冷笑主義 復習編

ブラン・ド・ノワール

前編


※ はじめに ※
この短編は某所で初見の方向けに出したものです。
現在では考えられない馬鹿丁寧な描写と説明の数々を薄笑いと共に楽しんでいただければと思います。
なお、時期は「ジェノサイド」よりも前、パルティータの身元がバレる前でございます。




◆  ◇  ◆



「ユニヴェール様、お手紙です。……そんなに本を散らかして、何かお探しですか?」
「エメラルド・タブレット」
「錬金術の本を? また何故です?」
「庭の薔薇の葉に黒い斑点が!」
「まず斑点が出た葉を取り除く方が先です」
「…………」
「それよりも、暗黒都市の女王陛下からお手紙が参りました。足の踏み場がないので投げてよろしいですか?」
「許す」
「では」
「パルティータ! 縦に投げる奴があるか!」
「横投げは正確に飛ばすのが案外難しいのです。それで、陛下は何と?」
「…………。城へご招待くださるそうだ」
「あぁ、呼び出しですね」
「何か祝い事でもあるのか……」
「また何か怒られるようなことをしたんですね」
「お前は自分の主を何だと思ってるんだ。これからすぐに城へ行くから馬車を呼べ。それからこの部屋を──」
「ご自分の部屋はご自分で片付けてください」
「お前、自分の職業を知っているか? メイドだ、メイド。小間使い」
「自分が()いた種は自分で刈る。まっとうな人間としての生き方を母君に教わりませんでしたか?」
「私はもう人間じゃない」
「それは屁理屈といいます」
「ではお前の仕事は一体何なんだ! 何だったらやるのだ?」
「お出かけになる前に紅茶を淹れて差し上げます」
「…………」


──世界は神の箱庭か、その吸血鬼の劇場か。



冷笑主義・復習編
「ブラン・ド・ノワール」



 先の見えない濃密な闇が南フランスの森を覆い尽くしていた。
 新月の夜、流れる雲の影はなく、ヨタカも鳴くことを忘れ、獣が落ち葉を踏む足音さえない。
 木々の隙間から滲み出した黒い夜気は山間の小さな村々を飲み込み、ふもとの街々を包み込み、もはや世界は人の手にはなかった。
 滑空する蝙蝠(コウモリ)、実体のない(ひづめ)の音、風を渡る気配。
 大地の湿気と蓄積された熱がゆっくり混じり合い、そろりそろりと夏へ近付いてゆく。
 昼間の喧騒が霧散した生命の静寂。
 墓場の下の蠢き。
 人ならぬ者たちの息吹は森を抜け、田畑を横切り、城砦を越え──。
「誰か! 誰か!」
 かろうじて意味を成す悲鳴が夜を裂いた。
 周囲を山と葡萄(ブドウ)畑に囲まれたなだらかな街に、恐怖を報せる下女の声が反響する。
 彼女が見たものは、寝台を紅に染め横たわる女主人の姿だった。
 叫んでから、ランタンを握り締めた下女は部屋の入り口で硬直した。
 女主人の部屋にいた見知らぬ男が──どこにでもいる中肉中背、着古した身なりの男が、こちらを振り返りもせずに窓から飛び降り逃げて行ったのだ。
 ここは二階だというのに!
「…………」
 女主人の目を見開いた血の気ない顔見れば、もはや息がないのは明らかだ。
 しかし主人の様子を伺うまでもなく、彼女は何が起こっているのか分かっていた。
 とうとうこの街に順番がまわってきたのだ。
 彼女は足をひきずり、震える手を叱咤しながら窓に寄った。突然高熱に冒されたように身体の節々が軋み、どうにか己の動きを止めようとしている。地上にわだかまっていた熱がすべて消えてしまったように、寒い。今自分を支配してしようとしているものが本能なのか恐怖なのか、彼女には分からなかった。
 しかしそのどちらでもない何かが彼女を窓へと駆り立てたのだ。
「主よ、どうか慈悲をお与えください。主よ、どうか、どうか我らに慈悲を」
 彼女が見下ろした街の通りには、いくつもの黒い人影があった。
 目を凝らせば人のようではあるが、あちこちの窓から飛び降りてきたその者たちは、いとも簡単に着地をすると痛がりもうずくまりもせずに悠然と歩き始めるのだ。
 時折失敗した者は、曲がった足首を自分で元に戻して何事もなく流れの中に混じってゆく。
 人の形をした、人ではないもの。
 蜘蛛の子が集まるように、その数は次第に増えてゆく。
 あまりのおぞましさに彼女が口元に手を当てたと同時、街のあちこちで悲鳴が上がり、塗り潰された闇にぽつぽつと火が灯され始めた。
 すると、
「引き上げるぞ!」
 通りに群れていた異形たちを割って、(びょう)を打った白い外套を羽織った男が現れた。
 硬質の光を放つ金髪に、紅の三白眼。
 厳格な騎士とも無法な傭兵ともとれる蒼白い顔つきは、照燈(ファロ)の赤い灯が燃やされ始めた夜によく映える。
「……ブラン・ド・ノワール」
 それがその化け物に付けられた呼び名だった。
 (ノワール)(ブラン)。白をまとった魔物。だがどれだけ装おうが魔物は魔物。黒は黒。
 彼が街を見まわす視線は、敵意と怒りが入り混じりひどく鋭利で重い。
 黒の群集の目が自身に向いていることを確認した男は無言で外套を翻すと、通りを下り、街を出て行く。異形の者たちはその後を追う。
 擦り切れた衣服をまとい、穴の開いた靴を鳴らし、列をなし潮騒の如くざわめく、それはまるで黒死病(ペスト)が流行った時に(うた)われた死の舞踏ではないかと思えた。
 街の通りを揺れながら連なる黒い死。
 圧倒的な世界の裏側が音を立てて目の前を過ぎてゆく。
「主よ、どうか慈悲をお与えください。主よ、どうか、どうか我らに慈悲を」
 神を裏切り神に見捨てられた者達の行進は、しかし聖騎士達がやってくる間もないほど速やかに街を出て行った。
 呆然とした沈黙が街を包み、少しの間を置いて本物の純白を盾にした聖騎士が隊を成して通りに現れる。
 そして、我に返って彼らを呼ぶ声、大人が悲嘆にくれる声、遅い到着に憤慨する声、子どもの泣き叫ぶ声、犬が無闇に吠える声、様々な音の渦が街に響き渡り始めた。
 下女はもう一度寝台を振り返った。
 やはりそこには目を開いたままの女主人が無残に転がっている。
「奥様……」
 下女は知らず冷たい板張りの床に崩れ落ちた。
 主人はこんな風に自分の人生が終わるなどとは思ってもいなかっただろう。しかし彼女が死んだ今、自分は雇い主を失ったことになる。
 これからどうしたらいいのか……胸に溢れた不安に嫌悪を感じ彼女は自分の顔を覆った。
 自分の先行きを憂うよりも先に主の死を哀しまなければならない、彼女はそう繰り返し繰り返しつぶやき続ける。
 ランタンひとつの小さな炎に照らされた部屋の中で。

