリ派の住民を突き出すことも、彼らを残して村を脱出することもしなかった」
「できるか?」
反駁してきたのはテオドールだ。
「ただ少し信じ方が違うだけだ。それだけで隣の婆さんを処刑人に渡せるか? 妊婦を火刑台に括れるか? いつも薪を分けてくれるおっさんを見殺しにできるか?」
ミュラよりも直情的な男が声を荒げる。自分の身体を支えるのも億劫なようで、両手をテーブルに叩きつけて体重移動を誤魔化しながら。
「いいえ」
蝋燭の芯が燃える音が聞こえるくらいの沈黙が訪れる。
異端討伐という言葉は、魔物討伐と同じ意味を持つ。悪の打倒。正義の殲滅。そこに人の姿はない。
十字軍が火をかける者は、聖騎士や白十字団が薙ぎ払う者は、悪であって人ではない。
愛すべき隣人は正しき者のみであり、その正しさは神とヴァチカンによって測られる。
「例え反逆の徒として皆殺しに遭おうとも、誰も、こうなるとは思っていなかった」
金属の金より冷たい色の髪の下で、ミュラの相貌が歪む。
「まさか吸血鬼に堕ちるとは」
カトリックもカタリも己の正義を信じている。
いかに反逆されようと、いかに迫害されようと、神への理解と崇敬は自分たちの方が大きく正しいと。
しかし処刑されたカタリ派がそろいもそろって吸血鬼になったということは、カタリ派は神から認められていない、神はカタリ派を救わない、そう証明されたも同然だ。
「それで……」
あの礼拝堂。
神を信じながら救われなかった者たち。神の意に反した者たち。
──裏切ったのはどちらなのか。
混乱が渦を巻いて悲鳴を上げている。
……しかし。
パルティータは一点思いあたり、暗く沈んでいるふたりの男へ口を開いた。
人間を吸血鬼にすることができるのは何も神の意思だけではない。
「もしかして貴方たちがこうなったのは……」
「大変です!」
「…………」
まぁ、こういう妨害があるのは珍しいことではない。
村人の──吸血鬼のひとりだ──男が分かりやすく慌てふためいて部屋の入り口に手を掛けていた。
「我慢できなくなった奴らが勝手に出て行ってしまいました! おそらくアングスへ!」
谷間の拓けた場所にあるアングスの街は、夜半もとうに過ぎているというのに眠りの精を追い出し騒然としていた。
街の中心の円形広場には、一網打尽に捕えられた吸血鬼たちが縄で縛られ集められている。その周りを囲むのはヴァチカンからやってきた白十字とこの街の聖騎士たち。
街の住人たちは家々から顔を出し、固唾を呑んで成り行きを見守っている。
火はないが、明るすぎる満ちた月がすべてを暴く。
「ブラン・ド・ノワールはどうした。お前たちを置いて逃げたか?」
どうやら、首領はまだ手にかかっていないらしい。
鐘塔の天辺で足を組むユニヴェールは、やる気のない嘆息を漏らす。
「……うちのメイドは一体どこで何をしているんだ?」
腐っても騎士。
最近は騎士なんて称号倒れで騎士道精神の欠片もない輩も多いが、レオナール・ミュラは死んでも、魔物となっても、精神は騎士であるらしかった。
心配だからアングスへ向かうという彼を、テオドールも止めず、同行した。
パルティータもボロ布を被り吸血鬼の仲間のフリをして、付いていくことにした。
黒猫は残してきた。
そうして、案の定こういう状況にある。
だいたい、考えなしが上の言うことをきかずに暴走したツケは、上司が払うことになるのだ。
「お前たちが神の怒りに触れたことは明白だったようだな」
抜き身の聖剣を手にした白十字が言う。
ぐるぐる巻きの吸血鬼たちを背に。
