幻獣保護局 雪丸京介 第一話

「幸せの凶鳥」



「みなさま。今日は我が谷木沢(やぎさわ)カンパニー生誕10周年のパーティにお集まりいただき、誠にありがとうございます」

壇の横でマイクを持った司会者が、媚びた笑顔で会場に向かって声をかけた。
熱帯魚みたいに着飾った人々の会話が静まり、視線が前方に注がれる。

「みなさまの支援なしにはここまでやってこられなかったと、社長も常日頃から我々社員に申しております」

――嘘つけ。

彼は会場の隅の方で小さくなりながら毒づいた。

あの社長が誰かに感謝するなんてことがあってたまるか。
手にしたワインをぐっと飲み干す。
と、横から見知らぬ男がささやきかけてきた。

「お互い大変ですねぇ。あなたも無理矢理出席させられたクチですか?」

彼が横目で声の主を見ると、そこに立っていたのは妙にタキシードが似合っている男。
しかし彼はどうみてもタキシードに好かれるような風体ではない。
黒髪で、人を喰ったような目の、ほにゃららした優男である。

こんな場所――つまり様々な会社の代表が集まるパーティ――に来るには、若すぎる容姿だ。どんなに多くみても30より前にみえる。

「あ、僕は雪丸(ゆきまる)といいます。友人の代理で来たんですよ。こんな会社、僕自身には全然関係ないんですけどねぇ」

その男はにこにこしながら名刺を差し出してきた。
それを受け取って彼も名刺を渡す。

「そうですか、それもそれで大変ですね。……私は宇尾津(うおづ)といいます。谷木沢カンパニーの下請けでして」

「ははぁぁ。威張り腐った人間のご機嫌とりにきたんですねぇ? それこそ、大変ですよねぇ。僕なんて居ればいいだけですから、ま、楽といえば楽ですが……」

男のへらへらした笑い声を聞きながら、もらった名刺に目を落す。

『魔導協会 外遊部門 幻獣保護局 雪丸京介』

「…………」

宇尾津は、相変わらずにこにこしているその男をまじまじと見つめた。

――馬鹿にされているのか、それとも単なるジョークなのか……

「なんて言いましたっけ、ここの社長……えぇと、そうだ谷木沢。なんだか悪どいこともいっぱいやってるそうじゃありませんか。お宅はいじめられたりしてないんですか?」

「え? ……あぁ。危ないですよ、ウチだって」

知らず宇尾津のトーンが下がる。
彼は名刺のことなど忘れて肩を落とした。
彼の会社は今まさに谷木沢に切り捨てられようとしているのだ。今日このパーティに彼が送り込まれたのは、それを何としてでも阻止しろという上司の命令で、だ。

――自分で行けよ。

そう思うが口には出せない。

「あの社長の切り捨てっていうのは単なる嫌がらせなんですよ。私情的な……。今回ウチが切り捨てにあうのは、ウチの社長のお嬢さんが、谷木沢社長の御子息が落ちた高校に合格したからだって言う話です」

自然と宇尾津の声は荒くなった。が、

「ふ〜ん」

雪丸は曖昧にうなずいただけで、壇上へと視線を移していた。
宇尾津もつられてそちらを見る。
するとそれを待っていたかのように(そんなワケはないのだが)、司会者の声が一段と大きくなった。

「それではお出ましになっていただきますッ! 谷木沢社長、どうぞ!!」

司会者の拍手に引っ張られるようにして、中身の空っぽな拍手がホールに響いた。
ちらりと横を見れば、しかし驚くべきことに、雪丸がなにやら子どもっぽい楽しげな表情で手を叩いている。あらんかぎりの力を込めて。

――なんなんだこいつは?

