冷笑主義
第9話 カステル・デル・モンテ
中編
ユニヴェールとパルティータがアンドリアのカステル・デル・モンテに着いたのは、アスカロンが発ってから三日後の昼過ぎだった。
暗黒都市の馬を使ってもそれだけかかったのだ。フランスからここまでがいかに遠いか分かるだろう。
それならばユニヴェールが単独で影を渡ってくればよいものを、彼は何故か彼女を連れてきたのだ。
「卿〜〜〜!」
「アスカロン」
丘の上にぽつんと建つ不思議な建造物へと消えかけの雪を踏んで歩いて行くと、荒れ野の風景の中から若者がバタバタと駆けてくる。
彼はユニヴェールと同じであまり陽光を気にしない。
吸血鬼ではない魔物だからという理由がひとつ、魔物の太陽に対する耐性も様々だというのもひとつ。
「ルナールはどうした?」
「俺が来た時にはもう城の中に入った後だったみたいだぜ。……そ・れ・よ・り! 俺、入れないんだけど、この城の中に!」
「あぁ」
「結界っていうやつか? とにかく扉や壁に手を触れただけで弾かれて、無理矢理進んでも押し戻されるんだよ。だから俺はこのクソ寒い中ずーーーーっと吹きっさらしの外で突っ立ってたんだぜ!」
死人に寒いも何もあったものではないだろうが、彼は身振り手振りで力説してくる。
「やはりな」
「はぁ!?」
盛大な声を上げるアスカロンを尻目、ユニヴェールは城の入り口へと歩いて行く。
男はいつもの黒衣の上に、冬仕様の長い外套をまとっており、頭上に王冠でものせれば今すぐどこの王にでもなれるような風貌をさらしていた。
態度はでかい、年月は重い、力は強大。
暗黒都市の影の王などと揶揄されるのも無理は無い。
「フリードリッヒがこれを造って以来私も何度かここへ来たが、入ることが出来たことがないのだ」
「なっ。じゃあ入れないってはじめから分かってたのかよ!」
「だから急いで行けと言っただろう? ルナールが城へ入る前に捕獲しろ、と」
「……くっそぉう」
アスカロンが不貞腐れて小石を蹴った。
その横で吸血鬼は神妙な顔をして長い指を門扉にかける。
だが火花が散る音がして、彼は反射的に手を引いた。
「駄目か」
数歩後ろに退いて、ユニヴェールが城を仰ぎ見る。
「さすがはあの男が造った城だ」
いつもは完璧に整えられているその男の銀髪だが、今日は強風にあおられ乱れ、前髪がいくつも顔にかかっている。
「フリードリッヒは占星術なんぞにも手を出していたようでな、“八”という数字はイスラムにおいては“天”の意味を持つらしい」
吐く息は白く、空は鈍い灰色。
見渡す限り続く雪混じりの荒涼地帯、枯色の中の城無き城。
そして完璧な美を誇る、時を捨てた魔物の王。
それは、ずっとそのままにしておきたいような絵だった。
──貴族の姫君たちがこぞってその身をこの男に差出したがるのも、分かる。
そう思ったパルティータだったが、それを口に出すことは決してしない。
すぐつけ上がるからだ。
「まったく酔狂な男よ。勝手に魔物を撃退するような友達がいの無い物を造りおって」
「変な人だったんですね」
パルティータは正直な感想を述べた。
すると主が彼女の方を見下ろして問題を出してくる。
「フリードリッヒは教皇の意に従って世界をカトリックに染める気など微塵もなかった。……分かるか?」
「──古のローマ帝国と同じように、征服した地に宗教の自由を許した、と?」
「よくできました」
主は風に吹かれ、外套をひるがえしたまま講釈を続けてきた。
「あいつは十字軍に行くのを渋り過ぎて破門を喰らってな。仕方なしに破門されたまま聖地エルサレム奪還に向かったんだが……」
彼は語りながら思い出し笑いを始める。