捕えられている吸血鬼たちは空腹のためか目は虚ろ、口は開きっぱなしで、意味のないうなり声を垂れ流しながらがりがりと石畳を引っ掻いている。農民そのものの継ぎだらけの服がまた、不憫の涙を誘う。なんだかどちらが悪者か分からない。
白十字に対峙しているミュラが白い外套であるのも一因か。
「生きていれば神に背き、死んでも人間の敵になるとは、どこまでも救い難い」
「…………」
ミュラとテオドールが無言で剣を抜いた。
まだ血は流れていないのに、血の匂いが辺りに漂う。
吸血鬼始末人の聖剣が今まで斬り捨てた分、ミュラやテオドールの剣が今まで濡れた分、その怨みや憎しみが刃に染み付く。
研いでも研いでも落ちることのない曇り。
山際の紺が若干の白味を帯び始めた中、未だ残る月光が命を断つ光を反射する。
「そう早まるな」
白十字が仮面の奥で言った。
「もうひとつ見せたいものがある」
そう言われた時は見ないに限る。どうせこちらに不利なものしか出てこないのだ。
「……エリン」
ほら。ミュラがよろしくない反応をした。
白十字の合図で連れてこられたのは、ひとりの娘だった。
褐色の髪を綺麗に編み込み、ひと目で上流階級と分かる若草のドレスをまとっている。目を見張る美しさというわけではないけれど、線の細さから繊細な慈愛が滲んでいる。己が傷つくことも怖いが、他人が傷つくことも怖い。あまりにも、壊れ物取り扱い注意。
しかしそんな彼女に不釣合いなのは、手にはめられた手枷だった。
「お前が吸血鬼になったのは自分のせいだと罪を告白した。お前の罪を己の命を持って償うそうだ。一介の騎士のくせに、良くできた恋人を得たものだな」
「領主の娘を処刑するというのか?」
「神の前ではすべてが平等だ」
「……何が要求だ」
物分りのいいミュラが、剣を構えたまま問う。
「お前が大人しく滅ぼされれば、エリン・グラーの罪はなくなるだろう」
素晴らしい交換条件だ。
正式な罪状がある以上、エリン・グラーが処刑されたところで教会は痛くもかゆくもない。
エリンの命を想ってミュラが降伏してくれれば、白十字も聖騎士も血を流さずに問題の吸血鬼を始末できる。残された農民だらけの吸血鬼を滅ぼすなんて、鼠退治よりも容易い。
「レオ、ごめんなさい。私はあの時、貴方の村が焼かれてしまった時、お父様を止められなかった」
エリンが声を震わせる。
「だから、貴方は止めなきゃいけないのよ」
彼女はきっと、事を咀嚼しきれていないのだろう。
父が恋人の故郷を潰したこと、恋人が吸血鬼として──神から見放されて──甦ったこと、その恋人が人間を襲っていること。
彼女の中ではそれらはまだ現実ではない。
彼女の茶色い瞳の中には悲哀と愛憐の色しかないのだ。情しかない。理性はない。
己のためにミュラが舞台から降りてくれることを信じている目。自ら、滅びの道を選んでくれると確信している目。
「……レオナール」
テオドールが脅えの混じる視線をミュラに向けた。
何を選んでも、ミュラは何かを失う。
エリンの命を選べば、自らと村人を。自らと村人を選べば、エリンを。しかも、エリンが処刑されたところで、村人が人質になっている状況も、白十字との圧倒的な数の差も変わらない。
白十字の純白が輝きを増すのに対し、吸血鬼の白は褪せてゆく。
「…………」
口を引き結び、白十字を睨みつけるレオナール・ミュラに退路はない。
──いや、始めから彼に退路はない。……始め? 果たしていつから、彼はこの袋小路に追い込まれていたのだろう? 始めとは、いつのことだ?