宇尾津は裏切られたような怒りと、そして「?」マークが頭を駆け巡るのを感じた。
あれだけこっちの話にあわせておきながら……。
それとも友人とやらの顔を立てるためか……?
だがそれにしちゃ楽しそうだ。
宇尾津はワケが分からなくなって真っ直ぐ前を向いた。
その視線の先にのそのそと谷木沢社長、このパーティの主役が現われる。

スポットライトに照らされてご満悦の男。
タヌキと形容すればタヌキに、ダルマと形容すればダルマに、それぞれ非常に失礼にあたってしまうような中年トド。(トドにも失礼である)
紋付袴などを着て偉そうにしているが、単に入るスーツがないだけだろう。

谷木沢カンパニー。3年前から急成長した会社だ。始めは小さなスーパーの経営だったと聞いているが、今ではスーパーはもちろん、百貨店・コンビニエンスストア・ファーストフード・コンピューター関連・旅行業・ホテル・ゴルフ場……など、その系列は多岐に渡り、未曾有の大企業にまで成り上がった。

しかしそれだけにやり方も汚い。

――どうせ政界や財界に金をばらまきまくってるんだろうな。

あのタヌキおやじ、いつかは化けの皮がはがれるに決まっている。

「そりゃぁお気の毒でしたねぇ〜」

宇尾津が胸中で谷木沢の悪口を並べ立てていると、再び呑気そうな雪丸の声が彼の耳に飛び込んできた。
思わずカッとしてそちらをにらむ。

「――――!」

そして目を見開いた。

「どうしてあぁいう男を神様は許しておくのかしら……」

「そのうち天罰がくだりますって」

雪丸が相手をしている婦人の名は、瓶里(かめさと)瑞江という。
白髪の、人がよさそうなご婦人であるが、昨年住む家と息子さんを亡くしている。
裏では有名な話であった。

……瓶里婦人は高名な名家の出身で、莫大な資産を持っていた。
早くしてご主人を亡くしたが、未亡人となっても会社を潰すことなく経営を続けていたらしい。
その会社を息子さんに譲ってから優雅な老後を送っていたというが、彼女の悩みの種は、その息子さんがいつまでたっても結婚しないことだった。そこで、その頃急成長を遂げていた谷木沢の勧めで、彼の知り合いの娘さんと見合い・結婚をさせた。
しかし不幸にも彼は昨年事故で他界してしまったのだ。
遺書には、すでに息子さん名義になっていた資産すべてを妻に相続する旨が書かれていたという。

……息子さんは殺された。

そんな噂が流れても全く不自然ではない状況だった。
警察もそう睨んだが、何故かロクな捜査もされずにすべては打ち切り。

しかし誰もが思っている。

この事故は、谷木沢が瓶里家の財産を掌中にするための画策だと。
この事故の直後、谷木沢カンパニーは出版部門にも手を伸ばすことを決定したのだ。
あまりにも時期があいすぎる。

谷木沢。金のためなら何でもする男……。
業界では有名だ。

「あの男は殺されたっておかしくないのよ? 私だって何度殺してやろうと思ったことか」

「瓶里さん、そんな言葉使うもんじゃありませんよ」

ぎゅっとハンカチを握り締める老婦人を、いささか古めかしく雪丸がたしなめた。

「そんな言葉、あなたのような方が使ってはいけません。いくら憎くてもですねダメですよ。軽々しくそんな遺書を書いたあなたの息子さんにも非がないとは言えないんですからね」

瓶里婦人がうつむく。

「あの人、そんなに色々やってるんですか?」

いきなり雪丸がこちらを向いた。

「え、あぁ……裏の方のことですか? この会場にいるほとんどの人があの男を憎んでいると思いますよ」

宇尾津は正直に答えた。

「私だって憎んでいますしね」

あいつの気分に自分の生死がかかっていると思うと、心底嫌になる。

「……そうですか」

雪丸が全然深刻そうでない顔つきで、スポットライトのあたる谷木沢へ視線をやった。

「やはり、そうなってしまうんですねぇ」

意味不明なことをつぶやく。
しかし彼は本当に楽しげだった。

おいしい料理と華やかな雰囲気。
うるさいオヤジの馬鹿なスピーチには目をつむり、料理代とでも思っておけ、というところだろうか。
ホールに渦巻く憎悪や怒り、そして偽りの笑みが、まるで彼だけを避けているよう。
宇尾津は息苦しくてたまらないというのに。