「アラビア語も理解する、イスラム文化も理解する。そして天才的な学識。そのせいかあいつはエルサレムを治めていたスルタンと妙に気があってな、戦わずしてエルサレムの統治権をもらってしまったんだよ!」
きっと吸血鬼ユニヴェールは、フリードリッヒ二世の友人知人代表だか何だかで、その場にいたに違いない。とはいえ、のんびりと傍観していただけだろうが。
「教皇庁は戦わないなど腑抜けだと言って非難したし、戴冠式では皇帝に随行していた司祭たちが破門を理由にフリードリッヒに王冠を与えるのを渋った。だがあいつは自分で自分の頭の上に王冠を載せたのだ」
彼は牙を見せて笑っていた。
だが何を思って笑っているのかは定かでない。
もちろん教会に対して笑っているのは明らか過ぎるほどに明らかなのだが、しかし──。
「その頃の教皇グレゴリウス九世はまれにみる敬謙な教皇だった。神を中心とする清廉な教国を創ろうとした。対してフリードリッヒはシチリア王国……つまりはこの地、イタリアを基盤とした、“皇帝”が君臨するかつてのローマ帝国を目指した」
男の薄い唇から白い息が漏れた。
「ふたりは決定的に相容れなかったのだ」
動かないユニヴェールの表情からは、それを残念がっているのか面白がっているのか、判別は不可能だった。
ただ分かっているのは、皇帝フリードリッヒの死後程なくして彼の出身であるホーエンシュタウフェン家は断絶したこと。だが教皇庁はまだ存在すること。その歴史的事実だけだ。
「……パルティータ」
「はい?」
「お前入ってみろ。人間が入れないことはないだろう。お前が人間ならな」
この吸血鬼は時々、年齢不相応な嫌味を言う。
「あー、そのための要員だったんですか」
パルティータは得心すると、パタパタと扉に近寄った。
彼女はいつものメイド服の上から柔毛にふちどられた黒い外套をしっかり身に付け、黒い帽子をかぶっており、おまけに手袋も完備。
アスカロンが歯噛みして悔しがるくらいの防寒対策で、しかし黙らせておけば良家の深窓令嬢に見えないこともない。
「私は大丈夫ですよ、ホラ」
彼女は体重を後ろにかけて扉を引き開け、するりと中に入ってから渾身の力で両の扉を押し開ける。
「やっぱり人間だったか」
「やっぱりって何ですか」
ムッとして返すと、紅がそっぽを向く。
「では私はルナールを探してきますね」
簡単に言い捨てて、パルティータは主を見捨てた。
「あぁ。……あ、ちょっと待てお前、おい、パルティータ! 主人をこの寒風吹き荒ぶ中に置いていくのか!? 魔を中に入れる方法を考えようとかしてみる素振りくらいみせろ! 貴様、薄情者! 給料減らすぞ!」
空虚な城に無駄な抵抗が響き渡る。
「中には魔物がいるって言ってるのを忘れたのかバカ娘! 魔物を喰うんだ、人間だって喰われるぞ! ルナールが喰われた後だったら、逃げるための囮もいりゃしないんだぞ!」
「…………」
アスカロンが遠い目をして荒野を見やる。
「……バカ娘め、一度喰われてしまえ」
ユニヴェールがつぶやいた。
◆ ◇ ◆
「何か、思い出しましたか?」
姫はいつでも玉座の間の隣にある広間にいた。
「いいえ」
ルナールは首を振り、彼女の横に腰掛ける。
午後になると彼女は窓辺に置かれた長椅子に座り本を読むのだ。どうもそれが日課らしかった。ここに来て数日ほど観察した限りでは。
「しかしこの城を知っているのは確かです。歩いていると、その先にどんな部屋があるのか自然に分かるのです。ここには絵画があったはずだとか、ここには天蓋付きの寝台があったはずだとか、そんなことまで湧いてくるのです」
「……それをつないでいけば、いつかは貴方が探していらっしゃる記憶に辿りつくのではありませんか?」
「そうかもしれませんね。アデリーヌ」
さらりと名を加えると、姫がさっとこちらを向いた。