 近隣の町や村が魔物に襲撃されているという噂はあったのだ。
 ブラン・ド・ノワールに率いられた吸血鬼の群れに町ごと襲われるのだと。
 彼らは静かに街に忍び込み、悟られぬよう住人を次々襲い、誰か一人にでも気付かれた時点で群れごと風のように撤退する。
 いつかこの街にもやってくる──言葉にはされなかったが、皆が思っていたことだ。

「私のせいだわ」
 暗闇を遠ざけようと赤い火が煌々(こうこう)と灯された街、その中を走りまわる聖騎士や住民を見下ろし、若い娘が涙を浮かべていた。
 編んだ褐色の髪はほつれ、握り締めた手にも開きかけの唇にも血の気が無い。
「私が止められなかったから。私たちがあんなことをしたから……」
 街の大半を眺望できる城。のどかな山の街にはやや似つかわしくない、見張り塔をいくつも有した堅牢な石積みの城。
 その広間には彼女や彼女の母、そしてメイドたちや下男たちが集められており、数人の傭兵が立哨(りっしょう)していた。
「これはたくさんの人を殺してしまった報いよ」
 彼女の首元で、小さな金の十字架が光る。
「私たちは、死をもって死の償いをしなければならないのよ……」
「エリン、何を馬鹿なことを言っているんだ」
 天井の高い広間に男の大声が響いた。それはいっそ清々しいほど。
「お父様」
 きびきびとした動きで広間に入ってきた彼女の父親は、ラングドック王室領であるこの辺り一帯を王に代わりに治めている小領主だった。
 痩せてはいるが骨格は良く、眼光鋭い。
「これは我々が正しかったことの証明ではないか」
 彼もすでに自室で休んでいただろうに、着込まれた衣服にも灰色の髪にも乱れは無く、自慢のエメラルドのスカーフ留めまでしっかり付けている。背筋を伸ばし毅然とした様は、彼の性格を如実に表していた。
「神はご存知だったのだ。奴らが異端だと。己を欺く者だと。だから奴らはあんな化け物になったのだろう? 神の御許へ行くことを許されずに」
 すべての燭台のすべての蝋燭で揺らめく火が、神に(ひざまず)く者の朗々たる言葉をより一層赤々と照らす。
「ベズィエの異端狩りで教皇特使はなんと言った? “──すべて殺せ。主こそが彼らをよく知り給う”。そうだ、神は知っていた。奴らは救うに値しない者たちだと」
 襲われた側だということを忘れたかのように、広間に満ちていた緊張と恐怖が高揚へと変わってゆく。敵の喉笛に聖剣を突きつける仄暗い気炎、勝利目前の前線に蔓延する飢えた熱。
 エリンの父、グラー卿は誰の方も見ずに高らかに命令した。
「ヴァチカンへ遣いをやれ! 吸血鬼始末人クルースニクを寄越せとな。今度こそ奴らを根絶やしにしてやる。ブラン・ド・ノワールを──吸血鬼レオナール・ミュラを滅ぼすのだ!」



 時は十五世紀後半、中世暗黒時代。
 それは物語の時代から科学の時代へと移り行く狭間の時代だった。
 志高き若者が過去と未来を学び道を切り拓き、パトロンたちの財力で絢爛な芸術が花開く一方で、民は貧困にあえぎ、神の御名を掲げた魔女狩りの粛清はなお白さを極め、呼応するように夜の闇は深く、その世界を魔物が闊歩していた時代。
 光はまばゆいほどに輝き、それゆえに影も底なしに(くら)く濃い。
 誰かが蹴飛ばした髑髏は、明日は我が身。
 差し出される手は神のものか、それとも──。


◇  ◆  ◇



南フランスの片田舎、パーテルという町の背後にその森はある。
 通称“黒い森”。
 神聖ローマ帝国に広がる黒い森(シュヴァルツヴァルト)と同じく針葉樹が多勢を占める森ではあるが、その名の由来は黒い見た目ではなく、その森が内包しているものだ。
 空は木々の葉に覆われ地上に落ちてくる光はほんのわずか。昼間でも薄暗い森はどちらを見まわしても同じ景色が続き、(しるべ)はなく、獣道すらなく、棘のある茂みが群生し、下草が絡み合い、堆積した落ち葉の湿った匂いに満ち、彷徨い始めたら最後、方向を失い生きて帰ることは困難。
 だからこの地域の民はどれだけ薪に困ろうとこの森にだけは入らない。
 そのうえ、この森はある砦を隠しているのだ。
 大昔に砦としての役目を終え放棄されたように見えるそれは、半ば土に埋まり表面は苔生(こけむ)し、隙間から芽吹いた若い木々が根を伸ばし破壊を始めている。
 だが、この辺りがフランク王国だった時代も、カエサルからガリアと呼ばれた時代も、この砦が今と同じ姿であったことは誰も知らない。
 ここに兵が立ったことはなく、ここで将が剣を抜いたこともなく、ここを王が訪れたこともなく、ここが敵に襲われたこともない。
 そんな古びた砦の隅に作られた小さな木扉を開けて先に進めば、森の姿は一変する。
 林立する木々の間をたゆたう深い霧。世界を覆うのは永遠の夜、赤く燦然(さんぜん)と輝く巨大な月。
 敷かれた一本の道をただ行けば、やがて霧は晴れ森は終わる。
 そして眼前に広がるのは、城と都だ。