「あ」
くだらない自問自答を繰り返していたパルティータは、視界の奥に見覚えのある影を捉えて思わず声を発した。
「…………」
一回呼吸をする間に考え、
「あら! 私、見物をしていたら人質になってしまったわ!」
声高に棒読みをしてボロ布を取り去り、テオドールの腕の中に入って喉に刃を当てさせる。
「おい!」
テオドールが驚いて身を引こうとするが、許さない。
「あぁ、困ったわ! このままでは殺されてしまう!」
「何故ここに……」
吸血鬼が人質に取った(取らされた)小娘を見て動揺を露わにしたのは白十字だ。
「パルティータ!」
無意識に叫ばれた名前には、亡霊を目の当たりにした人間の驚愕が凝縮されている。
聖騎士たちはそんなヴァチカンの使徒を前に、緊張を全身に走らせる。
身体の硬直は精神の硬直。
突然の事態が不可思議な鋼の糸の均衡へと変わり──。
「レオナール・ミュラ。お前が護りたいものは何だ。信仰か、女か、村人か、お前自身か!?」
夜も慄く鋭いテノールが、アングスの物情騒然を跡形も無く一掃した。
台詞の後に残る凍った静寂。
皆が声の主を探し、村人や白十字を隔ててミュラとは反対側にその化け物は現れた。
闇をも引きずり込む黒衣、傲慢な嘲笑の浮かんだ白皙、底の抜けた紅の双眸。
さぁ、王のお出ましだ。
「私は神のように心狭くはない。どれかひとつを選べとは言わんがね」
あまりにも悠然と歩いてくるので、思わず聖騎士が道を開ける。
「シャルロ・ド・ユニヴェール……」
白十字が声を絞り出す。
「何故ここにいるか、か? 私のメイドが待てど暮らせど戻ってこなくて不味い紅茶しか飲めないし、暗黒都市の女王からブラン・ド・ノワールを保護するように求められたからだよ。でなきゃこんな取り得のない田舎に来るか」
靴音を響かせ舞台の中心に進んできた吸血鬼は、白十字とミュラとの中間地点に立つ。
「暗黒都市に与するつもりはない」
ミュラは不滅の吸血鬼を前に、反抗的な目の色を変えなかった。
「構わんよ」
ユニヴェールが肩をすくめる。なんとも軽薄な動作で。
「私にとって誰が何を信じようとそれは何の意味も無いことだ。お前が神を信じようと、地獄の王を信じようと、好きにすればいい。だが、私に従え。そうすればお前の望むものすべてを与えてやろう。信仰も、女も、村人も」
「そんなことが」
「できるさ」
ミュラから台詞を奪った吸血鬼の口調は、やはり軽かった。
しかし次にミュラに向けられた視線は刺すように、声は重く地表を舐める。
「退路がなければ崖から飛び降りろ。それができないのなら、騎士を名乗りながらこの世にしがみつく資格は無い」
言い置いて、
「三百年程前、このラングドックの地で何があったか、知らぬ者はいないだろうな?」
彼は明けてきた夜を見上げ問うた。息を潜めているアングスの住人にも聞かせようとするように。
「ベズィエの大虐殺、カルカッソンヌの落城、モンセギュールの陥落」
パルティータは人質に取られた格好のまま、応えた。
吸血鬼の一瞥がメイドを過ぎ、昔話が始められる。
吟遊詩人も語らない、土をかけられ埋められた物語。
「インノケンティウス三世は、異端を徹底的に排除しようとした。カタリ派討伐の十字軍は、ベズィエの街でカタリ派否かを問わず住民二万人を虐殺した。女も子どもも、老人も神父も、全員。神に祈りを捧げるはずの聖マドレーヌ教会に逃げ込んだ者も、皆殺しだ。教会には街人の骸が重なり、喉を裂かれた鮮血に染まり、街は火の池となった」
ユニヴェールの紅が白十字へと滑る。
「“──すべて殺せ。主こそが彼らをよく知り給う”。神父アルノー・アモーリの言葉が忠実に実行されたわけだ」
