冷笑主義

第9話 カステル・デル・モンテ

前編




 冬の夜ともなれば外の空気は凍てつき、すっかり葉の落ちた木々の枝には粉雪が降り積もる。
 かすかな音はすべて雪に奪われ、ぼんやりと明るい雪の白さだけが浮かび上がる。
 幻想的な世界だが、それを楽しむのは曇った窓から外をのぞく子供たちだけ。
 大人は外に思いを馳せることもなく、身を縮め、暖かいスープで息をつく。
 そして火が入った暖炉の前では猫が丸くなる。
 世間一般の常識ではそういうものだ。

「……そういえばここ三日ほどルナールを見ていないのだが、奴はどこへ行った?」
 読みさしの本をテーブルに置いたユニヴェールが、食堂に会している誰にともなく言った。
「さぁ」
 パルティータは素っ気なく返す。
 彼女は銀貨をテーブルに平積みして数えるのに忙しいのだ。
「アンタ、知ってるか?」
「いいえ」
 顔を見合わせてブンブンと首を振ったのは、蒼の魔女フランベルジェとやさぐれアスカロン。
 彼らはさっきからずっと飽きることなくチェスをしていた。
 ちなみにフランベルジェの全勝である。
「シャムシール」
「──?」
 ユニヴェールの問いかけが、暖炉のすぐ前に敷かれた絨毯の上、特等席に陣取り絵版画の束を広げていた少年に向かった。
 彼が無造作にめくっているその版画はどれも、ユニヴェールが長い年月をかけて収集したものだ。名もない画家から知る人ぞ知る宮廷画家のものまで、大作はないがどれも全て本物。彼らの友として、援助者パトロンとして、直接貰い受けた芸術品である。
「それ、燃やすなよ」
「大丈〜夫」
 座り直した少年が、無邪気に笑う。
 いつか故意に燃やしそうな無邪気だ。
「……絶対だぞ」
「ルナールのことは聞かないの?」
 少年に見えてすでに数百年生きている少年が、可愛らしく首を傾げる。着ている深緑の法衣が体のサイズよりもかなり大きいものだから、憎らしいほどに可愛らしい。
 だが可愛らしさよりも危機感を感じているらしい主は立ち上がり、少年の正面に向かうと疑念を含んだ目つきをしながら彼を見下ろす。
「……ルナールよりもその版画の方が大事なのだがね……。……お前、よく昼間も起きているだろう。ルナールがどこに行ったか知らないか?」
「出かけるって言ってたよ」
「ほぉ」
「南イタリア……シチリアへ行って来るって。えぇと、プーリアってところ」
「──シチリアのプーリア?」
 ユニヴェールが少年から視線を外し、暖炉の炎を睨んだ。
「この寒い中やけに遠い場所まで出かけるものだな。あいつ寒さは苦手だったろう」
「そういえば、」
 パルティータは言いかけで立ち上がり、奥に置いてあった銀盆を持ってきた。
 その上には綺麗な白い封筒が一通。
「全然関係ないんですけど、ロートシルト卿からお手紙が届いていました」
「ロートシルトからならお前宛だろう?」
「いいえ。今日はユニヴェール様宛です」
「──今日は?」
「えぇ」
 彼女がかくんとうなずくと主の片眉が上がったが、それ以上の言葉は返ってこない。
 黙した男が手紙を取り上げ、開いた。
「…………」
 同時に柳眉がぴくりと動く。
「伯爵は何と?」
 一応尋ねて見れば、手紙を持った手がやや降ろされた。
 自分で確かめろということらしい。パルティータがつま先立ってのぞきこめば──、
Attention.(アタンスィオン)
 白い紙の真ん中にそう一言、走り書きしてあるだけだった。
 あの伯爵らしい美しく大胆な筆致だが、あの伯爵なのに文章そのものに飾り気がないこと自体が薄気味悪い。
「……気をつけろ、ですか。一体何に、でしょうね?」
 あのロートシルトという若吸血鬼は、ユニヴェールとはまた違う次元で“世界は自分を中心に回っている”と思い込んでいる。
 また自分だけとんでもない劇場の中にいて、意味深なヒントを送るという重責を担った登場人物になりきっているのだろうか。
「シャムシール、ルナールは何をしに行くか言っていなかったか?」
 ユニヴェールが手紙を置くことなく、暖炉の少年に再度問うた。
「女の人を送ってくるって言ってたよ。なんだか没落貴族っぽい、可哀相なお姫様なんだって。お供の人もあんまりいなくて、道中盗賊に襲われたりしたら危険だから僕が護るんだとかなんだとか」
「その女の容姿の話は?」
「えっとねぇ、金髪でしょ。碧眼でしょ。白いドレスに白いケープ、それから……」
『……エメラルドの髪飾り』
「へ?」
 自分の声にユニヴェールのテノールが重なったことに驚き、シャムシールが大きな茶色の目を開いて仰ぐ。
 だが吸血鬼の視線はすでに上方。
 紅玉ルビーに劣らない明度と硬度の双眸が、すっと細まって笑う。
「没落の儚い姫君の騎士か。いかにもルナールが好きそうな役柄だ」
「それが何か?」
 パルティータが分からないという顔をすると、ユニヴェールが満足げな目で流し見てくる。確信を得た時の、勝ち誇った余裕。
「ルナールがひっかかったその女は、人間ではないはずだ」
「……というと?」
「おそらくルナールたちが向かっているのはシチリアの南、プーリアにあるアンドリアの丘」
「アンドリアの丘……? 確かそこには──」
 フランベルジェの遠くを見つめるような声音に、ユニヴェールがうなずいた。
「アンドリアの丘にあるのは最後の皇帝、フリードリッヒ二世が遺した城無き城、カステル・デル・モンテ。ルナールが騎士を務める姫君は、そこに住みついているという“魔物を喰らう魔物──シチリアのアデリーヌ”に違いない」