 星のない夜と赤い満月を従えてそびえたつ黒曜彩の城は、一際高い主塔(ドンジョン)を中心に、重厚な回廊、天を刺す尖塔をランタン塔を無数に有し、美しく壮麗。
 城下に広がる都は、真夜中の宝石屋の如く妖しい煌きに満ちている。
 煉瓦色の屋根々から突き出る時計塔や鐘塔。郊外の方には華美な装飾の宮殿が数々並ぶ。
 洒落た照燈に彩られる店々には得体の知れない品々や異国の品々がお高くとまって並び、道行く者は豪奢な衣装で着飾った者、黒一色をひきずる者、首のない騎士、骨だけの者、羽飾りと仮面を付けた者、実に様々。
 黒鹿毛の天馬が引く馬車が石畳を行き交い、運河の黒々とした(さざなみ)の下を何隻ものキャラック船が走る。
 世界各地の名品と珍品と美食と頽廃と背徳と魔物達が集まる都。人間が足を踏み入れてはいけない都。

 世界はこれを、暗黒都市、ヴィス・スプランドゥールと呼ぶ。



<レオナール・ミュラという吸血鬼を知っておるかえ>
「名前だけは」
 “華麗なる悪徳”の名を持つ都市の中心、魔物たちが仰ぎ見る城の一室に、三匹の魔物がいた。
<どんな者かは知らぬと?>
 御簾(みす)の向こうから投げかけられる女の問い。それはあらゆる魔物の頂点に立つ女の声だ。
 暗黒都市の女王。
 地獄の王も北欧の魔狼も雪の女王も彼女の前では皆膝を付く。
 部屋に響く声は老いてもいないし若くもない。穏やかな平坦調だが、感情が排された旋律はゆるやかな圧力と高い浸透力を持っている。麻薬の酩酊に誘う(みことのり)
「それは陛下の方がご存知でしょう」
 嫌味も含めた軽口に、
「質問に答えなさい」
 御簾の横に立つ優男が目つきを険しくした。
 紅の燕尾に身を包んだその男は物柔らかだが、鉄壁の無表情をのせた顔と切れ長の双眸は、ローヌ氷河もかくやというほどの冷ややかさだ。
 侍従長官にして女王近衛隊(エクリプス)副隊長という肩書きだが、つまり女王陛下のお世話係で殺傷能力が高すぎる懐剣。
 例えれば白鳥だろうか。
 優美で凶暴。
<アルビオ、よい>
「……はい」
 御簾の中からの制止に彼が胸に手を当てた。
 一拍置いて女王の言葉が続けられる。
<確かに少しは知っておる。派手に人間を狩っていると聞いたえ。通称、ブラン・ド・ノワール>
「手下の吸血鬼どもを大勢引き連れて、フランスのラングドック周辺を次々襲っていると聞きました。所詮、情報源は人間たちの噂に過ぎませんが」
 言外に興味がないと漂わせ、台詞の主は白い手を伸ばしてテーブルに置いてあったティーカップを取った。
 一口味見をしてからビロード張りのフレンチソファに深く背を預ける。
「私はそれ以外は何も」
「魔貴族たちが彼を潰そうとしているという話を聞いたことは?」
 壁の花と化している長官殿が訊いてくるが、男は首を横に振った。
「いいえ、存じません。しかしあり得ないことではないでしょうね。レオナール・ミュラが自分たちの地位を脅かす前に潰しておこうという心情は非常に分かりやすい。そうやって淘汰されることは良いことです。どちらが潰れるかはともかく」
 陶器から離された血色のない薄い唇からは鋭い犬歯がのぞき、艶のあるテノールが漏れる。完全な他人事として。
<ユニヴェール、わらわはのう……>
「はい?」
 シャルロ・ド・ユニヴェール。
 それがその男の──その傲慢不遜な吸血鬼の正式名称だ。
 歴々の教皇が、緋色の枢機卿たちが、瀟洒(しょうしゃ)な令嬢たちが、王冠を戴く領主たちが、聖なる騎士たちが、田畑を耕す民人が、異国を流離(さすら)う詩人が、そして闇を闊歩する魔物たちが、魔物の王たちが、憎悪を込めて、愛を込めて、恐怖を込めて、畏敬を込めて呼ぶ名。
 三百年の昔から世界に刺さった薔薇の棘。
<レオナール・ミュラに伯爵位を与えたいのじゃ。彼には期待しておる>
「はぁ」
 地上を刺す月光よりも冴えた銀髪に、鼻梁の通った彫りの深い白皙。しかしそこには払い去ることのできない永遠の死の(かげ)がはりつき、長い睫毛の下の対の目は呪われた血脈を映して深奥まで紅く、しかし温度が無い。
 この男の玲瓏な顔貌に酔い、哀れな一生を終えた女は数知れなかった。
 優艶なしなやかさと凍れる目、絶望を許容する強靭な精神、薙がれても痛みすら感じない身体に、高飛車な物言い。そして地上の光を飲み込み尽くす空虚な死。
 それらすべてが人を狂わせる。
<だがそれでは魔貴族たちの嫉妬も攻撃も激化しようぞ。そこで、そなたにレオナール・ミュラの保護を命ずる>
「…………」
 その優艶が黙ってカップをテーブルに戻した。
「嫌です」
<ミュラはわらわの気に入りなのだよ。馬鹿どもが奴を潰さぬよう護ってくりゃれ。もちろん、威信にかけて彼を狩ろうとするだろうヴァチカンからも」
「面倒くさい新人のお守りは嫌です」
「ユニヴェール卿、これは陛下直々のご命令です」
 再びアルビオが口を挟んでくる。
「貴方のところのメイド、今頃ミュラ卿のところだと思いますよ。今回は貴方の給料を美術品と宝玉で払うことになったと伝えたら、ふたつ返事で一緒に付いてきたそうです」
「……あの守銭奴め! 先にくすねる気だな」
 思わず立ち上がった吸血鬼は、牙の奥で毒づいた。あのメイドが書斎の片付けを放り出しほいほい付いていった絵が鮮明に浮かぶ。というよりも、たぶんその絵は現実だ。
<もうひとつ>
 不興を隠しもしない吸血鬼に向かって女王がゆっくりと付け加えてきた。
 地上に太陽が昇り、暗黒都市に月が昇るのと同じ、“絶対”の王。
<レオナールは元々敬虔な騎士でな。吸血鬼に堕ちながら暗黒都市に(くみ)することを是としていない。あの男はまだ、神を愛している。いかにわらわが我侭とて、暗黒都市に(ひざまず)かぬ者に爵位を与えるわけにはゆかぬ>
 アルビオが継ぐ。
「彼は神に忠実ですが、ヴァチカン──カトリックから異端の罪に問われて殺されています」
「……本題はそちらですか」
 吸血鬼は御簾と長官との間に視線をやった。
<奴の力が欲しい。そなたの力でこちら側に引きずり込め>
 異端の騎士。神にすがり続ける吸血鬼。ゆえにブラン・ド・ノワール。
「…………」
 ユニヴェールはわずかの間、浅く目を閉じた。
 そして再び開いて、胸に手を当てる。部屋中に飾られた薔薇の強い芳香が彼の動きにあわせて踊った。
「陛下のお望みとあらば」