「…………」
「カルカッソンヌの街では、十字軍に包囲され水が尽き、決死の思いで川に降りた民が捕えられた。領民と共に十字軍と戦うことを決していたカルカッソンヌ子爵トランカヴェルは、民の解放と引き換えに自ら捕えられ獄死した」
まるでお前のようだなとユニヴェールがミュラに向けると、白い吸血鬼が目を伏せる。
テオドールも構えを崩さないまま、目を逸らす。
「モンセギュールはカタリ派最後の砦だった。ただでさえピレネーの冬は厳しい。兵糧攻めにされたカタリ派は、それでも二ヶ月耐えた。しかしそれ以上は無理だった。降伏を宣言した彼らは、自ら薪を組み、炎の中へ身を投げた」
ベズィエの大虐殺が行われた時代には人間だったこの男も、十三世紀も半ばを過ぎたこの頃にはすでに化け物になっていたはずだ。
時が歩を進めるたび、無数の死がこの男を過ぎてゆく。戦禍、飢餓、疾病、老衰、強盗、処刑……それらを冷然と見送る眼差しに温度はない。
「三百年経っても同じ事を繰り返しているのか、お前らは。能なしめ」
突き放した響きに、白十字のひとりが反応する。
「我々は人を殺すのではない」
「悪を殺すのだ!」
ユニヴェールがまたも途中で揚々と台詞を奪う。
しかしすぐに音調は沈んだ。
「好きにしろ。互いに勝手に正義を叫んでいればいいさ。それを心底信じているのなら、安易に引くべきではないし、妥協すべきではない。徹底的に潰しあえばいい。最後に残った方が絶対的な正義だ。相手が死に絶えれば、文句も出るまい?」
一拍。
吸血鬼が吸血鬼を横目に見る。
「だが、私はレオナール・ミュラを保護するように命ぜられた」
「……だったら」
ミュラはつべこべ言わずに助けろよ、とでも続けたかったのだろうが、
「お前を助けるのは簡単だが、お前にはたくさんのオマケがついている。私はオマケまで助けろとは命令されていない」
ふいっとユニヴェールは明後日の方を向く。
「……なっ」
「つまりはお前の決断次第だよ」
ポーズを解いたユニヴェールが、今度は大仰に両手を広げた。
白い手袋が宙に滑らかな軌跡を描く。
「神と女の愛を追って村人もろとも愛に殉じるか、愛に先んじて騎士の矜持を捨てるか!」
高らかな演説がアングスに響き渡る。
「世界の奴隷になるか、世界を足蹴にするか! 死に甘んじ受け入れるか、死の首を絞めてやるか! 愛に翻弄されるか、愛を従えるか! 打ちひしがれるか、立ち上がるか!」
馬上から楽の音と共に大声を張り上げる国王公示人よりも、華やかな、艶やかな声音。
「誰でも選ぶ時は来る。お前のそれは今だ、レオナール・ミュラ。お前に猶予はない。清廉な信徒としての一時を、良き伴侶としての一時を、誇り高き騎士としての一時を護りたいならば、私は黙ってお前たちが滅びるのを見届けてやる。だが、お前が本当に護るべきはそれか?」
「…………」
噛み付く目をユニヴェールに向け続けるミュラ。
「身をもって知ったろうに。神はお前が思うほど公正ではない。世界はお前が願うひと欠片ほども平等ではない」
口を挟む者はおらず、沈黙に死の鍵がかけられていた。
「そんなものに屈する潔さで何が護れるというのだ? そんなものに膝を付いて、悔しくはないのか?」
「……俺が俺自身を捨ててお前に忠誠を誓えば、お前は村の奴らもエリンも俺たちの信仰も俺自身も護るというのか?」
ミュラが剣を下ろし、胸元の十字を握り締める。
カタリ派は炎に身を投じてでもカトリックに折れなかったのだ。誇りある騎士が魔物に折れることは、生きながら焼かれる以上の苦しみを負うことになるだろう。
人間の精神のなんと純粋で頑ななことか!