◆  ◇  ◆


 しばしの沈黙があり、真剣味の足りない声でパルティータはぼそりと言った。
「魔物を喰らう魔物ということは……ルナール、食べられてしまうんですね」
 語尾は下がり調子。疑問符が付くどころか決定事項になっているところが何とも薄情である。
「かもしれんな。ほいほい女にくっついていく尻軽なアイツが悪い」
『…………』
「夜は猫になるだろうに、アイツはどうやって姫を護るつもりなんだ?」
 部屋に漂った奇妙な空気を完全無視して、ユニヴェールが暖炉に手をかけ嘆息した。
「フリードリッヒのあの城に俗な魔物が住み着くというのも気に喰わんが、たぶらかされて喰われる脳ナシも気に喰わん。おまけにその脳内花畑が私の……私の……。パルティータ、私から見てルナールは何だ?」
「友人?」
「違う」
「召使」
「役に立たん」
「あぁ、居候」
「それだ。……その軽石男が私の屋敷の居候だとはな」
「しかしユニヴェール様」
 パルティータは銀盆を抱え直して異議申し立てをする。
「何だ」
「フリードリッヒ二世は三百年ほども昔の皇帝ですよね? 最後の皇帝とはどういう意味ですか? 神聖ローマ帝国の皇帝ならば今だってドイツ王のフリードリッヒ三世が兼任して……」
「笑止!」
 パルティータの意見は一瞬で笑殺された。
 暖炉の炎を見つめる白い麗貌に、冷ややかな嘲りが浮かぶ。
「あんなもの、もはや皇帝ではない。フリードリッヒが死んだ時、古のローマ帝国再建の意志も死んだのだ。ヴァチカンのインノケンティウス三世が最大にまで高めた教皇権を、あの男は鼻で笑って踏んで見せた。そしてあの男が世に知らしめしたローマ皇帝の権力は、あの男が死んだと同時に消え去った」
「皇帝に会ったことがおありですか?」
「生きたユニヴェールとしても、死んだユニヴェールとしても、な」
 化け物貴族は口端で笑った。
「フリードリッヒは驚くべき鬼才のうえに究極の虚無主義者ニヒリストでな。イスラムにしろカトリックにしろ、人々が信じることを奨励も禁止もしなかったが──、あの男自身にとってはどちらも単なる政治上のしがらみでしかなかったのだよ。だからこそ……奴とは結構気が合った」
 鋭い流線型の爪が、コツコツと暖炉の煉瓦れんがを叩く。
「あいつは破門されたあげく皇帝廃位を宣言されて、おまけに偽皇帝討伐と称して十字軍を差し向けられてもなお教会に刃向かった輩だからな」
 そして主は双眸を三日月のようにしてニヤリと付け足してきた。
「そんな奴がコチラ側(暗黒都市)に来たら私の地位も危うくなると思ってだな、あいつの死に際にはわざわざ奴に忠告して神父を呼び寄せさせた」
 ──破門されたままの身で死ぬと、主の言うコチラ側……つまり魔物になってしまうのだ。
「おかげで奴は安らかに死んだが、フリードリッヒという巨大なくさびを失った歴史は迷走して迷走して──」
 主はしらじらしく胸元で聖印を切る。
「ご愁傷様なことだった」
 フリードリッヒ亡き後、ドイツは次々と傀儡かいらい王が対立して立つ大空位時代シラーを迎えた。
 そしてフリードリッヒのもうひとつの国シチリア王国は、彼の皇子たちとフランスとの戦いの場となり、皇子たちを討ち君臨したシャルル・ダンジューと暴政に耐えかねた民衆との戦いの場となり、あげくはそのシャルルとスペイン・アラゴン家ペドロ王との戦場となり。
 まさに混迷を極めた不幸な地となったのである。
「…………」
 道化じみた台詞を止め、ユニヴェールがもう一度ロートシルト伯爵からの手紙に目を落とした。
 そしておもむろに口を開く。
「……アスカロン」
「何だ?」
「カステル・デル・モンテへ行け」
「ええええーーー俺がーーーーッ!?」
「今すぐ」
 抗議の声を上げる若者だが、彼の飼い主は容赦ない。
「お前は影の中を渡れるだろう? わざわざ人の姿で馬車で行くより何倍も早い。先に行ってルナールを捕獲して来い。城の中に入られたらどうしようもないからな、必ず先回りしろ。アデリーヌのことだ、普通の馬なんぞ使うわけがない。……捕まるか捕まらないか、ギリギリのところだな」
「寒いのになぁもう。で、卿はどーするんだ?」
 言いながら、フランベルジェに王手チェックメイトをかけられて顔を歪めるアスカロン。
「私は寒いから行かない……と思ったが」
「?」
「暗黒都市に仇なす者を片付けるのが私の仕事でもあるからな。今まで黙認してきたが──私の持ち物に手を出すとなれば、それなりに痛い目にあってもらわねばならん」
「つまり叩き潰しに行くわけですね」
「金をもらっているからには仕事はすべきだろう」
 ユニヴェールが暖炉にかけていた手を離し、手紙をテーブルの上に置いた。
 彼は軽く両手を払い、旅支度に向かおうとする。
 しかしその後ろに続いたパルティータの背後から、おっとりとした警告が響いた。
「ですがユニヴェール様」
 フランベルジェだ。
「カステル・デル・モンテはローマの更に南ではありませんか」
「それがどうした」
「先日もフィレンツェにおもむいたばかり。ローマをかすめてカステル・デル・モンテへ行くなど、あまり聖人方を刺激するのはよろしくないんじゃないかと思いましたの」
 すでに向かいの席にアスカロンの姿はない。
 影と溶けて大地を移動できるあの若者は、遥かなるイタリアの南へ向かったのだ。
 彼女はきっちりと彼のキングを取ってから、ユニヴェールの方に顔を向けてきた。
「ソテール様がお目覚めになっているのでしょう? 今までと同じというわけにはいかないのではありませんか?」
 ぼんやりとした青色の目をしているが、指摘は鋭い。まさしく大人の意見だ。
 彼女はこの屋敷の中で唯一、利害得失傲慢不遜なく理性的に物事を捉えることが出来る者なのかもしれない。
 しかし残念なことに、彼女の主は救いようが無く傲慢不遜だった。
「そんなことは分かっている。だが、だからと言ってヴァチカンに安息を与えてやる義理はないのだよ、フランベルジェ」
 ユニヴェールは言いながら食堂を出てゆく。
「必要があれば教皇庁に乗り込んだってかまわんさ」
「いってらっしゃ〜〜い」
 シャムシールの緊張感のない声が屋敷に響き、
「…………」
 蒼の魔女は主が消えた扉に向かい、一礼した。