 ユニヴェールが退室すると、侍従長官殿が付いて出て来た。
「まだ何か用が?」
 本来侍従は女王の傍に仕えているもので、客人を追うことなど滅多にない。
 吸血鬼が肩越しに訝いぶかる視線をやれば、太古の化け物がおもむろに口を開いた。
「貴方には、私がミュラを潰したがっているように見えますか?」
 侍従長官アルビオ。正式名称はアルビオレックス。“(レックス)”という単語を名に持つこの魔物は、千年を優に超える遥かな昔から存在している。人がまだ救世主キリストを知らず、太陽を崇め夜を敬い峻厳(しゅんげん)な自然に平伏していた時代から、彼はそこにあった。しかし時が移ろい人々がただひとつの神を讃える頃には、その姿は忌むべき魔物へと変えられたのだ。敬虔な神の使徒たちによって。
「長官殿がミュラを?」
「そういう噂があるそうです。幸い、まだ陛下のお耳には届いていないようですが」
 城内にあっては万民の母のように振舞うが、血の流れる戦場にあればどれだけの首を狩っても眉ひとつ動かさない死神と化す。
 生死の両面を司っていた古代の神はその二面性をまだ──否、さらに極端に有している。
「陛下の寵がミュラに移ることを妬んで? それとも長官殿の謀略を知った陛下が貴方を疎んじるように?」
 ユニヴェールは半身引いて彼を斜めに見た。そして、
「くだらない!」
 大仰な仕草でまとわりつく空気を振り払う。
「だとしたら、貴方はまず私を潰しているでしょう。ねぇ?」
 実はこの吸血鬼は女王から求婚されたことがあり、しかも丁重に辞退したという前科がある。
「そうしたいのは山々ですが、できることとできないことの区別くらいつきますから」
 冗談の欠片もなく苦虫を噛むでもない淡々とした返答。
「…………」
 ユニヴェールは一瞬の笑みを口端に浮かべて消した。
 そして彼はアルビオに背を向け、城の廊下を歩き始める。
「吸血鬼なんて脆弱な生き物ですよ。貴方たちのような古い古い伝承の神々に比べたらね」

 見上げるヴォールト天井は遥か高く、イーリアスやオデュッセイアの壮美な絵物語が歩む者を圧する。ギリシア軍とイーリオス軍の激突、荷馬車に乗せられ祖国へ帰るへクトールの遺骸、オデュッセウスの前で妖艶に微笑むアイエイエー島の魔女キルケ、セイレーンの歌声響く海原……。
 物語の終焉でもある回廊の終点は遠く、ぼんやりと闇がわだかまって視力は届かない。奢侈な金の装飾が施された付柱(ピラスター)は城を護る巨人の如き寡黙さでその闇の奥まで居並び、吊り下げられた火のないクリスタルシャンデリアは、世界を包む赤い月光を冴えざえと乱反射している。
 溢れる光でも注ぎ込まれた財でもなく、昏い陰影の倒錯によって創り上げられた城。
 志半ばで生を奪われた芸術家たちの怒りが、神の下の平穏よりも魔の下の美の追求を選んだ狂人たちの執心が、創り上げた城。