幼さの残る表情に、驚愕と失望がのっている。
「わたくしの名をご存知で?」
「そりゃあ、まぁ。お話したように、案外長生きですから、僕は」
「いつから私がアデリーヌだと気が付いていらっしゃいましたか」
「確信したのはこの城に着いた時ですが。カステル・デル・モンテに住んでいる者なんて、魔物を喰う魔物、“シチリアのアデリーヌ”以外に思いつきませんよ」
「……確信したのに中に入ったのですか」
「えぇ、そういうことになりますね」
「何故」
強い語調で詰問されて、ルナールは軽く肩をすくめた。
「何故といわれましても……気分ですよ」
彼は彼の主そっくりの仕草で足を組み、広間を見回す。
「この城が僕を呼んでいたのかもしれませんし、いかに魔物を喰う魔物であっても、麗しい姫君をこんな荒れ果てたところに置いてきびすを返すのは心苦しかったのかもしれません」
この城の粗野な土壁が、ひどく落ち着いた。
窮屈な狭い螺旋階段なのに、何時間も座り込むほど懐かしかった。
外の光が入り込む窓から見た風景は、時折脳裏をかすめてゆく絵と同じだった。
「フリードリッヒ二世は赤髪だったと言いますから、貴方が彼だということはあり得ないでしょう」
ルナールから顔をそらしたアデリーヌが告げてくる。
「それは買いかぶりすぎですよ、姫! 僕は教皇と対立して世界の覇を争おうとするほどの野望が持てる性格ではありません」
「ですが。皇帝が亡くなった後、この地──シチリア王国を手に入れるべく侵攻してきたフランスのシャルル・ダンジュ−が、この城に皇帝の皇子を幽閉していたという噂があります」
「…………」
「それがどの皇子なのかは定かではありませんが」
「そうですか」
どの皇子にしろ、彼らは敗れたのだ。フランスと教皇と、に。
それくらいルナールも知っている。
亡国の王子。その欠片残された記憶は、もはや大昔に崩れ消えたホーエンシュタウフェン家の治めるシチリア王国のことだったのだろうか。
「……関係ないことをお尋ねしてもよろしいですか?」
彼はさばさばと感傷を捨てた。
「何ですか?」
輿入れする前ほどの年齢に見える姫だが、いかにも魔物らしく物腰は老成している。
どこか脆そうなところがないわけでもないが。
「貴女はもうすでに一度亡くなっている魔物ですよね?」
「えぇ」
「そしてこの城の結界は貴女が作ったものではなくて、フリードリッヒ二世の趣味による建築構造の副産物ですよね? 家主がそう昔話でぼやいていたのを聞いたことがあります。建築祝いに行ったら結界が出来てしまってて入れなかったんだって。──だからこそ本来は魔物の貴女ひとりだけではこの城から出ることも入ることもできないはずなんです」
「…………」
アデリーヌの紅唇が結ばれた。
「あの僧侶が、貴女を外に出したり中に入れたりする手引きをしていたんではありませんか? あの僧侶がいなければ貴女はこの城で生きることなんて不可能だったのでしょう?」
部屋の外で執事の如く立っているのであろう老僧の方を透かし見るように、ルナールは目を細める。
「貴女は貴女の意志でここにいるのではない。貴女は貴女の意志で僕を連れてきたわけではない。──貴女の後ろにあるのは、ヴァチカンの意志ですね。聖なる都が貴女をこの城という籠の中で飼っている」
彼は彼女の大きな碧眼を見据えた。
「違いますか?」
「…………」
アデリーヌが長い睫毛を伏せ、大仰にため息をついた。
「見かけによらず、冴えた方なのですね」
「見かけによらず、ですか」
「やはりフリードリッヒの血を引いていらっしゃるのかもしれません」
彼女が寂しげに笑う。
ルナールは長椅子の背にまわしていた手で姫の髪を撫で、