「さっきからそう言っている」
「吸血鬼の言うことなんか信用できるか。先に、可能だということを証明してみせろ」
「!」
ミュラのあまりに正当な要求に、ユニヴェールが仰々しく柳眉を上げた。
流れの岐路を読み取り、
「ユニヴェール。ひとつ情報を教えてやろう」
白十字が割り込む。
「こいつらの城にはすでに、白十字と聖騎士が向かっている。残りの吸血鬼や異端を捕えるために」
「それは準備のよろしいことで。……ところでパルティータ」
衝撃から立ち直ったらしい吸血鬼が自分のあごをつまんだ。
「はい」
「ルナールはどうした?」
「城に置いてきました」
ユニヴェールがうなずきもせず東の空を見やる。
夜の藍色を押しやりながら、刻々と橙黄の輝きが稜線に広がってゆく。山と森の黒い影が輪郭濃く光を際立たせ、水紋の如く澄んだ階調が神々しく世界を目覚めさせてゆく。
「ではそちらは特に問題ないな」
南風が色を帯び出し、生命が息を吹き返し始める。
遠くで雄鶏が時を告げた。
と、
「──!」
いきなり村人たちが身をよじって奇声を上げ始めた。
縛られたまま、互いを引きずりあって四方八方へ逃げようとする。だが、怪力同士なので結局少しも逃げられていない。
猛獣危険。
さすがに白十字は動じていないが、アングスの聖騎士隊は魔物たちの咆哮に一歩退く。
「あぁそうか」
ユニヴェールがぽんと手を打って、頭をかく。
「お前たちは太陽がダメなのか」
吸血鬼は太陽に焼かれると灰になり滅びる。お子様でも知っているお約束だが、約束を守ったことのない化け物は失念していたらしい。
「では」
男がニヤリと笑い片手を挙げ、小気味よく指を鳴らした。
そして次の瞬間、視界が蠢く黒で埋め尽くされる。
『げ』
そのお上品でない音は、白十字、聖騎士、パルティータ、アングスの夜に息を潜める住民たち、どれだけの人間の唱和だったのか。
それらの人間の網膜にばさばさと映っているのは、黒い蝶だった。古の呪われた名門ユニヴェール家の紋章、カラスアゲハ。死者の魂を運んでいるとも伝承される黒艶の蝶が、百頭を超えて空に舞い上がる。
そして広場の村人は誰もいなくなった。
輪が連なった縄が、ぽつねんと舗石の上に置き去りにされている。
皆が呆然を体現している間にも、頭上に舞う蝶の数は増えてゆく。森の奥、ミュラの城があった方からも黒い一団が集まってきたのだ。ひらひらと舞う蝶は美しいが、これだけたくさんだと気味が悪い。
人は、花々が咲き乱れる百花繚乱は愛でるくせに、生き物の大群には恐怖を抱く。
到底立ち向かえない圧倒的な生命のうねりを前に、本能が脅えるのだろう。
個々では人には遥か及ばぬ儚い生命が、群れることによって別のひとつの意思を持ち、人をはるかに凌ぐ生への執着を剥き出しにする。
弱いと思っていた者が、反逆の烽火を上げる。
そして強いと思い込んでいた己の無力を知る。
それこそが根源的な恐怖だ。その恐怖は太古から現在まで地上に立つ人々の間を黒々と流れ、歴史を作ってきた。
恐怖を払拭するために勇気を唱え、剣を取る。
それは新たな恐怖と抵抗を生む。
散った命を踏み台にして、飲み込んで、濁った大河は無言で流れ続ける。
「全部集まったか?」
吸血鬼がもう一度指を鳴らすと、黒蝶の大群は石畳に薄く伸びるユニヴェールの影の中へと吸い込まれていった。
「残るはお前たちだ」
とばっちりを受けて残されたテオドールと共に、ミュラが地に膝を付いていた。
彼らもやはり規格内の吸血鬼らしく、陽光に当れば滅びるようだ。滅びは死とは違う。滅びは無への一方通行だ。天国も地獄もなく、ただ無に帰る。
「証拠を見せろとかごねていると灰になるぞ。お前が灰になったら、お前の大事な村人を生かしておく義理もない」
大雑把な脅迫もあったもんだ。
「……信じていいんだな?」
歯を食い縛り、肩で息をするミュラ。それを平坦に見下ろすユニヴェールの背後で、白十字がエリンに剣を突きつけている。
「お前が信じるか否かは問題ではない。私に忠誠を誓うか否か。だが、」