「所詮、我々吸血鬼は生きた屍に過ぎません。罪を犯した者、破門された者、神に背いた者……いずれにせよ、神が救うに値しないと見放した者の成れの果てです。神が治める永遠の平穏、その国への扉を閉ざされた者」
 深い紅の絨毯の上を吸血鬼の黒衣が翻る。裏地に縫い取られたカラスアゲハ──ユニヴェール家の紋章──があわせて舞う。
「貴方は見放された者ではない。神を見限った者だ」
「何故人間は吸血鬼を恐れるのでしょう?」
 ユニヴェールはアルビオの言葉には応えず、歩を進め続ける。
「太陽に焼かれれば灰になり、銀の銃弾で消滅し、杭を打たれただけで復活できなくなる。聖剣で首を薙がれたらお終いだし、新たな血が飲めなければ発狂し、幻の過去に耽溺(たんでき)したあげく、愛だの恋だの情に呑まれて自滅する」
「貴方にはひとつも当てはまらないように思えますが」
「吸血鬼は鏡なのです。もしかしたら自分もこうなってしまうのではないか、神から見放されてしまうのではないか──。彼らが常に抱えている死の審判への畏れが明々と映る鏡。だから彼らは吸血鬼を恐れ、直視したがらない。そこにいる哀れな異形は己の未来かもしれないから」
「吸血鬼を恐れるのと、貴方を畏れるのとは全く意味が違いますよ」
 強い調子でアルビオが割って入った。
「彼らが貴方を畏れるのは、貴方が神の意義を無にしてしまうからです。貴方は、彼らの精神の最大の拠り所である者の存在意義を真っ向から否定する存在だ。何度殺されても甦る。決して滅びることがない」
「神の支配のなんと愚かなこと!」
 ユニヴェールは舞台上のように高く歌い、優男に一瞥をやる。
「死んだ後の安寧と救いを求めて生きるなんてくだらない。世の中が品行方正な神父と修道女(シスター)ばかりになったら、どれだけつまらないことか!」
 シャルロ・ド・ユニヴェール。
 名門貴族の若き当主でありながら、その一族を皆殺しにした男。教皇インノケンティウス3世から破門され、フランスで毒殺され、ヴァチカンに埋められ、そして吸血鬼として地上に返ってきた男。
 彼の興味は──それは生前から──歴史の奔流にあり、いかに世が乱れ人が足掻き彼を楽しませるかにある。求めるのは流す血よりも流される血よりも、己も混じっての流し合う血。
 生と富と美と権力と愛に執着するあらゆる狂気が、彼の杯を満たす葡萄酒となる。しかも注がれる酒が聖者のものだろうと人のものだろうと魔物のものだろうと、それは関係ない。
 彼は暗黒都市にさえ雇用契約上の忠誠を誓っているに過ぎないのだ。
「私が愛するのは、血を流しながら剣山の頂を目指す者、仲間の手を放してでも激流に棹を立てる者、心奥に獣と裏切りと悔恨と苦悩を飼う者、星の予言に抗う者、賢者を足蹴にする者、誰の救いも求めぬ者、すべてに命を賭ける者」
 城の廊下は創造者たちの激情と執念に満ち、息の詰まる濃密な気配に覆われている。
 しかし通り過ぎる二匹の魔物の華やかな凄味が、それらを一掃してゆく。
「私が一番楽しみにしているのは、最後の審判によって永遠の命を授かり輝かしい安寧に身を任せている神の国へ乗り込んで、甘ったれた怠惰な輩を一人残らず、もちろん神も天使も含めて滅ぼしてやることです」
 存在そのものが反逆であり、罪であり、神への冒涜。
 天に助けと祝福を求める民に高らかな哄笑を浴びせ、だが神も天使もヴァチカンも三百年に渡って彼を滅ぼすことができないでいる。
 祈りも信仰も正義もこの優麗な死を滅ぼすことができないのだ。
 しかしそんなことがあってはならない。許されてはならない。その矛盾こそが、シャルロ・ド・ユニヴェール。不滅の吸血鬼。
「その時は我々も共に剣を取るでしょう」
 物語は永遠ではない。廊下の終わりに辿り着き、アルビオが立ち止まった。
「しかし貴方が陛下に刃を向けるようなことがあれば、私個人ではなく暗黒都市そのものが貴方の敵に……」
了解しました(ダコール)
 侍従長官殿の不穏な口上を遮り、
「ご心配なく、いただいてる金の分くらいは働きますよ」
 微笑を含んだ闇は闇に溶け消える。



◆  ◇  ◆



「陛下からのご下命です」
「俺はあいつの手下になり下がった覚えは無い」
「しかしもうお連れしてしまいました」
「持って帰れ。俺は受け取らない」
「それではユニヴェール卿のご不興もお買いになりますが」
「自分の家のメイドを他人に押し付ける奴があるか」
 細い月が見下ろす夜の森。
 二匹の魔物が口論をしている。
「少しの間預かっていただくだけです」
「そうやって俺に言うことを聞かせた既成事実を作ろうって魂胆だろうが」
 ここがどこなのかは分からないが、パーテルの黒い森とは違う広葉樹の森は心なしか明るい。木々の間を軟風(なよかぜ)が抜けてゆき、下生えが葉を揺らす。虫の羽音、鼠の駆け足、(フクロウ)のつぶやき、小鳥の寝言……、無数の生き物の気配がする。
「陛下ほどの御方が、そんな下劣な真似をする必要がありましょうか」
「下劣な輩の首領が公明正大なんて話があるか」
 不毛な議論に飽きた青毛の馬が前脚で土を掻き、鼻息を荒げる。
「陛下は誇り高い御方です」
「そんなことはどうでもいい」
「──あの」
 彼女は馬車の横に突っ立ったまま、片手を挙げた。
「どうやら私は騙されてここに連れられてきたようですが、」
 強情な性格を反映した真っ直ぐな黒髪に、白い縦襟(スタンドカラー)ブラウスと灰色のメイド服。メイドに最も必要な素質である愛想を丸ごと道に落としてきた無表情。足下には連れてきた黒猫がまとわりついている。
「ユニヴェール様が承知のことであるならば、私は暗黒都市に従います」
 パルティータ・インフィーネ。職業、ユニヴェール家のメイド。
「……とは?」
 彼女を連れてきた張本人、黒いフードマントに身を包んだ暗黒都市の使者は、半分仮面で隠した顔をこちらに向けてきた。とはいえ彼の顔のさらされている方が骸骨なので、あまり仮面の意味は無い。
「そこのお兄さんが──」
「レオナール・ミュラ」
 目つきの悪い金髪が律儀に自己紹介を挟んでくる。
「ミュラ卿が私を受け入れる受け入れないではなく、私がここに留まるか帰るかという選択であるということです。そして私は留まる方を選びます」
 猫が鳴いて咎めた。
 彼女は無視した。
「貴方は女王陛下の言いつけどおりにここに私を置いていける。ミュラ卿は暗黒都市の頼みを聞いたわけではなく、ただの人間である私の頼みを聞いただけです。いかがでしょう」
 彼女の棒読みの台詞の後に、誰かが台詞を飛ばしたような間が訪れる。
 空駆ける雲が月を過ぎ、森が翳って再び照らされた。
 それからややあって、
「……いいでしょう」
 暗黒都市の使者が高飛車にうなずいた。
 併せてレオナール・ミュラも渋々ながら首肯する。
「それではそういうことで」
 彼女は誰かの気が変わる前にと、さっさと使者の横を抜け、金髪男の横を抜け、猫を従え、城門をくぐった。
 森の中の古城。それはロワールやセーヌ、ローヌの川沿いに点在する美しさや栄華を誇示する城館ではなく、要塞としての機能を最優先にされた灰色の無骨な城だった。初期ロマネスクの色褪せた風貌。山のふもとから攻めてくるのだろう敵を静かに睥睨(へいげい)している。過去そうしていたように、敵がいなくなった今も。
 ──それにしても。
 石造の門衛室の窓に光る目を視界の端に入れながら、白い軍服のレオナール・ミュラが後ろから付いてきている足音を聞きながら、パルティータは奥歯を噛んだ。
 “ユニヴェールの給料を美術品で前払い”が嘘だったとは……あの使者、次に会ったらすり潰して白壁に塗り込んでやる。