◆  ◇  ◆


 そんなユニヴェール家の会話より数時間も前。
 まだ太陽が世界を照らしている時間、当のルナールはすでに南イタリア・アンドリアの丘にいた。
 ……つまりアスカロンの努力ははじめから無駄だということだが……。
「これは──」
 馬車を降りたルナールは、知らずため息を漏らした。
「神聖ローマ帝国皇帝にしてシチリア王、フリードリッヒ二世が建てたカステル・デル・モンテです」
 馬車の中から姫が誇らしげに言ってきた。
 我に返って彼が手を差し伸べると、彼女は小さく微笑み手を取って降りてくる。
「今は閑散としたものですけれど、それだけに未だ三百年前の空気を残しているように思えるでしょう?」
 若干茶色味を帯びたオリーブの木々、寒風に枯れ果てた下草、その先に広がる人の気配のない荒野。薄っすらと雪化粧したアンドリアの丘の上に、それは物言わず建っていた。
 ルナールも話には聞いたことがある、城無き城、カステル・デル・モンテ。
 八角形の塔が八つあり、それをつなぐようにして造られた八角形の筒状の巨大な建造物。もちろん中庭も八角形であるという。
 この城には堀もなければ、厩舎もなく、兵営もなくて、砲座もない。
 つまり軍備も防備も何もない。
 だからこそそれは“城無き城”と呼ばれているのだ。建造物としての城は存在しているが、城としての機能は何一つ存在していない。
 冬の空にそびえる城はなるほど息を止めるほど美しいが、それはその存在意義そのものが謎をまとっているがゆえの美しさでもある。
 内に秘めたものを、決して語らぬ沈黙の城。
「フリードリッヒ二世は天文学にも造詣深かったと聞きます。八という数字には何か意味があったのでしょうね。この城が城でないわけも……」
「失礼ですが、」
 憂いの混じる色で城を見上げつぶやく姫を、ルナールは可能な限り柔らかい声音で遮った。
「この城に住んでいらっしゃる?」
「え? えぇ。正式な権利はないのですけれど、誰かが管理している気配もないので、新しい住まいが見つかるまでは不法占拠なのです」
 罰が悪そうに彼女がうつむく。
 ルナールは慌てて首を振り、手を振った。
「いえいえ、そういうことではありません」
 一際大きく吹き抜けた北風が、彼の長い黒髪をさらった。
 首をすくめてやり過ごし、黒衣の剣士は力なく笑う。
「……出来るだけ早く風のあたらないところに避難させていただけないかなぁと思いまして」
 この男、寒いのは本当に苦手なのである。