「こんなにも時が経ってしまえば血筋など……」
言おうとしたそこへ──
「ルナール! バカ猫! 探したわ!」
問答無用な罵声が飛んできた。
いなくなった猫を見つけた飼い主の、愛ある“バカ猫〜”ではない。
きっぱりとバカ呼ばわりした、寸分の狂いもないバカ猫発言だった。
「……げ」
思いっきり軽薄剣士の顔がひきつり、彼が無意識に首を回した広間の入り口には、黒尽くめのメイドが仁王立ちになっていた。
彼女の顔を見て、“あ、貴女は──!”などと意味不明に慌てふためいている僧侶を裏拳で昏倒させ、黒い女は言ってきた。
「貴方が好きで喰われるのは一向に構わないけど、喰われる前に遺書を書きなさい」
「……遺書ですか」
「そう。えぇと文面は、全財産を──……」
勢いのままに言いかけた彼女が、虚空の斜め上を見た。
耳を澄ましているのだ。
「ねぇ、何か聞こえない?」
「聞こえますよ。なんだか、大勢が乱闘しているような音が」
ルナールが適確に教えてやると、彼の横に座っているアデリーヌが静かに言った。
「──あれはホーエンシュタウフェン家の兵士たちの亡霊ですわ。今でも彼らは護り、戦っているのです。この城に仇なすものが現れると」
「この城に仇なす……」
ルナールの顔が一層青ざめた。
「って、まさかパルティータ、ユニヴェール卿もいらしているんですか!?」
「私が慈善活動でこんな辺境まで来るわけがないでしょう? でもユニヴェール様はアスカロンと一緒に城の外に置き去りにしてきたのよ。色々面倒くさそうだったから」
どーでもよさそうにため息をつく彼女。
「あー。どうしよう」
しかし本当にそうつぶやきたかったのは、ルナールの方である。
◆ ◇ ◆
「どうするんですか、卿」
「どうしようもない」
男ふたり城から閉め出しをくらって、佇む。
空は夜へと向かって灰色の濃さを徐々に増していた。比例して風の冷たさも増す。
「今夜も雪になるかもしれんな」
氷風に遊ばれる銀髪を鬱陶しそうにかきあげて、吸血鬼は荒野を見下ろした。
なんとなく、指先の動きが鈍い気がする。
「フリードリッヒは生涯、教皇が差し向ける敵と戦い続けたが、他の諸侯はあの男ほどカトリックを冷笑していたわけではないからな。裏切り者は後をたたず、息子のハインリッヒまでが教皇にそそのかされて父帝に刃を向けた」
「息子が?」
「その頃はすでにハインリッヒはドイツ王だったが……いつまでも父親の駒でしかないことに不満を持っていたらしい」
「へぇ」
「フリードリッヒはハインリッヒの目を潰して監禁したが、息子は別の城に移される時に谷底へ身を投げて死んだんだと。その頃私は別の地にいたから詳しくは知らんが」
「うわぁ……自分から死んだんだ」
ユニヴェールは素直な相槌を打ってくる自分の駒を見やる。
「お前たちもいつでも刃向かってよいのだぞ」
「──誰に」
「私に」
「はぁ?」
心底きょとんとした顔でアスカロンが口を開け、しばらくしてから笑い転げ始める。
「何で今更刃向かうんだよ! 刃向かうくらいならはじめからアンタに付いてきたりしないって!」
「ほー」
「俺たちはどっかのバカ息子みたいに権力が欲しくて死んだ──魔物に堕ちたわけじゃない。アンタは俺たちの恩人だし、アンタに惚れたから死線を越えてまで付いてきたんだ」
ユニヴェールが言葉を返すことはなく、彼はただ鼻先で笑った。
裏のありそうなひねた顔をしている割には、表しかない男なのだ、アスカロンは。
よく知っている。
「ならばひと働きしてもらおうか」
「おうよ」
ふたりは不敵に地平を見据えた。
そこには、何千という騎兵歩兵が現れていた。
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