「今、部屋を用意させている」
「ありがとうございます」
 中庭の見える小広間に通されたパルティータは、ミュラの入室に立ち上がった。
「改めまして、私はパルティータ・インフィーネと申します。主はご存知のとおりシャルロ・ド・ユニヴェールですが、ご安心を。私は至って普通の人間です。魔物をバッサリ斬れる伝説の剣は持っていませんし、偉い人に指名された勇者でもありませんし、突如として湧いて出た吸血鬼を葬る能力もありません」
「だから心配なんだろうが」
 明らかに客人を不快にさせようという意図のため息をついて、パルティータの前を横切る男。
 白い衣装によく映える綺麗な金髪に、ガラの悪い三白眼。その紅の虹彩は正真正銘魔物の証だが、しかし彼は首から小さな金色の十字架を下げていた。魔物ゆえ十字架が当る部分の肌が焼けただれているが、そうまでして付けているからには何か思い入れがあるのだろう。
 親だとか、恋人だとか。
 そもそも、彼のような戦闘体型の男には華奢すぎて違和感があるのだ。
「ご心配には及びません。自分で留まると判断したのですから、何があっても貴方に賠償請求するつもりはありません」
「賠償を請求できる状態ならいいけどな。死んだら金の請求もできない」
「私は請求するつもりはありませんが、主はどうでしょう」
「…………」
 思いっきり睨んできたレオナール・ミュラが帯剣しているバスタードソードの柄頭(つかがしら)(つば)、鞘は、驚く程に精緻な意匠だ。それなりの金を積まなければ手に入らないし、世界に溢れる雇われ人が積める金の額とも思えない。
「それで、私が騙されてここに連れて来られた理由は何ですか?」
「俺が知るか。こっちの方が困ってるんだ、突然化け物吸血鬼の手駒を押し付けられてな。お前が奴のメイドでなかったらとっくに命はないさ」
「ユニヴェール様、ありがとうございます」
 とりあえず主の人徳に感謝する。
 しかしミュラが嘘を付いていることも明白だ。彼は、決定的な理由が分かっていないにしろ、状況は把握している。何か仮説を持っているのだ。
「レオナール・ミュラという名は聞いたことがあります」
 パルティータは黒一色の双眸をひたとミュラに合わせた。
「……が、内容を忘れました」
 基本的に他人の噂話には興味がない。
「さっさと寝てさっさと帰れ」
「この城に住んでいるのは貴方だけではありませんよね?」
 さっきの門衛室然り、城には多くの気配がある。人間のそれとは違う、冥暗の底を這う体温のない気配。
「この城内には多くの住人がいるが、その半分以上が吸血鬼だ」
「では貴方も吸血鬼ですか?」
 ミュラは窓際へ寄り外を睨み、返事をしてこない。
 当然という意味か、肯定を口に出したくないのか。
「ちなみに、ここはどこですか?」
 パルティータは話の矛先を変えた。
「ラングドック、ベズィエやアングスの街の近くだ」
「アングス……」
 彼の言葉を信じるならば、ここはパーテルからは遠くもないし近くもない。しかし彼女はミュラが例に挙げた街の名に引っかかっていた。
「その街は先日吸血鬼の集団に襲われたと聞きました」
「あぁ、俺たちさ。俺が連れて行った。エサを食わせる必要があるからな」
 抑揚のない声だったが、わざと感情を欠落させていると言った方が正しい。
 吸血鬼が弱い月光に影を深くしてこちらを振り返ってくる。
「怖いか?」
「まさか」
 その問いで何を確かめたかったのかは知らないが、パルティータは一瞬で叩き落した。
「私が恐れているのは“無報酬労働”、“骨折り損”、“無駄な出費”、そういう類のものです。悪党や魔物や化け物は対象外です」
「…………」
「ミュラ様、お支度が整いました」
 部屋の外から姿の見えない声がして、ユニヴェール家のメイドは早々に城の一室へ追いやられた。