太陽の端が一条の強い光を世界に放射した。
ゆっくりと色を取り戻す街、濃さを増す影、朝焼けに底辺を染める雲。
「私は私に膝を折る者を決して裏切らない。神を殺してでも、世界すべてを焦土に変えてでも、例え私が滅んでも」
「…………」
すべての魔物が帰る場所。
神の制裁からも、大天使の剣からも、闇を庇護する大樹。
愚かな大言壮語と哂われそうな口上も、白十字の険しい顔が虚言ではないことを裏付けている。
「エリン、すまない」
彼女の方は見ずに、硬い動作でミュラが胸に手を当てる。垂れた前髪で表情は見えない。声は掠れてざらついていた。
苦い、そして痛い。
「シャルロ・ド・ユニヴェール」
その間は、橋を渡るために与えられた時間。
一歩は小さく、しかし大きい。
「……お前に忠誠を誓う」
最後、レオナール・ミュラは顔を上げた。
誰にも駆逐することのできない騎士の眼光。
「よろしい」
魔物を貫く光の本線が届く直前、ユニヴェールが再度指を鳴らした。
するとふたりの姿が消え、ふらつきながら羽ばたいた二頭のカラスアゲハが、吸血鬼が差し伸べた手の中へと消える。
「…………」
ユニヴェールが小指から親指へと流して手を閉じ、動きを止めた。
そしてこちらを見ないまま言う。
「パルティータ、お前、得物は持っているか?」
「すりこぎがひとつ」
彼女はすでにそれを手にしていた。
「それでは心もとない。あれを使え」
ユニヴェールがあごで指し示した街の入り口の方から、黒い剣士が青毛の馬に乗って駆けて来た。
朝になり呪いが去ったのだ。
「ルナール!」
「びっくりですよ! お城から誰もいなくなっちゃうんですもーん!」
「途中にヴァチカンの人たちがいなかった?」
「とりあえず全部片してきました」
ルナールがかいてもいない額の汗を拭う。
「あ、そう」
──と、
「下手な芝居はもう止めにしたらどうだ」
こちらの心温まるやり取りを無視して、ユニヴェールが聖なる一団に声をかけた。
「なぁ、エリン・グラー」
名指しされて、悲劇の乙女が吸血鬼にキッと敵意を向ける。
「娘が処刑されるというのに泣きもしない親がいるものか」
言葉に誘導されて、エリンの視線が広場を囲むひとつの建物へちらりと動いた。
それを追った先では、灰色の髪の厳しい顔をした男が窓からこちらを見下ろしている。あれは親の顔ではない。指揮官の顔だ。
「私を一番に愛しているなら、道を正してくれると思ったのに」
娘が少し力を入れただけで枷は外れ、からんと滑稽な音を立てて転がった。
ルナールに馬上に引き上げられたパルティータは、抑揚のない目で広場を見渡した。
「ミュラ卿がまだエリン嬢を愛しているのなら。エリン嬢が処刑されると知れば、助ける道は己の滅びしかないのなら、騎士は自ら滅びを選ぶだろう? ですか」
白十字が動こうとするのを吸血鬼が目で威嚇する。
「みなさんで口裏をあわせて、それが筋書きでしたか? すぐに殲滅させられてしまうだろう村の人たちを残すことを是とする騎士にも見えませんでしたが」
愛をためす。
神が人をためすが如く。
「分かる必要はないがね」
ユニヴェールが白十字に向き直り、背後のルナールに手を出した。
察した剣士が腰の得物をひと振り、吸血鬼に投げる。
「敬虔な騎士が吸血鬼に忠誠を誓うなど、滅びる以上の屈辱だ。半永久的に奴が背負う十字架となるだろう。それでも奴は私に屈した。何故か分かるか?」
鞘から抜かれた鈍色の刃が、ユニヴェールを主と了承する。
「お前も護りたかったからだ。エリン・グラー。私は彼と彼の護りたいものをすべて護ると約束したからね」
金色の黎明が今日を起こす。やがて大河の一滴として去り行く今日を。
「奴は、君の処刑が狂言である可能性も考えていただろう。だが敢えてそれを質そうとはしなかった。どれもこれも護りたくて己の首を締め上げる、呆れた優しさだな」
風が緑の匂いを帯びる。一匹の蝉が朝靄を震わせ始める。
忘れられていた豊かな熱気が、大地から立ち昇りくる。