「…………」

端正といえば端正な雪丸の顔を、宇尾津は無意識に凝視していた。

「どうかしましたか?」

彼がきょとんとこちらを見る。
宇尾津は慌てて手を振った。

「いいえ、いやぁ、楽しそうだなぁと思いまして」

雪丸はその言葉にふふっと笑ってまた前を向いた。
そして本気とも冗談ともとれる口調で言う。

「おいしいですからねぇ、このホテルのお料理」



『魔導協会 外遊部門 幻獣保護局 雪丸京介』



彼は――そういう顔をしていた。

「だぁ〜っはっはっはっは!!」

ふいに壇上で谷木沢が豪快な(下品な)笑い声を上げた。

「縁起でもないことを言うなぁ、牛岬(うしざき)君は〜〜〜!」

司会者の肩をばしっと叩く。
勢いあまって司会者は壇上から転がり落ちた。
会場はしーんと静まり、谷木沢だけが彼の失態を指さして大笑いしている。
司会者――牛岬がずれた眼鏡を直し、何かをぐっと呑み込んだような顔で再び壇上に上った。

「税金くらいちゃんと納めとるよ! なにしろ国民の義務だからな!」

「す……すいません」

「税金はちゃんと払わなければならん! それがまわりまわって再び自分に還ってくるんだからな。脱税なんてとんでもない話だよ!」

そう言って谷木沢はまたふんぞり返った。前方ではひきつった笑いを浮かべている者もいるが、会場の後ろ……宇尾津のいるまわりでは冷たい空気が流れている。

─―どうせ隠しているクセに……

すべての顔がそう言っている。
と、雪丸が初めて憂鬱げに首を横に振った。

「ど、どうしたんですか? 雪丸さん」

「具合悪いんですの?」

宇尾津と瓶里夫人が声をかけると、彼はすぐに太陽のような笑みを浮かべて顔をあげた。

「いいえぇ。大丈夫ですよ。ご心配には及びません」

何を考えているのかさっぱり分からないその優男は、優雅に肩をすくめてみせる。

「慣れてないんですよねぇ、こういう場所。それだけです」

場違いなヤツ。
彼は絶望的にそれだった。
憎しみのカケラもない。
明らかに部外者で、明らかに浮いている。
逆から言えば、彼以外全員谷木沢を憎んでいるのだ。
瓶里婦人のように、殺してやりたいと思っている人だっているだろう。
司会者の牛岬のように、大勢の面前で恥をかかされた者もいる。

宇尾津はひそかに思っていた。


─―何かが起こってもおかしくはない……


そして。やはり。
それは起こったのだった。






「ワシの青い鳥が!」

谷木沢がひっこんで、とりあえず和やかな雰囲気を取り戻しつつあった会場に、突如として物凄い怒号が轟いた。
どこかでワイングラスの割れる音がする。

「誰がやった! クソ忌々しい!! 犯人は血祭りにあげてやる!」

鬼のような形相で、唾をとばしながら谷木沢が扉を蹴散らし入ってきたのだ。
会場が再び水を打ったように静まる。

「何でしょうねぇ?」

好奇心満ち溢れた目で雪丸が宇尾津を振り返った。
この男は絶対何かを期待している。

「あの人、すんごく怒ってますね」

おまけに見れば分かることまで嬉々として報告してきた。
宇尾津はこの男の精神構造……あるいは知能指数を疑いながら、ひきつった顔で首を傾げるしかない。

「さぁ……なんでしょう」

その間にも谷木沢は地団駄を踏み鳴らし、怒声を張り上げて客を罵っている。

「獅子山! 貴様か! おまえワシに土地を騙しとられたとか吹聴してるらしいな! あぁ!? これはその仕返しか!?」

「それとも双葉! おまえだな? 言っておくが貴様の会社はワシが手を貸したところで再建不可能だ! それとも何か? 女房に逃げられたのはワシのせいだとでも言うのか!?」

「瓶里婦人! あんたか? あんたまだ警察に訴えているそうじゃないか? ワシがあんたのどーしようもない息子を殺したってな! 証拠はあるんか、えぇ!? 警察はアテにならんから、自分でワシに復讐したんか!?」