「……やっぱりね」
 黒猫を従えた彼女は、大人しく眠りにつくわけもなく、城の中を徘徊していた。化け物吸血鬼の手下だからといって、行儀の悪い客人でいようと努めているわけではない。
 どこかから複数のすすり泣きが聞こえてきてうるさいのだ。
「きっとここが原因よ」
 古色蒼然とした城の中、半円アーチ型の窓で彩られただけの回廊を奥に進むと、扉のないぽっかりとした空間があった。斜めに差し込む白い月明によってぼんやり発光しているように見えるのは祭壇だ。
 いわゆる、毎日神に祈りと感謝を捧げるための礼拝堂。
「さっきまで誰かいたわ」
 中に入っていくと、祭壇には手折ったばかりの野薔薇が捧げられていた。花弁は濃いピンク、花芯が黄色いその花は夜気を含んで半分閉じている。
「──他人の城をうろつくのが趣味か」
「この城に住む半分以上が吸血鬼なら、半分以下は何でしょう」
「……人間だ」
「そうですか」
 背後にミュラが現れたのは分かっていた。が、それでも彼女は振り返らなかった。
「人間が吸血鬼と共同生活。その人間はエサとして飼っているわけではありませんよね?」
 零落の城に似合いで、礼拝堂もひどく簡素な造りだ。
 左右には尖頭のアーチ窓、正面には聖母子画と主祭壇には火が灯された蝋燭一本、隅が欠けて飾り板が剥がれかけている説法台、行儀よく並べられた木製の長椅子。そして銀盤の水に浮かべられている野薔薇。
 毎日のミサを執り行うことだけを目的とした飾り気のない部屋。
 規則正しく、厳かな文言が人々口から発せられる部屋。
 だが、この礼拝堂の祈りの残響はひどく濃かった。
「ここは異常です」
 パルティータは目を細めた。
 この部屋には、頭が痛くなる程に身を切る叫びが残っている。もはやそれは祈りとは言えず、呪詛になりかけているのだ。神を愛すあまり、神に懇願するあまり、その言葉は神と世界を呪う言葉に変容している。
 ようやく彼女は、入り口に背を預けている不機嫌そうな吸血鬼に向き直った。
「貴方たちは何者ですか」
「…………」
「ここでの祈りは、人間が生活を営む一環のものとは思えません」
「……そっちこそ何者だ」
「シャルロ・ド・ユニヴェールのメイドです。それ以上でもそれ以下でもありません」
 彼女は魔物の紅の双眸を正視した。吸血鬼の方は逸らしていたが。
「神に祈りを捧げる魔物はいません。一部の、神を愛するあまり堕天した者たちを除いては」
 この城の住人を率いているのがレオナール・ミュラであるとするならば。
 見た限りこの城のどこにも──調度品や彼がまとっている衣装にも──紋章らしき印がないこと、そして彼の粗野な物言い。それらは、生前の彼が貴族出身ではないことを示唆している。そして暗黒都市の使者がミュラに対し“卿”という敬称を使っていたことから、誰かから与えられている地位は子爵か男爵か騎士。腰の剣へのこだわりを考慮すると、彼の属性として導かれる答えは“傭兵上がりの騎士”だ。
「ここで行われているのは規則正しいミサではないはずです。ここはもっと、もっと悲痛な祈りで溢れています。まるで魔物が神にすがるような」
 パルティータはミュラを観察しながら続けた。
 彼女の足下には、金色の目の黒猫が常に寄り添っている。
「神の救いの手から落とされたという絶望と、赦しを請う嘆きと、何故こんな今があるのかという怨嗟と」
「…………」
 口を引き結んでいるその男の年齢は、おそらく主であるユニヴェールと同じ程度、三十をわずかに越えたあたりだろう。端然とした顔立ちではあるが、それを褒め称える美麗秀句よりも武人としての強靭さを表す形容詞の方が相応しい。
 あの現れ方からして、パルティータが城内の吸血鬼に襲われないようずっと見張っていたのだろう。この男、言葉遣いは荒いが根は真面目だ。彼女の主とは正反対で。
「貴方たちは化け物になるつもりはなかった。なるとも思っていなかった。でもなってしまった」
「…………」
 さっき会ったばかりの人間の小娘に洗いざらいしゃべるような奴はいない。
 それでも構わなかった。
「貴方たちは神を慕い続けている。でも神は貴方たちの手を放した」
 包むことをしないパルティータの断言に、漆喰の床に落とされていた吸血鬼の視線が、窓を透かし遠方へ向けられる。
「私が推測するに、生前の貴方は傭兵騎士だった」
 図星なのか、瞬きがこちらを映し、すぐ月夜へ戻る。
「この城に住んでいるという他の吸血鬼は? 貴方と同じ騎士ですか?」
「……いや」
「では普通の民」
「あぁ」
 素直でよろしい。
 だがこの返事は、彼自身が行き場を失っているという告白でもある。この女に関わることで新たな道が見えないか、無意識に探そうとしているのだ。
「貴方ひとりならまだしも、たくさんの弱い吸血鬼を匿って、暗黒都市にも下らず、派手に狩りをして、ヴァチカンの標的にならないと思っているのですか? 下手をしたら、本来味方であるはずの暗黒都市からも敵とみなされかねません」
 それは彼が一番よく分かっているだろう。
 始終不機嫌そうに見えるのは、この男の眉間に刻まれた皺が消える間がないからだ。始まりは過ぎた時のどこなのか、苦悩の証。
「いつまでも逃げられるとは思わないことです」
 パルティータは突き放した。半音さえ上がりも下がりもしない調子で、暗黒都市にもヴァチカンにも染めずに。
「……分かっている」
 腕を組み唇を噛みじっと石壁にもたれる吸血鬼に注がれる眼差しはない。
 祭壇に祀られている聖母も、彼女を囲む大天使たちも、その誇らしげな微笑は彼女の腕の中の無垢な救世主だけに与えられている。
 礼拝堂に落ちる重い憂愁と絵の中の暖かな陽射しはあまりも、(いびつ)だ。
 その歪みこそが、パルティータがこの城に放り込まれた理由なのだろうが。