「ルナール、パルティータを連れて屋敷に帰っていろ」
「卿はどうします?」
「どうする?」
吸血鬼の問いは白十字へ。
「貴様らの目当ての吸血鬼はもういない。手ぶらでは帰れないというのなら、お相手するが」
「パルティータをお前に渡したままにしてはおけない」
「……おい」
ユニヴェールが半眼で振り返ってきた。
「……お前ヴァチカンと知り合いか?」
「少しだけ」
メイドは指と指で少しの量を作って見せた。
「なんて面倒臭い!」
言いながら、吸血鬼の口角が上がり牙が露わになる。
「特務課の隊長殿でもなければ私の相手にはならんだろうが……」
聖騎士がエリンの腕を引っ張り、白十字が二匹とひとりを囲むように展開した。
「殺り合いたいのなら仕方ない」
微笑み、黒の麗人が軽く地を蹴る。
次瞬、光が閃き銀色の剣響が街を貫いた。
吸血鬼の剣と聖剣とが交わったのは一瞬、ユニヴェールがすぐさま切っ先を翻し、横から飛び込んできた白十字を下から上へ斬り上げる。
鮮血が黒衣に飛沫く前にその姿は中空を跳び、間合いを計っていた聖騎士に一撃が振り下ろされる。
背後からの一閃を振り向き様にかわし、左右からの追撃を右は剣で受け、左を手で握る。滑らせ払いのけた刃はそのまま左に突き刺し、抜いた刹那、まとめてやってきた一団を撫で斬る。
人間を超越した吸血鬼の力に、一切の無駄がない剣跡。
例え身が分かたれるほど刻まれなくとも、激甚な衝撃の数々は骨と臓腑に叩き込まれる。
そしてたたらを踏み、血を吐いた瞬間に首が落とされる。
仮面が落ち、割れ、踏まれる。
厳粛な朝が薙がれ、血塗られる。
いつしか、メイドと黒猫剣士を乗せた青毛馬は見えなくなっていた。
街の外へ向かってぽろぽろと聖騎士やら白十字やらが転がっているが、無事であることに疑いはない。
あの黒猫、剣の腕だけはユニヴェールに匹敵することをユニヴェール本人も認めている。
まだ無傷の白、赤に染まった白、入り乱れる中を黒衣が踊る。
彼にとってはこの程度、殺し合いではなく剣劇でしかないのだ。
人を制するために洗練されたはずの剣技、それが有無を言わさず聖なる狩人を屠ってゆく。
白い石畳には赤い花が咲き、絶命した吸血鬼始末人が空虚な眼窩を空に向けている。
濃い血臭が街に広がり始め、凄惨な絵は人々の内腑をえぐる。
鳥も鳴かない朝が、山の奥で蝉の鳴く朝が、アングスの今日だ。
そしてそれもすぐに過去となる。
◆ ◇ ◆
「ユニヴェール様、アルビオレックス長官からお手紙です」
吸血鬼が食堂で紅茶を飲みながら黒猫をからかっていると、パルティータが入ってきた。
「レオナール・ミュラ一派が暗黒都市に引っ越したお祝いのお誘いでしょうか」
ユニヴェールは銀盆にのせられたそれを取り上げ、斜めに目を通し、
「──いや」
含んだ目をメイドにやる。
「早く報告に来いとお怒りだな」
「まだ行っていなかったのですか?」
驚きも非難もない乾燥した疑問符。
「当たり前だろう。暗黒都市の私の領地に奴らの村と礼拝堂を造って既成事実にしてから報告に行かねば、ねちねち文句を言われるではないか」
「既成事実にしたところで言われるとは思いますが……」
「だが造ってしまえば、それを覆すことはできん」
「あぁ、悪徳政治屋のやりくちですね」
遠くを見るメイドの目に、月のないパーテルの夜が映った。夏の夜の静寂は、生命の蠢きに満ちている。暗がりに潜む小さな点は同時に過去から未来への線であり、そして世界を流れる奔流でもある。
「軽口を叩いていられるのも今のうちだぞ。手紙の続きには、お前を引き渡せとあるからな。陛下のものは陛下のもの。私のものも陛下のもの。何て横暴な思想だ」
「まぁ」
驚きも困惑もない乾燥した感嘆符。
「ヴァチカンとの関係がどうたらというのが耳に入ったらしいな。地獄耳め。あの狐目白鳥男にこっそり監視されていたとしか思えん」
「向こうの方が給料いいんでしょうか」
「引き抜きの話ではない」
「冗談です」