「フリードリッヒ二世がどういう人か、あなたはご存知?」
「いえ、あまり詳しくは」
 門を開けてくれたのは執事ではなく、僧衣をまとった老年の男だった。
 人に会ったのはそれだけで、ルナールは絨毯すら敷かれていない剥き出しの廊下をただひたすら姫君の後を追う。
「時代に先駆けてしまった不幸な天才で、しかしそれでも時代に懐柔されずに生き抜いた皇帝たる皇帝だと。僕の家主がそう評しているを聞いたことはありますが」
「生まれた時から巨大な権力の狭間にいた人だったそうですから」
 城の中はまさに時が止まった如き静寂に包まれており、姫のケープがわずか大理石と擦れる音、そしてルナール自身がたてる足音の他に聞こえてくるものはない。
 乾いた地を駆け抜けてゆく強風からさえも、隔絶されている。
「彼は、ドイツ王にして神聖ローマ帝国皇帝、ブルゴーニュ王、イタリア王、そしてナポリ・シチリア王。それだけの相続権を全て持っていた子供でした。誰もが皆フリードリッヒを恐れ、しかし自らが君臨するための傀儡として欲しがった」
「結局手に入れたのはインノケンティウス三世だったとか?」
「えぇ。フリードリッヒの母親はフリードリッヒをドイツの傀儡にしたがる義弟を嫌っていましたから、教皇を頼らざるを得なかったのです。彼女は義弟がドイツ国王になることを認める代わり、早々に息子を自分の祖国であるシチリアの王にしました。教皇の後見をもらって」
 美しい金色の髪が、こちらを振り返った。
「そしてインノケンティウス三世は、フリードリッヒを自らの影として創り上げようとしたのです。自分の色に染まった、皇帝にしようと」
 碧の双眸には、懐古と悲哀。
 けれどふいにその瞳が強さを増した。
 彼女の口調も鋭くなる。何かの戯曲を読み上げるような調子に。
「けれどそこには誤算がありました。フリードリッヒという子供は、誰が想像したよりも賢かったのです。頭を撫でて誉めるどころではなく、家庭教師たちが恐れ戦慄するほどに」
 ルナールも耳にしたことがあった。
 フリードリッヒ二世はラテン語だけでなく数ヶ国語を操ることができ、天文学、数学、論理学などの学問を次から次へと吸収したあげく、乗馬や槍術に至る武芸まで秀でていたのだ、と。
 おそらくのたまっていたのは主だ。
「そして賢かった彼は、時が来るまで沈黙し続けていたのです」
 彼女がある一室の前で手招いてきた。
 ルナールはそれを視界に入れながらも、一歩立ち止まる。
 彼女が怪訝そうな顔をしたが、曖昧に笑って城を見物するフリをする。
 しかし彼は同時、全神経を尖らせた。
 深呼吸して、城の空気を記憶の底まで染み渡らせてゆく。
 土っぽい、色褪せた空気を。
「インノケンティウス三世が亡くなってからようやく彼は──」
 まだ続けていた彼女が、言葉を切った。
「ルナール?」
 再び歩を進めた黒衣の剣士は、心ここにあらずの状態で姫の横を通り過ぎ、その広間へと足を踏み入れる。
 優しい──頼りないとも言う──造りをしているその顔はいつになく真剣で、彼は確かめるようにゆっくりと広間を見回した。
 一歩、一歩場を変えて、黒衣を躍らせる。
 高い天井。
 無駄に広い空間。
 しかし反面無駄に派手な装飾のない、当時の教会の風潮とは真逆をゆく質実な内装。
 採光用の窓から差し込む光。
 そして正面には、二本の太い柱に護られた王のための高み。
「ここは玉座の間ですか?」
「えぇ。そうです」
「…………」
 彼は無言で玉座を見上げた。
 そして息を吐く。
「僕は……ここを知っています。おそらく」



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