「帰らないんですか?」
「帰らないわよ」
 翌朝、パルティータは中庭を望む列柱回廊に立っていた。
 その後ろには、黒尽くめの剣士が従っている。
 長い黒髪を背中に流し、顔色が悪く、下まぶたに異様なアイラインを描き、腰にはふた振りの剣を帯びている長身の男。物理的に近付かれると不幸まで寄ってきそうな風貌だ。しかもこんな時期に黒尽くめは見た目が暑い。景観を損ねる。
「ユニヴェール卿に怒られませんかね」
「ルナール」
 彼は自称亡国の王子だ。国の滅亡の折に魔女の呪いを受けて重要な記憶をぽろりと失くし、昼間は人間、夜は黒猫という二重生活を余儀なくされている。三百年近くそんなかんじで何かを悟ったのか、元々そういう性格なのか、ユニヴェールやパルティータの下僕扱いにも飄々としている、ユニヴェール家の居候。
「貴方、レオナール・ミュラについて何か知っている?」
 正直者のミュラが言ったとおり、この城には普通の人間も住んでいた。
 さっきから、下の庭の井戸へ水を汲みに人が何人も通る。皆、どこにでもある村のどこにでもいる人間と変わらない。灰色メイドと真っ黒剣士という奇妙な二人組にも気さくに声をかけていってくれるのだ。しかし穏やかな顔から滲む疲弊までは隠せていないが。
「レオナール・ミュラ……最近ラングドックの村々を集団で襲っている吸血鬼の親玉だとしか。巷ではブラン・ド・ノワールと呼ばれているそうです」
「ブラン・ド・ノワール。黒の白、ねぇ……」
 それは吸血鬼なのに白い衣装をまとっているからか。それとも誰かだけが知っている暗喩なのか──パルティータは昨夜の礼拝堂を脳裏に浮かべながら、口の中で反芻(はんすう)した。
「パーテルはある意味ユニヴェール卿に護られていますからね。あの化け物の膝元が他の吸血鬼に襲われるなんてことがあるわけがない。だからあまり興味がないようで、実のある噂はありません」
「そう」
 中庭を囲う壁に沿うように植えられたエニシダはこぼれるほどに黄色の花をつけていて、人が通り空気が動くたび、強い芳香が体を包む。
 強い日差しを浴びて草木や花々が作る影の中を、小さなアブやハチが飛びまわる。
「私がここにいることがユニヴェール様にとって不都合なら、すぐに連れ戻しにくるでしょう」
 しかし昼のあけすけな光に晒されて、城も神秘をまとい続けることはできないようだった。
 所々崩れ落ちている城壁や、ハーブはびこる庭に埋まっている石砲は、かつてこの城が何らかの攻撃を受けた痕跡なのだろう。
 護るべき者を護りとおせたのかは不明だが。
「逆にすぐ連れ戻しに来ないのなら、すでに何かが始まっているということよ。無闇に動かないでおきましょう。少なくとも、動かざるをえなくなるまではね」
「了解」
 ユニヴェールではなくパルティータに忠誠を誓っている黒猫剣士は、恭しく呟いた。
「何が来ても斬ればいいんですよね、斬れば。大丈夫、パルティータには傷ひとつ付けさせませんから!」
 そして、灰色メイドが風と共に去った回廊でひとり拳を右上へ突き上げた。



◆  ◇  ◆



「まるで帰ってこんな」
 パーテルの屋敷でユニヴェールは独りごちた。
 町の中心からは離れた坂の上、黒い森の前にその屋敷はある。森への侵入者を見張るべく、煤けた時代を冠して座しているユニヴェール邸。昼間はメイドが掃き掃除、夜になると火が灯されるのが常だが、現在屋敷の前は森から飛んできた松葉や草きれ、羽虫の死骸などが散乱している。
 つまり、お母さんが家出しちゃった状態だ。
「暇だ」
 吸血鬼は食堂の椅子にもたれ深くため息をつく。
 自分で淹れた紅茶は不味い。彼はティーカップの中の濁った琥珀の液体を見下ろして、
「あいつは自主的には帰ってきそうにもないな」
 窓の外へ、半円よりも丸みのある白い月へと流し目を送る。
「ヴァチカンも動いたようだし」
 大きなテーブルの上には、すでに花弁が縮れてしまった薔薇の入った花瓶がひとつ、封を破った手紙が一通。
 それはローマに置いている彼の部下からの報告だった。

──レオナール・ミュラを討つため、ラングドックのアングスに向かってヴァチカンの白十字団が出立した。

 主要都市を魔物から護るために配置されているのが聖騎士団。
 その聖騎士たちの中でも、吸血鬼を狩ることに特化した者たちを“吸血鬼始末人(クルースニク)”と呼ぶ。
 白十字団はその上位組織にあたり、教皇庁直属の吸血鬼始末人精鋭部隊だ。十三人編成で七団が存在する。
 そのうち四団が向かったというのだから、ヴァチカンは本気だ。ミュラだけでなく、その吸血鬼が率いている集団ごと殲滅させるつもりだろう。しかしたかだか数ヶ月世を騒がせている新人吸血鬼に大袈裟という感も否めない。
「何かあるな」
 ユニヴェールは長い爪で自身の薄い唇をなぞった。
 女王がミュラについて語った情報はすべてではないはずだ。あちらは一番に下に置かれた札を裏返したまま、隠している。
 アルビオレックス程の魔物が自身の噂を気にかけていたのもおかしい。ああいうナルシストにとっては、他人の評価なんぞあってないようなものだ。全部都合よく解釈するのだから。
 第一、こうして時を置いても魔貴族たちがミュラを攻撃する様子は一片もない。
「…………」
 世界を穿(うが)つような吸血鬼の眼差しは、口元の微笑と共に意地の悪い色を帯びる。
「そう都合よく事を運ばせるものか」


 ローマからフランスへ、幾多の街を抜け、寒村を過ぎ、荒野を原野を林を森を、白い聖衣の吸血鬼始末人の集団が葦毛(あしげ)の馬を駆る。
 彼らにだけ与えられる聖剣を携え、人としての感情を捨てた仮面を被り、土埃と地鳴りを立てて、人為らざる者の仮初の命を狩りに行く。
 神が創りしこの庭を闇の侵食から護るため、神に救いを求める民のため、神の代理人として魔物を薙ぎ払う。その鉄槌は、それが元々人間であろうが斟酌はない。

 かつて聖ベルナールは聖地奪回へ向かう十字軍に対し、言った。

 ──キリストの騎士にとっての闘いは、主のための、そしてキリスト教徒を護るための闘いである。敵を殺すことはすなわち、悪を殺すことである。死を受けようと、死を与えようと、どちらもキリストのための死なのである。死を与えることは、キリストに仕えるためにすることであり、自らが死を受けることで、キリストの許へ赴くことができるのだ。

 国境のない白十字を遮るものは何もない。
 十字架のために己も家族も愛も捨てた者たちの前には、生と死を隔てる迷いさえない。
 地中海を望むジェノヴァの賑わいを眼下に、プロヴァンスの遺跡群を背景に、サハラより来きたる南風(シロッコ)を裂き、アルプスより流るるローヌの大河を渡り、なだらかな葡萄畑の続く山間を、狩人はひたすら前へ進む。



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