メイドとして採用する時にローマの貴族出身だと言った口が、あの時のように短く笑う。
「貴方が私を引き渡すわけがありません」
灰色の小娘が、予言のような口調でこちらを見下ろしてきた。
吸血鬼は横目でその視線を捕える。
「人間風情が魔物と契約をして、逃げられると思うなよ」
押しやられた紅茶のカップに、花瓶の薔薇の紅い花弁が落ちた。冷たくなった液体からはもう、芳香は広がらない。
そして──
「分かっています」
「──ルナール!」
パルティータのからんとした返事と、化け物吸血鬼の罵声が重なった。
飼い主への無礼に怒った忠臣猫が、全身全霊の力でユニヴェールの手に噛み付き報復を果たしたのだ。
黒猫を手にくっつけたまま立ち上がり、ぶんぶん振り回す吸血鬼。
「ユニヴェール様」
「何だ!」
「死人は痛みを感じないのでは?」
しばし天井を仰ぐ貴人。
まだ猫をくっつけたまま手を打つ。
「……あぁそうだった」
◆ ◇ ◆
それから数日後、暗黒都市へ報告に行った帰り、あの回廊の終点で、ユニヴェールは再び侍従長官に呼び止められた。
「ユニヴェール卿、貴方のところのメイドの件ですが、」
「パルティータ・インフィーネに関して、暗黒都市の指図は受けんよ」
慇懃な口調を取り去って、ユニヴェールは振り返った。
どうやら彼女のことはアルビオレックスの独断であるらしく、女王へレオーナル・ミュラの報告をした際には話題に出なかったのだ。
「芽は早めに摘むべきです」
「芽は咲かせなければつまらないだろう」
「そのために己が枯れることがあるかもしれませんよ」
「それはない。私だからな」
淡々と断じた不滅の吸血鬼は、そこで話題をも断じた。
一拍置いて、訊く。
「陛下は、お前も、あの男のことをあの男が吸血鬼になる前から知っていただろう?」
応えはない。
「アヴァルは異端の村。それが領主からヴァチカンに報告されるのは当たり前として、では領主には誰が情報を渡したのだろうか」
「さぁ、誰でしょうね」
アルビオレックスの穏やかな目が、奥で笑う。
「そこまでして欲しいような器かね、レオナール・ミュラは」
「──陛下のお考えですから」
死人を魔物として甦らせることができるのは、神の特権ではない。神の怒り、女王の引き抜き、化け物吸血鬼の気まぐれ。
闇に狙われた者がその底なし沼から逃れることは難しい。
一介の雇われ騎士であったミュラもまた、生身の人間であった時からすでに首に縄をかけられていたのだ。暗黒都市は、彼の運命を神から奪い取ったのである。
……それとも、神が手を放したのか。
「ところでユニヴェール卿、彼らの居住区に礼拝堂を建てているそうですね」
「頼まれたものは造ってやらねばなるまい? 何を信じようと私は構わんさ」
ユニヴェールは毒に満ちた冷貌で笑った。
「肝心なところだけおとなしく従っていれば何をしようと奴らの勝手だ」
「そういえば結局、彼らは暗黒都市に忠誠を誓っていませんでしたね」
「暗黒都市に忠誠を誓っている私に忠誠を誓っているんだから、似たようなものだろう」
「貴方は、」
白鳥の微笑が硬化する。
「そうやって自分の手駒を増やしていつか我々に反旗を翻すつもりでは?」
「まさか」
「実際に貴方は陛下の母上を滅ぼしている」
「私が死ぬ前の話だ。それに私は、反逆するとしてもひとりでやるさ。面倒臭くてちまちま手駒なんか増やしていられるか」
話を聞いているのかいないのか、アルビオレックスの双眸が紅蓮を灯す。
「もし本当に陛下に危害が及ぶことがあれば我々は──」
ユニヴェールは薄い笑みで彼の言葉を遮った。
「滅ぼせるものなら、」
他の誰にも聞こえぬよう、低く歌うように。
「滅ぼしてみろ」
そして踵を返した吸血鬼は、立ち尽くす紅の魔物を背に靴音を響かせた。
揺らぐ黒衣はやがて、濃密な城の瘴気に紛れゆく。
赤い月の下、パーテルの森の奥。
THE END
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