「…な、なんてことを……」

名指しされた瓶里婦人が両手で口元を覆う。

「や、谷木沢社長……!」

「うるさい!」

谷木沢は制止しようとした牛岬を殴り飛ばす。
今度こそ彼は吹っ飛び、料理が並べてあったテーブルへと突っ込んだ。
派手な音をたてて皿やグラスが砕け散る。

『――――!』

声にならない悲鳴を上げ、会場が凍りついた。

「どいつもこいつもワシをいらいらさせおってっ! もっとマシな人間はいないのか!?」

「……えぇと、谷木沢社長。何をそんなに怒っていらっしゃるんです?」

突然宇尾津の横で、バカが付くほどに能天気な声がした。

――雪丸さん!?

宇尾津の驚愕をよそに、雪丸は変わらぬのほほんとした笑顔。
谷木沢の苦虫を大量に噛み潰したような形相が、彼の方を向く。

「貴様は何だ」

「社長に会うなんて滅相もないほどの下っ端ですよ。ワケあって今日は呼ばれたんですが……しかし社長。ずいぶんお怒りのようですね?」

「この薄汚いハイエナどもの中のどいつかが、ワシの青い鳥を殺したのだ!」

酷薄そうな目つきをしていた谷木沢だったが、雪丸が取るに足らない弱そうなヤツだとみた途端、憎々しげにそう言った。

――青い鳥?

なんてまた谷木沢とは真逆のメルヘンチックなことを……
宇尾津は思わず吹き出しそうになった。
青い鳥といえばメーテルリンクの童話ではないか。そんなものを信じているのだろうか、あの金の亡者は。
だが雪丸はいたって真面目な顔をして小首を傾げている。

「青い鳥、ですか?」

「そうだ。ワシがまだ小さな会社の社長だった頃、3年程前だな。何故か家に居着くようになったのだ」

「可愛がっておられたんですね? それは残念……」

「問題はそんなところではない!」

収まっていた怒りがまた沸騰したかのように谷木沢が怒鳴った。
女性客の何人かが後退する。

「あの青い鳥は本当の青い鳥だったのだ! あの鳥がきてからワシは何だってうまくいった! あれは本当に幸せを運ぶ鳥だったんだ!! 金を呼ぶ鳥だったんだッ!!」

――金……

宇尾津は目を細めた。
やっぱり金。少しでも“あの谷木沢にも動物を可愛がる心が残っていたのか”
などとアホ極まりないことを思ってしまった自分が情けない。
おそらく会場のほとんどがそう感じているはずだ。

「金を呼ぶんですか。それは素晴らしい鳥をお持ちだったんですね」

柳眉をちょっとだけしかめて雪丸が言った。

「――素晴らしいだと!? ふざけるな! それだって死ねばゴミも同然だ!! 殺したヤツは八つ裂きだ! 海に沈めてやる! 生きて帰れると思うなよ!」

「ですが社長――」

雪丸が懲りもせずに口を開いた。
視線だけで殺せそうな谷木沢の目が雪丸を捕らえる。

「殺されたとは限らないんでは?」

「……どういうことだ?」

雪丸はその問いには答えず、崩れ落ちたテーブルの真ん中で硬直している牛岬を見やった。

「牛岬さん、鳥の置いてある部屋はご存知で?」

「……えぇまぁ」

ほとんど聞こえないかすれ声だった。

「持ってきていただけませんか?」

「……はい」

どことなく虫を連想させるような動きで牛岬が立ち上がり、会場を出てゆく。

「貴様、何様のつもりだ!」

谷木沢が仁王も真っ青な表情で雪丸に近寄ってくる。
宇尾津は瓶里夫人と共に、数歩後ろに下がった。
が、当の雪丸は涼やかに微笑んだまま一歩もそこから動かない。

「寿命ってこともあるでしょう?」

雪丸が自分を全く恐れていないことに気が付いたのだろう、谷木沢の顔が一層凶悪になった。
首を締めて、彼を殺しかねない程に。

「寿命だと、小僧? あの鳥はまだ3年しか生きておらん。世話もエキスパートにやらせておったのだ。寿命で死んでたまるか! この、人の落とした金をかき集めている連中の誰かがワシを妬んで殺したのだ!」

「しかし社長」

雪丸の声と同時、宇尾津はもう一歩後ろに下がった。
とてもじゃないが谷木沢の怒気には敵わない。
あのへなへなした若造が一歩も動いていないということは、はっきり言って脱帽である。

「あなた、自分の鳥が亡くなって他殺だと断定するほど、自分が憎まれているとお思いなのですか?」

「ワシのような大物は何をしようが憎まれるものなのだ」

「…………」

雪丸が一度言葉を切った。
そして一呼吸置いてから続ける。

「ご存知ですか? きっとその鳥は“青い鳥”ではありません。もっと強力な幸せを運ぶ、“メネテーケル”という鳥ですよ。上司命令で探していたんです」

「メネテーケル……だと?」

谷木沢がバカ丸だしの顔で眉を寄せる。
しかし宇尾津も一応一通りの勉強をした身であれど、その言葉に思い当たりはなかった。
というか、この会話は何なのだ?
大の大人がする会話なのだろうか?

「そうです、メネテーケル。その意味は“凶兆”。谷木沢社長、あなたの持っていた鳥はそういう名前の鳥ですよ、おそらく」

雪丸は大真面目な顔で言い、

「…………」

谷木沢は何も言わない。

「青い鳥は小さな幸せを運びます。ささやかな幸せを、ね。――けれどメネテーケルは違います。大きな幸せを運び続けるのです。そう、運ばれる者を滅ぼすほどの幸せを」

彼の話は完全におとぎ話の内容だ。
だが、この時誰もが彼の魔術にかかっていた。
誰もが彼の言葉に惑わされ、真剣に聞いていた。

「運ばれる人間が、運ばれ続ける幸運に見合うだけの人間となってゆけば、メネテーケルはそれこそ素晴らしい幸せの鳥となります。しかし往々にして、過ぎた幸運とは人を滅ぼします。幸運に比例して人間を磨くというのは、難しいことですからねぇ」

雪丸は世間話をするかのように小さく笑った。

「思いがけず大金を手にして、性格が変わってしまう人ってよくいるでしょう?」

そのあまりにも無心な笑顔に、宇尾津の背中に冷たいものが流れた。

「メネテーケルは幸運を運び、そしてその幸運と、運ばれる人間の人となりとのギャップの分だけ弱っていきます。そしてとうとうメネテーケルがギャップに耐え切れず死んでしまった時……今までの幸運の分だけ災厄が返ってくるのです」

「…………」

谷木沢の顔が青くなり――そして一気に赤くなった。

「この小僧ふざけたことを!」

聞こえてきた怒声とともに、宇尾津は顔を手で覆った。
谷木沢の上げた拳が視界の端を横切る。


…………。


しかしいつまで経ってもテーブルがひっくり返る音も、グラスが割れる音も、雪丸が殴られる音さえもしなかった。
雪丸がひょいっと軽妙に首を逸らしたので、谷木沢の拳が空を斬ったのだ。
醜悪な顔をさらに上気させて谷木沢が肩を震わせている。
爆発の被害からできるだけ逃れようと、客たちはみなホールの壁に背をつけて息を殺していた。
宇尾津が瓶里夫人を探すと、彼女も後方の壁にひっついて手招きしている。
足音を忍ばせて彼も後退。
これでホールの中心にいるのは谷木沢と雪丸だけである。

「信じないなら、それでも別にいいんですよ」

そう言って彼は扉に向かって手を振った。

「こっちです、こっちです、牛岬さん。あぁ、ありがとうございます」

雪丸は牛岬から鳥かごを受け取ると、ふ〜むとうなりながら中を凝視した。
牛岬は転がるようにして会場を出てゆく。
宇尾津だってできればそうしたかった。

だが、できなかった。

きっと他の客もそうだろう。
ピンで括りつけられたように、誰も動けなかった。
戯曲を見ているように、全員が呆然とホール中央のふたりを見つめている。

「あーぁ、やっぱりこれはメネテーケルですね。尾羽に白い模様が入っているのが、“幸せの青い鳥”との違いなんですよ。死んでしまっていますねぇ」

カゴの中から鳥を取り出して丹念に調べながら、雪丸は言う。

「谷木沢さん、今更遅いかもしれませんが、改心しないととんでもないことになりますよ。
それに……ゴミ同然だなんて言うもんじゃありません」

「小僧まだそんなことを〜〜!!」

再び谷木沢が手を伸ばし、今度は雪丸の胸倉をつかんだ。
そしてその頬に思いっきり平手打ちを喰らわせる。


――ばしっ!


全員が、そして宇尾津も瞬間目を閉じてしまった。
そしてゆるゆると目を開けてゆく。
しかし聞こえてきた雪丸の声は非常に穏やかだった。
嵐の前の湖面のような……

「信じなければそれでもいいんです。僕が困ることでもありませんから」

雪丸は唇の端から血を流しながらも、ふにゃけた笑みを崩さない。
そして自然な動作で谷木沢の手をのけた。

「人間なんてそう簡単に変わりゃしませんしね」

襟を正した彼は何事もなかったかのように、青い鳥の背中を何度か撫でた。
優しく、静かに……

宇尾津にはそれが死を悼んでいる行動のように見えたのだが――
刹那、突如としてその鳥が首を上げた。
そして、飛ぶ。
飛んで――雪丸の肩に止まった。

鳥……メネテーケルは、この世のものかと思わず聞き惚れる美しい声で二、三度さえずった。
時間が止まったように、皆の表情が固まる。
対照的に雪丸はバカじゃあるまいかというほどの笑顔。

「誰がこっちに放したんだろうなぁ、こんな危険な鳥。まったくもぅ」

彼はその危険な鳥を肩にのせ、喉元を撫でてやりながらぶつぶつつぶやく。

「はぁぁ。こんな悪意の渦ン中にいたら身が持たないよ、ホントに。だからこっちには来たくなかったのにさ、おまえのせいだぞ、ったく〜」

鳥に向かって頬ずり。
宇尾津が何か声をかけようとすると、雪丸はふぅぅっと大きく息をついてスタスタと扉まで歩いて行き、その前でこちらを向いた。
魂を抜かれたように呆けている会場の人々を見回して、にこっと笑い、一礼する。
寒気をおこさせるほどの、純粋な笑顔で。

「お騒がせしましたね。僕はこれで失礼させていただきます。どうぞ、みなさまはごゆっくり」




「雪丸さん!」

宇尾津は後先考えずにホールを飛び出した。
そうしなければならないような気がしたのだ。
しかし――彼がまだ幻想の世界を信じることができていた子ども時代、その頃に読んだおとぎ話の如く、そこには誰もいなかった。
宇尾津はただ呆然と吹き抜けの階段を見下ろしていたのである。
閑散としたロビー。
タバコを吸う外国人。新聞を読むどこかの父親。待ち合わせなのか、しきりに時計を気にする会社員……。


へらへらした雪丸、幸せの凶鳥、彼らはそのどこにも――いない。





◇  ◇  ◇  ◇  ◇





テレビが何事かを告げている。
宇尾津はそのニュースを聞いて、あの最悪なパーティの日のことを思い出した。

“今までの幸運の分だけ災厄が還ってくるのです”

“今更遅いかもしれませんが、改心しないととんでもないことになりますよ”

そういえば、あの得体の知れない優男がそんなことを忠告していた。

「…………」

彼は引き出しの奥深くにしまい込んだ名刺を恐る恐る取り出す。


『魔導協会 外遊部門 幻獣保護局 雪丸京介』

それは今でもはっきりとそう記されている。
それを確認してから、彼は手元にあった新聞に目をやった。
疑いもない。
見出しはいつになく大きかった。



『谷木沢社長脱税で逮捕 殺人容疑も浮上』



尾羽に白い模様の入った鳥……メネテーケルにはご用心。





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